久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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古川清久
(武雄市)久留米地名研究会編集員
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 肥前国(ここでは東の佐賀県を念頭に置いている)の神社と言えば、まず、淀姫神社が頭に浮かぶ。
格式から言えば、大正十五年発行の「佐賀県神社誌要」でも筆頭に書かれる國幣中社田島神社(呼子町加部島)があるが、その拡がりと浸透力からか淀姫はより強い印象を与えている。
上無津呂の淀姫神社
神水川
 この淀姫神社が何かを考えずして九州の古代を云々できないとの思いを深くしたのは、佐賀市に編入されたが古湯温泉のさらに奥深く鎮座する古社、上無津呂の淀姫に遭遇し、下無津呂の乳母神社の氏子でもある某産婦人科医師と知り合ったからであった。
 “医は算術”とばかりに蓄財に走るものが多い中、福岡市内で産婦人科(麻酔科)医として水の問題を取り上げ、妊娠から出産そして育児までを水から考えるという正に良医の名に値する町医(開業医)であるが、その良医から「この淀姫神社の前に流れる川は、何故、神水川と書かれ、おしおい川と呼ばれるのか?また、下無津呂には乳母(めのと)神社が有るのか?・・・」と問われ、それに回答を与えねばならぬとの使命感から取組んだのが今回の小稿である。
 まず、淀姫神社と言えば佐賀川上峡の淀姫神社(河上神社)が著名であるが、実はその創起のみを見れば上無津呂の淀姫の方がさらに五十年も古いのである。まず、次を見てもらおう。
淀姫神社の分布について
@ 河上神社(肥前一宮・與止日女神社)県社  (佐賀県神社誌要)10p
佐賀市大和町川上(旧河上村)
祭神: 與止日女命神 大明神
神功皇后の御妹、また肥前風土記に世田姫海神と云う、年常(曰く鰐魚、鯰?)神名帳に豊姫、世田姫は蓋し豊玉姫命ならんか。(竜宮城の乙姫様)
創起: 30代欽明天皇二十五年(564年)
一宮記に曰く與止日女神 八幡叔母神功皇后の妹なりと(佐賀県神社誌要)。
風土記に此川上に有石神名曰世田姫海神云々淀の訓、世止と世田と相通
A 与賀神社(與賀神社)県社 (佐賀県神社誌要)7p
佐賀市与賀町
祭神:豊玉姫命(与止日女神)、彦火々出見命、沖津島姫命、市杵島姫命、綿津見命、応神天皇ほか
創起:30代欽明天皇二十五年(564年)勅願創立 川上の淀姫神社に同じ
B 淀姫神社(上無津呂)郷社 (佐賀県神社誌要)68p
小城郡北山村大字上無津呂(佐賀市)
祭神: 豊玉姫命 玉依姫 外7神 九郎社あり
創起: 文久二年(1862)九月に千三百五十年祭の執行ありし記録(神社誌要)→512年?
継体天皇御宇の勧請なり(どこからか書かれていない?)と察せられる 通常 継体は450から534年
神代勝利、長良親子を嘉村一族が匿う「北肥戦誌」
九州年号の継体は517年から521年 神殿には高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる
C 淀姫神社(大川) 郷社 (佐賀県神社誌要)80p
西松浦郡大川村大川野(伊万里市)
祭神: 淀姫命 外16神
創起: 一千年以前・・・長久二年 
十四神合祀
D 豊姫神社(松浦町)村社 (佐賀県神社誌要)244P
西松浦郡松浦村大字山形(伊万里市)
祭神: 豊姫神
豊姫又の御名は淀姫玉妃命とも唱へ、神功皇后の妹にして・・・(佐賀県神社誌要)
創起: 記載なし
E 淀姫神社(中野)村社 (佐賀県神社誌要)248P
朝日村中野(武雄市)
祭神: 淀姫命 外6神
創起: 天治元年四月勧請
「がばいばあちゃん」の撮影ポイント
F 淀姫神社(福富)村社 (佐賀県神社誌要)116P
中川副村福富(白石町)
祭神: 豊玉姫命 外3神
創起: 記載なし
G 川上神社(多良)村社 (佐賀県神社誌要)291P
多良町多良(太良町)
祭神: 淀姫命 外2神
創起: 記載なし
H 淀姫神社(古湯)村社 (佐賀県神社誌要)184P
南山村古湯(佐賀市)
祭神: 豊玉姫命 海津見神 外11神
創起: 記載なし
百嶋系図の安曇礒良と豊姫に対応か?
I 松浦市淀姫神社 以下長崎県神社誌など未確認
長崎県松浦市志佐町浦免
祭神: 12代景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命
創起: 欽明天皇癸未二十四年(563年)
ここでは神功皇后の妹「淀姫命」と豊玉姫命を別々祀っていることから当然にも別々の神と解釈されている。
J 矢峰淀姫神社(佐世保市)現地未踏査
佐世保市松原町と矢峰町の鎮守神、祭神は海神大綿津見神の娘豊玉姫命とされる。「北松浦神社明細帳」に、創建は平安期で、長和二年(1013)とある。相浦谷一帯の開拓が進み、竹辺大宮姫神社の分霊を祀ったとの説もある(鹿児島の大宮姫伝承と関連か?)。
K 平川淀姫神社(大津町平川)
祭神: 淀姫神、竹内宿禰神、比東芬q神
以前、偶然に発見し宮司からお話をお聴きしたことがある(大津町平川236)。
「大津町史」にも以下の記載がある。
淀姫神社は佐賀県に多く分布し、淀姫(=与止日女・世田姫・豊玉姫)を祭神とする神社です。ここの淀姫神社は『菊池郡神社誌』によると、戦国時代に創建されたそうです。当時、この地域一帯は広く肥前の龍造寺勢力と豊後の大友勢力との対決の舞台となりました。伝説も、ここを舞台に肥前の勢力と豊後・阿蘇との関わりを示しています。9月の「願成祭」で子供相撲の奉納があります。11月の秋祭りには、平川合志神楽と浦安の舞が奉納されます。現在、地域の5つの地区が、交替で祭りのお世話をしています。また、一宇太鼓がここを拠点に活動しています。
L 與杼神社
京都市伏見区淀
豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)
淀姫と言えば、直ぐに淀川が頭に浮かぶかもしれないが、淀川は佐賀からの地名移動と考えてまず間違いない。
與杼神社(淀姫さん)  京都市伏見区淀本町167
山城国乙訓郡の式内社。元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。
『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。社伝によれば、応和年中(961〜964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。
HP「神奈備」による
 以上、各神社の祭神をみると、與止日女命には「豊玉姫命とする説」「神功皇后の妹とする説」、その他がある。この外にも淀姫らしきものを見掛ける。興味深い例として糸島市の桜井神社には「淀姫大明神」の神額が掛けられているが祭神にはないことから、元は淀姫を祀っていたのではないかと考えている。
桜井神社
桜井神社(糸島市桜井)
祭神: 神直日、大直日、八十枉津日
この里の藍園という所に與土姫明神の社がある。與土姫は社号で、神直日、大直日、八十枉津日の三神を祭っている所だ。社殿の後ろの小高い所に岩窟がある。・・・中略・・・この辺りにしては、壮麗を極めた造りだったので、数年かかって、寛永9年完成して、京都から吉田兵部少輔中臣治忠を招請して、社号を與土姫大明神として、あがめ奉った。
貝原益軒
百嶋神代系図では神直日、大直日の二神は鴨玉依姫と大山咋命(の別名)としている。
かなり前に参詣したことはあるものの実質未確認であり判断ができないが、この三神は淀姫ではない。これに関して連携ブログ「ひもろぎ逍遥」の綾杉るな女史は
楼門の扁額が表は「與土姫大明神」で、裏が「桜井神社」となっている件については、もともと、與土姫大明神だったのが明治二年に桜井神社に改称されているのが分かりました。與土姫大明神について考えました。この神社の名前がかつては與土姫大明神という事から、新左衛門の妻に懸かられた神が與土姫大明神ではないかと思いました。
