久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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九州限定の奇妙な地名
佐賀県の吉野ヶ里遺蹟はどなたも良くご存知ですが、その西側に南へと流れる清流があります。現在、この川に必要性の全くないダムが建設されているのですが、このダムの名称が全国的には読めないものであったという話があります。
もちろん?九州の人は場合によっては原をハル、バルと読む場合があることを経験的に理解しているのですが、外部の人には非常に驚くことなのです。
 
つまり、“原をハル、バルと読む場合がある”という法則性は全国的には全く通用しないのです。
この小論を読まれるのは通常、筑後、肥後方面の方でしょうが、久留米周辺にも「原」と書き、「ハル」(バル)と読む地名が数多くあります。
一応、分かりやすい例をあげていくつかあげておきますが、まずは、福岡県の近いところから、筑紫野市の春日原(カスガバル)、原田(ハルダ)、塔原(トウノハル)、福岡市の屋形原(ヤカタバル)、佐賀県では中原(ナカバル)、目達原(メタバル)、熊本県では有名なところで田原坂…等々となります。
さて、城原川に似た例で全国的にもインパクトがあった話があります。それは佐賀県の辺鄙なダムの名前などではなく、“そのまんま東”こと東国原宮崎県知事の“ヒガシコクバル”という姓名であったことは言うまでもありません。
 
当然ながら地名ではなく人名ですが、出身地である都城市周辺(氏は三股町の出身)に直接に東国原(ヒガシコクバル)と呼ばれる地名があるのかも知れません(小字レベルでは未確認)。
もちろん、なぜ、全国的に彼の名前がこれほど注目されたかと言えば、九州以外ではハル、バルと読むことが全くないからです。これについては、九州の内部に住んでいるとほとんど気付きません(同じように古賀という姓や地名もなぜか全国的には非常に少ないものですが…)。 
 
もしも、疑問をお持ちならば、本州で原と書いて“バル”と呼ぶ(読む)地名を考えてみてください。恐らく徒労に帰すことでしょう。安達ケ原(アダチガハラ)も関ヶ原(セキガハラ)も青木ケ原(アオキガハラ)も南方熊楠が走り回った大台ケ原も相模原(サガミハラ)も全てハラなのです。実にこの一事を持ってしても驚くのですが、その基底に何らかの民族、氏族、部族、種族の違いといったものが介在し大きく作用しているのではないかと考えてしまいます。ただし、沖縄のバル地名はヤムバル・クイナのヤンバルだけでもお分かりでしょうから、沖縄が九州と同様の傾向を持っていることに異論を持たれる方はないでしょう。もちろん、このことから直ちに南方起源であることを示しているとは言えないようにも思います。
原と書き、「ハル」または「バル」と読む地名としてはいますが、正確に表現すれば、実は全く異なるものが、たまたま、同じ原という文字で表記されていると考えるべきもののように思います。
まずは、以前、城原川ダムについて書いた事がありますので、多少、内容に重複がありますが、この一文から話を始めることにしましょう。
”じょうばるがわ”という呼称について
城原川と書いて「じょうばるがわ」と読みます。まず、「原」は当然ながら“腹”“孕む”“張る”などと関係がある言葉ですが、訓読みでは通常「はら」(ばら)としか読まないはずです。しかし、この「原」を「はる」(ばる)と発音することは、佐賀県ではかなり一般的であり、多少の普遍性を伴っています。
ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く、これには何らかの歴史的、民族的な(といっても歴史時代以前を起源とするものの意味で理解しているのですが、太古において「はら」と呼ぶ集団と「はる」と呼ぶ集団の異なった民族的傾向の平和的共存、混住を想像させます)、また、特徴的な要素が関係しているのではないかと思われるのですが、未だに説得力のある説明を聞いた事がありません。
この「原」を「はる」と読むという傾向、というよりも「はる」(もしかしたら、「はら」と「はる」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)地名の分布は、九州に限定されているようです。例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。
 
