久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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“博多湾に永尾(エイノオ)地名を発見した”
天ケ岳より芥屋の大門を望む
(写真提供:松尾紘一郎)
福岡市博多区白木原の東(旧大野村)に釜蓋(カマブタ、カマノフタ)という奇妙な地名があります。まず、一般的には理解できない地名の代表格といったところではないでしょうか。
謎解きを始める前に場所を確認しましょう。大野城市大城の大城4交差点から大城山、大城小学校から流れてくる小河川沿いに釜蓋公民館があり、釜蓋というバス停があります。ただ、太宰府一五〇〇〇分の一クラスの道路マップでも釜蓋と表記されているだけで簡単には見つかりません。このため実際には太宰府インターの出口から約四〇〇メートル辺りを探す必要があるでしょう。
 
釜蓋とは何か?
 
大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。
特別な資料でもない限り地名研究では、類型地名を拾い出しその共通点を見つけ出すという方法を取るのですが、実はこの類型地名が言うほどはないのです。目立つ地名としては、開聞岳に近い鹿児島県頴娃町の海岸部に張り出した岬に釜蓋大明神という神社があります。もちろんこの神社も関係があるのですが、これに纏わる話は後に回すとして、まずは、民俗学者谷川健一の『続日本の地名』(岩波新書)から始めましょう。
この本には熊本県の宇土半島に永尾(エイノオ)という土地と永尾神社という奇妙な名の神社があることが書かれています。
不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとするのです。
もちろん日本地名研究所所長であり民俗学柳田国男の弟子に当たる谷川氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。
 
永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。これも尖った岬の地形からきているものでしょう。
この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。
丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。
 
ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。
『続日本の地名』(岩波新書)
熊本県宇城市 永尾神社
>>拡大図
まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますがこの地名が存在する事は実に衝撃的で、良く言われるところの古博多湾というべきものが現実に在り、そこに突き出した岬状の舌状台地をエイの尾と見立てた人々が住み着いたことを示す痕跡地名であると考えるのです。もちろん、釜蓋とは南方系の魚撈民が呼ぶエイであり、同時にこの地名が存在することは、地名の成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。
 
縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。
もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。実は冒頭に芥屋の大門の写真を掲載していますが、まさにこのような地形こそが私が言うところの永尾地名なのです。
このように、釜蓋とはエイを強く意識する人々によってもたらされたものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。
もう一つ分りやすい例をお見せしましょう。
 
天草下島と言えば「五足の靴」で著名ですが、与謝野晶子など五人がパーテルさんに会いに行った大江の天主堂がある旧天草町大江のエリアに釜蓋という岬があるのです。
見るからにエイの尾のような形をしています。
これが、谷川健一氏がいうところの永尾地名だとしても、まず、お叱りは頂かないでしょう。
 
釜蓋地名について
 
「この類型地名が言うほどはないのです。」と前述しましたが、それでも目に付くものを拾い出してみましょう(正確な拾い出しではありませんのでご注意を…)。
当然にも大半が海岸部の地名になります。『日本の島事典』1995年(三交社)によると、
釜蓋地名は日本海側に散見されます。新潟県の上越市や遠く青森県にも拾えますが、現地を確認していないこともありここでは触れません。
ただし、後で分りますが、この程度のものではなく、実に、夥しい数の永尾地名があることが分ってきたのです。恐らく、この地名を各地に残した人々は、それなりの人口を持ち、かなりの移動性を持っていたようなのです。
釜蓋地名 概略
1 釜蓋 釜ケ蓋礁 大野城市瓦田村のうち『江戸元禄国絵図』に釜蓋村、釜蓋原遺跡
2 釜蓋神社 長崎県雲仙市(旧千々石町)、小浜温泉の手前の巨大な砂浜をエイの鰭に見立てた地名
3 釜蓋城 五島 長崎県南松浦郡若松町
4 釜蓋瀬 対馬 長崎県対馬市美津島町
5 釜蓋瀬 対馬 長崎県対馬市峰町
6 釜蓋瀬 岡山県邑久郡牛窓町
釜蓋という地名の見当がついたところで、冒頭に述べた福岡市博多区白木原の東(旧大野村)、釜蓋(カマブタ、カマノフタ)の古い地図を見てみましょう。これは陸軍測量部が作成した地図ですが、これならば都市化で消えた地形がある程度判読できます。

一般的にこのような低地では道は尾根状の微高地に作られますから、釜蓋の中央部を這う道は古代においてもここを通っていたはずです。そして、その先端は古博多湾に伸びたエイの背骨と尾鰭に見えたはずなのです。そして、この地名はここが汀線であった時代に成立したはずで、同時に古博多湾を証明するものでもあるのです。

 
その他の永尾地名について
 
1)酔ノ尾 (鹿児島県いちき串木野市)
国道3号線にあるいちき串木野市
の交差点”酔ノ尾(Enoo)
瀬戸内海沿岸を除く九州一円では、“酔い食らう”事を“エイクラウ”と言う所がかなりあります(エイクロウトットヤロー、エイクローター・・・)。
 鹿児島県のいちき串木野市にも酔ノ尾(エイノオ)という奇妙な地名があるのです。
旧串木野市街を抜けて鹿児島市に向かう国道三号線の交差点に酔ノ尾があることに気付き、直ぐに宇土半島の永尾と同種の地名ではないかと感じました。
条件としては似ています。海岸から五〇〇メートルほどの駆け上がりの場所で、海側には長崎鼻という尖った岬が海に突き出しています。埋立てや漁港修築事業などによって現地の地形は相当に変わっていますが、多分、海から山に這い上がったエイのような形状をしていたのではないかと考えています。
印象としては、湾曲した照島海岸がエイのひれの形を成しているようですので、地形としては合っていると思います。エイの左側は埋立が進んで形状を読めませんが、古地図を探ればこの事はさらに一層鮮明になるでしょう。交差点の名称は付近の地名を持ってくる事もあるため、必ずしも地名の中心地である事を意味しませんが、交差点はエイの尾から背中に向かう場所にあるように思います。
さて、谷川健一が書いていた宇土半島の永尾では、付近のカマンタ山(鎌田山)と関連付けられました。
鹿児島県旧串木野市を通過する三号線の交差点に酔ノ尾がそして付近には袴田も。
この、いちき串木野の酔ノ尾(エイノオ)には、付近に袴田(ハカマダ)という地名があり、カマンタを連想させます。側には酔ノ尾川が流れて長崎鼻の付近に流れ下っています。この流路は交差点の西の袴田に近接して流れていますので、酔ノ尾地名はこちらの方がむしろ中心地の可能性が高いのではないでしょうか。
市史などを探ればもっとはっきりした事が分かるはずですが、この点は今後の課題とさせて頂きます。この薩摩川内市から旧加世田市周辺は、沖縄からさらに南の島々へと繋がる場所ですから、南方系地名があっても決しておかしくない場所です。実は、開聞岳のそばの頴娃(エイ)町のエイも可能性があるのではないかと思っていましたが、決定打がなく悩んでいました。これについては、後日、熊本地名研究会の小崎氏に先行されました(後述)。
永尾(エイノオ)と酔ノ尾(エイノオ)、表記は異なるものの、全く同じ成立過程を持つ地名であることは疑いようがないでしょう。
 
