久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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久留米地名研究会 古川清久
2013年6月から配本されており一般の書店でも買えますが、直接電話で
不知火書房( ℡ 092-781-6962) に注文されてもお送りできます( 送料200円)。
久留米大学 公開講座 2013-05-11(土)御井キャンパス500号館51A教室
金印「漢委奴国王」の読みと意味について 黄 當時
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中国電力上関町原発建設予定地の田ノ浦
上関町祝島の防波堤から見た田ノ浦
田ノ浦の地名調査の中でも最も見たいと思っていたのが、中部電力上関原発建設予定地、上関町長島の田ノ浦でした。
五月の連休に山口県の神社調査を兼ねて一路上関に向かいました。
これまで踏んでいない住吉神社、長府の忌宮、豊巧神社などを廻り、一路、上関に向かいました。
下関から上関は、ほぼ、山口県の瀬戸内海側の全部を走ることになります。
岩国市までが山口県、それを越えれば広島県の大竹市に入りますが、田ノ浦は瀬戸内海航路の要衝、名港室津から橋を渡る長島の先端にあるため走行距離では県境の岩国辺りまで走るのとほとんど変わらなくなります。
民俗学者の宮本常一の出身地の周防大島には二、三度入っていますが、長島に入るのは今回が初めてで室津港を見るのも初めてになります。
以前から行きたかった熊毛郡平生町の百済部神社を訪ね、室津までは波静かな海岸線を右に見ながら走ります。夕方近くになりようやく上関大橋を渡りましたが、役場は本土側ではなく長島側にあります。
上関とは毛利藩の関所が置かれたなごりの地名でしょうが、瀬戸内海航路にとっては確かに重要な港で、室津、柳井と往時はさぞかし賑わいを見せたことでしょう。
ここを抜けなくても東には抜けますが、そこはぬかりなく長島にも付近の島にも監視所が置かれ、海賊=水軍あがりの者たちがしっかり見張っていたのです。
田ノ浦についてはこれまでにも十分書いてきましたので、ここで改めて書くこともありませんが、長島の西には叶島が、田ノ浦の南には孤礁に近い天田島が、同じ上関町の八島には古浦があり、これらも全て類型地名の可能性があります。
さて、田ノ浦は長島の最西端の地区で敗戦前後には数戸が残っていたと聴きましたが、今は全く無人の集落で既に人家はありません。
左)夕闇迫る上関大橋(長島側から)右)四代から田ノ浦に入る尾根道の分岐
道はあるとは聞いていましたが、最も近い四代(ヨダイ)という集落の手前から入る尾根伝いの道から侵入を試みましたが、既に暗くなりはじめ、離合もできないような道路で半ばまで進み撤退しました。
ここに入るには軽の4輪駆動車が必要で、それ以外では四キロほどの山道を歩いて行くしかないようです。四代からの道も地図には出ているものの通れないとののこと、色々考えましたが断念し翌朝一番の船で田ノ浦正面の祝島に渡ることにしました。
祝島への渡船はなんと双胴船(カタマラン)カウルアでした(室津港)
祝島ではしばらく前まで反対同盟のおばさん達が毎週デモを行なっていました。
朝一番の渡船で渡り直ぐに引き返すつもりでいましたが、昼の便で帰る事にし、始めは公民館で上関町誌を二時間ほど読んで、残りは祝島を散策し方々のおばさんや漁師さん達からお話を聴きしました。
色々と面白い発見もあったのですが、今回はなぜか紀行文風に書く気にはなりません。
多分、原発の建設予定地ということ、最後まで闘い続けた田ノ浦正面の祝島の反対同盟の人達も、最後は県神社庁まで動員した汚い手段によって供託金を受け取らざるを得なくなり、事実上建設工事への障害がなくなったことへの思いがあるからだと思います。
上関町長島の田ノ浦地区。中部電力上関原発建設反対運動の拠点であった祝島(山口県)。
今なお闘いが続く!! 