昭文社 県別道路地図(福岡県)
 としているが、なお不明瞭極まりない。さらに、福岡市西区の今宿駅の東には鯰川が流れている。鯰は竜王からの遣いであることからして、淀姫神社の社家はもとより、氏子も、一切、鯰を食さないと言われることから、熊本市周辺など、鯰、鯰橋・・・と言った地名、また、淀姫神社とされていないものにも鯰の置物が置かれているところもあることから、西区今宿上ノ原叶町周辺にも淀姫を祀る人々がいた可能性はあるであろう。
 今宿駅の東の鯰川の奥に叶町があり叶神社がある。叶、加納地名は外洋性(南方系)海洋民の付す地名と考えていることから(久留米地名研究会HPの「田ノ浦」を参照されたし)、叶神社は淀姫を祀っているのかも知れない。なお、叶姓が最も集中するのが奄美大島であることも興味深い(「姓名分布&ランキング」)。
 この外、志式神社などにも豊姫として淀姫と思われるものが祀られているものがあり、鯰に関連する神社を拾い出すと、阿蘇神社を筆頭に、星野町の麻生神社、久留米市田主丸の阿蘇神社、福岡市早良区の賀茂神社、那珂川町の伏見神社など淀姫神社だったのではないか思えるものがあるなど分り難い。このため、さらに簡略化した表を見て頂く。
淀姫神社
1 河上 大和町川上 與止日女神+大明神 564 神功皇后妹、世田姫海人
2 與賀 佐賀市与賀町 豊玉姫 564 九州年号
3 淀姫 佐賀市上無津呂 豊玉姫+(玉依姫) 512 豊玉姫+玉依姫
4 淀姫 伊万里市大川村 淀姫命 不詳
5 豊姫 伊万里市松浦町 豊姫神 不詳 豊姫=神功皇后妹
6 淀姫 武雄市朝日町 淀姫命 1864 天治元年
7 淀姫 白石町福富 豊玉姫命 不詳
8 川上 太良町多良 淀姫命 不詳
9 淀姫 佐賀市富士町 豊玉姫+海津見神 不詳
10 淀姫 松浦市志佐町 景行+淀姫命(豊玉姫) 不詳
11 淀姫 佐世保市矢峰 豊玉姫 1013 長和二年
12 淀姫 大津町平川 淀姫神+竹内宿禰神+外 不詳
13 與杼 伏見淀 豊玉姫 未調査
 豊玉姫を中心に祭神にバラつきがあることは明らかで、佐賀県嬉野市の豊玉姫神社ほかにも白なまずの置物があるなど、淀姫神社の主神が何かが確定できない中で神社の分布を云々するなど危険ではあるが、ここまで見てくると、淀姫神社が佐賀県の中部から長崎県本土の北半に分布が集中していることが分かる。
 一般的に佐賀県の東西は弥生と縄文、北馬系と南船系、半島と江南の対抗が認められると言われるが、印象だけで言えば、このことが淀姫の分布に多少は関係しているかも知れない。また、その中枢域が嘉瀬川の川上、古湯、上無津呂の淀姫神社であったことは明らかで、上無津呂の淀姫から長野峠を越え糸島半島の淀姫の痕跡への繋がりも推察できる。
淀姫とは何か?
まず、淀姫、世田姫、豊姫、豊玉姫、さらには、神功皇后の妹説、海神の娘説とバラつきがあるが、九州王朝論の側からは卑弥呼宗女壹與説、さらに現地の底流には微かながらもヤマトオグナの熊襲征伐譚で知られる河上タケルの妹説も存在している。
@ 卑弥呼宗女壹與説
よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析
(市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編)
 その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(3) したことに由来しているという。
 このように、『肥前国風土記』や地方伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與、その人である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、今一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、今回壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。これらの史料批判を通して論証をすすめたのが本稿である。(・・・中略・・・)
  『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
 この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。(6) とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
 こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。(7)                      
以下省略するも、HP「新古代学の扉」で読むことができる。
A 神功皇后の妹説
神功皇后の妹説についても謎が深い。肥前国ミステリー「與止日女命」與止日女命をめぐる古代浪漫 というサイトでもこれを問題としている。以下 淀姫研究D「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場淀姫研究より
D 「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場
大和町與止日女神社とほぼ同時期に創建されたと思われる佐賀市の與賀神社。
こちらの御祭神は與止日女神で、=豊玉姫命です。この神社には乙宮神(宗像三女神)が配祀されており、與止日女が海神と縁の深い神様であったことがうかがえます。
末廬国河上大明神(伊万里市淀姫神社)も元々、乙宮神を配祀してありました。(900年ほど前に現在の牛津郡に移されたようですが。)與止日女さんと、乙宮さんは、縁があるようです。古くは「海の神」と認識されていた豊玉姫はいつのころから「川の神」になったのか。
祭神の認識の変化とともに見ていきます。
京都市伏見区淀の「與杼神社」の由緒を見てみると、この神社は肥前一ノ宮與止日女神社からの勧請ですが、「応和年間(961年〜963年)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
 平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります。
 そして、河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、このころから「神功皇后の三韓征伐」との関連が見られ始めます。ただし、神功皇后の三韓征伐の際に御利益があったという意味と思われ、「神功皇后の妹」の存在はまだ出てきていません。
また、和歌山県辺市上秋津にある川上神社では、1547年頃に肥前国佐賀郡より勧請された神が祀られているが、祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)。
 肥前国佐賀郡(與止日女神社と思われる)から勧請された神は瀬織津姫となっており、豊玉姫の存在がなくなってしまっています。
 「川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請」
 瀬織津姫といえば川の流れの神。與止日女神社が佐嘉川の川上にあったためか、ついに、豊玉姫(與止日女)が川の神であると認識されるようなったようです。
さらに、大和町川上の実相院尊純僧正が佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」(1609年)によれば「一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。[後略]」
とあり、この時ようやく、「神功皇后の妹」が登場します。
 この間にいったい何があったのか?