2)釜の尻鼻(カマノシリハナ)
不知火海に浮ぶ鹿児島県獅子島の釜の尻鼻
不知火海(八代海)の南に浮かぶ御所浦島のさらに南、鹿児島県東町獅子島の東海岸に釜の尻鼻という岬があります。私はサーフのキス釣りを好んでやりますが、二十年も前に車を持ち込み、この岬の北側の湯ノ口という入江で尺キスを狙ったことがあります。
ここも良く考えると、永尾、酔ノ尾で紹介した“エイノオ”地名ではないでしょうか。そもそも、鼻は当然ながら岬の意味ですが、尻と鼻という二つの対立するものが並ぶ尻鼻という地名が奇妙で考えていたら思い当たったのです。鼻の両翼には文字通りエイの鰭(ヒレ)に見える湾曲した浜が延びています。つまり、尖った尾を海に降ろして尾根に這い上がったエイの形がエイノオ地名になる訳です。
また、付近の榎実河内(エーノミカワチ)という地名もエイを連想させます。
当然ながら、釜の尻とはカマンタの尻、カマンタ(エイ)の尾なのです。
3、4)エイノ鼻
長崎県佐世保市の佐世保湾の出口と言うか入口に、エイノ鼻という岬があります。これについての説明は全く不要でしょう。地図を見れば一目瞭然ですが、針のような尖った岬の両翼に弧状のエイのヒレのような浜がある典型的な永尾(エイノオ)地形を確認できます。北九十九島の一角である臼の浦の沖にも永ノ島があります。
この永ノ島も一応可能性があると見ています。
5)長崎県諫早市飯盛町江ノ浦=下釜
永尾地名の拾い出し作業を行っていた時、この旧飯盛町江ノ浦=下釜にも気付いていました。ただ、江ノ浦、釜が自然地名でもあり、現地の地形とも一致するところから、保留していたものです。
当然にも周辺調査を行い、現地を踏んだ上で結論を出すべきだからです。
ところが、実際には全く逆で、“百聞は一見にしかず”のたとえどおり、一刻も早く現地を見るべきでした。それほど現地は雄弁であり、その印象も強烈だったのです。
ここは島原半島の付け根というよりも、長崎半島と島原半島が東西にウイングを広げ、南からの大潮流を眉間で受け止める陸塊というべき場所です。そして、その一角の目立たない入江や岬こそが求め続けるものだったのです。
古く、江ノ浦の入江は相当奥まで深く延びていたはずであり、近世になってようやく干拓が行なわれ陸化が進んだことが一見して分かります。
それは現地の古江ノ浦湾の真中に残る“開”という地名によっても明らかです。
諫早周辺には佐賀鍋島藩の親戚筋の領地がかなりあったため、ほぼ、佐賀平野限定の篭(コモリ)、搦(カラミ)地名も多いのですが、“開”は江戸期の佐賀平野以外における一般的な干拓地名です。当然ながらこの干拓が行なわれるまではこの深い入江を漁場とし、また、避退港として、多くの漁澇民が住み着いていたと思われます。現地を訪れると現在でも多くの漁師の家があることに驚かされます。
さて、「飯盛町辞典」というネット上で拾ったサイトの“月の港の干拓” によると、かつて、江ノ浦には「月の港」と呼ばれる港があり、千々石(チジワ)=橘湾の海水が入る奥行き一里の湖のような入江があった。とあります。さらに、
この月の港について「北高来郡誌」は「・・・戦国末期の外国船の渡来が頻繁となり長崎を外国市場と選定するに当り、この月の港も候補地に入ったらしいが、海底浅く、且つ、港口が狭く船の出入りが自由でないために、遂にその選に入らなかった」と記している。
と書かれています。
ここは、ある種現代に忘れられたようなところであり、民俗学的にも非常に面白い興味深い土地です。
ゴロタ石や砂が堆積してできたエイの尾の先端には前島が…
ともあれ、ようやく機会を得て前島に延びる防波堤の上に立つことができました。ここに来ると、これが紛れもないエイの尾であることが分かります。写真と地図を見比べていただければ分かると思いますが、この岬は江ノ浦川から吐き出される土砂と潮流が衝突することによって形成された砂礫の岬と、前島に繋がる不完全な陸繋島(トンボロ)状の離れ瀬の砂洲の上に橋を掛けコンクリートの堤防が造られたものです。
この大型の防波堤が建設される以前は、恐らく砂洲と岬状のエイの尾が前島に延びていたことでしょう。
繰り返しになりますが、当初、江ノ浦=下釜について、当初、“江”は入江であり、“釜”も現地の臼状の地形と一致することから“永尾”地名とは考えていませんでした。今回、現地が入江であったであろうことは確認できましたが、なおも、江ノ浦の“江”は入江であり、釜も現地の臼状の地形と一致するために、永尾地名とは踏み込めなかったのですが、徐々に変わっていました。
そして、現地を見ると未完成のトンボロであることが分かり、これはやはり“エイの尾”であり、エイの裏側にある入江、つまり、エイの浦(エイの尾の裏)が現地の地名の意味であると思うようになったのでした。
さらに、この岬の付け根に下釜(シモガマ)神社があります。これは谷川健一が発見した熊本県宇城市(旧不知火町)の永尾神社の背後地の鎌田山(カマンタ)に対応する呼称に思われるのです。
 当然にも、この下釜神社は言わばエイの背中にあたる集落の高台にあり、まさに尾を振ったエイが山に這い上がった形に見えるのです。
ただ、下釜という地名に多少の疑問も残ります。釜とは平戸に近い長崎県田平町の釜田(ここも永尾地名である可能性は残っています)や長崎県旧小長井町の釜など奥まった入江の有るところにも付される地名です。従って、下釜がカマンタ地名であるとすれば、上釜がなければ辻褄が合いません。私には前島に向かう離れ瀬が上釜で、岬に這い上がっているのが下釜としたいのですが、想像が過ぎるかも知れません。判断は皆さんにお任せしたいと思います。
また、この永尾地名をさらに確信させるものがあります。それは、エイの尾の付け根にある下釜遺蹟の存在です。
諫早市教育委員会による解説を読むと、
・・・古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。これは昭和二年に発見されました。その時には中に人骨が三体あり、一体には石枕がしてあり、一体には貝輪がしてありました。外にもこの横津の岬上の防風林の中にも三基の石棺や石室があります。簡単に四角に石を組んだものが石棺で、この石棺の上に石を積上げて大きくしたものが石室です。・・・
とあります。
尾の付け根には下釜神社があります
私には、「古墳時代(千五百年前ごろ)の石室です。」とするのは間違いで、どう考えても縄文後期から弥生の前期と見たいのですがどうでしょうか?
それはともかく、下釜神社には、現在、不動妙王が祭られ、札所となっています。仏教化によって祭神も進雄神(牛頭天王)となっていますが、進雄神とは筒男命(住吉の神)のようにも思われます。まだ、全く見当が付きません。三月と十一月に祭りがあり、青年が集まり、通夜で老若男女を接待したともいわれますが、どうも北部九州というよりも有明海沿岸の「月待ち神事」のようであり、月の港という名称もそこから来ているようです。この風習も今はなくなったという事ですが、いずれ、この祭りのなごりを探りに行きたいと思っています。
思えば、この地を始めて訪れたのは八、九年前のことでした。その時は、ただ、月の丘温泉(最近造られた温泉センターではあるのですが)という名前と温泉に惹かれて訪ねただけでしたが、恐らくそのことが「月の港」とこの下釜神社の発見に繋がったのです。例え、後発的な地名であれ、それを意識するということは非常に重要なきっかけとなるものです。
さて、解説に「一体には貝輪がしてありました。」(多分二体は夫婦でしょう)とあるように、これが南島のゴホウラ貝などの貝輪とすれば普通は沖縄であり、それだけでも谷川健一氏の沖縄のカマンタとの関係を一層補強するものです。同時に埋葬者自身も南方にルーツを持つようにも思えます。
 
