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古代日本語におけるm音とb音の交代現象 |
たつの市 永井正範 |
[ 1 ] |
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福岡県の南部、高良岬の南の南筑平野東部に 八女 の町がある。やめ の地名の語源は分からない。やめ の地名は全国でここにしかない。だから、各地の やめ 地名から共通するものを帰納する、といった民俗学的手法を採ることは出来ない。地形との関連も思い浮かばない。これで地名からする「八女」の話はお仕舞いになる。
矢部 は福岡と大分・熊本両県との境、矢部川の源流部にある。やべ は全国に数カ所あるが、この地名の由来もはっきりしない。「矢はぎ部」と関係あるのでないかという処まで来てお仕舞い、その先に続かない。
ところが、八女と矢部、二つの地名となると、そこに面白い関係がある。通常、川の名はその川が流れるご当地の名を被せて呼ばれる。しかし、八女市を流れるのは矢部川である。そして、八女の名の起こりという八女津媛を祀る神社は八女にはなく、矢部川源流の矢部村に有る。これは何故だろう? 結論を言ってしまおう。やめ =やべ だからである。では先ず、八女と矢部の地名、矢部川と八女津媛神社の名の歴史上の由来を確認しておく。 |
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「筑紫平野」は、筑後川西の佐賀県側の「佐賀平野」、福岡県側の耳納山脈北の「北野平野」、南の「南筑平野」からなる。
八女は、「南筑平野」が東の山側に入り込んだ平野部。その東奥の山中、矢部川の源流部が矢部である。
八女の入口北の「久留米」に高良山神籠石、入口南の「瀬高」に女山神籠石、入口中央部に岩戸山古墳がある。 |
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(1) 八女 |
ⅰ. |
八女 の地名は古く、『日本書紀』に登場する。景行天皇が南九州を巡幸し、八女の縣(あがた)までやって来る。ここで山並みを望み、その美しさに打たれ、この山中に八女津媛という女神が居ると聞く。八女の国の名は、その八女津媛に因んで付けられたという。景行天皇の九州東岸の征討と西岸の巡幸説話には、速見(はやみ)の邑(むら)に速津媛がいて、熊の縣に熊津彦がいて、阿蘇都彦・阿蘇都媛が居るから阿蘇の国という、といった類の説話が見られる。八女津媛の八女もその一つである。しかし、実際はいずれも地名が先で、人の名はその地名を被せたものであろうことは言うまでもない。その八女津媛伝説は、『日本書紀』が編纂された時、既に伝えられていた程に古いのである。 |
ⅱ. |
次に、『日本書紀』持統天皇4年9月条に(690年)、大唐の学問僧智宗・義徳・淨願、軍丁(いくさのよほろ)筑紫国の上陽咩(かみつやめ)の郡(こほり)の大伴部博麻、新羅の送使大奈末金高訓等に従いて、筑紫に還至れり、とあり、 |
ⅲ. |
続いて、同じ4年の10月条に、軍丁筑後国の上陽咩 郡の人、大伴部博麻に詔して云々、とある。この690年の時点で、近畿天皇家王朝に律令に基づく国・郡の制度はまだない。ここに出てくる国郡の語は、701年の大宝律令以後の知見によると見られる。ただ、そこで上陽咩というからには、その前段階で既に制度上の陽咩(やめ)の名称があり、これが上陽咩と下陽咩の二つに分かれたであろうことは間違いない。 |
ⅳ. |
900年代に出来た「和名」の辞書・『和名抄』には、上陽咩郡と下陽咩郡の名は見えず、上妻(かみつま)郡・下妻(しもつま)郡となっている。これは、713年の好字令により、上陽咩と下陽咩が、二字名称の好字、上妻と下妻になったと考えられる。そして、この上妻・下妻郡の成立と共に
「やめ」の地名は史上から姿を消す。 |
ⅴ. |
「八女」の名が復活するのは、それから1200年も後のことである。明治に入り廃藩置県の混乱の後、今の領域の福岡県が生まれ、明治29年(1896年)、上妻・下妻郡が統合されて、八女郡が復活する。八女が町の名となるのはそれより更に後、昭和28年の大水害の翌29年(1954年)、福島町を中心とする町村が合併して出来た福島市が、名称変更して八女市になってからである。 |
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(2) 矢部 |
やべ の名が史上に姿を現すのは やめ よりずっと新しい。南北朝時代の1300年代になってからで、当時の文書に、夜部山、矢部・津江両山、上下夜部村の文字が見えるのが最初である。それ以前のいつからやべと呼ばれたかは分からないが、それ以後は、現在まで、矢部村の名が存在し続ける。 |
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(3) 矢部川 |
矢部村では、いくつもの源流が一本に合流する。当然、その本流は矢部川と呼ばれたであろう。しかし、上流から下流まで通して矢部川と呼ばれた訳ではない。黒木(くろぎ)町では、黒木川と呼ばれている。これが江戸時代になると、上流から河口まで右岸が久留米藩、左岸が柳川藩になって、御境川(おさかいがわ)が「通し名」となる。ところが、明治4年(1871年)、廃藩置県で左右両岸ともが三潴縣になり、この川は「境」で無くなる。そこで、「今より、矢部川と相唱え申すべきこと」という県の布達が出され、矢部川が「通し名」となる。もし、八女郡の名がこれより先に復活していたなら、八女川となっていただろう。この川が矢部川と呼ばれなければならない特別の由来も無かったのである。 |
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(4) 八女津媛神社 |
矢部川源流の矢部村の中心部に神の窟(かみのいわや)と呼ばれる字(あざ)名の集落がある。この集落のはずれの急坂を登ると八女津媛神社がある。その祠の横の岸壁に洞窟があり、これが字名の元となった神の窟である。窟(いわや)は高さ4~5m、巾10数m、奥行き6~7mで、岩陰遺跡の感があるが、出土物は伝わっていない。古くから八女津媛に結び付けられており、天照大神が隠れたという天の石窟(いわや)を彷彿とさせるが、それに擬せられたことは無い。八女津媛と卑弥呼との関連が唱えられたことも無いようだ。 |
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『八女津媛神社』は矢部川の源流部にある。『神の窟』は、鳥居の奥、中央部の洞窟。 |
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[ 2 ] 日本語におけるm音とb音の交代 |
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それでは、何故、八女 = 矢部 と言うかを説明させて頂く。「やめ、yame」と「やべ、yabe」の発音の違いは、子音のm音とb音の違いだけである。このように、日本語には「ま行のm音」と「ば行のb音」が入れ替わっても、意味の変わらない言葉が一杯ある。そしてそれらの言葉には、奈良時代から使われていると見られる古い言葉も多い。では、そういった言葉を拾い出してみよう。 |
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(1) 先ず、『日本書紀』と『古事記』を見ると、四つ出てくる。 |