福岡の「前原」(最近“市”に昇格した福岡市西隣の前原市のマエバル)、「春日原」(カスガバル)、「伊良原」(県営ダムの計画がある犀川町のイラバル)、熊本の「田原坂」(西南戦争の激戦地で有名なタバルザカ)、大分の「城原」(こちらの方はシロハルと濁りません)、長崎の世知原(佐世保市に隣接するセチバル町)、宮崎の「西都原」(西都原古墳群のサイトバル)、沖縄の「伊原間」(イバルマ)、「ヤンバル」(ヤンバルクイナのヤンバル)……。これらについては朝鮮語起源の「ボル」やマレー語起源(「バル」=コタバル*)が議論されていますが、さだかではありません。マレー語の「バル」「バール」はたしか街とか村とかいう意味だったと記憶しているのですが、少なくとも、九州、沖縄以外の土地に住む人々には、城原川と書いて「じょうばるがわ」と読むのことは極めて違和感があるかと思います。しかし、九州では普通に存在する地名と思って頂いて構わないでしょう。
 
(*)バル: マレー語の「バル」、「バール」はたしか“街”とか“村”といった意味だったと思うのですが、昔、古本屋で見つけて200円で買った昭和十七年発行の紙質の悪い「マレイ語の話し方」(学生の友社)を見ると、残念ながら、村は “kampong” 町は “pekan” となっていました(インドネシア占領政策の一環で作られたもののようです)。
ただ、若干の訂正をさせて頂きます。この時点まで、
 
さて、“例外は富山県(「針原」ハリバル…)ですが、これだけが分布の飛び地となっており、それがなぜなのか今のところ全くもって見当が付きません。”と、しました。 
当時は、「ZIPJIS」という旧郵政省系のサイトによるデータを使用していましたが、最近、疑問を持って調べなおしたところ、富山市新針原、針原中ともに、「ハリワラ」もしくは「ハリハラ」と呼ばれていることが分かりをました。分布自体も不自然であり、ここで改めて、ハル地名は九州、沖縄に限定した特殊な地名であるとさせて頂きます。
蛇足になりますが、熊本県水俣市との県境に近い鹿児島県出水市にも同じ表記の“針原”という地名があります。そして、こちらも「ハリハラ」と呼ばれているのです。この鹿児島の“針原”地区は、七、八年前、砂防ダム工事による地下水位の上昇と、急傾斜地に針葉樹林を植えた結果としての表層崩壊による鉄砲水に襲われ潰滅した集落で、まだ、記憶されている方もおられるでしょう。なにやら、富山の針原と地形が似ているようなのですが、鹿児島はともかく、富山は現地を見ていませんので、ここまでとしておきます。
ハラとバルは別のものか?
ただし、全ての「原」を「はる」(ばる)と呼んでいるわけではなく、隣接して「はら」地名と「はる」地名が混在しているところも多く…

と、前述しましたが、確認するためにもいくつか近接して存在する例をあげておきます。
まずは、@久留米の市街地の東の外れにある太郎原町(ダイロウバル)とJR鹿児島本線櫛原駅のある櫛原町(クシワラ)、街中の原古賀町(ハランコガ)、住宅地である国分町の苅原池(カリハラ)、A筑紫野市の塔原(トウノハル)と萩原(ハギワラ)、B佐賀県でも有田町の街中に二百メートル離れて南川良原(ミナミカワラバル)と原宿(ハラジュク)という交差点があります。
ここで結論に近づく仮説をご紹介しましょう。谷川 健一と金 達寿(キムダルス)両氏による対談をベースにした『地名の古代史』(九州編)にこの「バル」の話が出てきます。

谷川 先程バルという話もあったけど、バルというのは、この前、対馬に行った時に老人と話していたら、老人がこれからパリしに行こうかと言う。朝鮮語と同じで、パリしに、開墾しに行く、耕しに行く。畑に行くことをパリしに行くという。そのパリから出たに決まってるんですよ。『万葉集』のハリミチですね、開墾することをハリ、新しく開墾したところが新治(にいばり)、四国にも今治(いまばり)というところがありますけれども、字は違うけどね。そういうハリというのは開墾すること。それがハルになってるんですね。沖縄なんかではハルと言うと、みな田圃や畑を表すんです。野原の原じゃないんです。原山(はらやま)勝負と言って、どれだけ一年の収穫が多いか、村ごとに原山勝負に参加する。山は山林の勝負ですけれども、収穫が上がったことを、村ごとに懸賞をかけて競いあう。それを原山勝負と言うんですよ。墾道(はらみち)というのは畦道のことを言うんです。ですから、これはやっぱり朝鮮と密接な関係があると思いますよ。

