久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
「有明海」はなかった
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「有明海」はなかった

「有明海」と言う名の海はなかった・・・/帝国海軍水路部と有明海

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はじめに
一般的に、私達が取り上げる地名研究は上古、往古、太古、古来と言った言葉で表現される相当古い時代に成立したものであることが多いのですが、今回の「有明海」という海洋呼称については、どうも、その範囲には全く収まらないもののようであり、一応、地名研究には間違いないのですが、どちらかと言うと、近代のある側面に光を当てた民俗学的考察といったものになるような気がしています。
このような動機ではほとんど取り上げられたことはないようであり、かなり変わった論考に見えるかもしれません。
実際、今日、古のものとして誰もが信じて疑わぬ「有明海」という呼称が、実は、ほんの百年足らずのものでしかないのではないかという奇妙な仮説に取り付かれ、勢いだけで、考えを拡げてしまったという感想を持っています。
さて、“「有明海」はなかった”などと書くと驚かれる方も多いと思います。
もちろん、何百万年という地球物理学的時間で考えれば、有明海が存在しなかった時代はあったでしょう。しかし、もっと短い、例えば何万年という単位で考えたとしても、かなりの想像が可能になってきます。
 
現在、ムツゴロウは朝鮮半島や中国大陸などにも分布していることが知られています。このムツゴロウという特別な生物の分布を考えると、やはり有明海が完全に消え去った時代はなかったと考えるべきではないでしょうか。
それは、ムツゴロウが外洋を泳ぎきり、例えば、玄界灘を渡ることができるような種では全くないことから、おいそれと大陸から切り離された後の日本列島にやって来られるとは考えられないからです。彼らが生息域を広げるには、どうしても干潟が連続している必要があるからです。  
魚の話では、“鳥が足に卵をくっ付けて運んで来た”といったことがよく言われますが、ムツゴロウの場合はその産卵形態から不可能で、列島内においても、今なおムツゴロウの分布が限定されていることからも明らかなのです。
しかし、今から取り上げるのはその手の話では全くありません。「有明海」という名前の海は存在しなかった。
少なくとも、その呼称はたかだか百年程度のものではないか?といった話です。
しかし、なお、オカシイと思われる方は、まず、お持ちの手ごろな地図を広げて見て下さい。
ここで、始めて、びっくりされるはずです。
地図によっても、多少は異なりますが、一般に考えられている有明海の認識と、市販されている地図上の「有明海」の表記は全く異なるのです。
 
恐らく、皆さんが手にする大半の地図では長崎県島原市(島原半島)と熊本市の間の海は有明海ではなく島原湾となっていると思います。
つまり、熊本県宇土市から西に伸びる宇土半島や天草諸島の北に広がる海は島原湾でしかなく、少なくとも、天草(三角)へと向かう国道五七号線から右手に見える宇土半島の北に広がる海は有明海ではないのです。
実際、地図の成立時期によっても、また、官庁によっても記載がまちまちで、混乱が行政によって持ち込まれているという印象は拭えません。
実はこの問題についてふれた本があります。『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)東海大学出版会 です。
多分、有明海沿岸の図書館であればどこにでも置いてあるはずですので、例え読まずとも、ムツゴロウを表紙にしたこの本を見掛けたことのある方は多いと思います。
一九八一年の初版で、有明海の珍しい生物を取上げたものです。まずはこの事についてどのように書かれているかをご紹介しましょう。
国土地理院は、こう主張する。
有明海というのは、この海の北半分で、南半分は島原湾というべきだ。しかし、その境界については、当院は関知しない。
海上保安庁はこうだ。
この湾は島原湾と呼ばれるべきだ。有明海などというものは、当庁の採らないところである。
辞典類の執筆者は、こういう。有明海と島原湾の境界は、長洲と多比良を結ぶ線である。
そして、生物学者、地質学者も含めた一般国民は、有明海といえば、この大きな湾の入口にある、早崎瀬戸という海峡の内側の水域全部だと思っている。
 
国土地理院は、一九七九年に「日本国勢地図帳」というものを出している。・・・中略・・・「有明海」と「島原湾」の境界が、どこにあるのか、一行の説明も見出せないのである。
いまみてきたように、国土地理院のこの水域に対する態度は、ひどく及び腰にみえる。その点を、電話で問い合わせたが、 「境界は知らぬ」 という返事であった。電話のことだから、これを同院の公式見解とはみなせないにしても、妙な話である。
海図にも当たってみた。海図は、運輸省海上保安庁水路部がだしている。航海用の精密な図である。一九八一年発行の第一六九号「島原湾」を見てみよう。海図の隅に「有明海」の名は記入されているものの、その示す範囲はどうみても、おおよそ福岡県柳川と佐賀県藤津郡多良(たら)を結ぶ線以北としか考えられない。・・・中略・・・
そこで水路部に電話してたずねたところ、「この水域の名としては、島原湾だけを用いている」という答えだった。念のために、水路部発行の潮汐表を見て、驚いた。・・・中略・・・
ついに有明海のアの字もでてこなかったのである。「海上保安庁に、有明海の字はない」のである。
『有明海』自然・生物・観察ガイド(東海大学出版会)
消される有明海
お分かりになったと思います。意識的か無意識的かは分かりませんが、有明海は消されつつあるのです。
菅野 徹氏も「ようやく、有明海を見た-と、このときは信じて疑わなかった」とされているのですが、熊本の南、宇土半島の長浜というところで初めて見たものが有明海ではなかったのです。
この一般の意識とのギャップはどこからくるのでしょうか?
私は、生物、社会、理科といった小学校以来の意識やイメージを支えているのが教科書であり、それの元となっている学者、研究者の認識には「島原湾」はなかったからではないかと考えています。現在の教育現場についてまでは調べていませんが、もしも、この世界にまで国土地理院や海上保安庁水路部といった一行政機関(つまり官僚)の意志が浸透するようになれば、有明海は遠からず掻き消されていくのではないかと考えています。
『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (さまざまな有明海)
有明町は消された
 