ⅰ.「 とめ、tome 」と「 とべ、tobe 」 |
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いしこりとめ |
(伊斯許理度賣) |
『古』 |
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いしこりとめ |
(石凝姥) |
『紀』神代紀「第7段」一書第一 |
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いしこりとべ |
(石凝戸辺) |
『紀』神代紀「第7段」一書第三 |
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天の石窟(いわや)に天照大神が隠れた時、神々が集まって、どうやって呼び出そうかと算段する。その時、鏡を作る役を仰せ付かった冶工(たくみ)が「いしこりとめ」である。「いしこり(石凝)」とは、「石のように硬く凝り固まる」ことを意味しており、思うに、「良い鏡を造る」という意を、「石のように硬い鏡を造る」という形で表現したのであろう。この「石凝り」に、女性を表す古い言葉の「とめ」、あるいは「とべ」を付けて、匠の名としたのである。「~とめ」と「~とべ」は、「~媛」といったところであろう。 |
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『八女津媛神社』の≪神の窟≫ |
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ⅱ.「 とみ、tomi 」と「 とび、tobi 」 |
『古事記』に言う「登美(とみ)」の那賀須泥毘古の本拠「登美」について、『日本書紀』神武紀には、「鵄(とび)の邑」と号く(なづく)、今「鳥見(とみ)」と云ふ、とある。奈良盆地東南部の三輪山の南に「鳥見山」(とみやま)がある。その鳥見山の北麓、三輪山と向き合う山麓の村を今も「外山(とび)」と言う。ここに前期巨大古墳の桜井の茶臼山古墳がある。私が最初見に行ったのは40年以上前のことであるが、歩いていたらバス停があり、「外山」と書いて「とび」と仮名が振ってあった。今もこのバス停がある。
大分県の南部に、この「とみ」と「とび」の地名が多くあることを大分大学の富来隆さんが調べておられる。富来さんは民俗学的手法を駆使し、両者が同じ意味と理解されている。しかし、私の言う「m音とb音の音韻の入れ替わり」という認識はない。 |
ⅲ.「 ま、ma 」と「 ば、ba 」 |
『記紀』で最も有名な歌と言えば、 |
倭(やまと)は 国のまほらま 畳(たたな)づく 青垣 山籠れる 倭し麗し |
であろう。これは、『書紀』にある歌で、景行天皇が日向に遊んだ時、京都(みやこ)を偲んで歌ったことになっている。『古事記』にも同じ歌があり、こちらは、倭建(やまとたける)が蝦夷を征服した帰り、亡くなる前に国を偲んで歌ったことになっている。『古事記』では『書紀』の「まほらま」が、「まほろば」になる。「まほらま」も、「まほろば」も、歌の意味からすれば、(国の中心)、(国中で一番良い処)という感じになる。初めの「ま」は、(真に)の意味。後ろの「ま」は「間」、「ば」は「場」で、いずれも(処)の意味である。であれば、「ほら」と「ほろ」も同じ意味となろう。私は、「ほら」と「ほろ」は、≪古朝鮮語の「hol」・古満州語の「holo」、(山の谷)の意味≫から転化した語で、(洞穴)の意味となり、それから、(空洞の中)、(真中)、(大事な処)、(良い処)の意味が派生したと考えている。現代語の「ほら」は(洞穴、木に空いた穴)、「ほろ」は(幌)の意に用いられる。
さて、日本人は大陸のh音の語を受け入れるとき、日本語のh音の語としてだけでなく、k音の語としても受け入れている。こうした発音習慣から、≪古朝鮮語・古満州語の「hol」・「holo」≫は、h音の「ほら」・「ほろ」だけでなく、k音の「くら」にも転じたと見られるのである。「ほら」は(自然の洞窟)の意、「くら」は(人工の倉)の意だから、両者には(周囲を物で囲われて中が空洞、そして暗い)という≪共通キー≫がある。ここに両者を同根の語と見る蓋然性が生まれる。
そして、「まほら」に(大事な処)の意味があるように、「まくら」にも、大事な物である(頭)を置く(枕)の意味がある。古語の「まくらへ(頭辺)」は(頭の辺り)の意味だから、「まくら」にも本来、(大事な物)、(頭そのもの)の意味があったと言えるようである。佐賀県の伊万里市では、黒曜石のことを「カラスンマクラ」という。「ン」は格助詞の「ノ」が約まったものだから、この場合の「マクラ」は、文字通り、真っ黒けの「カラス」の真っ黒けの(枕)の意に取れるが、(最高に大事なもの)の意であるとも取れる。黒曜石は縄文時代における(最大の宝)だからである。
「ま」と「ば」に戻る。「ま」は漢字で書けば「間」、「ば」は「場」。「ま」も、「ば」も音読みのように見えるが、どちらも訓読みである。つまり、倭語である。「間」の音読みは、呉音で「ケン」、漢音で「カン」。「場」の音読みは、「ジョウ」。倭語の「ま」は、こことここの間(あいだ)、(このあいだの場所)という意味である。「
まma 」(間)と、「 ばba 」(場)は、≪m音とb音が入れ替わっただけの同じ意味の倭語≫だったのである。もっともこのように捉えるのは私だけで、言語学者の説としては聞いたことがない。 |
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矢部村中心部を流れる≪矢部川≫ |
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ⅳ.「 あむ、amu 」と「 あぶ、abu 」 |
『紀記』に、雄略天皇の同じ歌がある。天皇が狩りに出かけ、床机に座っていると虻が飛んできて腕に喰いつく。すると、「蜻蛉(あきつ)」が飛んできてこの虻を食う〔
蜻蛉は「とんぼ」のこと、「とんぼ」の言葉の方が新しい 〕。そこで天皇は、倭では「蜻蛉」までが天皇の身を案じていると、この「蜻蛉」を誉めた。それから、倭のことを、「蜻蛉島倭(あきづしまやまと)」と言うようになった、というかなり無理のあるお追従の歌なのである。
さて、『古事記』に「あむ(阿牟)amu」とある処、『日本書紀』は本文に「虻」の漢字を使い、歌には「阿武」の万葉仮名を使っている。『日本書紀』も歌は全て万葉仮名で書き、全て漢音で読む。「阿武」の「武」は呉音で「む」、漢音で「ぶ」である。であれば、「阿武」も「虻」も、「あぶ」と読むべきことになる。ここから、「あぶ(虻)abu」を、「あむ(阿牟)amu」とも言ったと分かるのである。
『日本書紀』の歌の原文には「阿武」の漢字が使われているが、『岩波書紀(日本古典文学大系本の「日本書紀」)』は原文の「阿武」の漢字を「虻」に書き換え、この「虻」に「あむ」の仮名を振っている。『岩波書紀』はここで二重の誤りを犯している。原文の漢字の書き換えは誤解を招くし、原文の「阿武」は漢音で「あぶ」としか読まない。
それでは『記紀』の≪m音とb音の交代現象≫について纏める。この現象は、700年代の初頭に編纂された『記紀』の時代から見られる。「~とめ」と「~とべ」の語など、『書紀』の編者も、その本来の語意を忘れているほどに古い、ということである。 |
