久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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久留米地名研究会 古川清久
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吾平(アイラ)“神武が筑前から筑豊に東征する前はどこにいたのか?
”福永晋三仮説前史
 既に故人になりますが、熊本に平野雅嚝という九州王朝論に立つ孤高の古代史研究者がおられました。
 残念ながらお会いするチャンスには恵まれませんでしたが、九州王朝論に基づく四著他を残されています。
 この中の“倭国王(くまそ)のふるさと“「火の国山門(やまと)」には、幕末から明治に掛けて活動した神道家(現在も北九州に本拠地を置く教派紳道系の神理教の創始者)佐野経彦」が安政七年(一八六〇)に熊本で書いたものを平野さんが現代語訳したものが掲載されています。      吾平山
『吾平山御陵考』(現代語訳)という題で全文添付)。          
 この要旨は、神武天皇の父とされるウガヤフキアエズの陵は明治七年の明治天皇の裁下により、大隅の国肝属郡姶良郷上名村の鵜戸の窟とされたが、当時から異説もあり、肥後国山鹿郡日向村説を紹介するとしていますが、その実、これが正しいとしているのです。
 詳細は、後段の本文を読まれるとして、ここでは、平野雅嚝氏が書かれた、「九州王朝の周辺」に掲載された小論「ウガヤフキアエズノ尊の陵を尋ねて」を併せて紹介します。
ウガヤフキアエズノ尊の陵を訪ねて
 日本神話の「海幸(うみさち)・山幸」の物語は、どなたも御存じのことと思う。
海幸の釣針をなくした山幸、彦火火出見(ひこほほでみ)尊は、海神の宮に行き、三年後に針を得て故国に帰る。海神の娘、豊玉姫は、契りを結んだ山幸をたずねて来り、産屋の屋根も葺き終えぬ海辺で子供を生む。ウガヤフキアエズノ尊である。(以下、ウ尊と略記)
 然るに豊玉姫は、山幸に産時の姿を見られたのを恥じて本国へ帰ってしまい、代わりに妹の玉依姫をやって、ウ尊の養育を頼むという物語である。
 「盗まれた神話」の著者、古田武彦氏は、「山幸の故国は天孫降臨の地、筑前糸島郡のクシフル山(高祖山連山、三雲遺跡近傍)であり、ウ尊も筑前で育ち、而も、宮殿で生まれなかった彼は、天孫王朝としては傍系の、数奇な運命をもった人である」としている。
 ウ尊は成人の後、叔母の玉依姫を妃として、五瀬命、狭野(さの)命(神武の幼名)など四人を生んだが、どこに住み、どんな活動をしたかは、記・紀にも一切見えない。子供の名から察すれば、五ヶ瀬(ごかのせ)川流域、佐野あたりであったかも知れない。ただ次のような死亡記事だけが日本書紀に出ている。
 「久しくして彦波瀲鵜鸂草葺不合(ひこなぎさうがやふきあえず)尊西洲の宮に崩ず、 因りて日向の吾平(あいら)の山の上(ほとり)の陵に葬る。」(神代紀)
さて、私は、過ぐる年二月、熊本県鹿本郡菊鹿町に、里人がウ尊の陵と言い伝えて崇敬する、通称「陵(みささぎ)さん」を訪ねた。
菊鹿町は、昭和三十年四月一日、内田・六郷・城北の旧三村が合併して出来た町で、東西はそれぞれ、菊池市及び山鹿市に接し、北は筑肥山地によって、福岡県に隣する熊本県北の町であり、「陵さん」は当町相良(あいら)字日向(ひむき)という所にある。