写真は13年5月に当方でパノラマ撮影したもの
ただ、今の状態で新規の原発建設が可能になるとも思えません。現実的にはフクシマ第一原発の原発事故が発生するまで引き伸ばし、最後に勝利したのは住民だったのかも知れません。
上関の祝島ばかりではなく長島本島、室津辺りでも多くの住民、漁民から田ノ浦の聴き取りを行ないましたが、印象的だったのはこれらの人々が、大新聞、民放、NHKなどの原発事故報道を、口々、「嘘を言っている、信用できない」と言っていたことでした。
大本営発表は明治以来続けられていたのでしょうが、あまりにも見え透いた嘘が新聞の購読者の半減、バカ番組ばかりの地上波、NHKからの総撤収をもたらしていることは間違いないようです。
今後、日本というイカサマ国家は毎年数兆円の金をフクシマの安定化(不可能ですが)に投入せざるを得ず、何の意味も無い危険で苦痛なだけの労働のために湯水のように資金を投入することになったのです。科学技術の新興やインフラ整備ならいざ知らず、投資にならない永遠の負債のための資金投入を行なわなければならなくなった日本は、この重荷を背負い足枷をしたまま国際競争に勝ち抜かなければならないのです(そんなことができるはずがない)。
もちろん表現は悪いのですが、日本は百世代を超える万年単位の傷痍軍人、身体障害者として生きて行かなければならなくなったのです。
祝島全景パノラマ撮影したもの
それもこれも正力松□□=□□新聞グループ=原子力マフィアがやったことなのです。
大東亜の愚かな敗戦から、七〇年、国敗れて山河なし!今度こそ立ち上がることができないほどの放射能汚染という永遠の焦土を得たのです。
言うまでもなく福島は日本で三番目という非常に大きな県です。恥知らずな原子力村の悪人共は寄って集って福島を食い物にし、福島一県と豊穣の国土を無様にも破産させてしまったのです。
祝島の桟橋
中国電力上関原発の建設予定地が「田ノ浦」であることをと知ったのは、ずい分前のことでした。しかし、当時はまだ田ノ浦地名を意識していませんので、水田の在る漁村程度の理解しかしていませんでした。もちろん、水田など無いに等しいところであることは言うまでもありません。
まず、ここからは事前の発掘調査により三千点にものぼる夥しい縄文土器片、製塩土器などが出土しています。
原発の建設予定地であることから、早々と県教育委は保存の必要のないものとしましたが、この事実だけからも、田ノ浦が数千年前から日本人の先祖に繋がる人々が生活してきた豊穣の地であった事を示しています。
私たちの国土は幾多の戦争や内乱にも拘らず、絶えず次世代が生きて行ける環境を保っていてくれました。しかし、フクシマの惨劇はこの天与の大地(福島県は日本で三番目に大きな県です)そのものを一気に失わせるに十分なものでした。煩いだけの「がんばろう日本!」の怒声は批判も多くようやく収まりましたが、今後、相当の永きに亘ってフクシマにまともな未来はありません。かつて、日本はナガサキ、ヒロシマへの二発の原爆によって、軍部と財閥はしばし沈黙し、結果、日本はアメリカの属州として生き延びました。  
しかし、その延長に「CO2温暖化仮説」という国際的デマを利用し、今度は原子力むら=利権集団が再び国土の重要な一画を放射能汚染地にしたのです。七〇年前と同じようにフクシマに続く二発目のセンダイ、ゲンカイがなければ、この利権屋共の蛮行は収まらないのでしょうか?原発建設予定地の「田ノ浦」は、縄文にも遡る豊穣を現在に伝えるものだったのです。そのような、未来永劫豊かに暮らせる天与の地を、一部の利権集団や地場の土建業者の利益のためだけに売り渡しても良いのでしょうか?「CO2温暖化説」が原子力産業と連なる利権集団から意図的に流されたデマに過ぎない事についてはHP「環境問題を考える」をお読み下さい! 
山口県防府の牛ケ首と田ノ浦
向島の小田港と牛ケ首 牛というよりも亀の首に見えますね
 地図を見ると数多くの田ノ浦やその類型地名が見つかります。全国的な調査までは行なっていませんがかなり広範に分布しているようです。
遠い古代において、この地名を携え多くの海洋民が津々浦々まで拡がったのでしょう。
そしてその分布を丹念に見て行けば、表記も含めある程度の法則性とか際立った偏りといったものが分かり、移動のルートやその時代までがある程度は絞り込めるのかも知れません。
上関の田ノ浦に近接し自分の目で確認したという中途半端な満足感と、日本の行く末への深い絶望感を抱いたまま祝島から室津に戻り次の防府の田ノ浦、牛ケ首へと向かいました。
そのうち徒歩ででも、再度、現地に入って見たいと思う時が来るかも知れません。
室津から西に向かいます。五月晴れの瀬戸内海は光に満ちていて明るく美しいものです。山陽本線のJR富海(とのみ)駅辺りから国道2号線を離れ向島に向かいました。
現在、防府駅があり中心街を形成している一帯は、古代には水道か、深い入江があった土地であったはずです。その付近には多くの干拓地や埋立地が認められます。