 わかりやすく、與止日女の認識を順番に並べると・・・
740年 世田姫(ヨタヒメ) 『肥前国風土記』
901年 豫等比盗_(ヨトヒメ) 『三代実録』
927年 與止日女(ヨトヒメ) 『延喜式神名帳』
961年 豊玉姫(トヨタマヒメ) 『與杼神社由緒』
1193年 「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」 『河上神社文書』
1503年 「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也」 『神名帳頭註』
1547年 瀬織津姫(川の神) 『川上神社由緒』
1609年 與止日女大明神は神功皇后の御妹 『河上由緒差出諸』
明治期 淀姫命 (ヨドヒメ)『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
與止比女神(ヨドヒメ)
『明治神社誌料』
「神功皇后の妹説」が出てきたのは、1503年の『神名帳頭注』以降ということになります。
『神名帳頭注』は、1503年吉田兼?により著された「延喜式神名帳」についての注釈書。「延喜式神名帳」というのは、927年に完成した『延喜式』巻九・十のことで、律令体制下、神祇官また諸国国司のまつるべき3132座の神社名を記した巻のことをいいます。『神名帳頭注』は頭註という名の示すように、はじめその上欄に吉田兼倶が注記していたものを,後人がその注記のみを現在みられるように1巻にまとめたもの。
 著者の吉田兼倶は吉田神道(唯一宗源神道,卜部神道)の大成者。
??吉田兼倶こそが、與止日女命(豊玉姫)を、神功皇后の妹「淀姫」と解釈してしまった張本人です。
 それまでは與止姫命がぼんやり豊玉姫と認識されていたものが、有力な神道家・吉田兼倶の解釈によって「與止日女命=神功皇后の妹」となりました。
風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申の年、冬十一月朔日、甲子の日、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『神名帳頭註』吉田兼倶)
 トヨタマヒメがヨタヒメ(世田姫)と肥前国風土記に表記され、世田姫から、ヨタヒメ、ヨダヒメ、ヨドヒメと、変化し、『延喜式神名帳』(927年)にて「與止日女」の文字が登場。
 信仰の対象も「海」から「川」へと変化し、海の神「豊玉姫」は忘れ去られ、川の神「ヨドヒメ」へと置き換わっていく。この頃はまさに、国司による一宮参拝が盛んにおこなわれていたころで、『延喜式神名帳』の存在もあったため、肥前国の神=ヨドヒメの認識が肥前国内はもとより、全国に知られることとなったのでしょう。
 吉田兼倶の『神明帳頭注』によって浮上した「與止日女命=神功皇后の妹」説であるが、その説の発端となったと思われる神社が、松浦市淀姫神社です。松浦市淀姫神社の祭神は、景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命であり、唯一、淀姫と豊玉姫を別々に祀っている神社であり、吉田兼倶が全国の神社をどこまで把握していたかはわかりませんが、「淀姫(神功皇后の妹)=豊玉姫」習合思想の発端となった神社と思われます。
 
と、している。しかし、淀姫が豊姫と呼ばれ、神功皇后の二人の妹の一人であったとする重要な文書がある。してみると、肥前国ミステリー「與止日女命」神功皇后の妹説 氏に反しかなり古く遡ることになる。
「高良玉垂宮神秘書」(17p)では、神功皇后の妹が淀姫神社の祭神、淀姫=豊(ユタ)姫としている(前々頁)。
B 私見 世田姫と豊姫と淀姫
 古文書を中心に時系列的に考察する文献史学に対し、民俗学、地名研究、神社考古学は面的に、また、機能演繹的に考察する。当然ながら、これに時間軸を加えた立体的な視野が望ましいことは論を待たない。
ここで、淀姫の「淀」という表記を分解すれば、YODO YOTO YOTA となり、『肥前國風土記』の世田(ヨタ)姫とも通底している。
ただ、その原型は伊万里市松浦町山形の豊姫神社が豊姫神としているように、TOYO と読むのは誤りで豊(YUTA)姫という女性ではなかったかと考えている(事実「肥前国風土記」に世田姫と書かれ、同逸文でも與止姫=よとひめ 豊姫=ゆたひめ 淀姫=よどひめ とも記されている)。
後に、それが淀姫や世田姫と呼び習わされ、あるいは、豊(ユタ→トヨ)から卑弥呼宗女壹與=豊與と解され、あるいは豊玉姫とする混同が生じたかと考えている。
恐らく、その背景には八世紀以降の権力の移動(九州王権から近畿王権へ)が関係しているのであろう。
九州方言の際立った特徴の一つに、O音がU音になる傾向がある(実は逆にU音からO音となった)。
一般的に、「大事しでかした」を「ウーごとしでかした」とか、「頬たびら」を「フーたびら」と言う傾向は、単に方言の枠を越え、「栂」が「ツガ」「トガ」としても全国化したように、上代から神代にも遡る古い時代の標準語が九州方言に名残を留めているように見える。
ここで最新の方言研究(福岡教育大学:杉村孝夫)から一例を示しておきたい。ユタがヨタ、ヨドに転化した背景が見えてくるかも知れない(ただ、私見ながら、この現象は方言ではなく標準語の発信源が九州から畿内へそして関東へと移動したものと考えている)。

(5.2)「 オ列長音の開合」に対応する音声
 
これは,室町末期の京都語の開合に対応するもので,現在の九州方言では(むろん高年層で)開音は[o:] と発音され,合音は[u:] と発音される。
  [au] に由来する開音は[o:] 例えば [to:i](湯治)
[ou] に由来する合音は[u:] 例えば [u:uki](ほおずき)
  [eu] は[iu] を経て[ju:] となる。例えば[kju:](今日)「ふうずき」と,実際に文字で書かれることもある。
次の写真は,今から13 年ほど前に佐賀県の三瀬村の売店で撮影したものである。
福岡教育大学紀要,第59号,第1分冊,49 64(2010)九州方言音声の諸相
Aspects of phonetic features in Kyushu dialect 杉村孝夫
この傾向が上代、神代に遡る可能性があったこと、淀姫が古くは豊(ユタ)姫と呼ばれていたことを知る手がかりになるのではないだろうか?
我々百嶋神社考古学を継承せんとするものにとっては、『古事記』『日本書紀』が現在の天皇家=藤原王朝を支えるために創られた最大級の偽書であると考えているばかりではなく、『高良玉垂宮神秘書』(以下「宮神秘書」グウジンヒショ と表記)を読み解き、残された北部九州の神社を調べ尽くせば、まだまだ、同書とのかなりの整合性が確認できると考えているが、唯一真実に近いものを伝える「宮神秘書」を最重要であるとしても(事実そう考えているが)、淀姫が神功皇后の二人の妹の一人(もう一人は宝満山の大祝=実は鴨玉依姫)とする説には容易に飛び乗ることができないでいる。
それは、百嶋氏が残した神代系図の中でも最終版ともいうべきものには、豊姫=玉姫=淀姫が河上タケルの妹(同時に表筒男命=安曇礒良の妻)として記されているからである。
百嶋神代系図はまだ全面的に公開できる情況にはないが、その一部を掲載しておきたい。
これについては、全面公開に先行し音声データを文字化し、連携する「牛島稔太のブログ」で一部掲載を始めている。今後も随時百嶋語録を公開して行きたいと考えている。
ともあれ、「宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」としている。百嶋神代系図にもその河上大明神が河上タケルの妹として、豊(ユタ)姫=玉姫=淀(ヨド)姫として書いている。
古賀達也氏は卑弥呼宗女壹與としているが、百嶋神代系図では壹與(クワシヒメ)と淀姫は二十歳違いの別人として描いている。どちらが正しいかは今のところ判断がつかない。
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C 河上タケル異伝
 私的には「宮神秘書」の神功皇后妹説よりも、百嶋神代系図の河上タケルの妹説に惹かれるのだが、まず、ヤマトタケルの熊襲征伐譚があまねく広がりを見せる中、河上タケルが肥前にいたと考える人はまずいないことだろう。
ところが、佐賀市に編入された現地には、旧「大和町」、「川上峡」という地名にとどまらず、それなりの伝承が残っているのである。
 これについては、別添の故平野雅廣(日+廣)氏の「異説河上タケル」に併せ「松野連系図」(国会図書館所蔵)を読んで頂くとして、今も河上タケルが酒宴を行なっていたとする伝承と墓石(墓標)があったというものが現地の真言宗御室派の健福寺に残されている(別添)。
 ここでも近畿王権に都合の良い改竄があると考えるのであるが、「松野連系図」と併せ考えると、熊襲の勢力は薩摩とか大隅の辺境どころか、この一帯から、糸島半島、甘木の一帯まで広がっており、その内部での抗争を近畿からやってきたヤマトタケル(オウス)が征伐したとの神話に仕立てていることが見えてくるのである。
D 豊玉姫説について
では、豊玉姫説は成り立つのであろうか。既に、「ゆたか」と読む豊(ユタ)姫が淀(ヨド)姫に転化した可能性は指摘したが、その豊姫が豊玉姫と読み替えられたことも想定できる。
まず、通説による神武系図によれば、ニニギの子であるホオリ=山幸彦の妃がトヨタマヒメであり、その子がウガヤになるのだが、豊玉姫は子育を放棄し竜宮に帰ってしまう。その代わりに送られてきたのが妹のタマヨリヒメで、その育ての母とウガヤが結婚し生まれたのがカムヤマトイワレヒコ=神武天皇である(前頁の通説系図参照)。
従って、神武天皇から見れば豊玉姫は祖母にあたり(大分熊本県境に聳える祖母山の名はその裾野にその祖母を奉祭する大神一族がいたことから付された)、玉依姫は乳母と言えないこともないのである。
宮崎県の可愛山陵掲示板
 ここからは、上無津呂の淀姫神社を念頭に書くこととするが、上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある理由は、自らが神武天皇の直系の一族であるとの思いが込められていることは、まず、間違いないであろう。
 では、淀姫が豊玉姫や玉依姫と言えるのであろうか?結論から言えばそれは全くないと考える。私見ではあくまで淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解された、もしくは、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えている。
 恐らく、それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族ではないだろうか?