 併しここは、世界の珍種で天然記念物になっている「アイラトビカズラ」及び木彫刻坐像としては日本一の大きさを誇る相良(あいら)観音の在所として世上有名な所であるが、「陵さん」については、古代史に関心をもつ特殊な人以外には殆ど知られていないようである。・・・
吾平神社
吾平神社の神額
内田相良氏が入り相良と表記が代わるも依然「あいら」と呼ばれる
現地に詳しい吾平茶屋の御主人杉さんにお尋ね下さい
教育委員会が設置した陵さん入口の道標(こちらは人道)裏面に評価が
吾平山陵ともいい・・・鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祭る。同尊□地として鹿児島県に一つ?・・・宮崎県に五?・・・つ、・・・本県に一つ・・・七カ所があげられる・・・内国?が御陵と定めているのは・・・肝属郡・・・の鵜戸・・・の・・・いわやである・・・
吾平山陵付近の駐車場最大10台程度のスペース
古墳との判断は難いが、円墳状で偶然にも径100余歩 山陵の背面
正面参道
参拝殿正面菊の紋章が打たれている
周回道
背面をパノラマ撮影
東から山稜を望む円内に鳥居が見える
北から山稜を望むこれは人道
昭文社県別マップル道路地図熊本県
・・・(中略)・・・ウ尊は神武帝の父で、帝は神八井耳尊を生み、その子が建磐竜命である。阿蘇を鎮めに遣わされた。孫が先祖の陵を祀るのは当然だ。
 神武帝は、初め吾平津媛(あいらつひめ)を妃として手研耳命(たぎしみみのみこと)を生んだ。吾平津媛というのも、ここの出身だからであろう。今、里の婦女子が、吾平出身というのを自慢にしているのも偶然ではあるまい。
 こうしてみれば、この吾平山陵にウ尊を祀ってあることは疑いない。・・・・・・。天文年中、相良寺の僧是顔詩中の一句に、『争有扶桑開闢神』とあるのは、ウ尊を指すものと思う云々。」(この最後のカギ」は、平野氏による「肥後国山鹿郡吾平山陵記」の引用部分の切り出しであるため:古川注)
だが、当時有名な学者で、この説を笑う者もあった。ウ尊の陵は大隅国にあるではないか、和銅六年四月(七一三)日向国の中、肝坯(きもつき)、贈淤(そお)、大隅、姶羅(あいら)の四郡を割(さ)いて大隅国を置かれたことを知らないのだろうか、という訳である。現在に於いても「陵(みささぎ)さん」が一大古墳のように見えるにも拘(原文は手偏に勾:古川注)らず、県指定の史跡ともされず、一地域の伝承に止っているのもやむを得ない事かもしれない。
 併し良く考えてみると不審な点も見出される。ウ尊の陵墓は、現在、鹿児島県肝属(きもつき)郡姶良村大字上名字吾平山に「ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト日向吾平山上陵」として在るのがそれだというが、併し日本書紀の成立は養老四年(七二〇)であり、大隅国はその七年前、既に出現している訳だから、書紀になお「日向(・・)吾平山上陵」とあるのは不可解で、書紀の編者が書き誤ったとするのは如何にも幼稚な弁解である。これは当然「大隅(・・)平山山上陵」でなくてはおかしいのである。
山都町斗塩の神武の生誕地伝承
 前述の「九州王朝の周辺」の『ウガヤフキアエズノ尊の陵を訪ねて』には、神武天皇の生誕地についても書かれています。
矢部(やべ)町の東二十五キロの地点に阿蘇郡蘇陽(そよう)町(現山都町:古川注)がある。・・・中略・・・その町の西端「手塩」(ママ 「斗塩」の誤植:古川注)という部落には、神武天皇はここで誕生されたとの言い伝えがあって、その「ヘソ(・・)の緒」を埋めたという「天皇さん」と呼ばれる塚では、毎年四月三日に、地区民による祭典が行なわれるという。