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(2) 次に、『記紀』に限定せず、古語や、現代語から、≪m音とb音が入れ替っても意味の変わらない言葉≫を拾い出してみる。この≪日本語の音韻現象≫について、先学の研究があるのかどうか、分からない。だから、こういった語を検索しようにもその手立てがない。全て私の記憶から拾い上げたが、小学館『日本国語大辞典』で確認した。なお、同じ語根の語は主用語のみを挙げた。 |
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ⅰ.名詞 |
(皇) |
すめら |
すべら |
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(天皇) |
すめらぎ |
すべらぎ |
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(天皇) |
すめろぎ |
すべろぎ |
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(皇尊) |
すめらみこと |
すべらみこと |
(以上四つとも、天皇のこと〕 |
(皇睦) |
すめむつ |
すべむつ |
〔天皇の親族〕 |
(皇御祖) |
すめみおや |
すべみおや |
〔天皇の祖先、祖母〕 |
(皇御孫) |
すめみまご |
すべみまご |
〔天皇の直系の子孫〕 |
(采女) |
うねめ |
うねベ |
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(蝦夷) |
えみし |
えびす |
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(鸊鷉) |
かいつむり |
かいつぶり |
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(蝸牛) |
かたつむり |
かたつぶり |
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(冠) |
かむり |
かぶり |
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(禿) |
かむろ |
かぶろ |
〔禿げのこと〕 |
(神ろき) |
かむろき |
かぶろき |
〔神様のこと〕 |
(冠) |
こうむり |
こうぶり |
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(侍) |
さむらひ |
さぶらひ |
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(耳目) |
じもく |
じぼく |
〔(じもく)上代~、(じぼく)中世~〕 |
(蝉) |
せみ |
せび |
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(頭) |
つむり |
つぶり |
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(合歓) |
ねむ |
ねぶ |
〔ネムノ木〕 |
(蝮) |
はめ |
はぶ(波浮) |
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(紐) |
ひも |
ひぼ |
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(神籬) |
ひもろぎ |
ひぼろぎ |
〔神様の依り代〕 |
(蛇) |
へみ |
へび |
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以上を整理すると、〔 天皇そのもの、そして天皇の一族、祭祀(さいし)・儀式にかかわる語 〕に見られる。ということは、奈良・平安の社会の最上層部でも、この≪m音とb音の入れ替わった言葉≫を用いていたということである。これも重要なポイントである。(頭)・(禿、はげ)・(蝉)・(蛇)などは、〔 身近な生活に直結する語
〕に分類できる。 |
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ⅱ.形容詞 動詞 他 |
(危ない) |
あむない |
あぶない |
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(煙い) |
けむい |
けぶい |
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(寒い) |
さむい |
さぶい |
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(冷たい) |
つめたい |
つべたい |
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(乏しい) |
ともしい |
とぼしい |
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(眠い) |
ねむい |
ねぶい |
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(浴む) |
あむ |
あぶ |
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(怪しむ) |
あやしむ |
あやしぶ |
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(歩む) |
あゆむ |
あゆぶ |
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(辞む) |
いなむ |
いなぶ |
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(俯く) |
うつむく |
うつぶく |
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(産む) |
うむ |
うぶ |
〔うぶ(初)は名詞、うぶな奴 〕 |
(思ほす) |
おもほす |
おぼほす |
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(傾く) |
かたむく |
かたぶく |
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(軽む) |
かろむ |
かろぶ |
〔軽く見る〕 |
(苦しむ) |
くるしむ |
くるしぶ |
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(叛く) |
そむく |
そぶく |
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(楽しむ) |
たのしむ |
たのしぶ |
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(賜う) |
たまふ |
たばふ |
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(富む) |
とむ |
とぶ |