 そう考えられる理由は神代氏の出自にある。まず、肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びるが、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったが、裏切りがあり敗北し無念にも上無津呂まで落ち延びたが、在地庄屋の嘉村一族に匿われている。この辺りの神代一族の大活躍については、ネット上にも「北肥戦誌」が公開されており労することなく読むことができる。
 結果、神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったのである。
 事実、上無津呂に対し現在県立博物館に収納されている大小の太刀と水田が寄進されている。
 この神代一族は、古くは「鏡山」と称し高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのである。
 従って、「宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際し、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のではないかと考えている。
 その証拠に、社殿の欄干には今も高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる。
 むしろ、それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えられる。
 ただ、その淀姫が神功皇后の妹か、河上タケルの妹かについては今のところ決め手がない。
 しかし、実は両方とも正しく、ある時代は地域の安定のために誅殺された逆賊川上タケルと安曇磯良の妃となったその妹豊(ユタ)姫が祀られ、神功皇后が主役の時代には神功皇后の二人の妹が祀られ、近畿王権の時代には掻き消され、室町、戦国期を向かえ、江戸期の仏教上位の時代を向かえたのではないだろうか?そして、明治以降現在まで続くある種の偏った神道を受け入れなければならなくなったのではないだろうか?
E 肥前一ノ宮河上の淀姫神社とは何か?
「佐賀県神社誌要」により、祭神は與止日神と大明神の二神と分るが、かつて、国府が置かれ多くの勢力が犇き、交通の要衝でもあることから、二十近い境内社も合わせ祀られている。
 式内社であり、肥前一の宮ともされる淀姫神社(元寇以降田島神社から淀姫神社が一の宮とされた)の祭神が誤記であるはずはないことから、二神が祀られていることは間違いがないであろう。
 しかし、大明神とは誰のことであろうか?
 百嶋神代系図では、河上タケルとその妹豊姫と明瞭であるが、その痕跡が留められているとすれば興味深い。
 事実、主神は逆賊河上タケルと、表筒男命=安曇磯良の妃となったその妹淀姫を意味するかのように、河上の淀姫神社本殿の千木は男神であることを示している。
 神功皇后の二人の妹の内の一人を祀るとする「宮神秘書」の記述もあり謎は深まるばかりであるが、神名帳に言う「與止日女神有鎮座一名豊姫」とあり、千四百五十年前には、一神が祀られ、後に名誉回復された河上タケルが合祀されたのではないかと考えたい。
 一方、古湯の淀姫も海津見神と二神が祀られており、こちらは百島神代系図により淀姫の夫となった表筒男命ではないかと考えている。
F 神水川(オシオイ)川
「鹿と温泉」
 
久留米大学公開講座に於ける講演
(2013年)
久米八幡宮宮司
吉田正一

8分音声
「茂賀浦はなかった」
より抜粋
 上無津呂の淀姫神社の前には神水川(オシオイ)川が流れ、下流の下無津呂には乳母(メノト)神社が置かれている(上無津呂川とも呼ばれ下無津呂からが神水川か?)。
 まず、「佐賀県神社誌要」には乳母神社が書かれていないことから、表向きは、豊玉姫と玉依姫を祀る上無津呂の淀姫神社の分(姉妹)社というより、同格の別宮として両方に二神が祀られているものと考えている(これについては、後日、玉依姫と大海神と確認)。
 さて、山奥の小集落に、なぜ、佐賀の一宮を上回る起源を持つ神社があり、乳母神社までが置かれているかを不思議に思う向きがある。
 乳母神社は、上を豊玉姫社、下を玉依姫社、従って乳母神社であるとしたものであろうことから、当然、各々二神が祀られているのであろう。
 このため乳母神社の呼称は、一応、愛称と理解している。
 奇しくも「古事記」編纂千三百年の年であるが、それをさらに二百年も遡る伝記を持ち、河上、與賀の両県社を五十年は上回る神社が、今年、この地で千五百年祭を迎えるのである。
A)  神社でも寺でも一般の理解とは逆に山奥の方が社格も寺格も上であることが多い。
 それは、奈良仏教(南都六宗派)、平安仏教(天台、真言)で、より、顕著であり、また、農地の発展とも対応している。
 つまり、水田稲作は大平野から始まったのではなく、水を利用しやすい山間地の小平野や佐賀県にも多く認められる隈と付された山裾の奥まった湧水が利用しやすい場所から最初の水田稲作が始まったからである。
『古事記』にスサノウが馬の首を神殿に投込み、田の畦を切ったとしてアマテラスが悲しむ部分があるが、畦を切るのが大罪なのは、それが山間の棚田であったからで、棚田の畦の崩壊は連鎖的な山体崩壊さえも引き起こす危険な行為なのである。
 従って、古い先住者ほど安全で水の得やすい山奥の集落に住んでいたはずで、干拓地や特に関東平野のような川底が深く管理できない大河川流域では水田の開発が遅れ、人口が増え大堤防や井関や超延長の用水路が造れるようになって、始めて平地での開発が始まったのである。
 それ以上のことは言えないが、平地は子孫である分家筋が住み着いたのであり、その時代には、既に浄土教、法華経、禅宗が流行していたのである。
 大平野部は浄土真宗や曹洞禅だらけという意味はこのような背景があるのである。
B)  御塩井汲神事というものがある。箱崎八幡宮の御塩井汲みは知られているが、元は大分八幡宮の潮汲みの場でしかなかった。
 しかし、御潮井汲みは古代においてこそ重要で、山奥の集落では子孫の繁栄のためには、産前産後を通し母子には安定したミネラルを供給する必要があったのである。
 塩井汲みは神の皇子の妊娠、出産、育児、即ち王権の維持継承のために欠くことのできない重要な神事だったのである。
 当然ながら山奥にある王宮ほど生まれた子の生存率を上げ、従って王統、皇統を維持するためにも、想像以上に頻繁に海に潮を汲みに行く必要があったはずで、塩井の名はそれを今に伝えている。
C)  そもそも車が普及していなかった時代には、つまり、つい最近の戦時中においてさえ、佐賀県で言えば、嬉野市と鹿島市の境の山上集落(春日、大野)では泊り込みで塩造りのための若者組の部隊を海まで送り出していたという話を聴いたことがある。
D)  一般に、肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。
E)  このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。
F)   さて、ここからはさらなる思考の冒険になる。淀姫神社でも豊玉姫、玉依姫をセットで祀るのは上無津呂だけであり、なお、際立った異彩を放っている。
  百嶋神社考古学を知るものからは、通説による神武系図のニニギ、ウガヤフキアエズの流れは、確かに豊玉姫、玉依姫(実は鴨カモ玉依姫)と関係があるとするのだが、百嶋神代系図によれば、神武の本当の母親である神カム玉依姫とは別人であり、豊玉姫は神武とは無関係なのである。
  また、河上タケルの妹である豊(トヨ)姫=淀姫の夫となった安曇磯良=表筒男命の母=ウガヤフキアエズの妻である鴨カモ玉依姫は、同時に大山咋=佐田大神=松尾神社=日吉神社との間に活ハエ玉依姫や中筒男命=贈崇神天皇を生んでおり、その流れから『日本書紀』に登場する武内宿禰の身代わりとなった壱岐真根子が出てくることから、上、下両無津呂の隣の集落が麻那古(麻那古と真根子を直接繋ぐ根拠はない)であることと併せ考えると、既に神代には真実の系譜が忘れられていたか、もしくは、神代一族とそれを総帥と祀り上げた三瀬氏(野田周防守大江清秀の一族)を含めた政治的な配慮がなされて豊玉姫+玉依姫が奉祭されたかのいずれかであろう。
G 延喜式神名帳
 平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)『延喜式神名帳』には、肥前國として、大社1座1社(名神大社)・小社3座3社の計4座4社が記載されている。
 あくまでも比定であるが、松浦郡に2座 田島神社(田島坐神社)唐津市呼子町加部島、
 志々伎神社(志志伎神社)長崎県平戸市野子町、基肄郡 1座 荒穂神社三養基郡基山町宮浦、佐嘉郡 1座 與止日女神社(与止日女神社)佐賀市大和町川上 とする。
 ただし、現在の淀姫神社から嘉瀬川を一キロほど遡った左岸、現在の肥前大和巨石パークの中に造化大明神という大石が有り世田姫が祀られているが、この地を与止日女神社の上宮として明治まで祭礼を行なっていたとも聴く。
 巨石信仰と龍王の遣いとして鯰がのぼる淀姫とは繋がりにくいが、淀姫が何かを探るには必要な作業となる。
H もう一人の豊姫?
