久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
文字の大きさ変更
A4印刷用サイズ
お問合せ >>HOME
苧扱川(オコンゴウ)
 
久留米大学公開講座に於ける講演(2011年)
(久留米地名研究会)
編集員 古川 清久
1時間30分音声
"久留米の街中を苧扱川(オコンゴ)が流れる"
 長崎県の南部、島原半島の先端といえば、有明海の出口、早崎ノ瀬戸、瀬詰崎灯台などが頭に浮かぶ旧口之津町(現南島原市)となりますが、その岬の中ほどに苧扱川(おこんご)と呼ばれる奇妙な地名群があります。
南島原市口之津町の南端 苧扱川河口
 
 昭文社の『県別マップル』長崎県広域・詳細道路地図などでも直ぐに確認できますので、まずは地図を見て頂きたいと思います(17P)。
 かつて、口之津といえば、上海向けの石炭の積出港として、また、“カラユキサン”を送り出した外洋船の出港地(寄港地)として、さらには、戦前、戦中、戦後を通じて海国日本を支えた多くの船乗りの養成を行なった海員学校があった町としても有名でしたが、今や、その華やかさは衰え、ただただ、天草下島に向かうフェリーの出船場としての存在を主張しています。
 しかし、百年前、この地には国際貿易港として目も眩むばかりの繁栄が確実に存在していたのです。
さて、口之津港に深入りすると先に進みませんので、この話はこれまでとしましょう。興味をお持ちの方は長崎県下でも最も資料の充実した歴史民俗資料館に足を向けられる事を望んでや
みません。
 話を元に戻します。五年ほど前でしたが、いつものように地図を眺めていると、ひらがなで「おこんご」と書かれている土地があることに気付きました。その時は単に変な地名と思っていただけでしたが、その後、資料館を訪問した際に館長にお尋ねしたところ、口之津史談会の西光知巳氏による「オコンゴ考」という論文があることを教えて頂いたのです。
・・・口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊郭があった所としても知られている。口之津の字界図を見ると、早崎名(みょう)と町名(みょう)の間の小さな川が流れ「苧扱川」とある。これをオコンゴと呼ぶらしい。>>詳しくはこちら(PDF)
「口之津史談会」創刊号
これについては、最後に全文を掲載しておりますが、実はこの地名が久留米の中心街、それもまん真中にもあった(ある)のです。
西鉄久留米駅付近は国道3号線が南北に、国道209号、322号線が東西に交差する文字通りの中心地ですが、久留米井筒屋から西鉄久留米駅に向かう209号線の少し南を東から西に流れる川があり、池町川と呼ばれています。
現在は筑後川からポンプで汲み上げられた水が流され、いわば、造られた「癒し」としての河川空間が演出されているのですが、今や、六つ門町から東町という官庁街、商業地、歓楽街になじみ、趣味ではありませんが、それなりの調和を得ているようです。
さて、「おこんご」です。この池町川が、かつて、苧扱川(おこんがわ、おこんご、おこんごう)と呼ばれていたといえば皆さんは驚かれるでしょうか。
もちろん、千数百年前の古文書に書かれていたなどといったものではなく、少なくとも父祖の代程度の話で、私達でも十分に辿れる時代のことなのです。
「おこんご」と「おこんがわ」は多少異なるようですが、あまり使われない「苧」という難しい文字と川の表記が一致する事から、同一起源の地名であることは、まず、間違いないでしょう。
一般的に九州の西岸部(長崎、佐賀、熊本、鹿児島…)では、川を「コウ」「ゴウ」と呼ぶ傾向が認められます。佐賀でも、谷川をというよりは、さらに急峻な滝に近い渓流を「タンゴ」、「タンゴー」、「タンゴウ」などと呼びますが、このことは、川内を「こうち」と呼ぶこととも対応しているようです。
 
こうち
【川内・川内】
(カハウチの約。後に、「かうち」「かはち」とも)川の中流に沿う小平地。一説にカハフチの約で、川の淵(ふち)。万葉集(1)「山川の清き−と」
(広辞苑)
この池町川(苧扱川)は、本町付近で国道209号線を北に横断し再び西流しますが、この付近にかつて鉄道の駅があり、その駅名が「苧扱川」だったといえば、思い出される方もかなりおられるのではないでしょうか。
 
