久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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古川清久
(武雄市)久留米地名研究会編集員
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“民俗学者 谷川 健一の「永 尾」から「釜 蓋」へ  谷川先生ありがとう!“
谷川健一の「永尾」(エイノオ)地名が古田武彦の「倭人も太平洋を渡った」を証明した。
 既に、6.「釜 蓋」をホーム・ページに掲載していますが、この内容をベースに二〇一三年八月三十一日、久留米大学公開講座(九州王朝論)において「釜蓋」“倭人も太平洋を渡った”を古田史学の会の事務局長もされていた大下隆司氏と共同講演致しました。
 大下発表は24.「倭人も太平洋を渡った」としてホーム・ページに掲載しています。
 今回の掲載は、既に公開している6.「釜 蓋」に新たに追加した内容をご紹介するものです。
 その前に、「釜蓋」のベースとなった「永尾」地名を発見された民俗学者の谷川 健一氏がつい先日亡くなられたことから、氏についてふれます。
谷川健一 民俗学者の谷川健一、8月24日死去、92歳。
1921年熊本県水俣生まれ。東京帝国大学文学部を卒業。専攻はフランス文学。平凡社で「日本残酷物語」シリーズを担当、ベストセラーになる。63年雑誌「太陽」創刊時の編集長を務めるが、結核のため退社。66年「最後の攘夷党」で直木賞候補になる。
在野の民俗学者として、柳田国男や折口信夫らの民俗学を発展させ、沖縄などの民俗に日本の古層を探るなど「谷川民俗学」を打ち立てた。78年「地名を守る会」を結成。81年日本地名研究所(川崎市)を設立、所長を務めた。
87-96年まで近畿大学教授・同大学民俗学研究所長を務める。
91年「南島文学発生論」で芸術選奨文部大臣賞。92年南方熊楠賞を受賞。97年文化功労者。01年「海霊・水の女」で短歌研究賞を受賞した。
以上「死亡欄」より http://bohyo.blog84.fc2.com/
「 青銅の神の足跡」「白鳥伝説」「日本の地名」「甦る海上の道・日本と琉球」・・・と多くの示唆に富む著書を残されましたが、改めて経歴を考えると行政に媚を売る御用学者ではなかったことは分ります。
 さて、久留米地名研究会が生まれたのは、二〇〇七年の谷川健一久留米大学講演がきっかけでした。
筑紫平野の物部氏と邪馬台国
-大きな壷は大きな平野に生まれる-
日本地名研究所 所長 谷川 健一
比較文化研究所20周年記念講演
 平成20年12月9日(日)、比較文化研究所20周年記念講演として、2007年度文化功労者である谷川健一先生にご講演をいただいた。会場となった本学500号館51A教室には、250名を超える参加者が集まった。
 今日のテーマは「筑紫平野の物部氏と邪馬台国」でございますが、これは時代から申しますと、日本の弥生時代にあたる話でございます。弥生時代というのは、今は先史時代という形で、ひっくるめて申していますが、しかし吉野ヶ里のような大きな遺跡が出て参りますと、遠い先史時代の話として一括して受け止める訳にはいかない、ということになる。
 2007年秋 久留米大学にて谷川健一氏の記念講演「筑紫平野と物部氏-大きな壷は大きな平野に生まれる」が開催されました。
平成21年3月久留米大学 比較文化研究所年報第1号
 この講演が終ったあと、予定の行動であったのか、それとも急な思いつきであったのかは定かではないのですが、谷川健一氏が「久留米地名研究会を創りましょう」「賛成される方は会場に残ってください」と、呼びかけました。
 この際集った三十名たらずの人(熊本地名研究会からの外人部隊を除けば実質二十名足らず)の中に、現在でも地名研究会に参加される最古参のメンバーの六人ほどがおられたのです。
しかし、その場で名簿を作成したわけでもなく、仮の会長、事務局長が決められただけで、それきりだったものを、結局、この六人を核に十人たらずで集ったのが、年を越した二〇〇八年二月の御井寺での準備会合でした。
 これから考えると、現時点で、六年目の半ばに入ったことになるのですが、この間、四研究会体制が確立し、メンバーも数十倍に拡大しています。
してみると、もしも、この谷川健一氏による呼び掛けがなかったならば、存在しなかったに違いありません。
 ただ、現在、当会は日本地名研究所の傘下に入っておらず、その傘下の熊本地名研究会(私自身は二〇〇五年辺り数年の間在籍していたのですが)との関係も一切ありません。
これに至る不愉快な経緯についてはいずれ話す時がくるかも知れませんが、今はふれないでおきます。
 ホーム・ページ掲載分に新たに加えた部分の前に谷川健一氏が提唱した永尾(エイノオ)地名をもう一度見てみましょう。
釜 蓋(カマブタ) “民俗学者 谷川 健一の「永尾」地名から古代史を探る”
はじめに
天ケ岳より芥屋の大門を望む(写真提供:松尾紘一郎)
 本稿は、地名研究」から古代史をどこまで見通すことができるかを探る実験稿に過ぎません。しかし、①「日本書紀」にも関連する記載のあるニニギの葬地=「可愛山稜」を、「可愛」と書き、なぜ「エノ,エノウ」山稜と読ませるのかという長年の課題に対して一つの仮説を提出するとともに、②古田 武彦氏が『「邪馬台国」はなかった』の後段において裸国、黒歯国、を南米のエクアドルに比定したことに対して、一部の筋から嘲笑が送られたことについても、本稿の「釜蓋」をもって太平洋を大航海するダイナミックな姿をもって、氏の説を補強したいと思います。
 さらには、釜蓋地名が異常なほどの集中を見せる北九州の問題を九州王朝論の立場から探ってみたいと考えます。
大野城の釜蓋
 福岡市博多区白木原の東(旧大野村)に釜蓋(カマブタ、カマノフタ)という奇妙な地名があります。
 まず、一般的には理解できない地名の代表格といったところではないでしょうか。
 謎解きを始める前に場所を確認しましょう。大野城市大城の大城4交差点から大城山、大城小学校から流れてくる小河川沿いに釜蓋公民館があり、釜蓋というバス停があります。ただ、太宰府一五〇〇〇分の一クラスの道路マップでも釜蓋と表記されているだけで簡単には見つかりません。このため実際には太宰府インターの出口から約四〇〇メートル辺りを探す必要があるでしょう。
釜蓋とは何か?