 淀姫神社の祭神を探る中、ユタ(ヨタ)姫が豊姫、世田姫などと記され、
 後にヨト(ヨド)姫と呼ばれ、淀姫との表記が定着したのではないかと仮定したが、実は、筑後地方にもう一つの豊姫が認められるのである。
 筑後国の『延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社5座4社の計6座5社が記載されているが、三井郡には豊姫を祀る豊姫神社、八幡神社(豊比盗_社)がある。
 いくつかの比定地が推定されてはいるが、実は「豊姫神社」がどこにあったかは分かっていない。
 ただ、久留米市北野町赤司の赤司八幡宮の可能性が高いと考えるので、以下、これを中心に筑後の豊姫を考えることとする。
 赤司八幡宮は高良玉垂命の後裔と言われる稲数家が高良玉垂宮の祭祀権を奪われ、領地を与えられ移り住んだと言われる稲数地区の直ぐ隣に鎮座している。
 以前、宮司の宮崎氏(高良山研究の第一人者古賀 寿氏の弟子にあたる)から直接資料を頂き御説明を賜わったが、伝えられる縁起には確かに神功皇后の妹豊姫の名が登場するのである。
 これについては、貴重極まりない「赤司八幡宮文書」がネット上に公開されているので、その一部を紹介したい。 

 元大城小学校教諭 野口治七郎氏編著 北野町教育委員会作成 第四章 豊姫縁起

 豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宇像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのは ここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻) とある道中は河北荘道中である。「今在海 北道中號白道主貴(ミチスキ)此筑紫水沼君(ミヌマノキミ)等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。
 のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命(タゴリヒメ)の荒魂(アラミタマ)が八止女津媛(ヤメツヒメ)となって現れたが、 水沼県主(ミヌマノアガタヌシ)猿大海(オオミ) に神告がありましたので天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。
 神霊の至すところ、 九州が平定したので、御子国乳別(クニチワキ)皇子を長く、祭祀の御手代(ミテシロ)としてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置(イナギ)・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村と いい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
 やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、 赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
 神功皇后が西征の途に於て中ツ海(ナカツウミ)(有明海〜当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、 水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや 水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
 皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名(ヌナ)井の霊水 を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。    
 皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を 道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、 神名帳には止誉比盗_社とあります。

 と書いている。
 前述のように「宮神秘書」においても神功皇后の二人の妹の一人である豊姫が「河上大明神トナリ玉フ」としており、通常、複数の別の資料によって裏付けられるものは事実であったとするのが常道であり、それに従えば、ある時期には高良山の神功皇后を中心に、豊満大祝、河上祝が戦略的に配されていたのかも知れない。
 その時期とは、当然にも神功皇后が高良山にいた時代、つまり、高良玉垂命=第九代開化天皇が高良山にいた時代となる。
 なぜならば、通説では神功皇后の夫は仲哀天皇とされるが、「宮神秘書」では「高良玉垂命と神功皇后とは夫婦となった」としているからである。
I 河下大明神(なぜか川下にある河上の淀姫神社)
 肥前国の一宮であり「淀姫さん」として知られる川上の淀姫神社は、古くは河上神社と呼ばれていた。事実、大正十五年の「佐賀県神社誌要」においても「河上神社」としている。
 もちろん、この神社の鎮座地が大和町大字「川上」であることから、社名はその地名から付されたものとすることは容易いが、どのように考えたとしてもこの地が「川上」と呼ばれるのは奇異である。
 まず、淀姫神社を洗う嘉瀬川は、古くは佐嘉川と記され(「肥前国風土記」)、背振の大山塊の懐から流れ降り深い渓谷を刻みながら佐賀平野に噴出している。
 平地に出た後、現在は佐賀市街地の西側を流れ有明海に注いでいるが、この流れになったのは江戸期に成富兵庫茂安が佐賀城下を安全にする為に石井樋(いしいび)と呼ばれる制水ダムを築造し放水路として嘉瀬川の流路を変えたからであり、それ以前は平野に出た後、東方に流れていたと考えられている。そのことを示すのが「佐賀県史(上巻)」の「嘉瀬川河道変遷図」である。
 つまり、奈良時代の嘉瀬川は、大和町総座の肥前国府辺りから東南に流れ、現在の巨勢(こせ)川に流れ込み、佐賀江を東に流れ筑後川に注いでいたのである。
河上神社正面(肥前鳥居)
河上神社本殿
千木はなぜか男神を表わす
古湯温泉の淀姫神社
ここの九郎は阿蘇惟成とする
千木は男神を示している?