市の中心部を貫いて流れる池町川
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
 この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。
池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。
 城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。
市のHP「ふるさと再発見」
 
もう少し詳しくお話しましょう。久留米には明治の末から昭和四年ですから満州事変が勃発する頃まで、筑後川沿いの豆津から日田の豆田まで走る軽便鉄道が走っていました。
もちろん軽便鉄道ですから、元々の狭軌である日本の一般的鉄道よりもさらに狭いナロー・ゲージです。
〜荘島〜苧扱川〜日吉〜となれば、地元の方であれば、その場所については直ぐに見当がつくことでしょう。苧扱川の停車場はちょうど現在の みずほ銀行 久留米支店 辺りになるようです。
現在、久留米から日田に向かう久大線はJR久留米から南に回り東に向かいます。
この新線が建設される前の時代を支えた全く別の鉄路があったのですが、その前身は吉井馬車鉄道です。後に筑後馬車鉄道と変わり、筑後軌道株式会社という九州でもかなり大規模な鉄道会社に発展したようです。
筑後軌道株式会社は、明治三十六年に吉井と田主丸間で運行を開始し、久大線の開通に併せ昭和四年に幕を閉じています。
 筑後川左岸の加ヶ鶴トンネルも、現在、国道に転用されていますが、元は、この鉄道の路線だったようです。
この鉄道や苧扱川停車場(ステーション=明治に“ステンショ”と呼んだのもそうでしたが、停車場はやはり懐かしい表現ですね)などについてはこれ自体をテーマとして調べたくなります。それは興味を持たれる方にお任せして、誤りを怖れずオコンゴの意味に踏み込みましょう。まず、「苧」は音読みで「ジョ」「チョ」、訓読みで「お」「からむし」となりますが、最後の「からむし」については、明確な意味があるようです。
まず、繊維を採るため、「お」たる「苧」を扱ぐ川であることから「おこんごう」と呼ばれたことは間違いないでしょう。
 
から・むし
・・・イラクサ科の多年草。・・・茎の皮から繊維(青苧(あおそ))を採り、糸を製して越後綿などの布を織る。木綿以前の代表的繊維で、現在でも栽培される。苧麻(まお・ちよま)
(広辞苑)
 
久留米はいうまでもなく“くるめ絣”で有名な繊維生産地でした。筑後川の対岸北野町には七夕神社(無論、織姫、彦星は織女と牽牛でしたね)があることも決して関係なしとはしないでしょう。私は、紡績、織布を目的として、この川で“からむし”を水に曝していたのであり、その痕跡地名と考えています。また、西光氏による「オコンゴ考」もそのような趣旨で書かれています。曰く、…
 
…苧扱川、この川で、苧(からむし)の皮を扱ぎ、晒して作った繊維で(糸で)布を織って衣服とし、綱を作って魚をとり、船をもやう綱も作ったであろう。…
 
もちろん、これは、「オコンゴ考」を書かれた西光氏という先達があってのことであって、改めて氏の慧眼に驚いています。皆さんも機会があれば、口之津の“おこんご”を訪ねられてはいかがでしょうか?付近には島原の乱の原城址、瀬詰崎灯台、早崎漁港の大アコウ群落…と多くの景勝地があり、島原ソウメン第一の生産地、須川の“にゅうめん”も食べられます。
四国の香川県に「苧扱川」という河川があり、鹿児島にもこの地名があるようです(これについては確認していませんのでなんともいえませんが…)。これら、他の苧扱川地名の周辺調査を進めれば、語源、地名の起源についても、さらに明瞭になってくるでしょう。
また、私の住む佐賀県でも、伊万里市原屋敷の大野神社の参道が「オコンゴ」と呼ばれていることもお知らせしておきます。十年前までは和紙が生産されていたことは確認しています。
 
ここに久留米地名研究会メンバーが運営するHPがあります。
「山への旅(シリーズ)」です。本人の牛島氏からは了解をとっていますので、「おこんごう」のその他の分布について書かれたものがありましたので、必要な部分だけを使わせて頂きました。
 
