久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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“旧宝珠山村、小石原村の狩猟地名について”
日田彦山線の夜明駅から大行司を経由し、国道211号線で小石原焼の旧小石原村に向かうと、小石原村鼓(つづみ)辺りに桑鶴、蔵貴、黒谷、鶴、釜床といった地名が並んでいます。
恐らく鼓とは包み込まれた臼状の谷底のような地形を意味するものであり、一応は自然地名とすることができるでしょう。それは釜床という地名にも反映されていると思います。いわゆる、鍋、釜、臼(石、牛)地名です。さらに、喜楽来館という地名からふられたと思われる施設もあり、佐賀県の厳木などと同様、急傾斜地特有の教楽木(キュウラギ、キョウラギ)地名とも考えられますので、これについてはいずれ取上げます。
 
今回はこの朝倉郡東峰村という慣れない村名になりましたが、旧小石原村鼓の玉来という地名について考えましょう。
彦山に近いところだけに、宝珠、大日ヶ岳、釈迦ヶ岳、金剛野、医王寺、大行司(もしかしたら大肥も)といった仏教系の修験地名が多いようです。しかし、今回の玉来は別系統の狩猟地名と考えています。
当方のホーム・ページ「アンビエンテ」内の地名サイト「地名は時間の化石」に豊後竹田の「玉来(タマライ)」を入れています。
 
ここでは、自然地名、修験地名、アイヌ語系地名、鉱山地名、渡来人系地名…と多くのバリエーションがある中で、狩猟系の地名も身近にあることをお知らせしておきたいと考えています。さて、豊後竹田の玉来について書きました。
玉来(タマライ)
滝 廉太郎作曲の『荒城の月』の舞台、大分県の豊後竹田(タケタ)市に玉来(タマライ)と呼ばれる場所があります。JR豊肥線(阿蘇高原線)に玉来駅がありますので直ぐ分かりますが、この地はいくつかの谷が集まっている所で、何度行ってもよく道を間違えるのですが、過去、十数回は通っていますので、現地の地形や雰囲気などは一応把握しているつもりです。しかし、何度通ろうがこの地名の意味だけは見当がつきませんでした。ただ、谷川健一の『日本の地名』(岩波新書)を読み直してようやく分かりました。つくづく読んでいて読んでいないことに気付かされます。
・・・阿蘇山の周辺の村々には狩猟にちなむ地名が残されている。さきの下野に近い 一の宮町大字手野尾籠(おご)には狩集(かりたまらい)という地名がある。柳田国男は『地名の研究』の中で、狩集は狩猟のための集合場所で、もともと「狩溜らい」であったという。「溜る」の延言が「溜らい」である。また、阿蘇郡蘇(そ)陽(よう)町大野は通称玉来(たまらい)村であったと「肥後国誌」には記されている。これも狩集と同じ地名である。阿蘇外輪山の東にある大分県竹田市に玉来(たまらい)がある。柳田の『地名の研究』は、薩摩川辺郡加世田村大字津貫(つぬき)字狩集(加世田市)や肥後八代郡下松(まつ)求(く)麻(ま)村字狩集(八代郡坂本村)の例もあげている。
まず、谷川氏は薩摩川辺郡加世田村大字津貫字狩集(現南さつま市)の例も上げておられますが、この津貫は“ツヌキ”と呼ばれています。現地は加世田川本流の上流部分の谷の集まる場所であり、狩集の場所であることは一目瞭然でしょう。さて、久留米地名研究会(準)の第三回研究会では“道目木”について取上げましたが、そこに、旧小石原村の玉来の上流に蔵貫(ゾウメキ)があったことを思い出して下さい。もしも津貫(ツヌキ)がヅヌキ(九州西岸では概して濁音が清音化する傾向が認められるため)であり、さらに古形のヅウヌキ、ヅウメキであったとも考えられるのです(ここでもO音がU音に置き換わる傾向も認められますので)。してみると、この津貫(ツヌキ)も道目木(ドウメキ)地名のバリエーションの一つと考えられそうです。このように道目木(ドウメキ)地名と狩集、玉来(タマライ)という狩猟地名がセットで発見できるということは、ドウメキという名が付くような谷の集まる場所、合川、落合、吐合、河合…こそ、狩の集合場所だったからに外なりません。
 