 大野城市大城山の裾野に釜蓋はあります。
 特別な資料でもない限り地名研究では、類型地名を拾い出しその共通点を見つけ出すという方法を取るのですが、実はこの類型地名が言うほどはないのです。目立つ地名としては、開聞岳に近い鹿児島県頴娃町の海岸部に張り出した岬に釜蓋大明神という神社があります。もちろんこの神社も関係があるのですが、これに纏わる話は後に回すとして、まずは、民俗学者谷川健一の『続日本の地名』(岩波新書)から始めましょう。
 この本には熊本県の宇土半島に永尾(エイノオ)という土地と永尾神社という奇妙な名の神社があることが書かれています。
 不知火町の永尾神社は宇土半島の不知火海側の中ほどに位置し、今なお“不知火”の見える神社として著名ですが、この永尾(エイノオ)とは、エイ(スティングレイ)の尾のことではないのかとするのです。
 もちろん日本地名研究所所長であり民俗学柳田国男の弟子に当たる谷川氏によるものですが、詳しくは第二章[エイ](永尾)や、関連の著作をお読み頂くものとして、簡単にこの地名の概略をお話しましょう。
 永尾神社は別名“剣神社”とも呼ばれています。これも尖った岬の地形からきているものでしょう。
 この神社は、西の天草諸島へと向かって伸びる宇土半島の南岸から不知火海に直角に突き出した岬の上に乗っています。現在では干拓や埋立それに道路工事が進み分かりにくくなってはいますが、かつては山から降り下った尾根が海に突き刺さり、なおも尖った先端がはえ根として海中に伸びる文字通りエイの尾の上に社殿が乗っているような地形だったはずです。そしてその岬は背後の山に尾根として延び、古くは、両脇に本浦川、西浦川が注ぐ入江が湾入しており、尾ばかりではなくその地形はまさしくエイのヒレの形を成していたと考えられるのです。
丘には永尾神社が祀られている。祭神は鱏(えい)である(本章扉参照)。永尾というのはエイの尾を意味し、尾の部分の鋭いトゲになぞらえて、別名を剣神社とも称する。これには一匹のエイが八代海から山を越して有明海に出ようとして果たさず、ここに留まった、という物語が絡まっている。永尾(エイの尾)に対して、内陸部にある鎌田山はエイの頭部に見立てられている。  
熊本県宇城市 永尾神社
ここで思い出すのは沖縄ではエイ(アカエイ)をカマンタと呼んでいることである。(英語でエイをマンタというが、もちろんそれとは関係がない。)カマンタの意味をたずねて、カマノフタである、と聞いたことがある。『日本魚名集覧』を見ると、ウチワザメのことを国府津(こうず)ではカマノフタと呼んでいる。またサカタザメを静岡県ではカマンド、愛媛県ではナベブタウオと呼んでいる。サカタザメは鰓穴(えらあな)が腹面にあるのでエイの仲間に分類されているが、その呼称もエイとかエエとか呼んでいる地方が多い。要するにサメもエイも同類と見られていた。そこで永尾にある鎌田山の名称もエイを指す方言に由来するのではないかと考えてみたことがある。・・・(中略)・・・熊本県不知火町の永尾地区では、今もってエイを食べないが、沖縄ではサメを食べない地方や氏族集団が見られる。・・・(中略)・・・恐らく永尾も、古くはエイを先祖とする血縁の漁民集団がいたところであったろう。
 『続日本の地名』(岩波新書)
 まだ、なんのことだかお分かりにならないかと思いますが、この地名が存在する事は実に衝撃的で、良く言われるところの古博多湾というべきものが現実に在り、そこに突き出した岬状の舌状台地をエイの尾と見立てた人々が住み着いたことを示す痕跡地名であると考えるのです。もちろん、釜蓋とは南方系の魚撈民が呼ぶエイであり、同時にこの地名が存在することは、地名の成立した時代の汀(波際)線を今に伝えるものと言えるのです。
永尾神社縁起
 縁起には鎌田山のことが書かれています。釜蓋とは単に表記の違いのようにも見えますが、大釜や大鍋の蓋の取手を頴(エイ)の背骨に見立てれば、釜蓋という地名に意味があることがお分かりになるでしょう。
 もしも、沖合を進む船の上からこの地形を見た場合、海に伸びたエイの尾状の岬と、潮流により形成された湾曲した砂浜の形が、文字通りエイの尾とヒレに見えるところから、まさしくエイが陸に這い上がった姿に見えたことでしょう。実は冒頭に芥屋の大門の写真を掲載していますが、まさにこのような地形こそが私が言うところの永尾地名なのです。