この塚の一キロ程南方に、第二十六代を称する旧家の原田藤幸さんの家があり、天皇はここで誕生され、近くにある神生須(そうず)ヶ池(別名双頭の池)で産湯を使わされたそうであるが、この池は今も尚、豊な水が湧き、田畑を潤している。
天皇塚は直径二メートル余りの土盛りで、上には榊の古木が繁り、丘全体としては、長さ百メートル余りの古墳とも見えるが、此の地で逝(な)くなった母の田間菜比賣(たまなひめ)命も、この塚に葬られているということである。
この伝承からすると、ウ尊と五ヶ瀬命以下四人の子たちは、この辺りで年少時代を過ごし、更に後年に至って阿蘇・菊池を経て鹿本郡(現山鹿市:古川注)の吾平(あいら)あたりへ移り住んだとも想像されよう。従って、神武東征の出発地も、案外ここの日向(ひむき)部落だったかもしれない。・・・
平野さんはこれを昭和六十年に出版されていますが、四半世紀を経て現地を訪ねました。
 手掛かりとなるは本だけです。バス停の付近で農作業をされていた御夫婦に神武天皇の塚についてお尋ねすると、原田さんという元学校の先生をされていた方が御存知とのこと、家は、バス停から百メートルほどのところで直ぐに見つかりました。
 早々にお訪ねすると、御案内頂けるとのこと、距離があるので私の車で一緒に行くことになりました。
案内して頂いたのは、塚への入口付近にお住まいの大正十三年うまれという元気なおばあさんでした(上益城郡山都町塩原359 原田由紀子先生 0967-83-0618)。
 普通車がぎりぎり通る山道を登り、一キロ弱走ると眼前に塚とも丘とも言えないようなものに突き当たりました。この道自体も作り直されたようで、脇には車が入らない古い道も通じていました。
明らかに、車道はこの塚を目標にして作られたようです。
 道はまだ延びてはいますが先には人家もないとのことでした。
 塚にはブロックが残され、階段が作られていたことが分ります。
 二メートル登ると、正面に榊の木を植えた高まりがありました。
 始めは良く分りませんでしたが、どうやらこれが神武の養母(生んだのは実家に戻った豊玉姫ですから、養育のために送られた育ての親で後に妃となる)の玉依姫の墓だと言うのです。
 ところが塚に登ると、「昔は神武天皇さんの祠はここにあったが、直ぐ下にあるお稲荷さんの隣に移された」とおっしゃるのです。そちらも見に行くと、道を挟んで直ぐ下に階段があり、そこを登ると、お稲荷さんの赤い木製の鳥居が幾つも並んでいました。
最初の鳥居の傍には木の案内札が置かれていました(後述)。
お稲荷さんの祠から数メートル離れた左側に神武天皇の臍の緒(エナ)塚がありました。
赤い鳥居のトンネル
これはどうも丸石神のようです(別稿)。
 始めに、申し上げますが、この板碑を立てられたのは日子八井命末裔とする幣立神宮の先代の春木秀映氏のようです(現宮司に確認)。
 ただ、何故、ウガヤフキアエズの正妃の墓に置かれていた神武の臍の緒(エナ)をこの地に移されたのかは不明です。  
 もしかしたら、それが、本来の場所だったのかも知れません。
 明治期、北方系の天皇家に尾を振る神道は、臍の緒を自宅玄関下に埋めるというような南方系の習俗(梅原 猛氏等の説)を嫌い、墓に埋めろと指示した形跡があり、本来、母系的な母方の実家で産湯を使い出産し、母方の実家の玄関先の土間などに甕に入れて収めるという習俗が否定された可能性を否定できないのです。