下釜遺蹟の掲示板
南島のゴホウラ貝は、直接持ち込まれた可能性もあり、交易によって南から持ち込まれた可能性もあります。また、持ち込んだものが南方系の海人族なのか北方系(例えば対馬)の海人族だったのかという問題もあります。一般的に隼人などの墓制にこの地下式積石型石棺墓がありますし、対馬にも板状の石を組み上げただけの板式石棺墓が見られます。この地には沖縄方面からエイをトーテムとする人々が住み着いたと思いたいのですが、その長が遺蹟の主だったかどうかはまだ断定できません。
それほど遠い場所ではありませんので、今後ともこの江ノ浦を調査します。
 
最後に蛇足ながら、この江ノ浦の中ほどに江ノ浦神社があることも報告しておきます。
この江ノ浦では砂ならぬ砂利の砂洲が前ノ島まで伸びており、現在は防波堤に変わっています。この江の浦川はかつて大きな湖状の入江だったのです。
6) 江ノ脇(大分県大分市志生木)
大分市の佐賀関半島といえば関アジ、関サバしか頭に浮かばないという知的貧困は置くとして、ここでは、佐賀関からさほど遠くない所にある志生木(シユウキ)の江ノ脇(エーノワキ)という地名をとりあげます。一見、ありふれた、しかし、あまり聞かない小地名ですが、普通なら入江の縁辺りにつくもので、「特別珍しいものではない・・・」などと片付けられてしまいそうです。もちろん、海岸線から五百メートルは入り込んだ場所ですから、その地形から入江の縁という理解が間違いではないようにも思えますが、私はさらに思考の冒険に踏み込むことにしたいと思います。
 
まず、地名調査では現地を踏むことが鉄則とされています。もちろん、想像がなければ全ては始まらないのも道理であり推論それ自体は必要なことなのですが、たいへん有難いことに、現地を踏む機会を得たことから報告することとしたものです。
 
大分市の中心部から大在(オオザイ)、坂ノ市(サカノイチ)、細(ホソ)、神崎(コウザキ)を抜け、佐賀関半島の北岸を東に進むと、未だ、コンクリート構造物に汚されない美しい海岸線が現れ、大志生木、弁天鼻、小志生木という印象的な地名に遭遇します。
江ノ脇は志生木川右岸に位置し多少内陸に入った山裾の小集落ですが、なぜ、この地名が面白いかというと全てはこの地形に関わります。
ここは三つの岬が連続し別府湾に突き出していますが、その岬の間に二つの弧状の砂浜がウイングを広げています。最も美しく明瞭な岬は真中の弁天鼻ですが、想像するにこの尖った岩塊は海の底まで延びているのでしょう。もしかしたらこの岬全体が陥没を起こしたのかも知れませんが、古くはこの岬の両脇は内陸部のかなり奥まで海が入っていたはずで、川から送り出された土砂が川からと海流による運搬力が衝突することによって堆積が進み両方の志生木の平地が生まれたものと考えられるのです。
さて、今般、江ノ脇地名を取上げた理由は、この一帯の地形もある魚の形状に似ているからです。これまで、九州全域でこれに類するものを六、七ケ所ほど採集してきましたが、地形の面からだけで見れば、これほど明瞭なものはないように思います。
 
まず、この江ノ脇(エイノワキ、エーノワキ)がエイの脇であれば、これほど典型的なエイの地形を持った土地はないでしょう。地図を見られればお分かりのように、弁天鼻というエイの尾の両脇には、湾曲した大志生木、小志生木の砂浜がエイのヒレのように広がっています。さらに、エイの背骨が尾根として延びています。江ノ脇はこの本体の脇にある事になり、地形と地名とがピッタリ符合するのです。もちろん、入江の脇と解釈する事も可能でしょうが、山に這い上がったエイの姿にしか見えません。
大志生木 小志生木
志生川右岸の江ノ脇
もう、お分かりになったと思います。弁天鼻がエイの尾であり、江ノ脇とは文字通りエイのヒレ(脇)の内側に当るのであり、この地名が付された時代の波際線を今に伝えるものであったと考えるのです。
本来は地元の伝承や字図を調べるなど付随する調査が必要であり、谷川説の鎌田山のように何らかの傍証が発見できるのではないかとも思うのですが、短時間の調査ではここまでが限界です。詳しくは、山上に鎮座まします武内神社や大志生木小学校の前にある西岡神社の縁起などを調べるべきでしょうが、残念ながら九州脊梁山地の大山塊を越えた遠い異国のことであり届きません。
 
