久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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正木 裕 (古田史学の会)
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久留米大学公開講座に於ける講演(2013年)
(古田史学の会)
正木 裕
約1時間30分音声
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(主旨)『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名「泄謨觚・柄渠觚・?馬觚」、それは周代の青銅の祭器と儀礼に起因するものだった。そして、その儀礼は現代にも生きている。
(参考文献)古田武彦『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』『邪馬一国への道標』『倭人伝を徹底して読む』『続・邪馬台国のすべて』『俾弥呼』『現代を読み解く歴史観』ほか
(爵) (觚) (勺) じこう)
一、 倭人は周王朝と交流し「鬯草」を献じた
『論衡』 「周の時、天下太平にして、倭人来たりて鬯草を献ず」「成王の時、越裳雉を献じ、倭人鬯(草)を貢ず」『漢書』 「夫れ楽浪海中倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云ふ」
①『論衡』の著者「王充」27~91)②建武中元2年(57)「倭人」が ③『漢書』の著者班固(32~ 92)光武帝から授かった「志賀島の金印」
二、 倭人は「昧マイ」を奉納し周の官制を用いた
『礼記』明堂位「昧(マイ舞)、東夷の樂なり。任、南蠻の樂なり。夷蠻の樂を大廟に納む」
『周礼』疏「??氏、四夷の樂と其の聲歌を掌る。(略)東夷の樂を?(昧)と曰ひ、南方、任と曰ひ、西方、侏離(しゅり)と曰ひ、北方、禁と曰ふ」
『論衡』玄菟楽浪。武帝の時、置く。皆朝鮮・穢*貉・句麗の蛮夷。
殷の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼義を以てし、田蚕織作せしむ。

箕子
三、 殷・周代は青銅の祭器の全盛期
鼎:殷末BC13~11 爵:殷BC13~12 尊:殷BC13~11 鬲:西周BC11~10
四、 周の「爵制」と倭人の朝貢 - 青銅の祭器「爵」にもとづく位階制(爵制) -
乳釘紋銅爵殷・周時代(二里頭文化)
H22.5cm、W31.5cm
河南省洛陽博物館縁の一方(左)が注口(流)、その尖
「器」と「鬯草」
五、 「觚(コ・ク)」は爵と対をなす青銅の器
『周禮』に記す「爵と觚」の礼(⇒三献の儀)
『周禮』(冬官考工記梓人)
爵一升、觚三升。献ずるに爵を以てし、酬(こた)うるに觚を以てす。一獻に三酬、則ち一豆なり。
(觚) (豆) (三方)
六、 倭人伝の官名「觚」と周の青銅器「觚」
青銅器の名である特異な「觚」の文字が『倭人伝』の伊都国・奴国の官名である「泄謨觚・柄渠觚・馬觚」に用いられている
『魏志倭人伝』東南陸行五百里、伊都國に至る。官を爾支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。東南奴國に至ること百里。官を馬觚と日い、副を卑奴母離と日う。二萬余戸有り。
周「爵」に由来する「爵制」⇒倭国「觚」に由来する「觚制」
「觚」は、形状・用途により「泄謨・柄渠・馬」と名付けられ、倭国では「官名」に
1、泄謨觚
「泄」(呉音セ、漢音セイ)「水+世」「泄・漏泄也(宋本廣韻)」緩やかに外へもれ出る・もらす意味。
「謨」(呉音モ、漢音ボ)「言+莫」「広くはかる」或は「古代の祭器」
『周礼』(春官、鬯人)凡山川四方用蜃、凡埋事用概,凡副事用散。(注)杜子春云、謨當為蜃(略)鄭司農(*鄭衆の注釈のこと)云、脩・謨・概・散、皆器名。
「觚」の形状は「口が大きく開きすぎ、実際の飲酒には不向き」
⇒①MOA美術館所蔵「饕餮文觚」(殷代末)H30.4㎝。底径8.9㎝、細径4㎝、口径16.3㎝
泄謨觚⇒「大きく開いた飲み口から酒が溢れ、漏れ出す(泄)、「蜃」に似た器(謨)のような杯(觚)」
①觚 ②勺(杓)   杓 魁
2、「柄渠觚」
「柄」(呉音ヒョウ、漢音ヘイ)は「え・つか」の意味。
「渠」(呉音ゴ、漢音キョ)は、「溝、頭・首領(例:渠魁・渠帥など)」の意味。
⇒②饕餮紋勺(とうてつもんしゃく)(西周・全長37.2㎝・径5㎝・宝鶏市周原博物館蔵)と北斗七星
「柄渠觚」⇒「柄付きの渠を持つ杯(觚)」で「勺(杓)」にあたる。