もう一つ、皆の記憶から完全に消えようとしているものがあります。
言うまでもなく有明町です。
平成の大合併が進められる中、三つの有明町が消えることになりました。
 
北から、佐賀県杵島郡有明町(現白石町)、長崎県南高来郡有明町(現島原市)、熊本県天草郡有明町(本渡市などと三月に合併/当時)です。佐賀県の旧有明町はもとより、この島原市と合併した旧有明町と天草上島の有明町の存在は、一般的認識としての有明海が正しい事を示すものです。このことについても菅野 徹 氏は書いておられます。
 
この有明町という町名が地図から消失し、有明海という名さえも抹殺される時が来るのかも知れません。有明海を破壊した農水省の諫早湾干拓事業という犯罪行為や沿岸の針葉樹林化、旧建設省の不必要なダムの乱発も忘れ去られる事になるのでしょうか?
『有明海』自然・生物・観察ガイド掲載の図面 (3つの有明町)
実に慧眼です。残念ながら、私には菅野徹氏の恐るべき予言が現実のものとなったと考えています。
これについては、鹿児島県の大隅半島に、別名有明湾と呼ばれる海域、志布志湾があり、沿岸に有明町があったこと(現志布志市)も付しておきます。
有明海と帝国陸海軍
ここで、私が考えている仮説をご紹介致しましょう。
現在は、“「有明海」は帝国海軍が関与したのではない“と考えていますが、ある時点まではそのように考えていました。
これについては、既に、HP「有明海・諫早湾干拓リポートⅠ」に書き、ネット上に公開している文書を原文のまま二本掲載することで換えたいと思います。判断は読者にお任せします。
2 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部 20040128
7 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足) 20040311
2. 「有明海」という呼称と帝国海軍水路部
さっそく民俗学的なテーマで驚かれたかもしれませんが、民俗学者の宮本常一に魅了され続けている私には、話を始める以上、どうしても「有明海」という呼称を気にしてしまうのです。このため環境問題、環境論議といったものを期待されている読者には多少の辛抱をお願いしたいと思います。
簡単に言えば「有明海」という呼称は思うほど古いものでもなく、どうやら帝国海軍(ジャパニーズ・エンペアリアル・ネービー)が付けたのではないかといった荒唐無稽な話です。極めてローカルな話になりますがしばらくお付き合い下さい。
 
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです(もっとも、この「江戸前」にも似た「前海」という表現は、どうやら佐賀県の福富、白石、福富町などの戦後の干拓地域を多く抱え込む新興の地域や太良町などの海洋民的風土の地域ではあまり流通しておらず、柳川市あたりから佐賀市、鹿島市(鍋島支藩)などの武家文化の浸透した地域で使われていたように思うのですが、もちろん詳細に調べているわけではなく、良くは分かりません)。ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。
野母崎(ノモザキ、ノモサキ)と千々石湾(チヂワワン、チチワワン)
有明海に帝国海軍の艦隊が入ってきたという話しはあまり聞きませんが(干満が大きく浅い半閉鎖性の海というものは座礁や衝突の危険が極めて高く、艦隊行動にとってはこれほど不向きなものはないのですから当然でしょう)、かつて島原半島の南に位置する千々石湾沖には演習で大艦隊が回航してきたことがありました。この帝国海軍の大演習に際して、日露戦争は「旅順港閉塞」の広瀬中佐(「杉野は何処・・・」)と並んで有名な、陸軍の軍神「遼陽会戦」の橘 周太がここ千々石町の出身地であったことをもって、島原半島の南の千々石湾を橘湾と呼ぶように呼称の変更を行い、ある意味で陸軍にゴマを摺ったのが海軍であったという話を考えると、この「有明海」という落下傘的呼称もそのようなものではないかと考えているところです。
 
長崎から南西方向に長く突き出した半島は野母崎(ノモザキ)と呼ばれていますが、国土地理院の地図では長崎半島とも併記されています。前述した橘湾、千々石(チチワ、チヂワ)湾も同様です。とりあえず、橘湾、千々石湾の方はそれなりの傍証があるのですが、長崎半島(野母崎)の方は、当面全くの推測です。
明治よりこのかた、このような岬、半島、海峡、海湾さらに細かい話をすれば海底の山(大和堆、武蔵堆)といった呼称を決定してきたのは、海では帝国海軍の水路部でした(陸では陸軍参謀本部陸地測量部)。当然ながら、彼らは水深、暗礁、干満、潮流、流速、卓越風といったものを調査し、艦隊行動に必要な水路情報を開発し蓄積してきたのでした。
 