7)先釜蓋、釜蓋(調査中)
これは最近発見したもので、地形は把握しているものの背景調査を行っていません。先釜蓋という地名が古地図に出てきます。現地は天草島原の乱で百姓が篭城した原城の一角なのですが、地形はピッタリします。
今後とも調査を続けます。また、前述の佐賀県の唐津市の江ノ口や平戸口の釜田という地名があるのですがこれもこれからです。
大分市志生木の江ノ脇(昭文社マップル道路地図)
エイノワキ
永尾地名は谷川健一によって提案されたものですが、もしも、彼が発見しなかったとしたら恐らく永遠に気づかないで見過ごしていたことでしょう。
どのように考えてもこの地名はエイを意識する漁民によって付されたものと思います。沖合を航行する船から見れば、あたかもヒレを広げて山に登ったエイがいるように見えるのであり、エイという魚を日常的に意識する南方系の海洋民が持ち込んだ地名と考えるのです。
今日も発見は続いています。五島灘に浮かぶ長崎県の江ノ島は全島がマンタに見えます。江ノ島はエイの島かもしれません。
 
また、鹿児島県の甑島の江石(エイシ)があり、先端には茅牟田崎(カヤムタザキ)があります。エイシ(多分、エイのウシの転化)に住み着いた人々は南から来た人々で、岬の先端をカマンタに見立てたのでしょう。現地の確認のためにも、近々にも憧れの甑島を訪れたいと思います。
茅牟田崎(カヤムタ崎)を見ると、永尾地名の中でも古い地名に思えます。カマブタよりもカヤムタが古いという意味ですが、カマムタが古形で、その後カマブタに変化したのではないでしょうか。それは、全く同意ながら、M音とB音の入れ替わり現象というものが背後で作用しているのです。これについては、九月にも永井正範氏にお話してもらいますので、詳しくは申し上げませんが、日本語にはこのような面白い現象が認められます。
(危ない) (煙い) (淋しい) (寒い) (冷たい) (乏しい) (眠い)
あむない けむい さみしい さむい つめたい ともしい ねむい
あぶない けぶい さびしい さぶい つべたい とぼしい ねぶい
(俯く) (傾く) (瞑る) (灯す) (葬る) (舐る) (隠る) (思ほす) (産む)
うつむく かたむく つむる ともす ほうむる ねむる なまる おもほす うむ
うつぶく かたぶく つぶる とぼす ほうぶる ねぶる なばる おぼほす うぶ
これに従えば、釜蓋(カマブタ)はカマムタでもあるのです。
 
五島灘に浮かぶ江島
 
西海橋の沖、長崎の西彼杵半島の西の海、五島列島との間に浮かぶ絶海の二島、平島、江島(エノシマ)があります。
甑島とともに未踏の島であり、本来は掲載すべきではないのですが、茅牟田崎の下流にあることから可能性のある島として紹介しておきます。今後の踏査により何らかの発見があるかも知れません。もちろん、江島はエイの島と考えています。
西海橋の沖、長崎の西彼杵半島の西の海、五島列島との間に浮かぶ二島、平島、江島(エノシマ)は以前から釣りに行きたいあこがれの島でした。
いずれ、現地の地形を確認したいと考えています。
頴娃町の釜蓋大明神
 
重複しますが、この永尾地名は数年前に熊本地名研究会の小崎達也氏によって大発見とされ日本地名研究所の谷川健一氏にも報告されたものです。
 
頴娃町別府(ビュウ)大川にはイタテツワモノノカミを祀る釜蓋大明神(射楯兵主神社)があります。祭神は素戔鳴命とされますが、両翼に湾曲した入江を従え、南に突き出した鋭い岬の上に射楯兵主神社が置かれています。
ここには“天智天皇と大宮姫が御領の安藤実重中将を訪ねたおり、接待のために何十石もの米を蒸していると、にわかに突風が吹き釜蓋が吹き飛び大川浦に落ちた。人々はこれを拾い竃蓋神社として祀った。”という奇妙な伝承が残されています。この天智天皇と大宮姫がセットで登場するのは鹿児島県だけに色濃く残るいわゆる「大宮姫伝承」ですが、これについては話が拡散するため、ここではふれません(関心をお持ちの方は古田史学の会の公式サイト「新古代学の扉」にアクセスし、内部検索により「大宮姫伝承」を検索して下さい。古賀達也氏外の論文を読むことができます)。 
 
なお、画像はhttp://anko.potika.net/blog/1831.htmlというサイトより無断借用したものです。当方も多くの写真を撮っていますが、このアングルはありませんでしたので、使わせていただきました。
その後、前述した久留米地名研メンバーの永井正範氏(たつの市)と遠路南下し現地を踏みました。
二枚の図面は釜蓋神社(大明神)の付近地図と、別府(薩摩、大隅ではビュウと呼ばれます)地区の字図です。私たちはこれを九州王朝の評制(郡郷以前の行政単位)のなごりと考えていますが、それはともかくも、コンクリート護岸のパラペットが置かれているものの、湾曲した砂浜を確認し、頴娃とは谷川健一が発見した永尾地名であることを確認できました(字図は教委より)。
鳥ケ迫の浜 住吉の浜
 
再び大野城市の釜蓋について
 
釜蓋の解明のために、長々と類型地名をご紹介してきましたが、大野城市の釜蓋が前述したものと何らかの関係があることは、まず、間違いがないように思います。市のホームページによると、この地区の大よその概要がつかめます。瓦田と釜蓋には、四王寺山の中腹からこの釜蓋原一帯は瓦田・釜蓋区の共有林でしたが、昭和51年の特別史跡大野城跡の指定拡張に伴い、標高100メートル以上は大野城市に買い上げられ、残りの釜蓋原一帯は平成元年からの区画整理事業により分譲住宅として開発されました。しかし、大師堂のある土地は周辺の樹木とともに大師堂敷地として残されました。 瓦田と釜蓋(大野城市北部位置図)より
 
区有林の手入れは秋の収穫期または取り入れ後の農閑期を利用して行なわれいましたが(ママ)、この日は山の手入れが終わると夕方から、釜蓋原の大師堂の前で懇親の慰労会が行なわれていました。戦後は個人宅で行なわれるようになっていましたが、大野城跡指定拡張による売却処分後は手入れ作業もなくなり、慰労懇親会もなくなりました。
釜蓋地禄社(拝殿)
ただ、弘法大師の例祭日である四月二十一日には、市外に出ている人や嫁に行った人たちも里帰りして、家族親族一同が久しぶりに顔を合わせて大師堂にお参りし、近所の人々とも旧交を温めています。
 
地禄神社と遥拝所
 
大野村の時代、釜蓋は瓦田に属していました。釜蓋に住んでいる人は御笠川を渡って瓦田の地禄神社で瓦田の人々と宮座を一緒に行なっていました。しかし、距離的に遠いこともあり明治22年に釜蓋に地禄社を遥拝所として建立しました。
 
釜 蓋(カマブタ)
 