南にあるのが田島地区で、田島山や黒山もあることから、向島の田ノ浦がこれらの類型地名の一つであることが分かります。
田ノ浦への分岐(向島小田)
前日は防府に近い湯野温泉に泊っていたのですが、早朝から向島に渡り先端の牛ヶ首を目指しました。地図で見ると牛ケ首は向島の西端になるのですが牛ケ首の北側の小田の集落まで入ると、「牛ケ首」とはこれだ!と言うべき地形が眼に入ってきました。
地名には必ずその意味を理解しそれを名付けた集落があるものです。
後で田ノ浦に入って分ったのですが、田ノ浦がほぼ無人であることが確認できたことから、この地名を付したのは小田の集落だったのです。
肝心の田ノ浦に車で入るには、小田の少し手前から離合不能な山道を抜けなければなりません。
一キロ余りの道をヒヤヒヤしながら進むと、ゴロタ石交じりの美しい砂浜の海水浴場が見えてきました。
海水浴場の他には幾つかの小さな農地と半居住の住家や倉庫があるだけで、やはり定住性の集落ではないという印象を受けました。
向島の田ノ浦海岸 水もあり岩礁の無い最高の泊地です
田ノ浦海岸遠景 パノラマ撮影したもの
祝島と同様、向島も豊後水道を抜けた黒潮が正面から入ってくるところです。
遠い古代において、南から、そして西から関門海峡を抜けて入ってきた大型の外洋船が入り停泊したタウヌイの浦がここにもあったのです。
防府市向島の田ノ浦と牛ケ首(昭文社「県別マップル道路地図」)
天橋立の田ノ浦地名
図は天の橋立
黄 教授は「京都地名フォーラム」=京都地名研究会においても、「籠」神社はカウヌイとの提案をされておられることがネットで分ります。私も何度か行きましたが、五年ほど前に訪問した際に、現地の「江尻」という良くある地名に気づき、これも谷川健一の提案した「永尾」(エイノオ)地名の一つではないかと考えていました。
この「永尾」地名については、久留米地名研究会のHPで「釜蓋」を読めば分かります。古代において、南方系の海洋民は「天橋立」をエイの尾に見立てているのです。
エイは、沖縄ではカマンタ、ハマンタ、マンタなどと言われ、英語のマンタレイ、スティングレイと関係があるようです。
日本の言語学会では、日本語のR音はL音でしかないこともあり、古来、日本語にはH音はなくF音であったとの説が支配的です。ただ、室町前後、H音が派生したとの説明がされていますので(私は否定していますが)その意味で、少し怪しいとしますが、レイからH音が脱落すれば、エイとなります。
さて、籠神社があるのは字大垣で、その隣に字「江尻」があるのですが、「籠」=カウヌイという地名があるのは偶然ではありません。
その証拠に、江尻の対岸には「田井」があり、田井海水浴場があるのです。現地は踏んでいませんが、これが、タウイイであることは、他にも類例があり間違いがないでしょう。そして、宮津の東の舞鶴には神崎(カンザキ)があり、金ケ崎があるのです。
ただこれは、そう古くない時代に、九州から大量の海人族が移動した際に持ち込まれたものと思い、必ずしもタウヌイの地名を付した人々が持ち込んだものと特定できるかは分りませんが、宗像大社と宮地嶽神社の境が鐘ヶ崎であり、安曇族、宗像族のいずれかが700年前後に移り住んだのではないかと考えています。また、織田徳川連合軍が攻め込んだ朝倉氏の金ケ崎城も九州の朝倉と鐘ケ崎が持ち込まれたものなのです。
これは、兵庫県但馬のタジマは宗像大社の大字田島であり、滋賀県のシガが、金印が出たと(叶の浜から)される志賀島のシカが持ち込まれたと考えられるのです。これについては、拙稿、「但馬」をお読みいただければお分かりになるかと思います。ただ、金印は志賀島から発見されたのではなく、旧前原市の細石神社の社家に伝えられていた物を黒田藩のものとするために、寺社奉行の管理の及ばない志賀島から出たことにしたとは考えていますが。もう一つの状況証拠があります。宮津市の隣には与謝野町があり「ヨサノ」と呼ばれています。
しかし、古代に於いては、「ヨシャノ」と呼ばれていたから「謝」が当てられているのです。その痕跡が与謝野鉄幹の与謝野が付された理由でしょう。九州では今も先生を「シェンシェイ」、征西を「シェイシェイ」と発音する人が多数います。国家議員の選挙でも、「シェイジケッシェン」と連呼する代議士がいるほどで、地方の、県議、市町村会議レベルでは珍しくありません。多くの人々が違和感なく受け取っているのです。 恐らく、九州からの移住者が持ち込んだ発音であることは間違いがない上に、九州の地名が大量に見出せるのです。事実、上の地図に出ている、「波路」も、恐らく「ハロ」と呼ばれているはずで、糸島市の前原の波呂、鹿児島県の阿久根市の波呂が拾えます。このような、珍しい発音の地名は数が少なくても、弱いながらも、証明に使えるのです。
武雄市 古川 清久
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