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(尊む) |
たふとむ |
たふとぶ |
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(戯る) |
たわむる |
たわぶる |
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(瞑る) |
つむる |
つぶる |
〔目、口をつむる、つぶる〕 |
(訪う) |
とむらふ |
とぶらふ |
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(弔う) |
とむらふ |
とぶらふ |
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(灯す) |
ともす |
とぼす |
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(隠る) |
なまる |
なばる |
〔隠れる〕 |
(舐る) |
ねむる |
ねぶる |
〔舐める〕 |
(葬る) |
はふむる |
はふぶる |
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(暫し) |
しまし |
しばし |
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(並て) |
なめて |
なべて |
〔 並(なら)ベて、『紀』盾なめて 〕 |
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以上、〔 身近な、生活に直結する語 〕に見られる。ということは〔 社会の階層に関係なく使われた 〕のであろう。これも重要なポイントである。しかも、〔
現代では使わない古い言葉 〕、(思・おもほす)・(賜・たまふ)・(隠・なまる)などがある。他の言葉のm音とb音の双方の読みとも、〔 奈良・平安・中世の昔から使われている古い言葉
〕ばかりである。これは、『記紀』にも見られた重要なポイントである。なお、m音とb音の一方が、中世以降にしか見られないものも多数ある。
以上の≪m音とb音の音節の入れ替わり≫以外に、日本語でこのように≪音韻が入れ替わる現象≫は、他に無いのではなかろうか。この現象は、≪日本語における特異な音韻現象≫と言っていい。
先に、≪h音とk音の交代するものがある≫ことに触れたが、こちらも日本語の形成期に見られる興味深い現象である。こちらは別途、『洞の海と大倉主』の論文に纏めたので、ここでは割愛する。
以上の実態を明らかに出来たところで、次の問題、というより根本の問題、≪何でこのような現象が起きたのか?≫を考えてみる。 |
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『八女津媛神社』の鳥居を潜って右手にある説明版 |
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[ 3 ] m音とb音交代の原因 |
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(1) 日本人の発音習慣 |
≪江戸っ子は、「ひ」と「し」の区別が出来ない≫と聞く。また、≪東北地方では、「し」と「す」を区別して発音出来ないし、聞き分けることも出来ない≫と聞く。ラジオ・テレビで標準語が普及した現在、変わって来てはいるだろうが、今もこうした傾向の見られることは確かなようだ。
私は、この≪m音とb音の入れ替わり現象≫も、こういった≪発音習慣≫の問題であるように思う。m音のま行(ま、み、む、め、も)の音節と、b音のば行(ば、び、ぶ、べ、ぼ)の音節は、≪合わせている上下の唇を開くときに発音する≫ところは同じである。
しかしそうは言っても、どんなにそそっかしい人でも、「まぬけ」を「ばぬけ」とは言わないし、「ばか」を「まか」とも言わない。日本人はm音とb音をハッキリ区別して発音する。聞き違えたりしない。そして、m音がb音に入れ替わるといっても、全て一様に入れ替わる訳ではない。限られた語にだけ見られる現象である。
ということは、この≪入れ替わり現象≫は、≪日本人の発音習慣≫から来ているのではないことになる。では何故、日本語にこのような現象が見られるのだろうか? |
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(2) 呉音のm音と漢音のb音 |
日本語の漢字の音読みに呉音と漢音がある。この呉音と漢音の最も特徴的な違いが、≪呉音のm音が、漢音ではb音に入れ替わる≫という現象である。
私がいつも利用している漢和辞典は1200頁ばかりの受験生用のものだが(旺文社『漢和辞典』新版、1980年版)、これから、≪呉音のm音が、漢音だとb音に交替する漢字≫をピック・アップしたら、132文字も出てきた。
m音は息が半分鼻に抜けるので鼻音と言い、b音は全部口から出すので、勢いが付いて破裂音になる。中国では、隋・唐代までに、鼻音のm音が無くなり、m音であった漢字の100%が、破裂音のb音になっている。この現象を中国では≪非鼻音化現象≫と言っている。
さて、日本語の場合、子音と母音が一つずつセットになって一つの音節を作り、その音節が組み合わさって一つの言葉を形成する。そして母音は(あ、い、う、え、お)の5音だから、一つの子音が形成する音節の数は5つになる。〔
現代は、や行は「や、ゆ、よ」の3音節、わ行は「わ」の1音節だけになっている。〕
ところが中国語の場合は、漢字一字か、二字以上が熟語になって、一つの言葉を形成する。そして、一つの漢字は語頭の子音(声母と言う)とその後に来る韻母がセットになる。韻母は、単母音であったり、日本語にない二重母音であったり、日本語では子音扱いになるwa行音やya行音であったり、母音にnや、日本語に無いng 音が付いたものであったりする。だから、≪一つの声母とそれに付く韻母とのセット≫は何十種類にもなる。そして語頭の子音(声母)にその子音と相性のいい韻母だけが付くから、それぞれの子音(声母)にくっつく韻母は異なる。そして、≪m音(あるいはb音)の声母にくっつく韻母≫の数は二十近くになる。
私は二十年ばかり前に中国語に挑戦したが、物に出来なかった。どうしても発音が上手く出来なかったのである。母音は日本語のように5音だけではなくて、「あ」と「え」の中間の音などがあったりで、いくらテープを聞いてもその違いが聞き分けられなかった。発音習慣の違いというものは、四十過ぎてからではどうにもならないのだろうと思った。 |
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本論に戻る。≪呉音のm音が、漢音だとb音に交替する漢字≫としてピック・アップした132の漢字の中から、≪呉音・漢音、双方の読みが日本語として定着している漢字≫を拾い出してみた。 |
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呉音 |
漢音 |
呉音 |
漢音 |
(万) |
マン |
バン |
万年、 |
万歳 |
(幕) |
マク |
バク |
天幕、 |
幕府 |
(美) |
ミ |
ビ |
美濃、 |
美人 |
(眉) |
ミ |
ビ |
眉間、 |
白眉 |
(微) |
ミ |
ビ |
微塵、 |
顕微鏡 |
(武) |
ム |
ブ |