 このように、釜蓋とはエイを強く意識する人々によってもたらされたものであり、この南方系の海の民がこの地に定着した時代があったこと、そして、その時代この地が波に洗われていたことをも同時に意味しているのです。
 もう一つ分りやすい例をお見せしましょう。
 天草下島と言えば「五足の靴」で著名ですが、与謝野晶子など五人がパーテルさんに会いに行った大江の天主堂がある旧天草町大江のエリアに釜蓋という岬があるのです。
 見るからにエイの尾のような形をしています。
 これが、谷川健一氏がいうところの永尾地名だとしても、まず、お叱りは頂かないでしょう。
以下・・・中略・・・6.「釜蓋」と重複するため省略します(省略部分は6.「釜蓋」を・・・)。
ここからは、新たに追加した部分です。
「可愛」の「えの」
 さて、ニニギと言えば、天照大神の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチジヒメ)命の子とされ、『古事記』『日本書紀』ともに登場し、瓊瓊杵尊などと書かれる日本神話のスターですが、降臨後、大山祇神の娘である木花之開耶姫を娶り、火照命(海幸)や彦火火出見尊(山幸)を生んだとされています。
 そして、この山幸の孫が神武天皇になるのですが、ニニギは、亡くなった後「可愛山陵」に葬られ、それは「エノ」と呼ぶとされています。
 もちろん、普通は「可愛」を「エノ」と読むことは出来ません。ただし、そこがどこかはともかくとして、地元では読んでいた可能性はあるのです。
 これについては誰しも疑問に思うようで、例えばネット上の有力サイト「古代文化研究所」も次のように書いています。
古事記・日本書紀・万葉集で、「可愛」の表記が存在するのは、日本書紀だけである。それも使用されているのは二カ所に過ぎない。
一つは伊弉諾尊と伊弉冉尊の國産み神話の箇所である。伊弉諾尊と伊弉冉尊が國産みをする時、日本書紀本文には「可美少男」「可美少女」とある。日本書紀一書(第一)に「可愛少男」(2回)「可愛少女」(2回)とあり、その後に、「可愛、此云哀」とあって、「可愛」は「哀」と読むことを注記している。また、日本書紀一書(第五)には「善少男」とある。さらに、日本書紀一書(第十)に「可愛少男」とある。ここに、日本書紀の「可愛」の表記の6例が存在している。
分かるように、「可愛」はまた、「可美」や「善」とも表記されているわけであるから、「うつくしい」とか、「立派な」「好ましい」などの意であると判断される。
もう一つの用例は、天孫降臨の神、天津彦彦火瓊々杵尊の御陵を「筑紫日向可愛(此云埃)之山陵」としている箇所になる。ここにも日本書紀は本文の他に、一書が八つも並記されているが、山陵名が記されているのは日本書紀本文だけである。日本書紀編纂の時、多くの記録がその山陵名を失っていた可能性も否定出来ない。かりに諸書に山陵名の記録が残っていれば、日本書紀の通例であれば、並記されているはずであろう。
これが古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例である。わずかに7例があるに過ぎない。それも極めて重大な場面での使われ方をしている。だから、古事記・日本書紀・万葉集における「可愛」の全表記例は極めて特殊な表記であることが分かる。
古代文化研究所より
 もちろん、水戸光圀であろうが、本居宣長先生であろうが、「可愛、此云哀」については古来「エ」と呼び習わしていたからこそ、岩波書記も「エ」と振り仮名を付しているはずです。
 ここまで考えてくると、後に、『日本書紀』に「可愛」と書かれ「エノー」「エイノオ」と呼ばれる理由が見えてきました。つまり、日本書紀成立より前に永尾地名は存在していたのです。
 お分かりでしょうか?河合、落合、吐合、谷合、流合・・・といった一連の河川合流地名がありますが、河合と呼ばれるような平坦な下流部での合流ポイントは交通の要衝であるとともに、地域の支配者の居住地にもなったはずです。そうです、可愛山(三)陵とは、「河合の永尾(エイノオ)」と呼ばれ、いつしか「可愛」を「エノー」と呼び習わすようになったのです。つまり、「可愛」も永尾地名なのです。では、その「可愛」を紹介しましょう。
隈之城川が川内川と合流する向かいに可愛山陵がある。鹿児島県さつま川内市
もちろん、九州王朝論者にとっても、ニニギの墳墓は降臨地ではないのであって、薩摩川内にあっても一向に構わないのですが、それからすれば、先にご紹介した東区の多々良川流域の江辻山も候補にはなるかもしれません。