さすがは谷川健一と思いますが、
この「原」を「はる」と読むという傾向、というよりも「はる」(もしかしたら、「はら」と「はる」とは偶然似てはいるものの実は全く異なった起源の言葉が地名として結晶し、たまたま「原」という字が当てられているという要素も含めて)…と前述したように別の起源のものがたまたま似通っていたためにいつしか本来の意味が忘れられたという事はかなり的を得た想定のように思えます。
恐れずに踏み込めば、ハラはただの原っぱで、ハルは人為的な開墾地、耕地のように思えます。パリ、パル、ハリ、ハル、バリ、バル…が朝鮮半島起源のもので、なお、かつ、九州限定(四国の今治、新治はこの際無視しますが)とすると、渡来系(朝鮮半島)の地名とも言えそうですが、沖縄への分布を考えると、南方系の言語、地名が朝鮮半島南部まで持ち上げられたのではないか?とも考えられます。
最近、谷川が新著(『甦る海上の道・日本と琉球』)を公刊しましたが、この、柳田(『海上の道』)の逆コースによって南下したとも言えそうで、現段階では「朝鮮半島との関係があるかもしれない…」辺りが順当なところでしょう。
謎解きは終わったのか?
と、ここまで書いて新たな疑問が生じました。かなり古いのですが、昭和五十八年刊行の大著、『講座方言学』9−九州地方の方言−国書刊行会(8熊本県の方言/秋山正次:熊本商科大学)を読んでいると、以下の記述に遭遇しました。
九州で原の字を持つ地名は春日原・原田・西都原・島原など原がハル(。)となることは周知。これは広母音・中間母音a・e・oにつづく音節の母音が狭母音に変化する現象の一例である。ラ行音の場合だとハラカク(腹を立てる)はハル(−)カクかハリ(−)カクとなる。行キナハレは行キナハル(ー)・〜ハリ(ー)。誰>ダル(−)・ダリ(−)。指示詞はコレ>コル(−)・コリ(−)、アレ>アル(−)・アリ(−)。概してはルになるのが基本である。

秋山正次教授(当時)によると原がハルと呼ばれるのは単なる方言現象ということになってしまうのですが、本当にそうなのでしょうか。かなり考えましたが、大分など瀬戸内海方言が色濃く影響する地域にもこの九州特有の原(ハル)地名が同様に存在すること。さらには、原と書き、ハラともハルとも呼ばれる地名が近接して並存する地域が広範な地域に認められることを考えると、やはり非常に古い時代からの異なった言語、民族(?)現象が作用しているのではないかと考えるのです。
ただ、島原はシマバルとは呼ばなかったと考えます(なぜか島原城はハルノシロとは呼ばれたそうですが)。
壱岐の原ノ辻遺跡と触
近年、壱岐の弥生遺跡として有名になった原ノ辻遺跡の原がハルと呼ばれていることもどなたもご存知でしょうが、この壱岐にはもっと大きな問題が潜んでいます。
松浦周辺多くの免(メン)地名があることと同列に取上げられることが多いのですが、壱岐には圧倒的な数の触(フレ)地名があるのです。
 
ローカルではあるが、きわめて著名な地名群落。長崎県壱岐島、玄界灘のなかの島だが、近くの生月島の一部とここだけにしかもられない「触」地名は、たしかに特異な地名集団である。…(中略)…この台地上の畑と台地を刻む谷底の水田に依存する農村は、「在」と呼ばれて、一単位ごとの集落には〜触という触のつく地名がつけられている。触は小字であり、折茂順平の調べによると、全島で九九あるという。

『地名を考える』山口恵一郎(NHKブックス)
 