武蔵、 |
武士 |
(無) |
ム |
ブ |
無罪、 |
無礼 |
(母) |
モ |
ボ |
雲母、 |
父母 |
(木) |
モク |
ボク |
木目、 |
木刀 |
(目) |
モク |
ボク |
耳目、 |
面目 |
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(3) 呉音と漢音の違いの他の例 |
呉音にはもう一つの鼻音、≪n音≫があり、これが漢音では破裂音の≪d音≫になる。これについても、≪呉音・漢音双方の読みが日本語として定着している漢字≫を拾い出してみる。 |
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呉音 |
漢音 |
呉音 |
漢音 |
(内) |
ナイ |
ダイ |
内外、 |
内裏 |
(男) |
ナン |
ダン |
長男、 |
男女 |
(耳) |
ニ |
ヂ |
眼耳鼻、 |
耳鼻咽喉科 |
(児) |
ニ |
ヂ |
小児、 |
児童 |
(辱) |
ニク |
ヂョク |
忍辱、 |
恥辱 |
(若) |
ニャク |
ヂャク |
老若、 |
若年 |
(女) |
ニョ |
ヂョ |
信女、 |
男女 |
(人) |
ニン |
ヂン |
人間、 |
人事 |
(刃) |
ニン |
ヂン |
刃傷、 |
凶刃 |
(奴) |
ヌ |
ド |
奴婢、 |
奴隷 |
(怒) |
ヌ |
ド |
憤怒、 |
怒号 |
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≪呉音と漢音の違い≫で次に顕著なのが、呉音の濁音が、漢音では清音になる≪濁音の清音化現象≫である。これも例を挙げておく。 |
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呉音 |
漢音 |
呉音 |
漢音 |
(河) |
ガ |
カ |
大河、 |
河川 |
(伎) |
ギ |
キ |
伎学、 |
歌舞伎 |
(神) |
ジン |
シン |
神武、 |
神仏 |
(臣) |
ジン |
シン |
大臣、 |
臣下 |
(大) |
ダイ |
タイ |
大学、 |
大変 |
(台) |
ダイ |
タイ |
台所、 |
台湾 |
(代) |
ダイ |
タイ |
代理、 |
交代 |
(治) |
ヂ |
チ |
明治、 |
統治 |
(土) |
ド |
ト |
土台、 |
土地 |
(敗) |
バイ |
ハイ |
成敗、 |
敗北 |
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この他、呉音・漢音の違いには、≪韻母の母音が変わる例≫が多く見られるが、省略して本論に戻る。 |
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(4) 中国語における南朝音が隋唐の漢音に変化したとする認識 =定説 |
このように、日本語には中国南朝から呉音が、そして隋・唐から漢音が伝わり、それが両方とも今に残っている。ところが、本場の中国では、漢音は残っているが、日本語の呉音の元となった南朝音は残っていない。
私が中国語を勉強したとき、発音はテープを聞いたが、中国人の留学生にも習った。代わりに私は留学生に日本語を教えた訳である。それで、私は中国語の発音に苦労したが、留学生の方は日本語の漢字の読みの多さに参っていた。中国は方言が多い。一説には何千もあると言う。しかし、どの方言も一つの漢字の読みは一つしかないという。ところが日本語は、≪一つの漢字≫の音読みに呉音と漢音があり、唐音、慣用音とあって音読みだけで三つも四つもある。その上に訓読みが幾つもある。留学生は、「それぞれの言葉に使われた漢字をどのように読み分ければいいのか分からない」と言う。だから、「漢字として読むのではなく、言葉としてそれぞれの読みを丸暗記するしかないんだ」と言ってやると、「もう、死にそう」と悲鳴を上げていた。
私の先生は上海出身で、上海の方が北京より経済も商業も発展していて人口が多いと、北京に対して強烈な対抗意識を持っていた。ペーチンレン、北京人と、まるで外国人のように言い、北京人は一カ国語しか話せないが、北京人以外の中国人はみんな二カ国語を話せると北京人をバカにしていた。標準語と方言、方言同士では外国語と同じで、意思の疎通が全く出来ないという。
私も一緒に上海に行き、「豫園」という庭園に入ろうとしたら、料金が外国人と中国人で違っていて、外国人は高い。そこで、私をペーチンレンということにする、北京人は上海語が分からないんだから、あなたは向こうにいて何もしゃべっちゃいけない、ということで、中国人に成り済まそうとしたが、ダメだった。何故だか解らないが、向こうから私を見ていて、皆で、台湾、台湾と言っている。台湾人は外国人である。結局、北京人ではなく台湾人にされて高い料金を取られてしまった。
本論に戻る。呉とは、中国華南の揚子江下流域を言う。中国では、≪南北朝時代に華南の地を支配した南朝で用いられた音韻≫を≪呉音≫と呼ぶ。ところが、この≪南朝音≫、すなわち≪呉音≫は中国に残っていない。そして、〔 中国に≪呉音≫が残っていないのは、これが≪漢音≫に変化したからだ 〕という。この解釈が日中の定説になっている。しかし私はこの定説を支持できない。その私の考えをご理解頂くために、中国の歴史を見て頂きたい。 |
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八女市を流れる『矢部川』 |
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[ 4 ] 南朝音と隋・唐音の違い |
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(1) 中国の歴史 秦漢から隋唐へ |
有史以来、中国の漢民族は北方遊牧民族の侵入の脅威に晒されてきた。秦(B.C.21~210年)の始皇帝が初めて華北・華南の全土を統一したとき、最初に行った仕事は≪万里の長城≫の建設であった。北方の異民族を漢の地に入らせないためである。≪長城の建設≫と、これを維持して≪異民族の侵入を阻止し続ける≫ことは、漢民族にとって膨大なエネルギーを必要とした。しかし、漢民族が華北・華南を独占支配して生き抜くには、この仕事から手を抜くことは出来なかった。この≪北方異民族と漢民族の対立の構図≫が中国の歴史を形成する。北方遊牧民族は長城の北を女房・子供を連れて移動する。移動の最中は、野菜なんかは自分で作る。羊肉だけでは生きていけない。しかし、土地が悪いからちゃんとした農業は出来ない。で、彼らにしてみれば、長城の内側は垂涎の的である。彼らは農業の出来る土地が欲しい、出来れば定住したい。だから侵入すると、農民を殺して土地を奪う。漢民族同士の争いではこうはならない。土地に張り付けられた農民の支配権を争うのであって、農民を殺したりはしない。異民族の侵入の場合はここが違う。
始皇帝が死ぬと漢に変わる。漢大帝国の支配は安定して人口は急激に増え、ピーク6000万人近くに達する。しかしその漢も、北方異民族の匈奴に押されて落ち目に向かう。政権が成熟して安定期に達すると後は落ち目に向かう。そのとき必ず北方の異民族が絡んでいる。中国の歴史はこの繰り返しである。
漢帝国が停滞期に入った処で、政権の実力者王莽が、改革を期待する声を味方につけて実権を握り、新(8~23年)を興す。しかし、圧倒的支持を受けて登場した王莽も、余りに出鱈目な政治を行ったために人口は半減する。
