久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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―最近の考古学的発見と九州王朝―
正木 裕 (古田史学の会)
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久留米大学公開講座に於ける講演(2012年)
(古田史学の会)
正木 裕
1時間46分音声
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韓国益山笠店里古墳出土金王冠 熊本江田船山古墳出土金王冠
一、 九州王朝とは何か
近畿天皇家に先行する王朝
我国には近畿天皇家に先行する王朝が存在した。
この王朝は、 一貫して九州を本拠とし、「天孫降臨」とされる海人族の博多湾岸への進出に始まり、701年に近畿天皇家に取って代わられるまで存続した。
海外史書に見える3世紀邪馬壹国の卑弥呼・壹予、5世紀の倭の五王、7世紀の阿毎多利思北孤はこの王朝の天子であった。
漢・魏・隋・唐など歴代中国、朝鮮半島の高句麗や新羅・百済との交流・戦闘はこの王朝の事績だ。
また、517年の「継体」に始まる32の「九州年号」をたて、磐井の律令や冠位12階などを制定し、全国に評制を敷き、国宰・評督等を任命し、難波に副都を建設するなど全盛期には九州にとどまらず、全国を支配領域としていた。
白村江の敗戦もこの王朝の出来事であり、これ以降勢力は急速に衰え、8世紀初頭、則天武后の承認を得た近畿天皇家に名実ともにとってかわられた。
近畿天皇家は九州王朝の存在を消し、自らの正統性を主張するため、その史書を盗用・改変し『古事記』『日本書紀』を編纂し、我が国の初元から近畿天皇家が統治していたという歴史を作り上げた。
二、 本講の目的と内容
最近の考古学的発見によって齎された九州王朝説の最新の進展状況の報告
百済南西部の前方後円墳
1980年代以降旧百済南西部栄山江流域に多数発見された北部九州と類似の前方後円墳は、筑後を中心とした北部九州勢力=九州王朝の百済進出を示す。
元岡古墳出土剣
2011年に福岡市元岡古墳群出土の「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)」銘入り大刀は、九州年号「金光」元年(570)に九州王朝が熱病の魔の退散を祈念し、新天子の即位祝賀を兼ねて造った四寅剣である。
「元壬子年木簡」
1996年に芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年木簡」は、『書紀』白雉ではなく九州年号白雉が正しいことを示す。
難波宮出土の筑紫の須恵器
2008年に前期難波宮跡から発見された筑紫中枢部の須恵器は九州王朝の難波宮造営を示す。
扶余出土「 那尓波連公」木簡
2009年韓国扶余(プヨ)の遺跡出土の「那尓波連公(なにわのむらじのきみ)」木簡は天武紀の「連賜姓」記事の虚構と、九州王朝による賜姓である事を示す。
三、 百済南西部の前方後円墳
1980年代以降北部九州と類似の前方後円墳が旧百済南西部栄山江(ヨンサンガン)流域に多数発見された。これは、北部九州勢力の百済進出を示す。
また、これらの古墳は5世紀末に出現し、6世紀初頭に消滅する。これは倭の五王(5世紀後半)から磐井時代(6世紀初等)と一致する。
こうした考古学的知見と、『日本書紀』の応神・仁徳・継体紀、『宋書』倭国伝等の文献資料から、倭の五王は九州王朝の天子であり、任那を経営し百済に進出したのは九州王朝である事が知られる。
韓国南西部(旧百済)栄山江流域の九州様式の前方後円墳―五世紀末に出現し、六世紀当初に消滅―
月桂洞1号古墳復元想定図
九州の前方後円墳との形態類似―平面長方形で平天井を呈し、立柱石と腰石を配する―
海南長鼓山(チャンゴサン)古墳の石室(左)
日拝塚古墳石室(6世紀福岡県春日市下白水南)(右)
出土物の類似―鳥足紋叩き土器の石室内副葬(左)、ゴホウラ製貝釧(右) 
韓国益山笠店里古墳出土
金王冠と飾履
熊本江田船山古墳出土
金王冠と飾履
筑後の古墳群
(久留米市)
御塚古墳(墳丘約60m)・権現塚古墳(約60m)
(大善寺町宮本)5世紀後半~6世紀前半
大善寺銚子塚古墳(大善寺町宮本北島)約80m
日輪寺古墳(京町日輪寺境内 )装飾約50m
上津荒木浦山古墳(上津町大字浦山)装飾約88m
山ノ下古墳 (草野町大字紅桃林)装飾
木塚古墳(善導寺町木塚)装飾約48m
石櫃山古墳(高良内町宮の脇)約115m
田主丸大塚古墳(田主丸町石垣)約103m
藤山甲塚古墳(藤山町仏坂)約70m
本山古墳(上津町本山)
(八女古墳群など)
岩戸山古墳(八女市大字吉田)約135m。6世紀前半
乗場古墳(八女市大字吉田)装飾。約70m、6世紀中頃
丸山古墳(八女市大字本)約48m。6世紀中頃
鶴見山古墳(八女市豊福鶴見山)約85m
石人山古墳(広川町大字一條字人形原)装飾。
約107m。5世紀前半~中頃。武装石人
善蔵塚古墳(広川町大字六田)
乗場古墳 (八女市大字吉田字乗場)装飾
欠塚古墳(筑後市欠塚)約50m。5世紀末