また、既に故人になられましたが、熊本に平野雅廣(廣の左に日)という孤高の九州王朝論者がおられました。
氏の著書「火の国倭国」他(五著)には山鹿市菊鹿町相良(アイラ)をウガヤフキアエズの陵とする有力な説があることも掲載されていることをお知らせしておきます(相良観音で著名)。
以下・・・中略・・・6.「釜蓋」と重複するため省略します(省略部分は6.「釜蓋」を・・・)。
 時に、地名は権力によっても強制されますが、実際に流通しなければ意味がないことから、最終的には民衆によって付されることになります。このことから、考古学的遺物では判断できないものが多く、代わりに数多くの地名を拾い上げ判断して行く必要があります。
 問題はサンプリングが非常に難しいのです。
 全国の字地名が消え、地形が変わり、場所もどこだったかが全く分らなくなりつつあります。
 その際、手掛かりになるのが明治三十三年の陸軍測量部地図ですが、もう一つ役に立つのが上記の「明治十五年全国小字調」です。
 ここには、古代からあまり動かなかったと思われる、小字が化石として残されています。
 帰納演繹の精度をあげるために、これを使うことは十分に可能で、これのデータ・ベース化が望まれるところです。
 一例ですが、遠賀郡の海岸部、波津の小字に「釜蓋」があることが分ります。これを、北部九州の海岸地帯を中心に、ある程度拾い出しを行なっています。
 九州古代史の会のメンバーで、本稿のトップ画面の芥屋の大門の写真を使わせていただいた松尾紘一郎さんに「釜蓋」の改訂前の全文をお送りしたところ、自らお調べになり、コピーをお送りいただきました。もちろんこの調査資料の存在は以前から知っていましたが、このような特殊な地名がおいそれと拾えるとは考えていなかったのです。
 ところが、普通に存在する地名であることが分かったのでした。改めて松尾氏にはお礼を申し上げます。
 これを見ると多少面白いことが目に付きます。玖珠郡はもちろん山間部ですが、豊後森の森家は牙を抜かれた瀬戸内の海賊の頭目ですから分かるとしても、阿蘇産山の田尻は気になります。ご存知の通り、「井」(イ、イイ)という姓の方が集中する地区ですが、現地調査が必要です。また、佐賀県にはないと思っていましたが、やはり松浦一帯にはあったのです。やはり、大字だけでは分からないものです。以下、作業中の一葉のみ掲載します。
明治十五年全国小字調から  Manta(マンタ)
市郡 町村 大字 小字 読み メモ C
佐賀県 東松浦 玄海町 普恩寺村 釜蓋 カマフタ   1
佐賀県 東松浦 玄海町 今村 釜蓋 カマフタ   2
佐賀県 唐津市 相知町 千束村 釜蓋 カマフタ   3
大分県   玖珠郡 山田村 釜蓋 カマブタ   4
長崎県 平戸市   河内町 釜蓋 カマフタ   5
長崎県 島原市 吾妻町   釜蓋 カマブタ   6
福岡県 北九州市 門司区 松ケ江 釜蓋   7
福岡県 北九州市 小倉南区 曽根 釜蓋 カマブタ 葛原 8
福岡県 北九州市 小倉南区 曾根 釜蓋   曾根西朽網 9
福岡県 北九州市 小倉南区 曾根 釜蓋   オワライ
井手曾根東朽網
10
福岡県 北九州市 小倉南区 曾根 釜蓋   曾根東朽網 11
福岡県 北九州市 門司区 松ケ江 釜蓋   恒見 12
福岡県 北九州市 小倉南区 東谷 釜蓋   新道寺 13
福岡県 北九州市 小倉南区 西谷 釜蓋   合馬村 14
福岡県 北九州市 小倉南区 中谷 釜蓋   高津尾 15
福岡県 北九州市 小倉南区 西谷 釜蓋   吉兼 16
福岡県 旧御原郡   御原郡 上栄尾   二森(栄は旧字) 17
福岡県 旧御原郡   御原郡 下栄尾   二森(栄は旧字) 18
熊本県 葦北郡 芦北町 高岡 江ノ尾   山奥の集落 19
熊本県 荒尾市 川登   釜蓋     20
熊本県 阿蘇郡 産山村 田尻 上釜蓋   阿蘇外輪山の外 21
熊本県 阿蘇郡 産山村 田尻 中釜蓋   阿蘇外輪山の外 22
熊本県 阿蘇郡 産山村 田尻 下釜蓋   阿蘇外輪山の外 23
長崎県 平戸市 木ケ津町   釜蓋 カマフタ   24
長崎県 松浦市 上亀免   釜蓋 カマブタ   25
長崎県 国見町 西里名   東釜蓋 ヒガシカマブタ   26
長崎県 千々石町 野田名戊   城山 シロヤマ 釜蓋城 27
長崎県 壱岐市 国分本村触   釜蓋 カマフタ   28
福岡県   二丈町 鹿家 エイソウ   エイノウ誤植?