その王莽も殺され、光武帝の後漢(25~220年)に代わる。人口も回復するが、前漢までは戻らぬところで、また落ち目に向かい、黄巾の乱(184年)で事実上消滅する。各地の軍閥が、いずれは自分が皇帝になるんだと税金を懐に収め、後漢の中央政府は収入が無くなり崩壊したのである。〔
近年で言えば、ゴルバチョフのソビエト政府みたいなものである。エリツィンがロシアで独立したら、他の連邦の国も皆独立し、ソビエト政府は税金が入らなくなってたちどころに崩壊した。〕
この間に力を付けたのが黄巾の乱を制圧した軍閥の曹操である。曹操は侵入してきた北方の異民族を自分の部下に組み入れ、土地の所有を許して耕作させ、必要時に自分の軍隊として使った。これが屯田制で、この屯田制によって曹操は力を蓄える。このとき後漢最後の皇帝は有力者を頼って放浪していたが、曹操が見つけて保護し、最大限、大義名分に利用する。曹操が死ぬと、息子の曹丕が仕上げをする。この皇帝(獻帝)から禅譲を受けて魏を興したのである(220~265年)。これを見て、呉、蜀も独立し、三国時代になる。
このとき、戦乱によって疲弊した人口は、漢の最盛時の10分の1の500万人程にまで落ちていたという。魏が半分の250万、呉が残りの3分の2の170万、蜀が3分の1の80万である。漢民族の人口が減ると、北方で対峙する異民族との間の人口バランスが逆転する。国境は見渡す限り無人の荒野となり、そこへ大挙して北方の異民族が侵入して来る。曹氏の魏は、この北方異民族との戦い、漢民族の蜀、呉との戦いの中で、部下の実力者、司馬炎に乗っ取られ、晋に代わる(西晋王朝265~316年)。
晋はやがて全土を統一するが(280年)、北方異民族に圧倒され、30年余で匈奴に倒される(316年滅亡)。難を免れた王室の一族は華南に逃れ、遊牧民に土地を追われた農民も華南に逃れて合流し、東晋王朝(317~420年)を建国する。漢民族不在となった華北には続々と北方異民族の五胡(匈奴・鮮卑・氐・羯・羌)が侵入して来て、土地の争奪戦を繰り広げる。これが五胡十六国時代である(316~439年)。この北方民族大移動の背景には、彼らの居住地の乾燥化、砂漠化があるようだ。彼らは元の土地に住めなくなったのである。
華南では東晋王朝(317~420年)が百年続くが、この百年間、華北では五胡十六国の殺し合いが続く。やがて華南の東晋は部下に乗っ取られて、宋王朝(420~479年)に変わり、華北では鮮卑族の北魏が五胡の統一を果たす(439~534年)。以来、華北では鮮卑族の王朝が北方諸民族を支配し、華南では漢民族の王朝が漢民族を束ね、双方が全国制覇を期して対峙する。この南北対立の時代が南北朝時代と言われ(439~589年)、北朝の隋が南朝の梁を滅ばしてこの対立に終止符を打つ。 |
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中国 大興安嶺『嘎仙洞』 北魏を建国した鮮卑族拓跋部の原住地にある旧墟 |
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(2) 日本の漢字導入の歴史 |
日本はこの南北朝時代、南朝の宋に朝貢し、北朝と交渉を持った形跡はない。そして日本には、南朝の呉音が律令から生活用語にまで入り込んでいる。特に仏教の経典などほぼ呉音で読む。
ところが、中国では589年にその南朝が滅ぼされ、北方異民族の鮮卑から出た隋・唐の王朝が全土を支配する。日本は、『倭の五王』の最後の武王が478年に宋に遣使して以来、中国との国交を断っていたが、隋が中国全土を統一し、強力な統一国家を建設したのを見て、600年に遣隋使を派遣し、続いて遣唐使を派遣して様子を見る。そして、その制度・文化に触れ、その先進性に驚き、これを取り入れようと躍起になる。しかし、隋・唐では、南朝の呉音は消滅しており、漢音でなければ話が通じない。そこで奈良朝政府は、漢音を正音とし、唐から音博士を呼んで、漢音を教育する。そして、漢音をマスターしない者は遣唐使の随員にしない、留学生にも、留学僧にもしないと圧力を懸ける。こうして日本は漢音によって唐の文化・制度を取り入れる、と同時に、社会の上層部は唐に、そして漢音にかぶれていく。
一方、生活レベル、民衆レベル、仏教界では一旦浸透した呉音がそのまま残り、呉音・漢音が並存して現在に至っている。呉音・漢音がどの位の割合で残っているかは計算のしようもないが、呉音の方が多いとも言われている。ここまで呉音が浸透しているということは、その後の遣隋使・遣唐使の派遣による≪漢音での交流≫を考えれば、歴史にこそ残されていないが、南朝との間にもそれに劣らぬ≪呉音での交流≫があったと見なければならない。 |
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(3) 中国 南北朝から隋・唐にかけての歴史 |
日本では呉音と漢音の双方が残ったが、本家本元の中国では≪南朝音、すなわち呉音≫は消えてしまう。だから中国は、≪自国の南朝音≫を≪日本の呉音≫で研究する。そして言語学者は、≪南朝の呉音がなくなって、隋・唐の漢音しか残っていないのは、呉音が漢音に変化したからだ≫と見ている。しかし、前段で見た歴史からすれば、私には≪発音が時間の経過とともにただ変化した≫とは考えられない。そこを明らかにするために、もう少し中国の歴史を見る。
華北では五胡十六国が百年もの間 殺し合いを続け、439年、五胡の一部族鮮卑の北魏が五胡と残存漢民族の全てを統一し、その統一を百年も維持する。その間、北魏皇室の「拓跋」氏は、徹底した漢化策を採り、その一環として、自分の鮮卑の姓「拓跋」 も 漢風の「元」に変える。
そして百年後(534年)、鮮卑族の北魏政権の実力者、宇文泰と高歓が、それぞれ、「元」氏の皇帝を傀儡に立てて西魏(535~557年)と東魏(534~550年)に分裂する。これは、宇文氏と高氏が傀儡の「元」氏の皇帝から禅譲を受けるための準備期間でしかなく、やがてそれぞれが禅譲を受けて北周(557~581年)・北斉(550~577年)に代わる。
さて、北方遊牧民族の鮮卑族の北魏が、次々と華北に侵入してきた北方異民族の五胡を統一したとき(439年)、最初で最大の仕事となったのは、後からやって来る北方異民族を撃退して華北に入れないようにすることであった。北魏は万里の長城の南北に≪鎮≫と称する軍事拠点を幾つも設けて、大軍隊を駐留させる。〔 ≪鎮≫とは「鎮守府」のことで、日本でも旧海軍の佐世保鎮守府を≪佐世鎮≫と呼んでいる。〕
この政策は西魏・北周の宇文氏に引き継がれる。ところが北周の武帝が死に、息子の宣帝が皇帝に就くと、宣帝は直ぐに七歳の息子に譲位する(静帝)。これは皇帝の政務から免れるためであって、自らは天元皇帝と称し、皇后を五人立てて遊び呆ける。で、政治の実権は自ずと実力者で宣帝の筆頭皇后の親である楊堅の許に転がり込む。宣帝が在位二年で死ぬと〔 多分、楊堅に殺されたと思うが 〕、楊堅は直ぐに九才の静帝から禅譲を受けて皇帝に収まり、隋を興す。この楊堅がついに南朝梁を滅ぼし、全土を統一する。
しかし、楊堅の息子の煬帝は≪大運河を建設≫し、≪高句麗に遠征≫して、その負担で民心を失う。ここで李淵が挙兵し、煬帝が部下に殺されるのを見て唐を建国する。隋は大運河を造って滅び、唐はこの大運河のお陰で大発展する。