3、「馬觚」
」(呉音・漢音ともにジ)とは『山海経』に記す想像上の動物で、犀や馬に似た一角獣
「馬」は「ウマ」
⇒③鳳鳥紋:周代早期 丹徒烟山出土
馬觚」⇒「馬」の形をした酒器「(じこう)」にあたる。
(註)官名の「觚」は青銅器「觚」由来―仁平忠彦氏の発見―仁平忠彦HP「自由のための不定期便」
(《続・「真説古代史」拾遺篇》(143)「倭人伝」中の倭語の読み方(86)官職名(14):伊都国(6)2013年1月8日
七、 東夷に残る周代の「礼」
「夷狄の邦と雖ども、俎豆の象存り。中国、礼を失うとも、これを四夷に求むるに、猶信ずるものあり」(『三国志』東夷伝序文)
『漢書』「(ほき)俎豆は禮の器なり。」(「 」は四角い祭器,「」は円形の祭器)
同「犀牛を殺し、以て俎豆の祭具とす。五帝、獨り俎豆の祭具を有す。」
『三国志』東夷伝序文
長老説くに、異面の人有り、日の出る所に近しといふ。遂に諸国を周観し、その法俗小大区別を采りおえ、各に名号あるを、得て詳紀(つまびらかに)するを可(う)る。夷狄の邦と言えども、俎豆の象あり。中國礼を失うとも、これを四夷に求むるに、猶信ずるものあり。故にその國を撰び次ぎて、その同異を列べ、以って前史の未だ備へざる所を接ぐ。
八、 何故「伊都国・奴国」に「周代の礼」か
―それは天孫降臨以前の倭人の拠点だった―
瓊瓊杵の降臨地糸島地域
『古事記』竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降り坐す。(略)此の地は、韓国に向ひ真来通り、笠沙の御前にして、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此の地は甚だ吉き地。
『書紀』(第一、一書)筑紫の日向の高千穂の(くしふる)之峯。
『怡土志摩郡地理全誌』「高祖(たかす)村、椚(くぬぎ)(略)五郎丸の内、日向(ひなた)山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。民家の後に、あるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。」古田武彦『盗まれた神話』(一九七五年朝日新聞社)より
「爵」や「觚」の「祭祀型青銅器」は、天孫降臨以前の祭器⇒倭人の周への朝貢は天孫降臨以前
⇒天孫降臨時には糸島平野は周に朝貢した倭人の子孫たちが統治していた。
*糸島地域の領域の支石墓(紀元前2~6世紀ごろで天孫降臨以前)。東部の小田支石墓、西部の新村遺跡、前原市に志登支石群、三雲井田地域に三雲石ケ崎支石墓など多数。
九、 伊都国の長官名「爾支(ニキ)」
『古事記』邇邇芸命の尊称「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシ・クニニキシ・アマツヒコホノニニギノミコト)」
⇒「爾支」(「邇・岐」は「爾・支」と音・意味とも一致)
『魏志倭人伝』「女王国以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国之を畏憚す。常に伊都国に治す」
・「一大率」とは「一大国の率」の意であり、その実体は、天孫降臨(以来)の軍団のリーダー」である。(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日文庫版/あとがきに代えて「補章二十余年の応答」)
⇒「爾支」は「常に伊都国に治す」一大率の長官名にふさわしい
邇芸速日も「邇芸ニキ」
邇芸速日の子は「天香山命・宇麻志麻治命」で、火山・可也山・にぎの浜など「志摩」由来地名
十、 天孫降臨を境とする新旧勢力の二重構造が伊都国・奴国の官名に反映している
「泄謨觚」「柄渠觚」 は天孫降臨前の周代の「觚」に由来する「旧勢力(在地)」の官名。
「爾支」 は糸島地域に天降った邇芸速日や「一大率」の長官邇邇芸に由来する「新勢力」の官名。
⇒「新勢力(支配者)」たる邪馬壹国王が任命する長官が「爾支」で、副官は在地旧勢力の「泄謨觚」「柄
渠觚」という周代由来の官名。「官名の質の違い」は天孫降臨を境とした2 重の権力構造の現れ。
「奴国」には邪馬壹国による「率」派遣や長官任命記事は無いので、旧来の在地の官名「?馬觚」が残った。
十一、 現代に残る「周代の儀礼」
3,000 年前の殷・周代の青銅器由来の「礼(儀礼)」が今日の日本に残っている。
長柄と爵の注口と尾、三方と豆(三献の儀)、角樽の角と鼎、手水舎・樽・枡・杓のセットと尊・杓・觚のセット、包丁式と俎(贄の神事)
(古田史学の会) 正木 裕
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