 佐賀県の紀元前後の波際線は、ほぼ、海抜四、五メートルの等高線と推定されている。佐賀市の南側を東西に走る国道264号線とほぼ一致し、この付近には多くの貝塚が見つかっている。
 ただ、その自然陸化により生み出された土地も、大半は頻繁に高潮の影響を受け葦が繁るような低湿地が断続する土地でしかなく、嘉瀬川(佐嘉川)が平地に遭遇した辺りの河上神社一帯は、当時においても、少し下れば海に遭遇する河口のような土地だったのである。
 川上の地は「北肥戦史」で言う肥前山内(サンナイ)の地ではあるが、肥前の大平地(佐賀平野)との接点をなす一角であり、同時に脊振山系を駆け下った水がようやく緩やかになる場所として平野部の大勢力と接触する要衝でもあった。
 このような地が川上と呼ばれる理由は一つしかない。
 それは、上流域の川上集落からの地名移動であり、新川上(北海道の新十津川と同じ)こそが、その本質と考えるのが地名研究上の常道であろう。
 ただ、これはそう考えることができるといった程度のもので、上無津呂の淀姫神社が、河上、与嘉町の淀姫よりも五十年ほど古い創起縁起を持つことの多少の説明ができるということから持ち出したものでしかなく根拠があってのものでないことはお断りしておく。
 ただ、E A)でも書いたように、川下に降った川上神社がいわゆる河上神社と考えたい。
J 神宮寺としての実相院
 古来、多くの神社(氏族)は、その時々の権力のあり様に合わせ、時として寺院を装い、または習合し、或いは神社に復し、かつ、祭神を入れ替え、または隠し、新たに呼び込み、併せ祀し生き延びてきた。
 それは、ほんの百五十年前も同様で、明治維新により、大規模に仏教から神道への支配装置の切り替えが行なわれた(同時に神仏混淆の山岳修験も弾圧された)。
 それどころか、我々の記憶も多少は届く程度の時期、つまり、敗戦による政治的大転換の時期においても、支配構造に組み込まれていた重要な神社や寺院ほど、自らの手で蔵書が移送され、隠され、大量に燃やされたのであった。
 事実、久留米の某神社でも一週間掛けて文書が燃やし続けられたとの多くの話(証言)を得ている。
 無論、そのような政治権力に纏わる話には、貴重な文書が消失すること以外一切関心がない上に、淀姫神社が何かを探るものにとっては、時として邪魔にさえなる。
 しかし、これほどの祭神についての混乱が認められる淀姫神社においても、その成り立ちからこれまでの間に多くの変化が生じたのではないかとの想定が避けられず、それを無視し、「淀姫は何々以外ではありえない」と言うことは容易いが、そうすれば「淀姫」が何か、従って本当の歴史はどのようなものか、さらには自らが何者であるかを考えること自体を放棄することにしかならず、言葉の意味がないことになってしまうのである。
 ここでは、宇佐神宮の神宮寺が弥勒寺であったように、淀姫神社にも同様の神宮寺が存
 在し、それが、直ぐ傍の実相院であったことを確認することから始めたい。
  ただ、それは河上の淀姫神社の裏の顔を探ることにはなるが、他の淀姫神社にも援用が効くか
 については全く不明である。
 少なくとも川下にある淀姫神社(式内社与止日女神社)に於いては、中世にはその西にある実相院が同社=河上神社の社務を司執っていたとされている(別当)ことを確認したい。
河上山實相院(じっそういん)由来
 宗旨真言宗、本尊薬師如来当山は今を去る1270年前 行基菩薩が和銅五年(712)岩屋山に神宮寺を開基されたのが実相院の始まりである。それから380年後寛治元年(1087)比叡山より円尋僧正が別所一帯を開墾し河上山神護寺実相院を建立した。当時の境域は広漢数十町歩と記してある。

 注目すべきはこの僧 行基である。ここで行基について触れるのは長くなるため避けるが、白村江を全力で戦った九州の勢力が多大な犠牲を出し衰退するなかで、実質、唐、新羅と内通したとも言われる大和の勢力が体を入れ替え、近畿王権を確立して行く。
 後に行基は大僧正にもなるが、この転換期に彼は生き、初期の大和朝廷は彼を徹底的に弾圧していた。
 平城遷都後に私僧を統制するという話が『続日本紀』に出てくる。
“行基と弟子どもは巷に群れ集まりみだりに因果応報、輪廻転生を説き、徒党を組み説法をしては物を乞い百姓を惑わしている。このため僧も民衆も乱れ騒ぎ人々は仕事をしようともしない。釈尊の教えに反き、一方で法を破っている。”というのである。
 しかし、行基は抵抗運動を続けた。彼らは集団化し朝廷をも脅かす勢力へとのし上がっていったのである。
 朝廷が行基の集団を弾圧したのは、単に信徒の数がふくれ上がったという理由だけではなく行基らの集団が奈良王朝の根本・律令制度を否定する行動をとったからであった。
 律令制度は民衆の定住と農耕前提につくられており、非定着民を制度に組入れなかったが、重い税や労役にあえぎ、苦しみながらも税を都に運ぶ人々のために、行基は各地に橋を架け布施屋とよばれる救護所をつくり布教に努めたのであった。
 当然、民衆の支持は高まり、ついには、朝廷にとって無視できぬ存在となっていったのである。律令国家の“資源”であった民が僧形(優婆塞)となり、農地を捨て漂泊するようになっていったからである。
 朝廷公認の正式な僧は納税の義務は免除されるが、私僧はそのかぎりではなく、彼らの僧形と漂泊は朝廷に対する反抗と見なされて行くことになる。つまり、彼らの運動が無限に広がれば、律令制度はおろか国家自体が消滅しかねないほどの重大事だったのである。 
 ところが、朝廷の行基らに対する態度は逆転することになる。
 『続日本紀』天平十三年(741)冬十月の条には、奈良の北方木津に橋を架けるのに、畿内と諸国の優婆塞たちを召集し使役したとあり、そこで、彼ら七百五人をすべて正式に僧として認めるとする記述が出てくる。この記事が藤原広嗣の乱の時期とも重なることから関係がありそうで、反藤原を標榜し実権を握った聖武政権が、それまで弾圧していた行基らの活動と連携しようとしたのかもしれない。
 問題はこの行基の背景である。動きから見て、近畿にも展開した九州王朝系の勢力、従って九州の高良大社との関係が考えられるのである。
 河上山實相院は行基によるとするが、当然にもその時代に天台、真言はない。今でこそ真言であるが以前は天台のはずであり、この九州の天台系の多くが、後にかなりの寺領を失っており、それが筑前琵琶や盲僧を生み出したと考えられるのである。
K フィールドから見た上無津呂の淀姫神社
 まず、淀姫神社は上無津呂川(神水川)に相尾と川頭の二方向から十字型に支流が集る落合の集落(言うまでもなく落合の意味は川合の地から付されたもの)に置かれ、御塩井汲みは神水川で行なわれている。
上無津呂淀姫神社新神幕
上無津呂淀姫神社女神千木
上無津呂淀姫神社の竜神からのお遣いの鯰
上無津呂淀姫神社の土俵
上無津呂淀姫神社本殿に見る高良大社の神紋
木瓜紋は神代氏の神紋でもある
乳母神社正面
乳母神社本殿
乳母神社は男神千木
乳母神社神額
 鳥居は肥前鳥居の延長にあり、有明海沿岸に多く認められる三本下がりの注連縄が張られている。本殿の千木角は上部が横切りにされ、祀神が女性の神様であることを示している。
 また、参拝殿右手には土俵が設えられており、奉祭する一族に海人族が多数含まれていることを今に伝えている。
 今回の千五百年祭に併せ神幕が新調されていたが、以前の十六葉菊から左三つ巴(住吉大神)に替えられているのは興味深い。明治期から本来の形に戻ったものと理解している。
 これにより、本殿欄干や屋根の左三つ巴との整合性が取れることになった。
 淀姫神社が淀姫を祀ってあることの痕跡は、今のところ鯰の置物が相撲場に置かれている以外にはない。社名が上無津呂神社とでもなり置物がなくなれば、淀姫神社の痕跡はなくなってしまう。
 本殿の神殿内については垣間見る機会を得なかったことから云々できないが、欄干には、左三つ巴に併せ、あまり見かけない左二つ巴に、中津の薦神社と同じ左一つ巴が並び、驚くことに剣付きの木瓜紋までが確認できる。三種類の巴紋の意味は全く見当が付かないが(中津の薦神社も本殿に三種の巴紋が認められる)、少なくとも、左三つ巴と剣付き木瓜紋が揃って確認できることから、高良玉垂命の後裔と自認する神代勝利の一族が高良大社の神紋を本殿に刻んだと考えられるのである。これらのことから、現在の祭神に淀姫の名が消えていることの説明が付くような気がしている。
 神代一族は、今後も続く龍造寺氏との戦いに備え、より強い神の加護、後楯を必要とし、それを察知した嘉村の一族の側から豊玉姫、玉依姫への変更が申し出られたのではないかと考えている。
L 熊襲タケルが酒宴を行なっていた大和町大願寺
 大和町大字川上には通称大願寺と呼ばれる地区があり、真言宗御室派 真手山 健福寺 という古刹がある。
 この寺の昭和四十九年の寺報「健福寺」落慶法要記念号に「大願寺の伝説」として“大和町大願寺で酒宴中の熊襲タケルが小碓尊(こうずのみこと)に討たれた”と書かれ、さらに「熊襲の墓が境内にあるといわれているが勿論元真手山にあった時代であるので彼の地一帯を調査する必要がある」とも書き留められている(添付資料参照)。
 一方、昭和五十年の旧「大和町史」657pにも伝説・民話の先頭に、1川上たけると真手(大願寺)として同じ内容の記事がある(添付資料参照)。
 「大和町史」の川上タケルの記事のことは以前から知っていたが、熊本の九州王朝論者、故平野雅廣(日+廣)の「倭国史談」所収の「異説ヤマトタケル」(添付資料参照)を読むまでは本格的には考えてはいなかった。
御室派健福寺
和銅年間の真手千坊
寺報「健福寺」
大願寺跡にある五社大明神
境内には巨大な礎石が残る九州王朝の廃寺か?