面白いのは≪西魏・北周の宇文氏≫、≪隋の楊氏≫、≪唐の李氏≫は、皆、鮮卑族で、西魏北境の前線基地の一つ≪武川鎮≫の同僚であったことである。≪北周の初代皇帝宇文學の父宇文泰≫と、≪唐の初代皇帝李淵の祖父李虎≫は≪西魏の柱国大将軍≫である。柱国大将軍とは、国の柱となる大将軍で、6人いる。その下に12人の大将軍がいて、≪隋の初代皇帝楊堅の父楊忠≫は≪西魏の大将軍≫である。≪李淵の母≫と≪楊堅の妻≫は実の姉妹で、≪西魏の柱国大将軍独孤信の娘≫である。みんな≪武川鎮≫での仲間だったのである。
整理すると、北方異民族の五胡は、西晋を倒してから(316年)、十六国時代の100年余 華北で相争い、これを鮮卑族の北魏が統一する(439年)。≪北魏、西魏・東魏、北周・北斉の鮮卑族の皇室≫は150年間 華北を支配し、隋が全土を統一してからは(589年)、≪同じ鮮卑族から出た隋・唐の皇室≫が300年以上中国全土を支配する(907年まで)。つまり、≪鮮卑族の皇室≫が、450年のもの間、中国を支配したのである。一般には、隋が華北から出たことは知られているが、北魏も、西魏・東魏も、北周・北斉も、隋も唐も、その皇室はみーんな鮮卑族だというのは、余り知られていない。 |
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中国 大興安嶺『嘎仙洞』 鮮卑族拓跋部の北魏の原住地にあり、≪石室≫と呼ばれていた。 |
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(4) 漢文化の 担い手 の交代 |
さて、五胡の内の一種族に過ぎない鮮卑が、何でここまでの大仕事が出来たのであろうか? その原動力は、一体どこにあったのだろうか? ずっとここを考えて来たが、一言で言えば、徹底した≪漢化政策≫と、≪民族間の通婚政策≫であったろうと思う。北魏の凄いのは、自分たちの鮮卑語を捨てて、宮廷で中国語以外を話すことを法律で禁止してしまったことである。五胡はそれぞれ独自の≪言語≫を持っていた。が、≪文字≫は持っていなかった。だから、≪五胡≫と≪文化の進んだ漢民族≫の全てを併せ支配するには、≪中国語と漢字≫を採用するという選択肢しかなかったろうと思う。その上に鮮卑は、遊牧民の特徴であった筒袖も禁止して漢服を着用させ、部族それぞれの習俗も捨てさせる。そして、≪通婚を進める≫ため、≪同姓間の結婚≫を法律で禁止する。この≪鮮卑の政策≫があったればこそ、≪華北の言語・習俗の異なる五胡≫を融合することが出来、≪華南の漢民族≫をも呑み込んでしまうことが出来たのである。だから、≪隋・唐による全土の統一≫とは、≪五胡と漢民族の混血による新しい漢民族の国家の誕生≫であったのである。 |
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『嘎仙洞』祝文 北魏『太武帝』はこの祝文で、自らの皇祖先を「可寒(カガン)」と呼ぶ。
「可寒」は遊牧民族の皇帝の称号(可汗、カカン、カーン、ハーン)の最古のもの。 |
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しかし、反面、これは鮮卑ほかの北方遊牧民族にとって見れば、哀しい結末でもある。北魏を建設した太武帝には≪鮮卑の誇り≫があった。エピソードを一つお話しよう。皆さんは最近発見された中国の観光名所≪嘎仙洞(かっせんどう)≫という大洞窟をご存知だろうか? 日本では未だ余り知られていないように思う。
439年に太武帝が北魏を建設すると、首都の平城に周辺の国がお祝いを言いに朝貢して来る。〔このとき、日本の『倭の五王』は北朝の北魏にではなく、南朝の宋に朝貢していた。〕その時、平城の東北2000㎞からやって来た烏洛侯国(戦前の満州)の使者が、その国の西北に≪北魏の先帝の旧墟≫で『石室』と言われる洞窟のあることを報告する。太武帝はもう、先祖のこの『石室』を知らなかったが、喜んで人を派遣し、この洞窟の壁に祝文を刻させる。この事件とその祝文の文章が、魏収(506~572年、北魏・東魏・北斉の人)の『魏書』に記されている。
ということは、この祝文の刻まれた洞窟を発見できれば、鮮卑の原住地が知られることになる。こう考えてその洞窟を探していた内蒙古自治区(旧満州)の考古学者が、ロシアとの国境に近い密林の中にある≪嘎仙洞≫に狙いを付ける。この洞窟は、奥行き90m、幅30m、高さ20数mという巨大なもので、数千人は入れるという。そして、1980年、調査すること11カ月目の夕方、入ってすぐの壁に、差し込んで来た夕日の中、『太平真君』の文字がうっすらと浮かび上がったという。『太平真君』は北魏太武帝が建国したときの年号である。そしてそこに、≪高さ70㎝、幅120㎝、201文字からなる『魏書』にあるとほぼ同文の祝文≫が発見されたのである。 |
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日本で『稲荷山古墳出土の鉄剣』の錆びの中にレントゲンで「獲加多支鹵大王」の金象嵌銘が発見され、百年に一度、いや千年に一度の大発見と騒がれたのが1978年だから、1980年の≪嘎仙洞≫の発見はその二年後のことになる。
日本にも、≪文献≫に記された事物と奇跡の一致を示した≪遺物≫として、従来から
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志賀の島発見の『漢委奴国王』金印〔『後漢書』建武中元2年、「光武賜うに印綬を以てす」の記事に一致〕 |
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石上神宮所蔵の『七支刀』〔『書紀』神功皇后紀52年条の「七枝刀」の記事に一致〕 |
の二つが知られているが、新たに、この『稲荷山鉄剣』銘にある大王の名「わかたける」が、日本古代史学会の定説派により、雄略天皇の固有名「わかたける」に一致するとされたのである。
しかし、実はもう一つある。これはまだ、定説派の学者にも、九州王朝史観の研究者にも知られていない。隅田八幡宮所蔵の『人物画像鏡』銘の「おほと(男弟)」が、『日本書紀』継体天皇の名「おほと(男大迹)」と一致すると証明されたのである。そしてこの発見は、≪「隅田鏡』の「男弟王」の王朝≫こそ、≪『二中歴』に言う「31の古代逸年号」を持った王朝≫であり、と同時に≪『倭の五王』の王朝≫であるという発見に繋がっていく。私は、≪世紀の発見≫ともいうべきこの≪『隅田鏡』銘にかかる発見と、それと『稲荷山鉄剣』銘の関わり≫についてを纏め、2011年7月の久留米大学公開講座で発表させて頂いた。この点については、更に、日本の古代史の研究者の理解を得て行きたいと考えている。本論に戻る。 |
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鮮卑を初めとする五胡は、自分たちの民族の言語を捨て、風俗習慣を捨てて、ひたすら漢人に成り切ろうとした結果、北魏を興した太武帝が持っていた≪自らの民族に対する誇り≫までも失ってしまう。隋の皇室の楊氏と、唐の皇室の李氏は、終には、自分の先祖は漢民族の出であって、鮮卑のような卑しい出ではないと言い張るようになる。征服され、強制されてのことではない。漢民族を征服していながら、自ら進んで征服した漢民族に成り切ろうとした結果なのである。五胡の諸民族がかって用いた言葉は全て消滅し、騎馬で草原を駆け抜けた筒袖の服も習俗もみんな忘れられてしまった。ということは、結局は、鮮卑と北方遊牧民族の方こそが、漢民族の文化に呑み込まれ、征服され、消えてしまったということに他ならない。かっての漢民族は征服され、征服した北方民族と混血させられ、民族は事実上交代した。しかし、≪担い手≫が変わっても、残ったのは≪漢民族の文化≫であった。それはそれでいいのかもしれない。そして、それしかなかったのかもしれない。しかし北方遊牧騎馬民族にとっては、哀しい結末ではなかろうか。 |