郷土の歴史にも
 
佐賀県 東松浦郡 肥前町 京泊浦 カマブタ      
福岡県 遠賀郡 岡垣町 波津 釜蓋      
福岡県 福岡市 早良区 永ノ尾 エイ    
福岡県 糸島市   桜井 エイ    
福岡県 糸島市   桜井 永浦 エイウラ?    
福岡県 糸島市   桜井 鎌田 カマダ    
福岡県 糸島市   桜井 永ノ脇 エイノワキ    
福岡県 春日市   須久 永田 エイダ    
中間市     中間 釜蓋 ブタ    
福岡県 北九州市 八幡西区 穴生 釜蓋 フタ    
福岡県 北九州市 八幡西区 尾倉 釜蓋 ブタ    
福岡県 北九州市 若松区 藤木 鎌牟田 ムタ    
福岡県 宗像市   野坂 釜フタ      
福岡県 田川郡 香春町 仲津原 釜蓋      
福岡県 田川郡 香春町 柿下 釜蓋      
福岡県 田川市 赤村   釜蓋 フタ    
福岡県 嘉穂郡 頴田町 佐興 釜牟田      
福岡県 福岡市 南区 屋形原 榮ノ尾 エイ 続く(以下数葉省略)  
 釜蓋地名を解明したとの余裕で、釜蓋、マンタ、カマンタ、エイ・・・といった地名をネット検索に掛けていると、驚くべき地名に遭遇しました。これについては、現在なお、個人的なネットワークを駆使して調査中であり、数ヶ月もあれば「Manta(マンタ)」として独立した報告ができると考えますが、ここではその作業の一部をご紹介いたします。
南米エクアドルにマンタという大都市があった
マンタ(Manta)の地形はどう見てもエイの尾に見えるのですが…。
 エクアドルは南米の太平洋岸に位置しコロンビアとペルーに挟まれた赤道直下の国(エクアドールの意味もこれからきています)ですが、この海岸にManta(マンタ)という人口18万人の大都市があります。形状を見ていただければお分かりのように、まさに海に突き出したエイの尾のような地形が鮮明に確認できます。
 エクアドルでは縄文土器と瓜二つの土器がバルビディア地方で発見されており(故エバンス博士)、大量の甕棺墓までが確認されているのですが、いまだ学会では無視され続けています。
 今回の発見はこの学説を裏付けるものになりそうですが、スペイン語には布団やマントを意味するmantaという単語もあります(主としてコロンビア)。
 また、怪傑ソロやバットマンが着るマントも何やらエイの形に似ていることから、このエクアドルのマンタ-シウダット(市)が倭人(縄文人)によってもたらされた地名か、大航海時代以降の地名かが問題になるところです。以下はスペイン語に堪能で会話が可能な古田史学の会の大下事務局長からのものです。私も多少はやりますがさすがです。
釜蓋姓は徳川家康が与えた
 最後に地名から姓名に目を向けます。良く利用する「姓名分布&ランキング」というサイトがあり、調べると、全国でも11件しかない非常に珍しい姓のようです(北海道4件、新潟3件、群馬県2件、茨城県1件、静岡県1件)。
 調べた理由は、「城と戦国ロマン」というサイトがあり『釜蓋姓』についての情報を求めています!!というメッセジが出ていたからです。
 静岡県焼津に釜蓋姓は徳川家康が特別に認めたものにしか使わせないという話があり、それを調べているものでした。
 ここからは私の単なる推理なのですが、家康がそれほどの厚遇をする理由として考えられるもので頭に浮かぶものは一つしかありません。
 家康が命からがら逃げだした「本能寺の変」(天正十年六月二日)直後の伊賀越えです。服部半蔵の手引きで伊勢に逃げたことは良く知られていますが、その先はあまり知られてはいません(酒井、本田等と自決さえも考えたとされていますから最大の危機です)。
 白子浜(三重県鈴鹿市江島本町)から知多半島の大浜に上がり岡崎に逃げ戻ったとされます。海行において、そこに関与したのが釜蓋地名を残した人々だったとすると何もが良く辻褄が合うように思えるのです。
 命がけの逃避行となると、現代でも一般的な網本や漁師集団は信用できないはずであり、普段から独航している特殊な集団に頼むはずです。
 もう一度白子浜の現在の住所を見てください。鈴鹿市江島本町とは、まさに、エイの島ですね。この地名を付した人々が釜蓋の意味を知っていた、つまり、エイノオ地名を残した人々だった可能性はあるのではないでしょうか。