 また、痛んでいる板碑を直すにも、エナ塚を整備するにも、現在の場所が私有地のため、手を出せないとの話を聞きましたが、板碑は直せると思うのですが、奇妙な話です。
 既に痛みが激しく数年を待たずして消えてしまいそうです。
 神武天皇塚(忌名は彦火火出)・・・・・・上(?)陸、ご神火燃ゆる阿蘇の日の宮の斗塩で、その名の如く・・・・・・産みになった・・・依ってその分身のえな(胞衣)を、向かって左方の小丘・・・愛から玉依姫・・・守り塚となられた。更に日の宮に七たびご参宮の聖天子磐余彦の尊品を、この奥の丘に鎮め祭ったので神武天皇塚が残ったのである・・・
までしか読めない。
春木前宮司によると玉依姫とあります。
 平野さんの著書では「神生須(そうず)ヶ池(別名双頭の池)で産湯を使わされた。」とあります。
れも、原田由紀子先生に尋ねると案内していただけました。
 天皇塚に登る道の脇に、今でも水田が残っていました。ほ場整備は行なわれていたようですが、この谷の最高部の水田があります。
 大変残念なことに、数年前には耕作放棄地となり、ここに供給される水も需要が減ったために肝心の池も管理が放棄され、溜め池に通じる畦道は通れなくなっていますし、池自体も堆積が進み機能を失っているようでした。
神生須(そうず)ヶ池(別名双頭の池)遠景 草に埋もれた池の吐口
土砂に埋もれた溜め池 減反の延長に耕作が放棄された水田
 なお、平野先生の著書に「この塚の一キロ程南方に、第二十六代を称する旧家の原田藤幸さんの家があり、天皇はここで誕生され・・・」とあります。
 この原田家の建物は今も残されていますが、既に佐賀の人に売却され、現所有者もお住まいになっていないことから、今のところ「天皇はここで誕生され・・・」については確認できませんが、連絡は取ることが出来るようですのでいずれ試みてみたいと考えています。
 何か家伝のようなものがあり、平野さんが把握されていなかったことが分るかも知れません。
もう一つ、平野さんの書かれていることで重要な問題があります。
 それは、「此の地で逝(な)くなった母の(たまなひめ)も、この塚に葬られているということである」です。
 これを掘り下げるには、他の資料にもあたる必要があると考え、「蘇陽町町史」(付属資料)を調べてみました。予想した通り、やはり「田間菜比売命」とありました。地元の伝承では玉依姫ではないようです。立札は玉依姫とあり、春木前宮司が「記」「紀」に元づき修正されたようです。
 さらに、本田留蔵氏による「上古代史の再考」(県立図書館所蔵)も調べる必要も出てきました(調査中)。
 それは、「記」「紀」が神武の母を豊玉姫⇒玉依姫としていることです。では、この玉依姫の別名が「田間菜比賣(たまなひめ)」なのか、もしも、別人とすると神武は正妃の子ではなかったから「記」「紀」はそれを隠したのか謎は残ります。ただ、奇跡的ながらも、かろうじて、阿蘇外輪山南麓の僻陬の地に実物を伴う伝承が残ったのです。
 現在でも、出産に際しては、仮に産科で行なうとしても、母方の実家に近い病院が選択されるという慣行が生きています。
 してみると、ウガヤフキアエズの妻が誰であったとしても、神武は実の母親の里で生まれ産湯を使ったはずであり、当然、エナも近くで保管されていたはずです。
そして、ウガヤフキアエズの陵がある菊鹿町辺で育ったはずで、そこでアイラツ姫と出会ったのではないでしょうか?