当然ながら、海軍はシナ海に面し三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠に近い野母崎を造船所の防衛線として最期の艦隊決戦の要地と考えていたはずです。それでなくとも日露戦争ではロシアのバルチック艦隊が対馬海峡を通過するかどうかを真剣に悩んだのですから、冬場は北西の季節風が遮断される波静かな千々石湾に多くの艦艇を伏せ、野母崎沖で艦隊決戦(空の場合は航空撃滅戦)に臨むとすればこれほど格好の錨地はないのであって(太平洋側では大分県の佐伯湾付近鶴見崎、四浦半島、日本海側では山口県の油谷湾でしょうか?)、海軍の大演習は当然といえば当然の話なのです。
山口県の油谷湾における海軍大演習の写真が油谷湾温泉のある温泉ホテルに現在も飾られていますが、当時は国威発揚と海軍の威信を大いに拡大せしめる(大量の税金を獲得するための)、国民や地域を巻き込んだビッグイベントであったことでしょう。
 
さて、話を戻しますが、艦隊決戦に際して岬や半島の呼称は非常に重要であり、「ヒトヒトマルマルノモザキオキデゴウリュウサレタシ」といった伝令(陸軍は通達)において野母崎(ノモサキ、ノモザキ)といった通常現地の人間でなければ読めないような呼称は艦隊行動の間違いの元になりやすく、瞬時を争う艦隊決戦に於いては勝敗を分かつ大問題でもあったのです。特に海軍の場合は陸軍以上に全国から言葉の違う将兵が数多く乗組んでいるのであって、言葉や呼称は最重要事だったのです。このため、水路部は可能な限り誰にでも判る平易な呼称に変えていこうとしていたはずなのです。
「簡潔明瞭をモットー(英語のmotto)とするのが帝国海軍の伝統」であったことからしても、大演習に参加していた海軍軍令部(陸軍の場合は参謀本部)の高級将官あたりから、野母崎や千々石湾などといった通常は正確に読めない呼称をもって「これらの名称は間違いのもとである」「直ちに変更を検討せよ!」といった話が出たと想像することはあながち難しいことではないと思うのです。
 
先に千々石湾の場合は傍証があると書きましたが、「海軍よもやま話」だったか、一昨年の秋口に読んだ本だかにこのことが触れられていたのですが、現在、それがどれであったかを忘失し正確な出典を示せません。仕方がなく友人が橘神社に参拝したいと言った際に随行し(私は唯物論者のため参拝は絶対にありえないので)、海上自衛隊(佐世保総監部)派遣の宮司代行にお訊ねしたところ、「それは間違いありません。海軍水路部あたりがやったことではないでしょうか。千々石湾沖の海軍大演習に際して幹部連が橘神社に表敬参拝(筆者の評価ですが併せて千々石湾の呼称の変更を贈り物のように行った)したという神社側の記録や橘家の日記に記録があるようです」との話をお聞き致しました(資料の写しを頂く予定でしたが未だに頂いておりません)。どうやらこれが、千々岩湾と橘湾、野母崎と長崎半島といった二つの呼称が今なお残っている理由のようなのです。
野母崎と長崎半島という呼称の並存については(財)日本地図センター地図相談室長・参事役をされていた山口恵一郎氏が「地名を考える」(NHKブックス)の中で触れておられます。
興味がおありの方は読んで見てください。もちろん山口恵一郎氏は有明海や長崎半島といった呼称が帝国海軍水路部によるものとの指摘はされていません。以下。
「そうして国土地理院の回答、“『長崎半島』採用の理由”として、「野母半島」という呼称があることは事実だ。しかし一方、「長崎半島」という呼称も、明治四十四年発行の山崎直方・佐藤伝蔵編『大日本地誌』第八巻及び古くからの『水路誌』に記されている。つまり…」189p
(20040128)
7. 千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)
帝国陸軍の軍神とされた橘 周太中佐についてインター・ネットで検索していたのですが、出身地の長崎県千々石(チヂワ)町のホーム・ページ「千々石ネット」に辿りつき、その中の「橘周太(橘中佐)年譜」を見出しました。これによると銅像建立と橘神社「大正8年2月竣工、除幕式が行われる。像の高さは3m30Cm(ママ)。千々石町南船津上山の天然石に安置された。この年、長く中佐の偉勲を記念して千々石灘を橘湾と命名し正式に当局に申請、海軍水路部により地図上に記載される事となった」と書きこまれていました。このことによって、2.「有明海という呼称と帝国海軍水路部」の部分的な裏取りができたことになるようです。
なお、敗戦後、昭和二〇年十一月三〇日の海軍軍政の終了によって「海軍水路部」は「第二復員省」を経て旧運輸省「海上保安庁水路部」に移行します。
 
さて、思考の冒険はさらに広がるのですが、九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
 
しかし、今のところは想像の域を出ません。「不知火海」(しらぬい・かい)も一般的には読めない呼称であることは言うまでもないため、なんでも水路部のしわざと考えるくせがついてしまいました。
(20040311) と、書きました。