 これについて、「城と戦国ロマン」の管理者とメールでやり取りしましたが、この釜蓋姓を調べている方も静岡の焼津に縁のある方のようです。
 新潟の釜蓋姓は上越の「釜蓋遺跡」という弥生期の遺跡のある土地のようで、白子浜から家康を運んだと考える釜蓋姓とは別の起源があるのかも知れませんが、恐らく家康から釜蓋姓の独占使用権を与えられた釜蓋さんのルーツは今のところ、焼津の方と考えています。
 今のところ、このような特殊な通商民こそ、バジャウに起源を持つ船上生活者であり、戦後しばらくまで、尾ノ道や大瀬戸(長崎県)などを拠点に沖縄までも移動した航海民集団、「家船」の人々(現地の差別語エンブー)の一部ではなかったかと考えています。
 ここまで来ると、北九州に認められる釜蓋(エイノオ)地名の異常なまでの集積の理由が多少は見えてきました。
古代においては(現在でも江川で僅かに繋がっていますが)洞海湾と苅田は玄界灘航路(大陸への道)、日本海航路、瀬戸内海航路、豊後水道という最重要航路の結節点であり、水路こそが移動手段であった時代においては、この一帯を制する者こそが権力を握ることができたのではないかと思うのです。
 そして、畿内には伊勢の江島以外、エイノオ地名が見当たらないのです。
以上が、6.「釜蓋」に追加した部分です。
ここで、谷川健一氏に関して避けて通れない東日流外三郡誌問題に触れておきましょう。
古田武彦バッシングの先鋒に担ぎ出された谷川健一
東日流外三郡誌 「偽書」の証明
真贋論争に終止符を打つ!
 谷川健一、安本美典ら12人の強力執筆陣が、「東日流外三郡誌」の致命的誤謬をつき、空前の「偽作」事件の全貌を徹底究明する。
本文(『東日流外三郡誌』は五流の偽書・・・谷川健一)より
「東日流外三郡誌」の真偽問題について、これだけ証拠がつきつけられると、これを偽書ではないと反論することはまず不可能である。 (中略)
 文章も文法も滅茶苦茶で、拙劣、醜悪の限りを尽くしている。偽書としては五流の偽書、つまり最低の偽書である。その絵も同様である。
 ニセの骨董品屋も引き取らないような偽書を、本物と思いこむのは丸太棒を呑み込むようにむずかしい。
・史上最大の偽書『東日流外三郡誌』事件とはなにか 安本美典
・『東日流外三郡誌』真贋論争に沈黙は許されない 谷川健一 安本美典
・『東日流外三郡誌』は五流の偽書 谷川健一
・偽書『竹内文書』との共通性 原田実
・和田氏と中野学校との関係 高倉盛雄
・虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』 齋藤隆一
・『東日流外三郡誌』の致命的な誤謬 須藤儀門
・菅江真澄と『東日流外三郡誌』の接点 田口昌樹
・考古学から『和田家文書』を考察する 藤村明雄
・筆跡鑑定からの意見書 鈴木政四郎 佐々木隆次
・宗教人から見た『東日流外三郡誌』の疑問 辻宗韻
・知の陥穽--『東日流外三郡誌』幻想の深層構造 野々村一助
 なぜか、東日流外三郡誌偽書問題で先頭に名を並べたのが谷川健一氏でした。
 どうせ、やっかみ半分の安本美典あたりに唆されたのでしょうが、名を落としたという印象は拭えませんでした。
 冒頭で、“改めて経歴を考えると、行政に媚を売る御用学者ではなかったことが分ります。”とはしたのですが、それは、あくまでも書かれた経歴を見る限りという意味であり、結論から言えば、また、今から考えれば、谷川傘下に入らなくて本当に良かったという実感を持っています。
 そもそも、「偽書」とは何かということを考える時、「日本書紀」は唯一正しく、「古事記」も含め、「先代旧事本記」だろうが、「竹内文書」だろうが、信用できない、欺瞞の書であるとする根拠とはなんでしょうか?
 「日本書紀」は唯一正しく、捏造やイカサマなど微塵もないとする根拠とは何なのか答えて頂きたいものです。
 恐らく何の根拠もなく、歴史的に積み重ねられてきた処世術にも近い経験といったものでしかないでしょう。
 神官などが良く口にする、「日本書紀こそが正しい!」は、そう言わないと危ない(天皇家の正史に疑問を持つなどととんでもない・・・)でしかないのであり、凡そ科学的な学問研究姿勢とは正反対の物でしょう。
 「日本書紀」こそが、最大の偽書であり、それを、「古事記」「先代旧事本記」など他の偽書と併せ解析することにより真実に近づけるのではないでしょうか?