さらに面白いのは、阿蘇郡蘇陽町大野(幣立神社のある所)が通称玉来村であったという話ですが、その大野が加世田の津貫のそばにあることです。 
私は大野と言えば直ぐに大野治長の一統の逃亡集落ではと考えてしまいますが、それはさておきこの大野までが加世田の津貫にあることです。なぜ、大野が付き纏うのか、これについても今後の課題として残しておきましょう。話が逸れましたので軌道にもどします。
狩集、玉来地名は柳田−谷川という民俗学の大家の言だけに説得力もあり、大変良く分かりますが、このままでは、私が書く意味は何もないことになりますので、谷川先生が著書でふれておられない、玉来を紹介して本稿を閉じたいと思います。
 
まず、大分県では旧天瀬町の日田市五馬に玉来神社があります。これなど、狩りの集合場所が神社になったのか、神社に狩り支度や山に入るための祈願で集まったものかと考えてしまいます。『日本書紀』でしたか、五馬市は大和朝廷に逆らった五馬姫と言う土蜘蛛が立て篭もった場所とされています。いつもこの神社の前を通過するだけで詳しくは調べていませんので、次に訪問した時には玉来神社周辺の狩猟に関しても調べてみたいと思います。
その外にも、阿蘇外輪山の北側、黒川温泉で有名な南小国町の南側、阿蘇外輪山の北の駆け上がりにも玉来が、根子岳の東の高森町に上玉来が、熊本市の南、御船町の矢形川沿いの天君ダム上流にも玉来が、また、福岡県では、旧宝珠山村から焼き物で名高い小石原村に向かう国道211号線に玉来(現東峰村)があります。
 
今回は、既に書いていたものをフルに使いまわすだけの報告ですが、まず、間違いなく、この東峰村の玉来も“狩溜らい”であったことでしょう。現地を踏むとそのことが良く分かります。普通、狩を行なう場合は平地に集まり、その日の計画を立て配置を決めます。何やら見てきたような事を言いますが、さらなる興味をお持ちの方は柳田の本などをお読み下さい(『後狩詞記』ほか)。
玉来は黒谷への山の登り口と小石原への登り口の合流部の小平地といったところであり、
水田を持った山の入口といった所です。大肥川が平地に降り下り、多少流れが緩やかになり始める場所で、直ぐに川床に降りられるために獲物の解体にも適した場所なのです。
 
あとは、狩の風習がいつ頃まで残っていたか、本当にこの場所に集合していたのかといったことになるのですが、これについては、地元郷土史家などの協力を得なければ外部からはなかなか手が出せません。地元教育委員会辺りから背景調査を進めたいと思います。
話は飛びますが、東峰村役場の少し上に、新たに戸有(トアリ)という地名があることに気付き途方に暮れています。今のところ全く見当が着きませんが、そのうち調べて見たいと思っています。
 
最後に、平成十八年に人吉で行なわれた地名研究会設立推進シンポジウムにおいて、前田一洋氏が発表された「狩猟の誇示とその供養」に現東峰村の玉来に近いところに「千匹塚」があることが書かれています。
…獲物に対して行なわれた供養のうち、その最たるものがいわゆる「千匹塚」であろう。…(中略)…民陶の「小鹿田(おんた)焼き」に行く途中の、大分県日田市小野市木には「千匹塚」が三基も並んで建っている。いずれも江戸時代の建立であるが、それぞれに猪・鹿を千三百余とか、千百六十などと刻んである。私も国東半島で実際に千百十一頭の鹿を仕留めた老猟師に会ったことがある。その人は最後の一頭を埋葬し、大分県知事に頼んで碑文を書いてもらい堂々たる碑を建立しておられた。…
これについてもいずれ確認する機会があると思います。
このように、かつて、東峰一帯にも多くの猟師や勢子が犇き、多くの獲物を仕留め、供養と称して誇り、玉来地名を残したことが言えるようです。
▲ 東峰村の玉来集落、手前は大肥川
▲ 再掲 東峰村蔵貫
蛇足になりますが、一応、玉来地名は九州単位で考えても仮に玉羅位、珠来といったような表記のバラツキがありません。これは玉来地名を生み出した背景に山の神を奉祭する一筋の修験者といった集団が拘わっていたことを思わせます。その方面の話をご存知の方はご連絡頂きたいと思います。
武雄市 古川 清久
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