弁財天古墳(熊本県玉名市高道石橋)
東光寺古墳(玉名市高道大馬場)約87m
大塚古墳(玉名市立花桜坂)約100m
大坊古墳(玉名市玉名出口)約42m
神功皇后に擬せられた玉垂命
―高良玉垂命の筑後三潴遷宮と七支刀の鍛造年が369年で一致―
泰(和)四年(三六九)銘の石上神社七支刀(左)とこうやの宮(磯上物部神社・みやま市瀬高町太神)の七支刀人形(右)
【まとめ】
韓国の前方後円墳が証明する「5~6世紀九州王朝の半島進出」
「文献的知見」(書紀・宋書等)
5世紀(倭の五王時代)に半島南東・南西部が順次倭国に編入された。そのうち南西部の・牟婁地域の四県は6世紀初頭に百済に割譲(返還)された。
「考古学的知見」(百済南西部の前方後円墳等)
北部九州人を埋葬した前方後円墳が、同地域で5世紀末ごろ突然多数出現し6世紀前半に消滅
2つの知見が一致。加えて、九州の前方後円墳や装飾古墳の中心は筑後だった。
5世紀から6世紀初頭に百済南部を支配したのは北部九州勢力。
「倭の五王」とは高良玉垂命を継いだ「筑後」を拠点とする九州王朝の歴代天子。6世紀初頭四県を百済に割譲したのは、その「倭の五王」を継ぐ九州王朝の天子「磐井」だった。
四、 元岡古墳出土の「四寅剣」と金光年号
金光元年に制作された熱病の魔を破る「四寅剣」
象嵌は「斬邪の四寅剣」を示す
「寅年になると思い出す伝統文化の遺産の中に四寅剣がある。名前が四寅剣であるのは、寅年陰暦正月(寅月)の最初の寅日の寅時に作られる剣だからだ。百獣の王であるの寅の気運が四つも重なるため陽気が極に達し、あらゆる邪悪な気運を退けると伝えられている。」
(韓国中央日報2010年1月3日記事)
⇒「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀」は「斬邪の四寅剣」である証明として象嵌されたもの
剣が制作された570年に九州年号が「金光」と改元。
元年は570年で6年間続き、576年に「賢称」と改元される。直前は「和僧」5年 和僧 乙酉565~569 13 金光 庚寅570~575 14 賢称 丙申576~580
九州年号文書である『善光寺縁起』に「金光元年庚寅歳天下皆熱病」と記す。
「熱病」と庚寅と金光には密接な関連
「寅」だけではなく、十干中「庚」は陽の金にあたり、庚寅年の庚寅日に「四寅剣」を造り、その光で熱病の邪気を払う意味で「金光」年号は相応しい。
なお、福岡県嘉麻市上山田下宮の「五社稲荷」の由緒に、「金寶二年に、倭建命が、疫病が蔓延し、多くの人が苦しみ死んで行く有様を見て伊勢神宮から勧請された」と書かれているという。これは九州年号「金光二年」の誤伝と考えられ『善光寺縁起』の「天下皆熱病」と一致する。(棟上寅七氏による)
【まとめ】
九州王朝は570年に大流行する「邪悪な熱病」を退ける為四寅剣を作り金光と改元したと考えられる。
五、 「元壬子年木簡」
1996年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から「元壬子年木簡」が出土し、同所出土の土器等から7世紀中葉のものと判断される。
当初は『書紀』の白雉3年(652)が壬子にあたるから「三壬子」と読まれていたが、詳細な調査で「元」である事がわかった。
『書紀』白雉元年は庚戌(650)、九州年号白雉は壬子(652)と2年ずれるが、木簡は、九州年号と一致し、『書紀』年号ではなく九州年号が正しい事が証明、『書紀』に記す白雉改元は虚構であり、九州王朝の事績の盗用である事が示された。
薩摩入来院家『日本帝皇年代記』の証言
薩摩入来院家に伝わる『日本帝皇年代記』(十六世紀成立。
戦前にエール大学から出版され国際的に有名な資料で現在は東大史料編纂書所蔵)には明確に「壬子白雉」とあり、かつ孝徳崩御を白雉三年としている。
これによっても「九州年号白雉」が正しいことが裏づけられる。
また、九州年号大化(乙未六九五)を正当として、孝徳大化(乙己六四五)を「乙己六或本大化元年」と参考資料扱いし九州年号を基本とし編纂されている貴重な資料。
六、 難波宮出土の筑紫の須恵器
2008年に前期難波宮跡から、7世紀前半筑紫中枢部に多く見られる「平行文当て具痕のある須恵器」が出土したと報告があった。これは筑紫の工人が難波宮造営に従事していた事を示す。
さらに同宮出土の「戊申年」(648)銘木簡や、『伊予三島縁起』の「番匠初」と「九州年号常色2年」の天子の「日本国巡礼」記事から難波宮造営が九州王朝の事績である事が一層確実なものとなった。
七、 扶余出土「 那尓波連公」木簡
2009年に韓国扶余(プヨ)の遺跡から、「那尓波連公(なにわのむらじのきみ)」と記された木簡が発見された。(上右。白黒反転焼)
この木簡は百済が滅亡する660年までの木簡であり、『書紀』天武10年(681)に「草香部吉士大形」に対し「難波連」の姓が賜姓された記事と矛盾する。
これは白村江以前の事実であり、古田武彦氏の指摘する『書紀』が九州王朝の「常色元年(647)」の「常色の改革」による賜姓を、34年後の天武10年に盗用した記事に当たると考えられる。
(古田史学の会) 正木 裕
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