第7回 苧扱川という地名
九州地方:
@ 苧扱川“おこんご”(島原、口之津)
A 苧扱川“おこん川”(久留米市)
B 麻扱場橋“おこんば橋”(熊本、南関)
C 苧扱川“おこぎがわ”(熊本、合志)
D 苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)  2010.1.11up
 
@ おこんご”(島原、口之津)    
島原、口之津歴史民俗資料館 資料より
 旧税関跡を整備した資料館
写真:牛島稔大(2009/7/31)
口之津、苧扱川“おこんご”遊郭: 
A おこん川”(久留米市)        
広報くるめ No.1102 2004.2.1 |ふるさと再発見|ふるさとの歴史を伝える池町川 より
市の中心部を貫いて流れる池町川。
西鉄久留米駅付近に端を発しJR久留米駅付近までの川の岸辺は、商店街や歓楽街、官庁街といろんな顔をもっています。
この川は江戸時代初め苧扱川と呼ばれていました。池町川と呼ばれるようになったのは、18世紀以降のことです。城下町の地名1つ、池町にちなんで池町川へと変わったといわれています。
苧扱(おこん)川公園: 福岡県久留米市梅満町543−1
その他の“おこん川”
山口県下関市王子地区(地元の人たちが「おこん川」と呼んでいる小川):
山口県防府市大字江泊(おこん川は、徳山領(富海村)と三田尻宰判(牟礼村)との藩境):
長崎県五島市岐宿町(福江島岐宿町名物・おこん川かかし祭り):
B おこんば橋”(熊本、南関)         
麻扱場(おこんば)橋  
おこんば橋は、南関町大字下坂下、北辺田の内田川に架かっていたアーチ式の石橋で、平成5年にほ場整備にともなう河川改修により、解体撤去のやむなきにいたり、ここ大津山公園内の太閤水の地に移転復元されました。建造年代は不明ですが、江戸末期か明治の初期と考えられています。石工名も残念ながらわかっていません。
橋名は、昔内田川で麻のさらしが行われていて、橋の近辺を「麻(お)扱(こ)き場」と呼んだことによるものです。撤去前は農道として近隣の人々が利用する程度でしたが、昔は肥猪方面から高瀬に出るには、この橋を渡り、上坂下、三ツ川を抜けるのが最短でしたので、多くの人々が利用する大事な橋でした。おこんば橋は、やむをえず移転復元されましたが、これからもずっと町の文化財として大切にしていきましょう。
 
福岡県八女市黒木町木屋字苧扱場
県別マップル道路地図 長崎県より
 
C “おこぎがわ”(熊本、合志)         
広報こうし 平成19年7月号(第17号)より。
平成15年10月に発見された史跡豊岡宮本横穴群の整備が、今年3月に完了しました。
 横穴とは、がけ面に横から穴を掘ってつくられたお墓です。この豊岡宮本横穴群は、古墳時代後期(約1500年前)の有力者の家族墓で、約9万年前の阿蘇山噴火による火砕流でできた凝灰岩の岩盤につくられています。合志市豊岡の竹迫日吉神社北側にあり、正面にはホタルの住む塩浸川(苧扱おこぎ川)が流れています。
D 苧扱川“おこく川”(香川、観音寺市)     
高屋町(たかやちょう) 旧高屋郷高屋村。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
七宝山山麓で、苧扱川(うこくがわ)が流れる、田園地帯。稲積山高屋神社では春に高屋祭りが行なわれ、満開の桜とちょうさのコラボレーションが見られる。----> 現地の人の呼び方は、“おこく”のようです。 
おこんご関連連地名
長崎県西海市西彼町白似田郷字苧漬川     
佐賀県嬉野市岩屋川内字苧漬川(おつけごう)
大分県国東市国東町岩戸寺字葛原苧着場(おつけば) 
大分県国東市国東町来浦苧畑(おばたけ) ・・・大分県国東市安岐町富清苧畑(おうばたけ)  
大分県国東市小畑    大分県大分市賀来小畑
大分県日田市大山町西大山小切畑(おきりはた)大分県日田市大山町東大山字小畑(おばたけ) 大分県日田市小畑 大分県臼杵市 小切畑
大分県豊後大野市小切畑
熊本県山鹿市小畑
宮崎県えびの市苧畑 ・・・宮崎県延岡市小切畑
宮崎県東臼杵郡門川町小切畑 ・・・宮崎県西臼杵郡五ケ瀬町小切畑
兵庫県丹波市春日町棚原 苧漬場(おつけば)の池
京都府宮津市中津(京都府与謝郡栗田村中津)字苧漬場
福島県南会津郡只見町 大字田子倉字芋(苧)漬場(オオアザタゴクラアザオツケバ)
山形県酒田市泥沢苧漬場 ・・・山形県酒田市苧畑
山形県東田川郡庄内町大字廿六木字苧漬沼、字苧漬台
口之津は九州王朝の最重要港湾か?
 
皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?
国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じにならないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。
口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社
 
あまり知られてはいませんが、京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことでしょう。
この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。
まさに、遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。
そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。
もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行った姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出たと思うのです。
早崎の瀬戸の先端 瀬詰崎灯台、向こうは天草下島
 
長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。
さらに思考の冒険を進めてみましょう。
何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、船の帆ではなかったかと考えるのです。
高良山神社
 
一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から眺め、、宗像、博多、唐津、呼子が強調されていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の反時計回りの海流を利用して口之津に出、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。
 
苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維
 
古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。
さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。
一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。
まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。
重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。
ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。
もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いましたが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。
 
婦人は髪を束ね、単衣の布の中央に穴を開けた様な衣である。
 
稲、チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ。(苧麻は沖縄から南で繊維を使う)
http://www5.ocn.ne.jp/~isao-pw/wazin.htmを参照されたし。
 
もう一つ補足の意味でご紹介します。宿敵安本美典系のサイトから…(ほんの洒落ですが)。
其風俗不淫 男子皆露以木緜招頭其衣幅但結束相連略無縫 婦人被髪屈作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾紵麻 蠶桑緝績 出細紵緜 其地無牛馬虎豹羊鵲 兵用矛楯木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與擔耳朱崖同
>>こちらを参照されたし。
その風俗は、淫(みだら)でない。
男子は、みなみずら(の髪)を(冠もなく)露 (出)している。木緜(ゆう:膽こうぞの皮の繊維を糸状にしたものとみられる)をもって頭にかけ(はちまきをし)、その衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがない。
婦人は、髪をたらしたり、まげてたばねたりしている。
作った衣は、単被(ひとえ)のようである。その中央をうがち(まん中に穴をあけて)頭をつらぬいてこれを衣る(いわゆる貫頭衣)。
 
禾稲(いね)、紵麻(からむし。イラクサ科の多年草。くきの皮から繊維をとり、糸をつくる)をうえている。蚕桑し(桑を蚕に与え)、糸をつむいでいる。細紵(こまかく織られたからむしの布)・絹織物、綿織物を(作り)だしている。 >>こちらを参照されたし。
 
古代史、それも、九州王朝説(論)に地名の話を持ち込みましたが、当然にも奇異な感じをお持ちになった方もおられたことでしょう。   
そろそろ、それに何らかの決着を着けなければなりません。久留米地名研究会を十人足らずで始めた実質的な第二回目の会合において、「久留米市街地にオコンゴが流れる」を取り上げました。非常に間の抜けた話なのですが、その頃になって、このオコンゴ=苧扱川の「苧」(チョマorオ)がいわゆる『魏志倭人伝』に出ていたことに気づいたのです。
もちろん、“倭の水人が好んで潜水し魚貝を採る”など倭人の風俗に触れた部分なのですが、女が貫頭衣を着ているとした後に、種禾稲紵麻…出細紵(稲チョマを植え桑の木に蚕を飼い糸を紡ぐ)と書かれているのです。
当時の研究会でも久留米の池町川と有明海の出口にあたる島原半島の口之津に同じオコンゴという地名があり、久留米がかつて繊維産業(久留米絣)の中心地であったことを考える時、いわゆる倭人伝に書かれた文字がそのまま残る両地が、また、同時に倭人の棲む土地であったことを意識したのです。
私も九州王朝が卑弥呼の国の後継国家であることを疑わない一人ですが、このオコンゴ地名の分布を考える時、それが有明海沿岸に集中し、分布領域の中心部に位置していることに気付くのです。もちろん、地名はその成立時期を特定することが、ほぼ、不可能な上に、サンプルの絶対量が少ないことから、何の根拠にもならないとお考えになるかもしれませんが、神籠石、真珠、絹、鉄の分布に加え、正確に拾い出し作業を行なえば、複数の地名複合の対応などにより、何らかの示唆を得られるのではないかとも考えています。実際、絹の分布を考える時、それほど絶対量が多いわけでもないのですし、考古学の世界では纏向遺跡のようにたった一つ土器片の発掘例で卑弥呼の時代のものだなどと決め付ける愚か者の学者や大新聞があるのですから、それで良いとは言わないものの、無視されるほどの物でもないように思います。
 