ただし、繰り返しになりますが、2.「有明海」という呼称と帝国海軍水路部において、
「現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手 な想像をしています」
と、していましたが、最近、これは違うと考えるようになってきました。
今は、明治政府のなんらかのセクション(文部省辺りか)が始めに「有明海」を採用し、その後、海の呼称ですから、旧海軍水路部が「島原湾」を持ち込み、戦後、海上保安庁水路部が逆に消し去ろうとしている(消し去った)と考えています。恐らく、国土地理院(旧陸軍測地部)は水路部の顔を立てているだけでしょう。
水路部沿革
・・・明治四年七月二十八日、兵部省に海軍部が置かれ、同年九月八日、同部に水路局が設けられた(兵部省海軍部内条令)。・・・
・・・終戦で海軍は解体し、水路部は昭和二十年十一月二十九日、運輸省に移管され、運輸省水路部となった。・・・昭和二十三年五月一日、海上保安庁が創設されて水路部は同庁の水路局となり、二十四年六月一日には同庁機構改正で海上保安庁水路部と現在の名称になった。
『日本海軍史』第六巻 部門小史下(財団法人海軍歴史保存会)より
なお、7.千々石湾(灘)を橘湾に変更した帝国海軍水路部(補足)で書いた
「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。
に、ついては、ほぼ、間違いないのではないかとの思いを深めています。
「有明海」は帝国海軍が付けたものではなかった
このように、「有明海」を名付けたのが、帝国海軍ではなかったのではないかと考えを改めたことには、多少、説明が必要になります。
「有明海」と名付けたのに、後身の海上保安庁水路部がその名を消そうとしているのも整合性がありませんし、海軍が特に好んで「湾」を使ったのではないかと思うようになったからです。
そもそも、誰でもが知っている、パール・ハーバー(港)を真珠湾と呼んだのは海軍です。また、帝国海軍の最大拠点は瀬戸内海の広島湾でした。
海軍が付した事に、ほぼ間違いがない橘湾は「湾」であり、舞鶴の鎮守府(マイチン)があるのは舞鶴湾であり、横須賀の鎮守府(ヨコチン)は横須賀湾、佐世保の鎮守府(サセチン)は佐世保湾です。
大東亜戦争(太平洋戦争)において帝国海軍が全力を上げて闘い、大半完敗し滅び去った重要な海戦は、珊瑚海海戦、シブヤン海海戦、ソロモン海海戦…と、国際的に、つまり、列強により認知されていた名称(もちろん、日本海海戦の日本海=Sea of Japanや東、南シナ海=East,South China Seaも含めて)は別として、具体的な作戦のために帝国海軍によって使用され流通した表記は、レイテ湾、マニラ湾、リンガエン湾…であり、多くの戦記戦史には海軍が「湾」を好んで使っていたという印象を強く受けるのです。
始めは、錦江(湾)と鹿児島湾のように、二つの呼称が存在しているところは、全て海軍が名付けたとの思い込みがあったことから、反射的に「有明海」もそうだったのではないかと考えたのですが、十年ほど経過し改めて考え直してみると単純にそうとは言えないと思うようになったものです。
日本語では、現在、大きい順に「洋」>「海」、「灘」「湾」が使われます。
七つの海を支配した海洋帝国グレート・ブリテンの英語でも、〔Ocean〕>〔sea〕>〔bay〕>〔gulf〕>〔cove〕と使われますが、日本語の「洋」は〔Ocean〕の、「海」(カイ)は〔sea〕の訳語であり、明治期に成立したテクニカル・タームのひとつのはずです。
詳しくは調べていませんが、まず、江戸時代の半ばまで、日本海は「日本海」とは呼ばれていなかったでしょうし、「瀬戸内の海」とは呼ばれても、「瀬戸内海」とは呼ばれていなかったでしょう。もちろん、灘、浦、(沖)以上は必要性がなかったからです(ただし、古代史に携わられる方は良くご存知のように、玄海灘は中国側の史書では「瀚海」【かんかい】と表記され、「海」が使われています)。
今のところ、「太平洋戦争」はGHQが強要したものですが、「太平洋」や「日本海」は、江戸時代のいつごろからか蘭学者辺りから使われ始め、「オホーツク海=Sea of Okhotsk」や「有明海」は明治の終わり頃から文部省辺りで使い始めたのではないかと考えています。
有明海という呼称の起源
相当古いと思われている「有明海」という呼称は実は明治も終わり頃からのもので、それ以前は単に「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」などと記され、また、土地の人からは単に「前海」と呼ばれていたようです。(…中略…)ただ、具体的にどの段階でこの「有明海」という海の呼称が成立したのかについては現在のところ旧帝国海軍水路部あたりが付けたのではないかなどといった勝手な想像をしています。
これは、有明海・諫早湾干拓リポートを書き始めた時の冒頭の論文 1.はじめに(20040126)の一節です。「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」という呼称は「有明海」に付けられていたということについて拙著「有明海異変」でもふれていますが、菅野 徹氏もこのことについても書いておられています。
なお、有明海の名は一九一二(明治四十五)年の『帝国地名辞典』(太田為三郎編、三省堂刊)に、筑紫潟の別名としてでているが、・・・ただし、「有明」の名そのものは、天保年間(だいたい一八三〇年代)の地図には、有明の沖としてあらわれている。しかし、わが国最初の百科事典である『和漢三才図絵』(正徳ニ(一七一二)年)にはこの水域に関してなにひとつ記述がない。・・・
東京湾とか有明海とかいう名称は、その概念とともに、かなり新しいものではなかろうか。一八九五(明治二十八)年の地図を見ても、福岡県の地先を筑紫潟、佐賀県・長崎県の地先を有明ノ沖、としていて、まだ、有明海、島原湾、などの名は見えない。
『有明海』自然・生物・観察ガイド(菅野 徹 著)
さて、前にもふれましたが、九州には有明という海がもう一つあります。鹿児島県の志布志湾が別名有明湾と呼ばれているのです(沿岸に有明町があります)。氏は、このことから、
有明海を「ザ・ベイ・オブ・アリアケ」とやれば、前述のように志布志湾と混同されるおそれがある。海上保安庁では、このあたりを勘案して有明海の名を嫌っているのかも知れない。
と、されています。
鉄道唱歌は証言する
「有明海」という呼称を考えていて気付いた事がありました。鉄道唱歌です。
明治に作られましたが、鉄道の普及と沿線の文物が歌い込まれ大変に流行った物でしたから、いまだに耳に残っている方も数多くおられることと思います。
言うまでもなく「汽笛一声新橋をはや我が汽車は離れたり・・・・・・」ですが、この第二集山陽・九州編を聴くと、三角線や鹿児島本線では“有明海”という名は出てこないものの、“不知火の海”という名ははっきりと歌い込まれているのです(「・・・国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く・・・」)。少なくとも、唱歌が作られた明治三十三年当時の作詞家や鉄道省、地元の認識は八代湾ではなく“不知火海”であったことがこれからも分かります。
 