 アイラツ姫とはどう考えても内田相良氏によって書き換えられたもののアイラ地名が残る日向村の吾平にいたからこそアイラツ姫と呼ばれたはずなのです。そして、後に、筑前に移動したのでしょう。現在、山都町と名を変えた蘇陽町には幣立神宮が、隣接する高森町にも草壁吉見神社がありヒコヤイミミ、カミヤイミミを祀っています。
 その、草壁から東に五ヶ瀬川を渡ると、もうそこは高千穂です。
 この五ヶ瀬川も神武(カムヤマトイワレヒコ)の兄、五瀬命と関係なしとはしないでしょう。
 平野先生の「九州王朝の周辺」の“祖母山と五ヶ瀬川流域”にも江戸末期の豊後の学者森 春樹の「亀山随筆」を引用し次のように書かれています。
 「健男霜凝日子神社は、直入郡入田郷神原村祖母嶽北麓の磐窟の中に在り。彦五瀬ノ命を祭って下宮と云。(比咩ひめ神社を上宮と云)」此社白薙二年創造の由棟札に明らかなり。又白薙の旧材今も尚残れり。」また、
 「直入郡比咩神社は、下宮の御神彦五瀬ノ命の御祖母神豊玉姫を祭る。故神を比咩神と申し、山を祖母嶽と云。」とある。(白薙二年は六五三年)
彦火々出見尊に嫁して、ウガヤフキアエズの尊を生んで早々、竜神の宮へ帰ってしまった豊玉姫は、確かに五瀬ノ命にとっては祖母に近いので、これが九州の高峯祖母山の由来であろうか。
この一帯には阿蘇の大蛇伝説の穴森社や五ツ瀬命を祀る健男社があるのです。
草壁吉見神社の東には神原(こうら)、高群があります、高良山は別名高牟礼ですね。
高良大社の初代宮司家は草壁(日下部)と称していました。
最後に
 まず、一般的な歴史研究の世界では所謂欠史8(9代)代と称せられる神武、錘靖(スイゼイ)から第9代開化天皇までは、架空でしかなく、歴史としては取り扱わないという姿勢を維持しています。
ほんの六、七十年前までは全て実在するとして強制しておきながら、敗戦後は時流に乗り反省と称し、手のひらを返したかのように全面的に否定するのです。
 利用されたのは、獄中でも信念を曲げなかった魂の学者、早稲田の津田左右吉ですが、今度は、これが無批判に崇め奉られているのです。
凡そこのようなものが学問と称せられること自体お笑い種ですが、現在も戦前と全く同様、師の説、時流に追従するという状態に陥っているのです。
 私たちは、師の説を批判すると助手に採用されない、教授になれないといった心配は全く要りませんので悩む必要など一切ありません。
 このような中で、吾平山陵を取り上げることにありきたりの批判が投げられることは承知の上で、現在、どこまでのことが分り、また、言えるのかを探ってみた訳です。
 念頭にあるのは、福永晋新三氏(神功皇后紀を読む会主宰)による「神武は筑豊に東征した!」(筑前から)であり、その前史です。
 いずれにせよ、「日本書紀」、「古事記」を全否定することも、全て正しいとして鵜呑みにする立場からも離れ、今後も作業を進めようではありませんか。
 もちろん、私自身は記紀こそが偽書だとの思いは変わりません。
 ましてや、金儲けのために神社を神宮と僭称し、祭神を入れ替えたり、隠したりするような現実の神社の実態を理解したうえで調べることが必要でしょう。
(参考資料)
通説による神武系図(延岡の可愛山稜=ニニギの陵墓参考地の看板から借用したもの)
百嶋神社考古学による見解
神武の父はウガヤではなく松野一族=列島大卒紀氏(第二系図の誰か)母親玉依姫はOK神武の妃はアイラツヒメOK
ウガヤは海幸彦(草壁吉見)と市杵島姫との間に生まれた大山咋と阿蘇の建磐龍の子雨宮姫との間に生まれた崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト=ツヌガノアリシト=ミマキイリヒコインエ)のおばは活玉依姫、
ウガヤの母は豊玉姫、父は豊玉彦しかし山幸彦ではない。いずれにせよ、ウガヤもニニギも高木
百嶋神社考古学からの真実の極秘神武(カムヤマトイワレヒコ)系図の一部
※当然ながら神社庁が認めるものとは全く異なる
平野雅晴 倭国のふるさと 火ノ国山門
  吾平山御陵考 1P
  吾平山御陵考 2P
  吾平山御陵考 3P
  吾平山御陵考 4P
  吾平山御陵考 5P
武雄市 古川 清久
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