口之津の高良山神社について
 
私は2010年3月まで口之津史談会に入っていましたが、同会の平 一敏氏が書かれた「口之津の神社総覧」を頂き読ませていただきました。その中に高良山神社が出てきますのでご紹介しておきます。
このような小冊子でも同様ですが、その地域で重要な神社、信仰を集める神社は先頭に掲げら
れます。ここもその例にもれず、口之津湾の裏山とも言うべき富士山(190m)山頂に鎮座する富士山神社に次ぐ二番目に高良山神社が掲載されています。
口之津港字界図
唐人町の裏山、高良山に建つ3棟の社殿、御堂によりなる。昔の鎮守の杜の面影をそのまま残す姿の美しい神社である。向かって左は金比羅宮、有翼の像を祀り潜伏キリシタンの信仰をも思わせる。右は大師堂、島原半島版鎮西八十八ケ巡りの第17番札所となっている。 
(古川:以下省略)
 
平 氏はその由来などはほとんど知られていないとされながらも、「ただ有家町木場に同名の神社があり、創建の由来もはっきりしている。同社は島原の乱の後の慶安4年(1651)、筑後吉村から移住してきた末吉氏が故郷の高良神を勧請してきたもので、…(中略)…唐人町の高良さんも、その名称からして同様の経緯で創建されたものとみてほぼ間違いない。すなわち、島原の乱後、すっかり荒廃したこの地に筑後周辺から来た移住者が、高良大社から勧請、創建したものであろう。」とされています。
私は木場の高良神社(有家町堂崎)も、複数回に亘り注意深く見てきました。平氏の説には敬意を払いつつも、率直に言わせて頂ければ、木場は全くの開拓集落であり、名称も玉垂宮(旧字ですが)と異なることから、埋立が進んだ口之津港湾奥の一等地とも言うべき地にある同地の一の宮とも言うべき神社が、新参者の外地からの移住者によるものとの説には容易には同意できかねます。まず、金比羅とのセットであることが、九州王朝との関係が揶揄される宮地嶽神社と同じであり、背後に聳える富士山神社(祭神は言うまでもなく木乃花佐久耶媛で、これまた九州王朝との関係が濃厚であり、もしかしたら、「フジ」と言う地名も東海に持ち出されたものかも知れないと思っています。)も天長3年(826)という古い時代に富士山浅間(せんげん)神社から分祀されたものとの伝承を考え併せれば、九州王朝との関係を否定できないと考えています。
なお、有家町堂崎の高良玉垂神社については、「木場の高良さんの祭り」(『有家風土記』)という伊福芳樹 氏による詳細なリポートもあります。また、付近の六郎木地区には同町(当時)教育委員会で神籠石ではないかと言われる未調査の遺跡があることもお知らせしておきます。
 