この触地名をどのように考えるかですが、ハル(HARU)とフレ(HURE)と似ていると思いませんか。これについては、『日本語大漂流』を書かれた東海大学の茂在 寅雄教授によってフレ、プレ地名はマライ・ポリネシア系の言語と考える説も出されています。
さらに、福岡県、筑後地方には丸地名が多いのですが、田主丸や千代丸の丸にしても、原(バラ)は丸(マル)はM音とB音が混同されることから(大小便のキバル?イバル、ユバリとマル、尿の古語はイバリですね)、丸(マル)地名も原(ハル)地名のバリエーションの一つなのかも知れません。
 また、朝鮮語では村をマウルと言いますし、ここでは関係があるのではないかとはしておきたいと思います。
九州全域に存在するハル、バル地名にも分布に偏りが認められる
こんどは、九州全体に目を向けて考えてみましょう。正確にカウントしてはいませんが、人吉、阿蘇、薩摩、天草、長崎にはほとんど認められません。特に、九州脊梁山地にはないようであり、やはり、海岸部を中心として古代の農耕地、開墾地に多いように思います。また、地形にもよりますが南方系海洋民族の定着したと考えられる長崎県から不知火海沿岸、特に天草、薩摩(阿多隼人の領域)にかけての島嶼部には認められないように思います。このことが南方起源説にはおいそれと乗れない理由でもあるのです。
特に目立つのは宇佐、西都原、隼人町周辺ですが、隼人町は隼人征伐に送り込まれた勢力が持ち込んできたものと考えれば分かりやすいかもしれません。
久留米周辺の原地名と浦地名
ここで、多少注意を要することがあります。筑紫野市に原、原田(ハルダ)、三潴町に春田、田主丸町に上原、広川町に水原、上陽町に久木原、浮羽町に金井原、甘木市に中原(ナカバル)がありますが、この中原は明らかに古久留米湾(仮称)とでも呼ぶべき所であるだけに、もともと原(ハラ)であるはずがなく、それこそ、その海底に外部からの移住者が持ち込んだ地名と言うべきでしょう。当然ながら、地形と地名が一致しないばかりか、後発の地名であることからも今回のテーマとしては除外します。ただし、干拓地を開墾地と考えれば氷解します。試見ながらハラは干拓地にはないが、例外的にハルはありうるとは言えそうです。
 
さて、久留米周辺で拾い上げるとこの程度のものでしかなく(大字単位)、私の住む佐賀県(佐賀県でも干拓地にはハル地名はありません)などに比べると、久留米周辺には原地名が極めて少ないように思えます。このことは久留米から鳥栖、小郡、甘木にかけての一帯がもともと海から干潟、氾濫原野、干拓地へと変化してきた土地であることから後背地の山手にしか原(ハラ)地名が存在していないだけなのかも知れません。干拓地にはやはり原(ハラ)地名はないのです。
実は、これと同様の奇妙な感じを浦地名についても持っているのですが、混乱を恐れずに、この際、問題として取上げておきたいと思います。実は拙著『有明海異変』に書いた話が関連するようですので引用しておきます。
「消えた浦の話」
鹿島市から諫早市へ向かって有明海の西岸(国道二〇七号線)を走ると、母ヶ浦(ほうがうら)や七浦、嘉瀬浦、竜宿浦(やのうら)、破瀬ノ浦(地元でははぜんだと呼ぶ)、亀ノ浦(同じくかめんだ)、大浦、津ノ浦、水ノ浦(高来町)と、多くの浦の付く地名に気付きます。有明海の東岸や北岸では、福岡県久留米市の藤田浦や高田町の江ノ浦、深浦などが内陸部に散見される程度ですので、浦というどこにでもある地名の密度もその分布を考えるとそれなりに興味をそそられ、想像が膨らむものです。 
 
対岸でも宇戸半島を越え八代市から南に下ると田浦や宮浦、小田浦、海浦、小浦、湯浦、福浦と浦地名が急に増えてきます。話を有明海の西岸に戻しますが、鹿島市周辺には深浦(有明町)、浅浦、山浦という地名もありますし、武雄市周辺にも谷ノ浦(北方町)や西浦(武雄市中心部)などがあることを考え合わせれば、この地域における浦地名の卓越は歴然としています。もちろん浦や島、崎といった地名は干拓が積極的に行われる以前の海岸線を示す一つの指標になりますが、当時は杵島山(注)が文字通り島であり、その西岸が水道をなしていた時代があったはずです。現在の潮汐から考えると非常に理解しにくいのですが、干拓が事実上存在しなかったと推定できる二千年ほど前の有明海を想像すると、深い入り江や島が入り組み、岬が突き出した遠浅の海が広がっていたはずであり、潮汐が奥行きの四倍に比例し深さの平方根に反比例することを考えれば、内陸部に浦地名を拾えることは決して不思議なことではないはずなのです。当時の潮汐の振幅従って干満の差は今よりはるかに大きかったはずなのです。
 