佐賀市による掲示板
佐賀市の案内板にもヤマトタケルの記事はない(合併の成果)。
荒唐無稽とされたか?
 この伝承を残す健福寺も、現在でこそ真言宗御室派ではあるが、古くは前述の實相院と同様の天台系であり、健福寺の山門付近には、この山には行基に従う千坊があったとの掲示板も置かれている。
 淀姫神社の祭神を考察する上での重要な資料と考えている。
 九州王朝論の立場から高良大社を研究する者からすれば、川上の淀姫神社周辺に濃厚な熊襲の痕跡を確認できたことになることから、熊襲内部、実は九州王朝内部での抗争としての「ヤマトタケル伝承」とその後の支配が多少は見えてきた。
 松野連系図と百嶋神代系図とを合せ考えれば、学会通説に封じ込められた謎が多少は解れるのではないかと考えている。
 つまり、淀姫神社とは、滅ぼされた「川上タケル」を封じるために、安曇磯羅=表筒男命の妃となった=川上タケルの妹豊(ユタ)=姫を合せ祀ったものであり(そのため河上の淀姫の本殿の千木は男神を示し、大明神と二人の神が祀られているのである)、そして、それを沈め祀るものとして派遣された大祝が「高良玉垂宮神秘書」に書かれる神功皇后の二人の妹の一人豊(トヨ)姫が混同されたのではないかという推測が見えてきた。
 繰り返すが、その河上の淀姫を遡る縁起をもつ上無津呂の淀姫神社は、神代一族によって、本来、逆賊川上タケルが下無津呂の乳母神社に祀られ、順神として安曇磯羅の妃となった川上タケルの妹豊(ユタ)姫が上無津呂に祀られていたものを、龍造寺との決戦に際して、逆賊では勝てないと判断したか、神功皇后よりもさらに上回る神威を持つ神武天皇の母君、祖母君を神代一族の守護神として合せ祀ったのではないかと考えている。
 その証拠に、下無津呂の乳母神社の千木は男神を示しているのである(写真参照)。

 今回はヤマトタケルの熊襲退治という誰でも知っている話の舞台が佐賀の川上峡一帯であったという話に多くの頁を費やした。
 荒唐無稽な話と片付けることは容易いが、ではそう主張した者に「では、それはどこで起こったことなのか」と問えば、良くて、熊本、悪ければ鹿児島を上げ具体的な話は一切出てこない。はたまた、最初からそれは神話でしかなく架空の話であると言うことであろう。
 しかし、この地には微かながらも具体性を持った痕跡があるのである。
 文科省、神社庁に尾を振る教育委員会や既存の郷土史会は、どれだけ『古事記』『日本書紀』に精通しているかを権威の拠り所としていることから始めから無視するであろう。
 戦後、科学性を看板に登場した津田左右吉以下の国史学者は、手のひらを返すように、第二代から第九代までの天皇は全て架空であり、まじめに考えるに値しないとし、それを取り扱うものは歴史を知らない者であるとした。
 我々は、そのような権威とは一切関係がないため、何と言われようが構わないが、右の百嶋神代系図には、河上タケルと淀姫の年齢差までも判別できるのである。
 さらに、河上タケル、従って淀姫が贈)孝昭天皇=海幸彦=阿蘇の草壁吉見神社(雲南省、海南島)とヒコホホデミ=山幸彦(半島系)→ウガヤフキアエズの両方の流れを持つ一族であることまで読み取れるのである。詳細は百嶋由一郎講演全集(MP3音声CD/\2000)を。
M 神代一族を受け入れた三瀬氏とは何か?
神代勝利の一族が高良大社の大祝の鏡山家であったことは既に述べたが、では、その鏡山家を受け入れた三瀬氏とは何か?が次に問題となる。
 角川の「日本地名大事典」には、みつせ三瀬(三瀬村)として、文永元(1263)年に東国から入ってきた野田周防守大江清秀とその一族が、三瀬トンネルに近い杉神社辺りに拠点を置いた。
 まだ、この全貌は掴めないでいるが、国東半島一帯の神社を調べていると多少思い当たることがあった。
 姫島の正面に位置する伊美周辺には石清水八幡系の神社(伊美別宮社、岩倉社、岐部神社・・・しかし実態は高良神社)が多い。
 国東半島全域が紀氏の領域ともいわれ、旧橘一族に連なる人々が数多く住み着いていた。
 この周防の正面でもある伊美の一画に野田という集落がある。何よりも高良神社を奉祭する一族であることから、もしも、三瀬氏がこの氏族の一派であったとすると、高良大社の鏡山家を受入れ、肥前山内統合のシンボルとしたことの理由が見えてくるのである。
 これについては、関係する親族関係とか家紋、家伝、信仰する宗派などさらに詳しく調べる必要があるが、当面は決め手がなく仮説として留めておきたい。
 どうも鎌倉から戦国期に肥前山内に集り楯籠もった人々とは、大和朝廷に先行した古代王権に繋がる人々であり、それ故に強固な結束力を持ったのではないかと思えてならない。
 勿論、目的は久留米の高良山の奪還であり、九州王朝の再興であっただろう。
 この以降の内容については、「法隆寺は移築された」を書いた米田良三氏の「長谷寺」に関連するため、別稿「発瀬」の課題としたい。
N 上無津呂の淀姫神社の九郎社とは何か?