この地名を発見し数日後には現地を踏みましたが、集落の中心と思しき釜蓋公民館にはなかなか辿り着けません。大城小学校辺りから流れ下る小河川を頼りになんとか踏むことができました。一目、集落の規模は一目二十戸程度と思えましたが、新興団地はもちろんの事、近世に成立した集落でないことだけは確信を持つことができました。
 
さて、釜蓋集落ですが、現在の道路地図では全く昔の地形が確認できません。ここで、いつもの切り札、明治三十三年の陸軍測量部の地図を見ます。
すると、釜蓋地区は一見水を得難いような尾根に集落を置き、南北の傾斜地において水田稲作を行ってきたことが想像できそうですが(これについては現地での聴き取り調査を行っていないため不正確です)、瓦田の新興農地との関係や利水慣行(水利権)といったものを調べる必要がありそうです。
いずれにせよ、集落の真ん中を通る道はエイの背骨を思わせる釜の取手に相当するところを通り、まさにエイの尾の上に白木原への道が造られています。面白いのは、集落の南に存在するため池が鉾ケ浦池と呼ばれていることです。
 
鉾とはエイの尾に当たる古博多湾に突き出した岬を意味して付された地名であり、これも、ここまで海水(汽水)が入っていた時代に成立した地名であるはずです。ここは、その時代岬の内側に位置するいわば湾奥締切型ため池とも言うべきもので、事実上のエイの鰭に当たるものと思われます。
 
地禄神社
古博多湾(想定)を調べていると、方々で地禄神社に遭遇し、どうもこの古代湾の周りに同種の神社が分布しているように見えます。既に、貝原益軒の筑前国続風土記(宝永六年・1709年)にも地禄天満宮として記述があります。「三百年以上の歴史をもつ古い神社である。鎮座地は博多区堅粕四丁目(旧西堅粕)で、御祭神は埴安彦命と埴安姫命の二神(農業の神様)…」と。
地禄神社は本社、末社の区別などはなく同じ神『埴安命』を祭神としているものの起源は不詳である。
埴安命は、波邇夜須毘古神(はにやすひこのかみ)、埴安神(はにやすのかみ)とも呼ばれ、日本神話にも登場するところの土の神、大地の神として崇め祀られる神であり、地禄とは、大地より与えられる恵、”土地を富ませる”の意味であるとされています。
堅粕地禄神社
福岡市博多区堅粕4-13-4
上牟田地禄神社
福岡市博多区上牟田2-7       付近
竹下地禄神社
福岡市博多区竹下5-8-18
青木地禄神社
福岡市博多区青木1-12/字成岡378  付近
上月隈地禄神社?
福岡市博多区上月隈104       付近
塩原地禄神社
福岡市南区塩原3-2-32
向野地禄神社
福岡市南区向野2-22         付近
三宅地禄神社
福岡市南区大橋4-6            付近
井尻地禄神社
福岡市南区井尻5-5          付近
野芥地禄神社
福岡市早良区野芥2-37         付近
畑詰地禄神社
大野城市仲畑3-10-26
仲畑地禄神社
大野城市仲畑4-12-3
釜蓋地禄神社
大野城市大城4-32          付近
瓦田地禄神社
大野城市瓦田3-2             付近
周辺調査は今後とも続きますが、大野城市の釜蓋には紀元前後どころか、稲作が始められる頃、つまり、今から三千年前辺りには既に釜蓋には南方系の海人族とでもいうべき人々が住み着いていたのではないかと思えるのです。近くには甕棺による墓を大量に造る人々(恐らく揚子江流域からの稲作民)も後から入り共存しているように思えます。
 現在、釜蓋に住む人々がそのまま古代にまで繋がっているかはもちろん不明です。しかし、誤解を恐れずに試論を提出するならば、ある時代、この地には古博多湾とも言うべき浅海が広がり、釜蓋には、釜蓋、つまり、エイを奉祭する人々、民族集団が住み着いていたのではないかと考えるのです。そして、これまた、仮説に仮説を重ねる砂上楼閣ではありますが、地禄神社はどうもこの古博多湾の波際線に並んでいるように思えるのです。
 今回、多くの釜蓋地名を見ることによって、多くのことが推定できるようになりました。一つはこの地名が大半海岸部に位置し、海に向かって岬状の陸塊が伸びていること。
カマンタ、カマムタ、カヤムタ、カマタ、そして、恐らくハマンタも、それに、エイノオを始めとして一群のエイノオ地名、これらの地名の一部なのです。
これまで全く光が当てられてこなかった大野城市の釜蓋という小さな地名だけでもこれほどの広がりとふくらみのあることが分ってきました。
今回の報告は、まだ、中間報告程度のものですが、実は、副産物として、さらにすごいことが分ってきました。これについては、いずれ、別稿「Manta」として報告したいと考えています。ただ、その一部をご紹介しておきたいと思います。
その前に、もう一つ見た目で分かる大都市の永尾地名をお知らせします。
編集の都合で、次のページは、冒頭の博多区白木原の釜蓋地区の陸軍測量部地図を載せています。
古博多湾に突き出したエイの尾(カマンタ)釜蓋の地形がお分かりになると思います。
まだ、お疑いの向きには、古博多湾の中にもう一つ分かりやすい例がありますのでお知らせしたいと思います。
次の「都市高速から見える福岡東区の永尾地名」を御覧下さい。

一般的にこのような低地では道は尾根状の微高地に作られますから、釜蓋の中央部を這う道は古代においてもここを通っていたはずです。そして、その先端は古博多湾に伸びたエイの背骨と尾鰭に見えたはずなのです。そして、この地名はここが汀線であった時代に成立したはずで、同時に古博多湾を証明するものでもあるのです。