ただ、八代海(湾)ではなく“不知火の海”という名称が流通していた事までは分かるのですが、依然として疑問は残ります。「わたる白川緑川川尻ゆけば宇土の里・・・」を聴くと、ここまではまだ宇土半島の北側であり、現在の有明海(島原湾)側の海しか見えないはずなのです(当時は干拓が進んでいなかったために鉄路からの海は現在よりも間近に見えたはずです)。「国の名に負う不知火の見ゆるはここの海と聞く」となると、当時まで宇土半島の北側の海も不知火の海と呼ばれていた可能性があるのですが、この問題については、まだ作業中ですので、いずれ別稿として詳しく書きたいと思います。ただ、今の段階で考えている事を少しお話しておきます。
有明の不知火、不知火の有明
まず、多くの方が“不知火は現在の宇土半島以南、不知火海に出るもの”と、考えておられると思います。確かに、現在、有明海に不知火が出るという話は聞きません。一般的にも不知火が見えるのは、熊本県宇土半島の不知火海(八代湾)側にある旧不知火町(現宇城市)付近(から)とされています(八朔の夜の永尾神社からの不知火は有名)。
しかし、最近になってどうもそうではなかったということにようやく気付きました。
元々、“有明海”も“不知火海”と呼ばれていたと言う話をどこかで聞いた事があったためですが、ただ、今はそれがどのような意味だったのかは出典も含めて辿れません。
ただ、有明海沿岸を走り回る日々が続くと、幾つかの地名にその痕跡がある事に気付きます。
一つは福岡県大牟田市のJR大牟田駅に近い不知火町です。ここに熊本県の旧不知火町からの組織的移住があったという話は聞きませんから、少なくとも百年、二百年は遡れる地名ではないかと思われます(小さな名であり、起源は定かではありませんが、現在、市役所が置かれている町も有明町です)。
地名としては、熊本県旧不知火町の外にも、旧小川町などに“不知火”という字名が見られます。
もう一つは、“長崎県諌早市からも不知火が見えたという話があるのです。一例をご紹介しましょう。
「あとで話していただく木下良先生(元国学院大学教授:古川註)は、諫早の御出身ですが、不知火は諫早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あったと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生まれかえる火だったと思うのです。」
これは熊本地名研究会が一九九五年に行った第10回熊本地名シンポジウムの資料集「火の国の原像」に掲載されている民俗学者谷川健一(日本地名研究所所長、近畿大学教授=当時)氏による基調講演「火の國の原像」の一節です。
これを読むと、諫早湾干拓に流れ込む本名川に掛かる橋が不知火橋と命名されているのも不思議ではなくなります(諫早の市街地から諫早湾に注ぐ本明川に掛かる県道124号大里森山肥前長田停車場線の大型橋が不知火橋と呼ばれているのです)。
 