 既存の権威や権力に対して独立したポジションを比較的維持し易く、維持しなければならない民俗学者において、偽書疑惑攻撃に加担するなど、自殺行為としか考えないのですが、どのように見ても、墓穴を掘ったとしか思えないのです。
 結果は明快です。
 古田バッシングにも関わらず、古田武彦全集とも言うべき著書がミネルヴァ書房から刊行され続け売れ続けいることでも安本美典は思い知るべきでしょう。
 ここに、彼の性格を推し量る上で参考になる資料があります。
安本美典さんは面白い
上岡
 いや前から安本美典さんというのは面白い人やと・・・。まあボクらの面白いっていうのはいろんな意味があるんですけどね、まあ面白い人やと思ってたんですよ。ボクら、その学問の世界もエンターテイメントとしてみる傾向があるんでね、学者の人でも風貌とかふだんの行いとかからわりとタレント的にボクらは見てしまう。純学問的ではないんですが、そういう意味からしても安本先生、なかなかユニークな人やなァと思うてたんです。一番最初は『「邪馬台国」はなかった』の書評を書かれて、その時には古田先生にこの方となら話し合えるだろうってなことをおっしゃってたんですよね。あの辺から急に目の敵のように出してこられた・・・。
 
古田
 これにはちょっとした事件がありまして、今から思えばですけど、要するに安本さんが私に会いたいといってこられた。それで大阪のビジネスホテルみたいな、学校がいつも使っていると、そこに泊っているから来てくれんかというんで行ったんです。その時の話のポイントは一緒に手を組まんかと、そして井上光貞さんを攻撃しようと・・・。
 
上岡
 ほう、なるほど。
 
古田
 外国の学者でもその手があるんだと。若手が出る時に一人でゆうたってだめだ、何人かが組んでね権威者を叩くんですって、そうすると有名になる、それをやりましょう、という申し出だったんです。私はそれを断ったんです。その日はにべもなく断っちゃったんですね、「いやァ私はそんなことはやりたくない」と。「私はああいう有名な榎一雄さんとか批判をさせてもらっているのは別にあの人をどう思うてるわけやなくて、ただ従来の説で有力な説だと思うから、それを無視して自分の説だけ出したんではだめだから榎説を批判さしてもらっているんで、なんにも含むところはないんだから」
 私自身の先生である村岡典嗣(つねつぐ)先生が、授業で津田左右吉とか和辻哲郎とか、そういう人を批判されるわけです。ほんとに私は前列におったからツバが飛んでくる位の勢いでやられる。ところが奥さんにお聞きすると、日常生活では非常に仲がいい。奥さんのお話を聞きまして「あァ、学者とはそういうもんか」と思ったんです。明治生まれの先輩がそういうようにやってんだから「私もあんたとそうしよう」と。要するにその時安本さんは「私とあなたとは批判を一切し合わないことにしましょう、そして一緒にこれをやりましょう」というわけ。「いやそんなこといわんで、もうお互いに十分批判し合って、そして仲はうんといいと、あの明治の連中に負けんくらいやりましょうや」ってね。そしたらちょっと毒気が抜けたようで、他の話に移って、倭人伝を巡るいろいろの話で和気あいあいとね。でもう一度、次の日京都の駅前の和風旅館だったですが、そこでまたお会いして話した。
 ところがそれからしばらくして、「季刊邪馬台国」で井上光貞との安本美典氏の会見記で、井上光貞を絶賛してるわけです。“こんなすばらしい人はいない”と、“もういろいろ言うとただちにニコニコとそれに答えられる”と。“私はまさにお釈迦様の手のひらで孫悟空が乗っているような気持ちになった”と、“これだけの偉大な学者が日本にはいらっしゃる”と。
 
上岡
 ワハハハ。へぇー。
 
古田
 それで、私を批判しはじめた。あの人としては趣旨は一貫してるんですよ、対象が変わっただけでね。だから、そういう相手に選ばれたのは光栄と思わないかんですね。
『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社 
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊 上岡龍太郎が見た古代史 上岡龍太郎 古田武彦(対談)
これだけでも十分でしょう。彼の人となりが良く分ります。早く、安本美典全集を読みたいものです。
谷川先生ありがとう
 谷川健一が発見した永尾(エイノオ、エイノウ)地名が、九州にも、また、全国にもあるのではないか?と考えたのが全ての始まりでした。
 とりあえず、熊本県辺りの海岸部を十万分の一の道路地図から国土地理院の地図(「地図閲覧サービス」)などで虱潰しに見て行くことから始めたのですが、類型地名の一つであると確信をもったのが鹿児島県いちき串木野市の「酔ノ尾」地名でした。
 国土交通省は漢字表記を現地音と異なる形で表示する場合がかなりあるのですが、幸いなことに、ここでは現地音が書き留められていたのです。