 
都市高速から見える福岡東区の永尾地名
 
太宰府地名研究会を始めた、第二回目にこの「釜蓋」の実験稿を発表しました。
その際、数日前にメンバーのY氏から「これも永尾地名ではないか」と言われ、可能性を告げていたのが、多々良川筋の江辻(エイノツジ)と蒲田(カマンタ)でした。
その後、現地を踏みましたが、エイとカマタがセットで在ることなど永尾地名に間違いないようです。四十人ほどの会場において、今は太宰府に参加されている某女性メンバーから、「あの一帯は重要な考古学的遺物がたくさん出るところなのに、それだけで判断されるのですか?・・・・」と批判されました。金隅遺跡を始め周辺を少しずつ見てはいましたが、南方系の海洋民が付けた地名と考えており、正論ではありますが、地名研究というものは、民俗学的知見そのものに頼るもので、必ずしも発掘によってどのような人々が住み着いていたのかということは容易には判断できません。地名研究は歴史学とは異なり、文献や高価な遺物では見えてこない民衆が残した地名の成立背景を探るものです。
ここでは、漁師といったものにはとどまらぬ漂泊通商民が残した地名と考えています。古墳、鉄剣、鏡・・・といったものから、支配的な権力を握った氏族の存在を探求する現在の穴掘り考古学の成果によっては到達できないでしょう。物資移送などを生業としていた人々が残したものは、一時的な生活址はあるも、ほぼ、めぼしい物は出ない上に、仮に古代の船着場跡が見つかっても、このような集団を探る手助けにはならないでしょう。
地名研究は何よりもフィールド・ワークによる帰納演繹が中心になります。考古学的観点からは日本海岸の潟湖に繋がる地域であったかどうかは気に留めておきたいと思います。
 ここでは明治の陸軍測量部の地図を見て、二つの集落と二箇所の河川邂逅部がエイの尾に見立てられていることはお分かりいただけたのではないでしょうか?
このように、海岸ばかりではなく、河川においても合流部にエイの尾に見える地形が形成され、エイノオ(永尾)、カマンタ(釜蓋)という地名ができることになるのです。
ここまで考えてくると、後に、『日本書紀』に「可愛」と書かれ「エノー」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。
 お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼ぶようになったのです。そうです、「可愛」も永尾地名なのです。では、可愛を紹介します。
合流する向かいに可愛山陵がある。鹿児島県さつま川内市 
時に、地名は権力によっても強制されますが、実際に流通しなければ意味がないことから、最終的には民衆によって付されることになります。このことから、考古学的遺物では判断できないものが多く、代わりに数多くの地名を拾い上げ判断して行く必要があります。
問題はサンプリングが非常に難しいのです。
全国の字名が消え、地形が変わり、場所もどこだったかが全く分らなくなりつつあるのですが、その際、手掛かりになるのが、明治三十三年の陸軍測量部地図ですが、もう一つ役に立つのが、上記の「明治十五年全国小字調」です。
ここには、古代からあまり動かなかったと思われる、小字が化石として残されています。
帰納演繹の精度をあげるために、これを使うことは十分に可能で、これのデータ・ベース化が望まれるところです。
 
一例ですが、遠賀郡の海岸部、波津の小字に「釜蓋」があることが分ります。これを、北部九州の海岸地帯を中心に、ある程度拾い出しを行なっています。
九州古代史の会のメンバーで、本稿のトップ画面の芥屋の大門の写真を使わせていただいた松尾紘一郎さんに「釜蓋」の改訂前の全文をお送りしたところ、自らお調べになり、コピーをお送りいただきました。もちろんこの調査資料の存在は以前から知っていましたが、このような特殊な地名がおいそれと拾えるとは考えていなかったのです。
ところが、普通に存在する地名であることが分かったのでした。改めて松尾氏にはお礼を申し上げます。
 
これを見ると多少面白いことが目に付きます。玖珠郡はもちろん山間部ですが、豊後森の森家は牙を抜かれた瀬戸内の海賊の頭目ですから分かるとしても、阿蘇産山の田尻は気になります。ご存知の通り、「井」(イ、イイ)という姓の方が集中する地区ですが、現地調査が必要です。また、佐賀県にはないと思っていましたが、やはり松浦一帯にはあったのです。やはり、大字だけでは分からないものです。以下、作業中の一葉のみ掲載します。
明治十五年全国小字調から 

市郡

町村

大字

小字

読み

メモ

C

佐賀県

東松浦

玄海町

普恩寺村

釜蓋

カマフタ

 

1

佐賀県

東松浦

玄海町

今村

釜蓋

カマフタ

 

2

佐賀県

唐津市

相知町

千束村

釜蓋

カマフタ

 

3

大分県

 

玖珠郡

山田村

釜蓋

カマブタ

 

4

長崎県

平戸市

 

河内町

釜蓋

カマフタ

 

5

長崎県

島原市

吾妻町

 

釜蓋

カマブタ

 

6

福岡県

北九州市

門司区

松ケ江

釜蓋

 

7

福岡県

北九州市

小倉南区

曽根

釜蓋

カマブタ

葛原

8

福岡県

北九州市

小倉南区

曾根

釜蓋

 

曾根西朽網

9

福岡県

北九州市

小倉南区

曾根

釜蓋

 

オワライ井手曾根東朽網

10

福岡県

北九州市

小倉南区

曾根

釜蓋

 

曾根東朽網

11

福岡県

北九州市

門司区

松ケ江

釜蓋

 

恒見

12

福岡県

北九州市

小倉南区

東谷

釜蓋

 

新道寺

13

福岡県

北九州市

小倉南区

西谷

釜蓋

 

合馬村

14

福岡県

北九州市

小倉南区

中谷

釜蓋

 

高津尾

15

福岡県

北九州市

小倉南区

西谷

釜蓋

 

吉兼

16

福岡県

旧御原郡

 

御原郡

上栄尾

 

二森(栄は旧字)

17

福岡県

旧御原郡

 

御原郡

下栄尾

 

二森(栄は旧字)

18

熊本県

葦北郡

芦北町

高岡

江ノ尾

 

山奥の集落

19

熊本県

荒尾市

川登

 

釜蓋

 

 

20

熊本県

阿蘇郡

産山村

田尻

上釜蓋

 

阿蘇外輪山の外

21

熊本県

阿蘇郡

産山村

田尻

中釜蓋

 

阿蘇外輪山の外

22

熊本県

阿蘇郡

産山村

田尻

下釜蓋

 

阿蘇外輪山の外

23

長崎県

平戸市

木ケ津町

 

釜蓋

カマフタ

 

24

長崎県

松浦市

上亀免

 

釜蓋

カマブタ

 

25

長崎県

国見町

西里名

 

東釜蓋

ヒガシカマブタ

 

26

長崎県

千々石町

野田名戊

 

城山

シロヤマ

釜蓋城

27

長崎県

壱岐市

国分本村触

 

釜蓋

カマフタ

 

28

福岡県

 

二丈町

鹿家

エイソウ

 

エイノウ誤植? 郷土の歴史にも

 

佐賀県

東松浦郡

肥前町

京泊浦

カマブタ

 

 

 

福岡県

遠賀郡

岡垣町

波津

釜蓋

 

 

 

福岡県

福岡市

早良区

永ノ尾

エイ

 

 

福岡県

糸島市

 

桜井

エイ

 

 

福岡県

糸島市

 

桜井

永浦

エイウラ?