さらに、もう一つは、東京オリンピックが行われた1964年(昭和三九年)に作られた島原市の盆踊り歌「本丸踊り」(向島しのぶ、ビクター少年民謡会:唄)「・・・沖の不知火沖の不知火ヨー、誰故燃える・・・」や、「島原の子守唄」(森山良子:唄)「沖の不知火、沖の不知火消えては燃える・・・」などの歌詞の中に“不知火”が歌い込まれている事です。
ついでに言えば、旧制福岡高校(現九大教養部)で歌われていたものにも「不知火の筑紫の浜に・・・」とあったようですし、私の地元にある佐賀大学の学生寮が“不知火寮”でもあったのです。このように、狭義の有明海沿岸にも不知火に関する地名などの痕跡がある事を考えると、かつては、有明海も“不知火の海”と呼ばれたか、少なくとも“不知火の見える海”であったのではないかと思うのです。
そもそも、景光天皇の火邑伝承は現在の不知火海(八代海、湾)としても、考えてみれば、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです。
万葉集の白縫
「万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったことと符合するのです」としました。しかし、誤解がないように断っておきますが、「不知火」という漢字表記が記紀や風土記にあるわけではないのです。筑紫にかかる枕言葉の表記は「之良奴日」「剘羅農比」「白縫」などですが、この“ヒ”音はいずれも甲類であり、“ヒ”音でも乙類の「火」「肥」ではないのです。この法則性を絶対化すべきかどうかの問題はあるのですが、単純に“シラヌヒ”“シラヌイ”を不知火とするには無理があるようです。
ただ、甲類、乙類の使い分けは後には消え、混用されていったのではないかとする事は許されるはずです。従って、「白日別」とされた筑紫が、宇土半島北側でも見えていた不知火と重なり、万葉集における筑紫の枕詞が不知火であったかのように様々な痕跡を残したのではないかと思うものです。
また、立石巌氏の「不知火新考」によると、江戸時代の僧侶が「不知火」という表記をしたことが始まりとされています。
再び鉄道唱歌は証言する
55. 熊本~宇土
大和田建樹(作詞)
わたる白川緑川
川尻ゆけば宇土の里
国の名に負う不知火の
見ゆるはここの海と聞く
68. 
あしたは花の嵐山
ゆうべは月の筑紫潟
かしこも楽しここもよし
いざ見てめぐれ汽車の友
さて、長々と脱線しましたが、どう考えても鉄道唱歌に有明海が歌い込まれてないはずはないと考えました。
一つは、現在の長崎本線は昭和十年頃新たに建設されたものであり、鉄道唱歌の時代には、佐世保線(肥前山口~佐世保)と大村線(早岐~諫早⇒長崎)が長崎本線だったのです。
このため、車窓に出てこない有明海が鉄道唱歌に歌われないのは幾分理解できそうなのですが、どうもそうばかりでもないようなのです。 
理由は極めて簡単でした。
鉄道唱歌が作られたのは一九〇〇年(明治三十三年)なのです。
そうです。前述したように、この時点でも「有明海」は、まだ、「筑紫海」「筑紫潟」「有明沖」・・・など呼ばれているのです。実は、それも鉄道唱歌が証明してくれていました。
速さを誇る旧鉄道省は京都から長崎に半日余りで到着すると唄いたいのですが、ここで分かるように、有明海は“月の筑紫潟”と歌われているのです。つまり、有明海という呼称は、やはり、わずか百年足らずのものなのでした。
話がかなり輻輳しましたが、結局、明治の中頃までは有明海の北部が筑紫潟と呼ばれ、宇土半島の南北、つまり、有明海南部と現在の不知火海が“不知火の海”と呼ばれていた。
さらに遡れば、現在の有明海と不知火海を併せた“九州内海”とも言うべき内湾全体をも“不知火の海”と呼んでいた時代もあったのではないかと考えるのです。
では、皆さん。このような百年も立たない“有明海”という呼称は消えてしまっても構わない、仕方がない事だ”とお考えになるでしょうか?
少なくとも私は嫌です。なんとも惜しい事だと思います。
それも含めて、皆さんに考えて頂くことにして、最後にもう一つ、菅野徹氏の文章を引用して本稿を折り返します。
だが、有明海は、重要な海で、その名をおろそかにすることはできないのである。
同じく『有明海』自然・生物・観察ガイド  
有明海の出口、島原半島早瀬崎灯台
八代湾(不知火海)という呼称について
九州の「多島海」そして「地中海」でもあり、広義の有明海にも含まれる「不知火海」(しらぬい・かい)が同時に「八代海」と呼ばれているのですが、これについても同様に海軍水路部の仕業ではないかと考えています。…と前述しました。
たぶん海軍水路部あたりによって簡明な呼称として改名するよう国土地理院に申請ないしは要請して改名され、それが現在に至っているのではないかという意味でした。
大まかに言えば、国土地理院は戦後になり陸軍測量部を引き継いだ組織です。従って、『日本海軍史』を引用するまでもなく、海軍水路部が陸軍測量部に「通知して改名され、それが現在に至っているのではないか」と考えています。
 
もちろん、「不知火海」の呼称を「八代湾」に変更したのは、八代沖の大築島周辺の島の呼称にズレがあること(旧運輸省=海上保安庁水路部系の海図と国土地理院系の地図において島の名にズレが認められる)などから考えて、帝国海軍水路部が変更したと考えています。
不知火 (陽炎型駆逐艦)
ここで、多少、気になることにも触れておきます。
太平洋戦争において、「不知火」という駆逐艦が就役していたことを思い出したのです。
もしも、これが不知火海を念頭に命名された艦であったとすれば、帝国海軍が不知火海を認めていたことにもなりかねないからです。
有明海周辺からは、他に球磨、有明が取られていますので、さらにはっきりさせておく必要があるでしょう。
二等巡洋艦の球磨はまぎれもなく球磨川から採名されたものです(完全な法則とまでは言えませんが、原則として昭和期の一等巡洋艦は山の名を、二等巡洋艦は川の名を採用しています)。
このため、帝国海軍の駆逐艦、初春型の5番艦(改初春型1番艦)有明も有明海から彩名されたものかとも考えわれたからです。
 
つまり、帝国海軍自体が“「有明」(それ以前にも「有明」という艦がありますが)も「不知火」も認めているのではないか“ですがどうでしょうか。
 特に不知火は1939年12月竣工の新型艦であったことから、海軍水路部が海上保安庁水路部へと移行する前の雰囲気が反映されていたはずだからです。
 
不知火はポート・ダーウィン(ニューギニアに近いチモールの対岸にあるオーストラリア本土の港湾都市)からミッドウェーまで展開した艦ですが、同型艦に「朝潮」「霞」「霧」・・・があることから、気象、海況から付されたもので、決して「不知火海」という呼称からのものではないことが分りました(写真は駆逐艦有明/ウィキペディアから)。
 
もっとも、八代湾は海軍が持ち込み、不知火海は海軍ではないと考えているのですから、始めから問題はなかったのですが、では有明はどうでしょうか?
同様に「有明」も同型艦に「初春」「若葉」「初霜」「夕暮」・・・があることから「有明海」という海名から彩られたのではないことが分りました。
 