 これについては、賛同を得られないことを覚悟の上で紹介しておきたい。
 三瀬村に隣接して脊振村、東脊振村があるが、この一帯には謎の多い「九郎社」がいくつか置かれているばかりか静御膳の墓なるものまである。
 普通は無視しそうな内容ではあるが、実は淀姫=河上タケルの妹説を示している故百嶋由一郎氏は、以前、「静は臼杵の地頭の娘であり、身ごもった義経の子を津屋崎で生み、その義経の血を引く子は臼杵で地頭職を継いだ」と語っていた。
 故百嶋翁は連絡を取っておられ、その一族を研究する団体があると聴いていたが、当方は連絡を取れていない。
 当初、境内にある「九郎社」は神代勝利の兄弟の孫九郎と考えていた(神代系図を参照のこと)が、十年前まで佐賀大学教授であった大矢野栄治氏の九郎判官義経=少仁説の証拠の一つであることに気付き、神代勝利の戦国期はともかくとして、それより前の鎌倉、室町期の淀姫神社の一面を見た思いがする。
最後になるが、百嶋神代系図には架空とされた欠史八代の天皇ばかりではなく、国史
学者もここからは信用できるとした第10代の贈崇神天皇 和風諡号 御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)『紀』、御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエ)『記』 また、御肇國天皇(ハツクニシラススメラミコト)が別名として ツヌガノアラシト、中筒男命、賀茂別井雷とも呼ばれていたことが書かれている。
通説に尾を振る人々にも関心を持つべき内容を含んでいること伝えておきたい。 
(追補) 川の中から湯が湧いていた
神水川の底からは温水が湧いていた
 繰り返す必要はないが、先に、「肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。」「このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。」と書いた。
 この淀姫神社調査に於いて、本稿の冒頭に書いた例の良医から「何故、神水川と書き、おしおい川と呼ばれているのか、さらには、何故、乳母神社があるのか?」と問われた時に、この山間僻地での塩の重要さと、妊娠、出産、育児にかかわるミネラル塩の貴重さが直ぐに頭に浮かびはしたものの、古湯温泉からさらに十キロ以上も奥に入ったこの地の辺りに具体的な古い鉱泉場の存在も知る由もなく、それ以上筆は伸びなかった。
 もちろん、通常の知られた温泉場ばかりではなく、梅毒、淋病が横行した時代には、方々に瘡湯(かさゆ)があったし(淫売買って鼻が落ちる…)、古くは、子宝が授かるお堂の水とか、沸かし湯に遊女まがいのものを置いた怪しげなものまでが至る所に存在した。
 もちろん、それらの全てに科学的(医学的)な効能があったはずはないが、太古より長年培われ、土着の経験によって淘汰された効能といったものが確実に存在していた。
 しかし、明治以後、ヨーロッパ流の保健衛生の導入と、温泉法(S23)によるある種仮定に基づいた線引きによって需要を奪われ、それらのものから排除され零れ落ちていった冷泉、鉱泉(ここでは法的な意味ではない)といったものも数多く存在していたのである。
 無論、これらの存在についての知識は土地のものでなければ解らないが、古老というものは実に有難いものであり、今でも十人ほどに聴けば、まだ、彼らが子供の頃、彼らの祖父母辺りから聞いた話といった百数十年前まであたりの記憶が回収できるものなのである。
 従って、そうした地域の知識を持たない者が限られた土地を云々することの危うさは、この一事でも明らかだが、神水川、おしおい川、乳母神社の三点セットは、それだけで、ミネラルを意識させるには十分過ぎるものがあった。
 始め、この点に関する聴き取りを行いはしたものの、限られた範囲でしかなかったことから分からなかったのは当然であったが、その後、上無津呂の淀姫の千五百年祭、下無津呂の乳母神社のお祭りの注連縄造りから直会の準備にまで参加するに至り、色々な聴き取りをしてくるうちに、ようやくその核心に近づくことができるようになった。
 それは、例の良医先生に”乳母神社の前で泳いでいたか?”と問うたことから始まった。
 およそ半世紀前の下無津呂に、海などというものは一日掛けて泊まり込みでもめったには行けないものであり、泳ぐと言えば川以外にはないのであったが、あれほど冷たい川の中で、熱水とは言わないまでも”多少とも暖かく感じる湯水が沸くところがあった”と話し出したのである。
 ”おいおい、そんな話はもっと早く言ってもらえば…”というのが本音であったが、このミネラルの話はそれなりの関心を持っていないと思い至らないのが当然であり、まずは、核心に迫るには場数が必要という良い例であろう。
 当然ながら、ほんの五十年前までは、ここでも牛が田を起こしていたであろうが、馬や牛を飼うにも塩が必要で、古代に於ける海岸部の官牧(かんまき)などは問題ないとしても、それなりのミネラル塩が染み出すような岩盤の割れ目とか、塩気のある沼地といったものがなければ牛馬の繁殖などはできないのが道理であった。
 このようなことは一般の知識からは既に消え失せているが、地区に、神水川、おしおい、川、乳母神社の三点セットがある以上、そのような場所が地区のどこかにはあった可能性は高いはずなのであった。
 試みてはいないが、まずは、小字名などを調べれば、水場、宇土手、潮、塩浸し…といった類のものが拾えるのかもしれない。
 話によると、現在の神水川には乳母神社本殿の裏にそれほど大きくはないものの渕があるが、そこが隣の真那古集落も含めた水場であったが、泳いでいると温水が沸いていたというのである。当然ながら、それ以外にもそういう場所があると考え、祭りの準備をしていた氏子の数人に話を聞いてみた。
 雪の日にここだけは早く融けるとか、霜が降らないとかいった場所はなかったか?と問うと、間髪入れず、川向うのテニス・コートのところ…との答えが返ってきた。
 まだ、このような知識が保持されているということは、水田にした時の米の収量に直結する重要な情報であるからであり、もしかしたら大昔はこの辺りからかなりの高温泉も、出ていたのかも知れない。
 嘉瀬川は花崗岩質の岩盤を切り裂いて佐賀平野に流れ下っている。今でも下流から、川上峡温泉、熊の川温泉、古湯温泉が操業中である。
 もちろん、川のそばに泉源が集中しているのだが、ここに限らず、筑後川水系においても、川のそばに温泉が集中していることは、原鶴、筑後川、日田、天瀬、杖立の例を持ち出すまでもないだろう。
 温泉の形成には色々なケースがあるが、多いものは地殻の割れ目に雨水が流れ込み、地下のマグマと地下水となった水が接触するものがある。そもそも、地表にある川も地殻の割れ目(大地の罅割れ)に雨水が流れ込んだものであるし、川沿いに温泉が多いのはそのためである。
 こうして、地下のマグマと接触することにより地表に現れることになった金属を含む多くのミネラルが、山間に住む草食動物や僻地に生きる人間にも供給されるのである。
 温泉やミネラルを含んだ冷鉱泉は、まさに、山に住む人生にとってこそ霊泉となったのである。
藻塩のなごりか?
 現在、明確な形では確認できないものの、この真那古から無津呂に掛けての一帯には、日常の食生活に必要な食塩はともかくも、人間と家畜の再生産に関わるミネラル塩の供給には有利な土地であったのかも知れない。
 七一三年に所謂「好字令」が出され、以後、地名には好字二字とするとされることになるが、どのように見ても「真那古」「無津呂」は、それ以前に成立した古い集落に思える。これは、同時に、上無津呂の淀姫神社の創起が一五〇〇年前に遡ることの信憑性をある程度示している。
 最低でも、あの集落の水を飲んでさえいれば、「子宝に恵まれ、安産で、丈夫な子が育つ…」ぐらいの話は、積み重ねられた経験によって確認され、本当に優れた水であったならば、産婆(取り上げ婆)のネット・ワークによって肥前一国ぐらいには直ちに広がったことであろう。
 祭りの準備をしていて色々と気付いたことがあった。それは、民俗学的テーマとなることからここでは避けるが、もう一つ、海水を入れた竹筒に海藻を被せたものが準備されていた。それは、まさしくこの乳母神社意味を強く象徴しているものであった。
 海水と藻となると、直ぐに思い浮かぶのは、藻塩(モジオ)意外にはない。
 「万葉集」に限らず、古今、新古今などにも多くの焼塩が登場する。
 まずは、身近なところから(巻3−278)、
「志賀の海女は藻(め)刈り塩焼き暇(いとま)なみ櫛笥(くしげ)の小櫛取りも見なくに」
志賀島の海女は海藻を刈り、塩を焼き休みなしに働いていることから櫛箱の櫛を取り出して身繕いする暇もない
平野雅廣「異説ヤマトタケル」
ヤマトタケルの熊襲退治の舞台は、佐賀の大和のことで、討伐に来たオウスも肥後の熊襲であり、その神話を盗んだのが近畿大和王権であることが「松野連系図」により分る。
熊本県在住の九州王朝論者故平野雅廣氏
松野連系図
松野連系図は国立国会図書館ほかに所蔵されているが、熊本の松野一族(松野鶴平、雷蔵)と推定されている。「松」は木+公=木の君を意味し、呉王の姓=姫を意味する?
系図には取石鹿文が二人出てくる。誅伐された川上タケル方と名を貰った方のようである。
武雄市 古川 清久
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