 

 

福岡県

糸島市

 

桜井

鎌田

カマダ

 

 

福岡県

糸島市

 

桜井

永ノ脇

エイノワキ

 

 

福岡県

春日市

 

須久

永田

エイダ

 

 

中間市

 

 

中間

釜蓋

ブタ

 

 

福岡県

北九州市

八幡西区

穴生

釜蓋

フタ

 

 

福岡県

北九州市

八幡西区

尾倉

釜蓋

ブタ

 

 

福岡県

北九州市

若松区

藤木

鎌牟田

ムタ

 

 

福岡県

宗像市

 

野坂

釜フタ

 

 

 

福岡県

田川郡

香春町

仲津原

釜蓋

 

 

 

福岡県

田川郡

香春町

柿下

釜蓋

 

 

 

福岡県

田川市

赤村

 

釜蓋

フタ

 

 

福岡県

嘉穂郡

頴田町

佐興

釜牟田

 

 

 

福岡県

福岡市

南区

屋形原

榮ノ尾

エイ

続く

 

 
Manta(マンタ)
 
釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ・・・といった地名をネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。
南米エクアドルにマンタという大都市があった
マンタ(Manta)の地形はどう見てもエイの尾に見えるのですが…
エクアドルは南米の太平洋岸に位置しコロンビアとペルーに挟まれた赤道直下の国(エクアドールの意味もこれからきています)ですが、この海岸にManta(マンタ)という人口18万人の大都市があります。形状を見ていただければお分かりのように、まさに海に突き出したエイの尾のような地形が鮮明に確認できます。
 
エクアドルでは縄文土器と瓜二つの土器がバルビディア地方で発見されており(故エバンス博士)、大量の甕棺墓までが確認されているのですが、いまだ学会では無視され続けています。
今回の発見はこの学説を裏付けるものになりそうですが、スペイン語には布団やマントを意味するmantaという単語もあります(主としてコロンビア)。
また、怪傑ソロやバットマンが着るマントも何やらエイの形に似ていることから、このエクアドルのマンタ-シウダット(市)が倭人(縄文人)によってもたらされた地名か、大航海時代以降の地名かが問題になるところです。以下はスペイン語に堪能で会話が可能な古田史学の会の大下事務局長からのものです。私も多少はやりますがさすがです。
■01
西-西辞典を見ていたら、"Manta"という項目にエイの意味がありません。エイは”Raya"という単語でした。英語の”Manta ray”と同じです。
"Raya"はMax 2mぐらいの大きさにしかならないエイです。
その他インターネットに、"Manta Raya"は9mほどの大きさになるのもあって、"Raya”とはちがうものだとありました。
 ポルトガル語は”Jamanta”です。カマンタに似ていますね。
 旧大阪外語大(今は阪大の外国語学部)の図書館が箕面にあって、近いので行って詳しいこと調べてきます。                          大下隆司
先日吹田市の大阪大学外国語学部(もと大阪外語大)と国立民族学博物館の図書館でマンタのことについて各国語の辞書を調べてきました。
1) ポルトガル語
Jamanta  (女) イトマキエイ 
(男) ①(服装などが)だらしない人
②室内用のハキ物
③キャリア・カー
2) 西語→タガロ語
manta(西語) kumot, balabal
西語の場合、manta が魚を意味するのか、衣類を意味するのか不明。
(タガログ語→英語辞典で確認する必要ある)
3) 英語→Camoro語
manta ray afula, fanihen tasi.
4) 英語→Ponape語
manta ray penwehwe
5) 英語Marshallese語
manta(great devilfish) boraan.
いずれも、マンタ、エイとは違ったひびきでした。外語の図書館はたいした本はないのですが、民博にはいっぱいあります。次回は一日かけて詳しく調べます。
大下隆司
各国語について調べ始めました。途中経過ですが添付します。
魚の”マンタ”と衣類の”マント”は語源が違うような気がしてきました。
ラテン語、ポルトガル語なども詳しく調べてみます。
昨日はちょうどオランダ人の友人が泊まりに来ていたので、マンタの語源を調べて欲しいとたのんでおきました。今朝早く出発したのでグッドタイミングでした。
カマブタのCD受領。以前もらっていた”永尾”と合わせて詳しく勉強してみます。
またエクアドルのほうにも現地語ではどのように呼んでいるのか聞いてみます。
大下隆司
■02
マンタはスペイン人が到達したときはJocayと呼ばれていたことがわかり、Jocayを調べたら下記が出てきました。BC3000年ごろから人が住み始めAD1200年頃までは Manta Indian の 首都だったとのことです。曽畑土器をもった人たちのバルディビアへの移動、弥生の甕棺の出土した地域・時期が重なります。ペルー古代のモチェ人もマンタを信仰していたようです。今夜はエクアドルの関係者との飲み会です。ここでも聞いてきます。
これから「Manta Indian」の追跡です。
1) スペイン語辞書
a)スペイン 王立アカデミア発行の辞書にはマンタ=魚のエイの意味はありません。
b)白水社の西和ではコロンビアで使われているとして魚のエイの意味があります。
2) ブリタニカ百科辞書 Manta、ecuadorが載っています。
■03
インターネットにPueblo Mantaを見つけました。現在の居住区域はマンタ市を含むマナビ県。言語はすでに失われていてスペイン語を話す。
エクアドルでは少数民族の研究が進んでいるので、マンタ語の調査が可能かもしれません。
すごい話になってきそうですね。 
大下隆司
Jocay
from the Encyclopadia Britannica
port city, western Ecuador, on the Bahia (bay) de Manta. Originally known as Jocay ("Golden Doors"), it was inhabited by 3000 bc and was a Manta Indian capital by ad 1200. Under Spanish rule it was renamed Manta and was reorganized by the conquistador Francisco Pancheco in 1535. In 1565 families from Portoviejo were moved to the town, which was again renamed San Pablo de Manta (officially Manta in 1965). A commercial centre once known primarily for the export of Panama hats, it now ships coffee, cacao (source of cocoa beans), bananas, cotton, textiles, and fish. Deep-sea ... (100 of 151 words)
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/362893/Manta
古川さんの直感はすごいですね。 大下隆司
PUEBLO MANTA WANCAVILKA Idioma
Castellano
Ubicacion. territorialidad Geopolitica
Se encuentran ubicados en la Costa sur del Ecuador, en la Peninsula de Santa
Elena, en las provincias de Manabi y Guayas. En Manabi, cantones Portoviejo,
Jipijapa, Manta, Montecristi, 24 de Mayo y Puerto Lopez; y en Guayas,
cantones Santa Elena, Playas y Guayaquil.
Territorio/Tierras - Legalizacion
En 1982 el Estado les entrego los titulos de propiedad de las tierras, en la
provincia del Guayas, en una extension de 515 965,38 has.
Organizacion sociopolitica
Su poblacion aproximada es de 168 724 habitantes, organizada en alrededor
de 318 comunidades. Segun las estimaciones actuales del CODENPE son
Pueblo Manta 68.724 habitantes y Pueblo Wankavilca 100.000 habitantes
en Ecuador1.
El 40% se encuentra distribuida en 239 comunidades (recintos), ubicadas en el
sur de la Provincia de Manabi, en 21 parroquias de los cantones Portoviejo,
Jipijapa, Manta, Montecristi, 24 de Mayo y Puerto Lopez. El otro 60% de la
poblacion se encuentra distribuido en 79 comunas ubicadas en la Peninsula de
Santa Elena de la Provincia del Guayas, en 10 parroquias de los cantones de
Santa Elena, Simon Bolivar (Julio Moreno), Playas y parte de Guayaquil.
1 PLANES DE DESARROLLO LOCAL. PROYECTO PRODEPINE - CODENPE, 2001- 2003…
 