少なくとも「有明」は例外であり、一抹の不安は解消されたのでした。
作家の阿川弘之氏が良く言うことですが、実際、完膚なきまでに叩きのめされ、完敗のうえ滅び去った帝国海軍でしたが、陸軍と違って艦船には「万葉集」や「源氏物語」と紛うばかりの優雅な名前を付けていました。
終戦末期に秋月型という乙型駆逐艦が登場しますが、同型艦に照月、涼月、初月、新月、若月、花月、霜月、冬月、春月、宵月、夏がありました。
阿川氏はこれを評して「町屋(連れ込み)の名前ばっかりじゃないか…と言った奴がいたほどだった…」(不正確かも知れませんが)と言ったほど、なんとも優雅な、逆に言うと、ちっとも勇ましくない名前を付け続け優雅に滅び去ったのでした。
してみると、不知火海も有明海もこの優雅さが、あたかも上古以来のものであるかのように思わせているのかも知れません。
駆逐艦 有 明
不知火(しらぬい)は、日本海軍の駆逐艦。陽炎型の2番艦である。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。
艦歴 [編集]
浦賀船渠で1937年8月に起工、1939年12月に竣工し同時に第18駆逐隊に編入され、11月15日、第2艦隊第2水雷戦隊に編入された。
太平洋戦争開戦時には、同型艦「陽炎」、朝潮型「霞」「霰」と共に第18駆逐隊に属し、機動部隊の警戒隊として行動した。1941年11月26日、ハワイ攻撃機動部隊の護衛として単冠湾を出港、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)に参加した。
1942年1月8日、柱島泊地を出港し機動部隊とラバウル攻撃に従事、以後、2月には第2航空戦隊のポートダウィン攻撃、ジャワ南方機動作戦、4月のセイロン沖海戦に参加し、4月23日、呉に入港し入渠修理を行った。5月にサイパンに進出、6月のミッドウェー海戦に攻略隊の護衛として参加した。6月28日、横須賀から水上機母艦「千代田」、「あるぜんちな丸」の護衛としてキスカに向かった。7月5日、キスカ島沖で濃霧のため仮泊中に、米潜水艦「グロウラー」(USS Growler, SS-215)の雷撃を受け艦橋付近が切断し、9月3日から翌年11月15日まで舞鶴工廠で修理を実施した。8月15日、第18駆逐隊は解隊した。1944年1月、ウェワク輸送に従事、3月に呉工廠で探信儀装備工事を実施し、4月、北方部隊に編入され大湊、千島方面の護衛活動を行った。6月に25ミリ機銃を増設し、6月末まで再び北千島方面で北方作戦に従事し、さらに硫黄島輸送、8月12日、「木曾」「多摩」「霞」と共に父島への輸送に当たった。10月25日、レイテ沖海戦において志摩艦隊に属しスリガオ海峡に突入したが、コロン湾に帰投した。27日、レイテ沖海戦で損傷した「鬼怒」の救助に向かったが発見できず、帰途に米空母艦載機の攻撃によりフィリピン諸島シブヤン海にて沈没、荒艦長以下全員が戦死し、12月10日に除籍された。
ネット上の「不知火(陽炎型駆逐艦)」より
(資料) 再生を意味するシラ・ミツハ
火の国の原像 谷川健一 第10回 熊本地名シンポジウム 1995年より
不知火という言葉が古代からあつたかどうかは私は疑問です。それでは何かといいますと、不知火と言うのは、シラの火だと思うのです。お産をシラ不浄といいます。お葬式のことをクロ不浄、それから女の月厄のことをアカ不浄といいます。それでシラ不浄というのはお産のことなんです。生まれることをシラという。沖縄では、産室をシラ屋といいます。産室に焚く火、これをシラ火といいます。新しく生まれ返ることをシラといいます。
みなさん御存知の槍垣の姐の話があります。『袋草紙』によると檜垣の姐は火の国の遊君で年老いて落ちぶれた女であつたわけです。その姐の歌というのは後でこしらえた歌だと私は考えるのですけれども、「年ふればわが黒髪もしら川のみつはくむまでなりにけるかな」年を取ってしまうと自分の黒髪も白髪になる。これは白川に懸けているわけです。みつはとは年を取ると歯が抜け落ちて、また小さい歯が出ると昔の人は信じていたのです。赤ん坊に小さい歯が出ます。あれを瑞歯というのですが、これはみずみずしい歯のことで瑞歯出て来るまでに年を取ってしまったという歌です。老いた遊君が、自分の若く華やかな時代を偲んで、その頃は黒髪がふさふさとしていたけども、もはや白髪になってしまったという女の嘆きをそこに歌っているのですが、その「みつはくむ」というのが曲者なんです。
それはなぜかというと、これは先程身狭村立主が呉の国からガチョウを二羽連れてきたのを筑紫の水間の君の犬に喰われたと申しました。筑後に三瀦郡というのがあります。筑紫川の下流です。そこが水間君のいたところです。「みつま」と「みぬま」は同じです。それがまた「みつは」とも同じなんです。「みつはくむ」という言葉に出てくる「みつは」はもともと「みつはめ」のこと、「みつはめ」とは何かというとこれは岡象と書き、水の神、水底に居る水の女神、格好は蛇身です。これが竜神の原形なんです。「みつはのめ」は水中にいる蛇身の女神に奉仕する女たちのこともいうのです。「みつはのめ」は、どういう役割を大和朝廷でやったかと申しますと、皇子が生まれるとき、それに水をかける役目をするのが、このみつはのめなんです。今でいえばウブユをつかわせる役です。ウブユといっても熱い湯でなく、生ぬるい潮水です。皇子の誕生の時ウブユをつかわせる女は若い女であるとは限らない、お婆さんでもかまわない。それをククリ姫ともいいました。
ククルというのは水に潜ることです。ククリ姫は赤んぼの皇子を水に潜らせる役で「みつはのめ」と同じです。イザナギは妻のイザナミが死んで黄泉国にいったので訪ねていくのですが、自分の愛する妻はもう元の形がなくて溶けてかかっており、ウジがいっぱいついていて、そして蛇がその回りを取り巻いている。それでびっくり仰天して逃げ、ヨモツヒラ坂まで来て、やれやれと一息ついて、今までの汚れを払い去ろうとミソギをするのです。その時ミソギの仕方を教えたのがククリ姫なんです。
死の汚れを払い除けるククリ姫は菊理姫と呼ばれて加賀の白山神社の神様なんです。 ここで白山が出てくる。白山のシラとは何か、身を浄めて生れかわるのがシラなんです。だから白山神社に菊理姫を祀ってあるのは深い意味があるのです。ククリ姫というとミツハノメなんです、ミツハは水間と通じます。
 