では、なぜ鹿島市から小長井町にかけて浦地名が卓越しているのでしょうか?
想像するに鹿島市南部の浜町に流れる浜川から南は水田稲作の不適地であったために土壌流失も少なく、このため陸化が進まなかったことが想像され、昔の海岸線が現在の海岸線とかなり重なるからではないかと思うのです。事実、地図を見られれば歴然としますが、鹿島市の浜川を挟む浜干拓、七浦干拓(いずれも戦後の国営干拓)から南側の海岸線は干拓地がほとんどないことに気付かれると思います。 
 
このことは地質学的な意味での岩質、土質の問題もあるのでしょうが、鹿島市の浜川から北になると山浦や浅浦地区などが海岸線から数キロ入るところにありますし、同様に武雄市にさえその痕跡が拾えるのですから、特に東岸や北岸に浦地名を発見できないことは、水田稲作による陸化の程度が大きかったために浦地名が内陸部に取り残され、いつしかかき消されてしまったのか、もしくは浦という地名が付けられる時代には既に沖積のテンポが速まっており、有明海の東岸や北岸では、岬に対応する浦という景観が既に存在していなかったのではないか、さらには東岸、北岸に浦が存在していた時代には浦という景観は浦とは呼ばれてはいなかったのではないかとまで想像の冒険を行ってしまうのです。いずれにせよ鹿島市から小長井町にかけての浦が単なる里山の麓ではなく浦であり続けたことの背景には、この地域には大河川が存在せず、したがって、土壌の流出の度合いまたは潮流の加減による泥土の堆積が遅かったからではないかとも思うものです。
 
浦と原には何らかの要素が関係しているようであり、いわば裏腹の関係にあるようです。問題は通底している因子がどのようなものであるかということでしょう。ただ、この浦地名に対応する原地名が“ハラ”なのか“ハル”なのかが未だに分からないのです。浦の反対語はハラ(バラ)かハル(バル)か?です。
当たり前のことですが、諫早から佐賀、久留米、大牟田、宇土、八代に至る巨大な干拓ベルトには基本的に浦地名も原地名も存在しないとまでは言えると思います。
ただしこの帯にはかなり明瞭な切れ目があって、西では佐賀県鹿島市の七浦から小長井へかけての土地であり、中間点の大牟田付近(ここには浦地名がかなりあります)であり、熊本県の河内から松尾にかけての一帯なのです。そして、劇的に浦地名が復活するのが、球磨川の南の不知火海沿岸なのです。
 
さて、久留米の周辺でも少ないもののかなりの奥地にこの地名が認められます。その一つがJR基山駅に近い伊勢山神社付近にあります。伊勢浦堤です。この伊勢山神社のある高台の東側には、かつて波が打ち寄せる浦があったと思われます。このような内陸の浦地名には、太宰府市に“安ケ浦”、“長浦”、“吉ケ浦”、“菖浦ケ浦池”、筑紫野市に“通り浦池”“松ケ浦”、“江木浦”、春日市に“日の浦”(もちろん、これらの浦地名は博多湾側のものです)が、小郡市の三沢に井の浦、甘木市の麒麟ビール工場の南に“上浦”“下浦”、JR筑前山家駅のさらに奥の山鹿川付近に“浦の下”(冷水道路に浦の下というインター・チェンジがあるのでご存知でしょう)、鳥栖市にも“山浦”があります。
 
ここまでくると、もっと面白い話が転がっています。有明海側からの浦地名と博多湾側からの浦地名が最も近接する場所が、山口、紫、針摺付近となり、この辺りで立小便するとどちらに流れるのか分かりません。さらに言えば、紫には塩浸(シオヒタシ)という地名まであるのですが、この分水嶺の話はいずれ別稿(『浮羽の船越』)として取上げたいと思います。今回はまとまりがありませんでしたが、試論としてお許し頂きたいと思います。
▲ 小郡市の伊勢山 ▲ 古久留米湾から高良岬を望む
武雄市 古川 清久
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