(資料)
縄文人は優れた海洋航海民族であった(日本・エクアドル交流説)
 1960年エクアドル・グアヤキル市の市長でもあり、考古学に造詣の深かったエミリオ・エストラダ氏は、エクアドル太平洋岸のバルディビアから出土する土器と、日本の「縄文土器」との相似性に着目して、アメリカのスミソニアン博物館のエヴァンズ・メガース夫妻に送り調査への協力をもとめた。夫妻はこれを正面から受け止め、エストラダ氏からの遺物や情報に接するや、ただちに日本に飛び、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島~エクアドル」間の縄文伝播という前人未到の新学説を樹立した。
 その学説は1965年にスミソニアン博物館学術報告書に『エクアドル沿岸部の早期形成時代-バルディビアとマチャリラ期』として世界に発信された。
 この「太平洋における文化の伝播説」はその後、各方面における研究成果により進展を見せた。このことは古田武彦氏の『海の古代史』原書房1996年,に次のように記述されている。
『海の古代史』より
 1995年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証からさかのぼってみよう。 第一は、「HTLV1(ローマ字)型の論証」である。1994年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。
 それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV1(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。
 
 第二は、「寄生虫の論証」である。1980年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アウラージョ博士等による共同報告である。
 それによると、南米の北・中部に分布するモンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。
この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジャー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。
従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。
 その放射能測定値は、はじめ「3500年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、1995年、わたしの手元に到着した、アウラージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期-弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文もふくんでいるから、今後、各専門家の手によってより詳細に確認したいと思う。
 いずれにせよ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。
 
 第三は、「三国志の論証」である。1971年、『「邪馬台国」はなかった』によって明らかとされた。「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。古田氏は魏志倭人伝に描かれているこの南米における倭人の国についてさらに詳しく述べている。
 わたしを導いたのは、学問の方法だった。“ただ、三国志の著者、陳寿の指し示すところに従う”この方法であった。その結果「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を“博多湾岸とその周辺”へと指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった。
『「邪馬台国」はなかった』参照、朝日文庫1971
 それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、真面目にとりあげようとしなかった二国“「裸国と黒歯国」が、南米西海岸北半部、エクアドル、ペルーの地にあり”、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。
 陳寿によれば“女王国の東、千里にして「倭種」あり”という。一里は、約77メートル(当時は“75メートルと90メートルの間。75メートルに近い”とした)の「短里」だから、関門海峡以東が「倭種」。その“「倭種」の南に「侏儒国」がある”という。
女王国の東南にあたる。 その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、里程は、関門海峡からは“残り”三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。
 その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。 「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」 わたしは倭人伝の「年数」について、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。
ところが、「太平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島
-サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上にたどれば--その結果がエクアドル、ペルーだった。
 わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。 第四は、無論、エヴァンズ説(1965)「縄文土器の伝播」だ。エストラダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。
 以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、30年たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の「学際的裏付け」をえたのである。 この一点が重要である。
 すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学(寄生虫)、日本の医学(ウイルス)と各別である。
 1995年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書(『「邪馬台国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防衛生研究所における学会の会場脇でお会いした)。
 にもかかわらず、四者の学問研究の“指示した”ところは、一致した。
 もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。
 すなわち、 「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」の存在である。
「La-Balsa」より
 
エイは日本語か?
 
Whai
whai(noun) stingray, Dasyatis thetidis and Dasyatis brevicaudatus - bottom-dwelling marine rays with flattened, diamond-shaped bodies and long, poisonous, serrated spines at the base of the tail; rough skate, Raja nasuta - light brown skate, mottled and spotted with dark brown. Diamond-shaped body with broad, spiny tail.
グーグルでmaori dicthionary を検索してray をサーチすると → マオリ語のwhai が出ます。英語のエイ(ray)はマオリ語ではエイに近接した言葉であることが分かります。
辞書の記述内容は、学名から始まり長い毒のある尾のことなどエイ生態が書かかれています。少なくともニュージーランドの少数民族であるマオリ族はエイのことをwhai と発音しているのです。水族館でマオリの人と一緒にエイを見ても、「ウワイ」とか「ウエイ」とか発音するわけであり、日本語の「エイ」はポリネシアからの外来語である可能性は十分にありそうです。
中国語のエイは 魚偏+遥の造りの部分 となりますが、時代も上古音(~後漢)ヤゥ 中古音(ギ~宋)イェゥ 近代(明~清)ヤオ、現代(中華民国~)ヤオ 呉方言イア゛湖南ヤオ 河南イェウ 客語ヤオ 広東ユウ 福建東イェゥ 福建南・台湾ヤオ   (山田)
出典は『古今漢字音表』1999年中華書局 国際発音記号でかいてあるが、勝手に似たカタカナにしました。
現代音発音ピンインも、現実の音とずれてるし、エイというさかなの文語表記は、1ゑゐ 2ゑい 3ゑひ 4えい 5えゐ 6えひ のうちどれかしら。未確認なのごめん。
キチンとしたエイの音の漢字は見あたらず、北京方言の、感嘆詞のエイ【口偏に埃の旁】ei声調は軽声、くらい疑義の間投詞につかうときは上がり、注意を促すときは下がり、軽く短く発音。
賊ゼイZei上がる二声、涙レイLei四声入声(急に下がる)仄、ウェイ委、偉、為、偽、巍、唯など沢山、Wei、声調色々など、頭に子音を伴うのはあるが。魚偏のがないから現代音と音韻と声調が同じの、遥の旁を共有する数個の字を調べた。
謡遥揺瑶など。特に異同は無いからだいじょうぶでしょう。
(久留米地名研メンバー山田女史/武蔵野市によるアドバイス)
仮に、Mantaがスペイン語ではなく海人族が使っていた言葉とした場合、中国大陸の沿海部が気になってきました。
当会にはスペイン語、英語はもとより、中国語、朝鮮語にも対応できるスタッフが揃っていますのでメールや電話を一本打つと、直ぐに色々な情報が集まってきます。
武雄市 古川 清久
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