以降は、九州全域で多くの類型地名を見つけることができました。ちょうど、五、六個発見した段階で、谷川健一氏本人と会う機会を得ました。二〇〇六年の人吉でのことでした。
 休憩時間に谷川先生に「永尾(エイノウ、エイノオ)地名を外にも幾つか見つけたのですが・・・」と切り出すと、先生も驚かれ、「それはすごい!何か資料を持っているのか?」と言われ、用意していた、地図、写真など、二十枚ほどのコピーを手渡すことができました。
 その後、無礼な対応をされた熊本地名研究会との関係が絶えたため、それっきりにはなったのですが、宴席には、多良木町の研究者の住吉献太郎先生、人吉市の前田一洋氏も参加されており、谷川先生ともお話しする機会を得たことは、当時としては非常に印象深いものでした。
1)酔ノ尾 (鹿児島県いちき串木野市)
 瀬戸内海沿岸を除く九州一円では、“酔い食らう”事を“エイクラウ”と言う所がかなりあります(エイクロウトットヤロー、エイクローター・・・)。
 鹿児島県のいちき串木野市にも酔ノ尾(エイノオ)という奇妙な地名があるのです。
 旧串木野市街を抜けて鹿児島市に向かう国道三号線の交差点に酔ノ尾があることに気付き、直ぐに宇土半島の永尾と同種の地名ではないかと感じました。
 条件としては似ています。海岸から五〇〇メートルほどの駆け上がりの場所で、海側には長崎鼻という尖った岬が海に突き出しています。埋立てや漁港修築事業などによって現地の地形は相当に変わっていますが、多分、海から山に這い上がったエイのような形状をしていたのではないかと考えています。
 印象としては、湾曲した照島海岸がエイのひれの形を成しているようですので、地形としては合っていると思います。エイの左側は埋立が進んで形状を読めませんが、古地図を探ればこの事はさらに一層鮮明になるでしょう。交差点の名称は付近の地名を持ってくる事もあるため、必ずしも地名の中心地である事を意味しませんが、交差点はエイの尾から背中に向かう場所にあるように思います。
 さて、谷川健一が書いていた宇土半島の永尾では、付近のカマンタ山(鎌田山)と関連付けられました。
この、いちき串木野の酔ノ尾(エイノオ)には、付近に袴田(ハカマダ)という地名があり、カマンタを連想させます。側には酔ノ尾川が流れて長崎鼻の付近に流れ下っています。この流路は交差点の西の袴田に近接して流れていますので、酔ノ尾地名はこちらの方がむしろ中心地の可能性が高いのではないでしょうか。
 市史などを探ればもっとはっきりした事が分かるはずですが、この点は今後の課題とさせて頂きます。この薩摩川内市から旧加世田市周辺は、沖縄からさらに南の島々へと繋がる場所ですから、南方系地名があっても決しておかしくない場所です。実は、開聞岳のそばの頴娃(エイ)町のエイも可能性があるのではないかと思っていましたが、決定打がなく悩んでいました。これについては、後日、熊本地名研究会の小崎氏に先行されました(後述)。
 永尾(エイノオ)と酔ノ尾(エイノオ)、表記は異なるものの、全く同じ成立過程を持つ地名であることは疑いようがないでしょう。
国道3号線にあるいちき串木野市の交差点”酔ノ尾(Enoo)"
旧串木野市を通過する三号線の交差点に酔ノ尾がそして付近には袴田(ハカマンタか)も
 最後に永尾(エイノウ、エイノオ)地名の延長上に発見した大量の釜蓋(カマブタ、カマンタ)地名、さらに、太平洋を越えるエクアドルのマンタという地名を見出したことはは、太平洋を黒潮に乗り右回りに移動していた倭人の発見へと突き進んだのでした。
 これについては、24.「倭人も太平洋を渡った」大下隆司を合わせてお読み下さい。
 かつて、古田武彦氏が『「邪馬台国」はなかった」』において、朱儒国から出発し、裸国、黒歯国を南米エクアドルに比定したことを持って、一部に嘲笑され、学会からも冷ややかな視線が送られていたことに対し、古田予測の正しさ、古田史学の方法論的な正しさが、さらに補強された形になったのでした。
東日流外三郡誌「偽書」問題で先頭に名を連ねた谷川健一氏の永尾(エイノウ、エイノオ)地名が、逆に古田武彦氏の裸国、黒歯国、エクアドル、ペルー比定を証明した
 東日流外三郡誌「偽書」問題で先頭に名を連ねた谷川健一氏の永尾(エイノウ、エイノオ)地名が、、古田武彦氏の裸国、黒歯国、エクアドル、ペルー比定の正しさを、逆に補強したことになったのは皮肉と言えば言えますが、文献史学、民俗学、地名研究、それに、バルヴィディア遺跡の縄文土器との酷似という考古学的研究、さらには、遺伝子研究=DNAの類似といったものが精緻に行なわれれば、自ずと正しい結論に辿り着けるということが実感できた瞬間でした。
 多少、手前味噌的ではありますが、改めて谷川健一氏への賛辞と感謝の意を表するとともにご冥福を願うものです。
武雄市 古川 清久
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