沖縄では以前お産をするときは産室を暗くして夏でも囲炉裏に薪をぼんぼん燃やしたのですが、それをシラ火といっていることは前に申しました。そのシラヒとシラの火、またはシラヌヒは似ているじやありませんか。水底の蛇の形をした女神の「みつはのめ」は後では竜神になつてしまいます。中国風の龍の観念がはいると、竜神に置き換えられるけど、もっと古代的に、日本的に考えると、それはそうじやない。水底の蛇神であつた。竜神の燃やす火、それがシラヒであつた。其の火は生命復活、再生の火であつた。八朔というと、ちょうど年の替わりの時、いまでも沖縄や奄美では八月を新年としております。いのちを更新する日だから、その頃に不知火を見た人は、これで年がいよいよあらたまるのだという、自分達の再生の希望をそれにつないで行く、という火ではなかったかと私は空想をたくましくするのです。そして先程言いましたように、筑後川の下流にはみつはのめにつかえる水間君が居るのですから。そうした人達が居るわけですから、有明海や不知火海(八代海)には当然水に対する信仰があつた。具体的にいえば水中の蛇身の女神(みつはのめ)に対する信仰であり、その女神のあびせた潮水は若がえりの水と思われていた。海上の不思議な火は竜神のかかげる火、つまりシラの火であるという信仰があった。大空から火が降って白髪山に燃え付いたと先程いいましたが、そういう例は沢山あるわけです。
 
柳田国男は、松に火が懸かる竜燈松伝説の例を沢山あげておりますが、南方熊楠は竜燈についてという論文で、外国の例を沢山書いている。そうした現象の一つが大空から白髪山についた火だと思われます。要するに海の向うから飛んで来る聖なる火なんです。その一例が白髪山の話として『風土記逸文』に出てきているのだろうと、私は思うわけです。白髪山のシラもまたシラの火のシラと解釈できると思います。
 
火の君については、後で井上先生もお話になると思いますが、これは非常に巫女的な性格が強いわけです。
君という言葉は、沖縄ではすべて巫女を指す言葉なんです。檜垣の姐は老いたる遊君といわれましたね。遊君はあそびの君です。この君は遊女がもともと巫女であつたことをあらわしています。
沖縄では宗教組織の中でトップに居るのは国王の奥さんとか、娘さんとかで、聞こえ大君と申します。そして火の君の同族である阿蘇の君、大分の君、これもみな君がつくわけです。それから芦北の君、これも君ですね。
 
『筑紫風土記逸文』に筑前と筑後の国境の山にあらぶる神が居て人を害していた。そこで筑紫の君や肥の君が占つて、筑紫の君の先祖にあたる甕依姫を祭司者として祀らせたとあります。
甕依姫というのは玉依姫と同じなのです。魂を人に付ける役、要するにシャーマン、霊媒、これが玉依姫であり甕依姫である。佐賀市に淀姫神社というのがあります。川のよどに神社が建っております。祭神は女性の淀姫で、そこに鰐がいつも小魚を連れてお参りに来るという文章があるのですが、それをヨタ姫とも、ユタ姫とも書いてある。ユタというのは沖縄や奄美で今でも使われている言葉です。神がかりして占いをする人です。淀姫神社に行きますと、明治の政治家で、書の達人の副島種臣の筆で肥の国一の宮という額がかかっています。かならずしも熊本だけが肥の国ではない、ここにも肥の国があつたんだと、私はあそこで分ったわけです。あとで話していただく木下良先生は、諌早の御出身ですが、不知火は諌早からも見えるそうです。不知火の正体は何か、それは再生の火、誕生の火、若返りの火であったと思うのです。それが丁度八朔の日に出てくる。古代日本では、新年は一年に二回あつたと、折口信夫は言っております。その八朔の日に燃える火というのは、旧年をすてて新しい年に生れかえる火だったと思うのです。
おわりに
本稿は「有明」「有明海」というごくありふれた地名に焦点をあわせたものでしたが、結論は意外にも大変驚くべきものになってしまいました。
この問題の検証も含め、今後は、八代海と不知火海というテーマにも踏み込みたいのですが、なにぶん遠方からの調査でもあり、地元の皆さんのご協力を頂ければと密かに期待しています。誤りや異説、類似地名などの情報をお寄せ下さい。
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