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さて、この≪担い手が交代した≫という処に≪今日の私の話のカギ≫がある。長々と中国の歴史をお話したのはそのためである。歴史家も、言語学者も、この歴史の本質を見抜くことが出来なかったのである。
華北の鮮卑ほかの北方異民族は、≪中国語≫を学び取って自分のものにした。≪漢字≫も、≪文法≫も、自分のものにした。しかし、どうしても真似することの出来なかったものがある、≪発音≫である。日本の江戸っ子が、「火消し」を「し消し」と発音して、自分では「ひ消し」と言ったつもりでいるようなもの、東北地方で「す」と発音して、本人は「し」と言ったつもりでいるようなものである。北方の異民族は、漢民族の(マン、マク、ミ、ム)を真似して、その通りに発音しているつもりでいるのに、(バン、バク、ビ、ブ)になってしまう。持って生まれた≪発音の癖≫、これだけはどうしても抜け切れなかったのである。私が四十過ぎて中国語の発音をどうしても真似出来なかったようなものであろう。
だから、≪日本人が呉音として学び取った音韻≫の大元の音韻とは≪漢民族の音韻体系≫であり、≪漢音≫とは≪北方異民族がこれを真似たときの音韻体系≫だったのである。これが≪私の解釈≫である。≪呉音が漢音に変化したのではなかった≫のである。
そして、≪鮮卑の隋、唐王朝≫は全土を支配するのに、≪自分たちの発音≫を力で強制し、数で圧倒して一般化し、この発音こそ中国正統の発音であるとして≪漢音≫と呼んだ。そしてそこに生まれた子供たちは、生まれながらにして漢音の音韻体系を身につけていく。一方、≪元々の漢民族の発音≫は、南方の田舎の呉で用いられていた発音、≪呉音≫であるとして卑しまれ、使われなくなり、消滅する。この≪漢音による中国語を母国語とする混血民族≫は、≪新たな漢民族≫として強大な国家・唐を築き、やがて5000万人の人口を回復して、三百年の繁栄を謳歌する。 |
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(5) 宮崎県椎葉村栂尾で見た証拠 |
それから1,300年後、私は偶然にも、この≪私の解釈≫を正しいとすべき証拠を見た。2009年11月23日、宮崎県椎葉村の標高700mの集落・栂尾(つがお)でのことであった。ここ栂尾では、村を出て行った人、村に残った人たちが、年に一度、栂尾神社に集い、≪三十三番の神楽≫を夜通し奉納する。いま全国で、≪三十三番の神楽≫を伝えているのは、この宮崎県の高千穂と椎葉くらいではなかろうか。私は『久留米地名研究会』の古川清久氏に誘われ、ここ栂尾の神楽に参加させて頂いた。この年も空が白んできて神楽が終わると、宮司さんがお宅で朝食を振る舞って下さった。この食卓でのこと、同席していた宮崎大学グループの中国人留学生が、生「たまご」を見て、「たばこ」と言ったのである。一瞬首をかしげたが、直ぐに「たまご」のことと理解した。彼女は日本に来て、「たまご」と教えられ、自分では「たまご」と言っているつもりなのに、「たばこ」と発音しているのである。これこそが、私の言う、≪隋・唐代までに形成された漢音による中国語を母国語とする混血民族≫、すなわち、≪ここで生まれた新しい漢民族≫の持って生まれた発音習慣なのであり、これが、≪m音からb音への非鼻音化≫現象であり、≪g音からk音への濁音の清音化≫現象なのである。
そして私は、この山里の村、栂尾の皆さんとの触れ合いの中に故郷を感じ、以来、年に一度、この栂尾の≪三十三番の神楽≫に通い続けている。 |
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栂尾神社 『三十三番神楽』 一人舞、二人舞、四人舞、全員の舞と入れ替わり舞われる |
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[ 5 ] 日本語のm音とb音の交代現象 |
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さて、≪中国の呉音と漢音≫が怪しいということで見て来たが、≪日本語のm音とb音の入れ替わり現象≫とはその本質の違うことが分かった。日本人は≪呉音のm音≫も、≪漢音のb音≫もはっきり区別し、双方ともに発音することが出来る。だからこそ、≪m音とb音の交代した語≫が双方ともが残っているのである。しかし、日本に残されたこの現象が、≪中国の呉音と漢音≫に関係がないとは思えない。ではどのように関係し、≪日本語のこの現象≫はどうして生じたのであろうか? 最後の締めに入ろう。
日本が繁栄する強大な国家・唐と出会い、その文化に圧倒されると、日本にどういうことが起きるであろうか。漢音を学ばない限り、もう新生中国唐と接することは出来ないし、日本で出世することも出来ない。となれば、≪日本の最上層部≫、≪権力と文化の最先端≫にいる人たちにとって、呉音はもう古臭いものでしかなくなってくる。(バン、バク、ビ、ブ)としゃべっているうちに、(マン、マク、ミ、ム)の発音はどうにも田舎臭く思えて来る。それに、音博士の先生や、唐からやって来た人たちは、日本語の(ま、み、む、め、も)を発音出来ない。どうしても、(ば、び、ぶ、べ、ぼ)になってしまう。それを真似して、日本語の(ま、み、む、め、も)を、(ば、び、ぶ、べ、ぼ)に変えてしゃべってみる洒落者が現れる。そういう人間がいつの時代にもいるもの、そしてそれがまた新鮮で、ハイカラに聞こえて、結構、受けた。受けなきゃぁ、(すめろぎ、すめらぎ、すめらみこと)までが、(すべろぎ、すべらぎ、すべらみこと)になったりはしない。≪神聖なる至上、天皇の呼び名≫なのだから。そんなこんなで、≪日本語のm音をb音に言い換える≫のが流行になって来る。社会の最上層部でのこの流行は、やがて、社会の末端にまで浸透する。そして、この風潮は、奈良、平安、鎌倉と中世まで続き、≪日本語の一パターン≫として定着する。
≪以上の解釈≫以外に、≪日本語、すなわち倭語に、m音とb音を言い換えた言葉が同居する≫という現象を説明できる解釈があるだろうか? |
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さて、やべ(矢部)である。矢部の名が、記録に現れるのは、1300年代、南朝方の征西将軍宮・懐良親王(かねなが親王)が、矢部川上流の、正に、八女津媛の神の窟の辺りに身を潜めた頃からである。都から九州に逃れて来て、最期はこの最果ての地に身を隠した元貴族たち、彼らには≪b音の言葉≫の方が身についてしまっていたのかもしれない。そして、都を懐かしみ、せめてもの慰みに、この「やめ」の地を「やべ」、と洒落てみたのかもしれない。
ここ「矢部」では、蝉(せみ)も(せび)と言うらしい。 |
(2012.1.12) |
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栂尾神社 三十三番神楽を終えた朝 ≪標高700mにある棚田≫ |
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たつの市 永井正範 |