景行天皇と島原半島
 
口之津を論じる時、「日本書紀」は景行紀に登場する島原半島に関するくだりが頭に浮かんできます。
もちろん、島原にフェリーが渡る長洲辺りから島原方面を望み、島なのか半島なのかを問い、調べさせるという話ですが、実際、荒尾市や長洲町から望むと、まさしく手が届くかのように眼前に雲仙岳が見えるのです。この感動は恐らく誰しも感じるほどのもので、この記述に作為は全く感じられません。景行であるかは別にして、恐らく史実であったと思うものです。
一般には、この「日本書紀」「肥前國風土記」の件だけが取り上げられるのですが、景行の動き(もしかしたら景行は島原半島に渡っていたのではないか)については、「日本書紀」「肥前國風土記」「口之津村郷土史」「平凡社歴史地名体系」「角川日本地名大辞典」では多少の表現の違い(混乱)が認められるのです。
ここに口之津史談会の松尾寿春氏(現会長)による「景行天皇と口之津」という好論があります。正確にお伝えするために資料として全文を掲載していますので、是非お読みいただきたいと思います。同氏は以下の4点に焦点を当て、推論を拡げておられます。このため、ここではその点のご紹介だけに留めます。
一. 景行天皇が八代から船出して上陸なされた地が口之津の宮崎鼻である。(口之津村郷土史)
二、 景行天皇が熊本県長洲町の行宮から島原半島を眺めて、島か半島か確認させるために神の大野宿禰を遣わした(肥前國風土記)が、そのとき神大野宿禰が上陸した地が口之津である。(平凡社日本歴史地名大系)
三、 景行天皇が熊本県長洲町に行宮に在した時に、来島された地が口之津の宮崎鼻である。(口之津村郷土史)
四、 景行天皇が高来郡から玉名に渡ったときの乗船地が口之津である。(角川日本地名大辞典)
興味あるテーマですので、皆さんも検討して頂きたいと思いますが、私には景行のその後の動きも気になります。「日本書紀」には口之津を含め長崎、西彼杵半島、平戸、五島方面への巡航の記述はないのですが、松尾氏も指摘されているように、風土記には諫早市の南岸、佐世保市の早岐の瀬戸、平戸島南端の志々伎崎、五島列島の北域の小値賀島への記述があります。もしも、古田武彦氏に従い、九州王朝の事績を置き換えたものと考えれば、興味あるルートではあります。
さて、ここまでくれば雲仙島(仮称)が景行の時代、既に島ではなかったことが分かったはずです。掲載した諫早市の船越は景行の時代においても船越しなければならない地峡であったとは一応言えるのではないかと思うものです。以後、資料として付加した「船越」をお読み頂ければ幸いです。
 
捨てがたいもう一つの有明海ルート
 
 船が十分ではなかった古代においては、いきおい、可能な限り安全な航路が選択されたはずです。有明海、不知火海が古代の地中海なみに安全な海であることについては、皆さんも異論を持たれないでしょう。
 読売と畿内説論者が仕組んだ馬門石(ピンク石)石棺の搬送ルートも、口之津から野母崎を廻りましたが、私にはどうしても十トン近い石棺を積んで野母崎沖を廻ったとはとても考えられません。これについても、古田史学の会の全国総会で発表した「馬門」という雑稿がありますので機会があればお話したいと考えています。
 ここでは、そのことには触れず、古代に於いて、ほとんど人が住んでいなかったと思われる野母崎(長崎半島)を廻ることなく、小船なら船を引き上げ、大船なら乗り換え(積み替え)大村湾から早岐の瀬戸を抜けたとしか考えられないとだけ申し上げておきたいと思います。
 
船 越
 
船越という地名
船越という地名があります。"フナコシ"とも"フナゴエ"とも呼ばれています。決して珍しいものではなく、海岸部を中心に漁撈民が住みついたと思える地域に分布しているようです。  遠くは八郎潟干拓で有名な秋田県男鹿半島の船越(南秋田郡天王町天王船越)、岩手県陸中海岸船越半島の船越(岩手県下閉伊郡山田町船越)、岩手船越という駅もあります。また、伊勢志摩の大王崎に近い英虞湾の船越(三重県志摩市大王町船越)、さらに日本海は隠岐の島の船越(島根県隠岐郡西ノ島町大字美田)、四国の宿毛湾に臨む愛南町の船越(愛媛県南宇和郡愛南町船越)、……など。インターネットで検索したところ、北から青森、岩手、宮城、秋田、福島、栃木、埼玉、千葉、神奈川、新潟、岐阜、静岡、三重、大阪、兵庫、鳥取、広島、山口、愛媛、福岡、長崎、沖縄の各県に単、複数あり、県単位ではほぼ半数の二三県に存在が確認できました(マピオン)。もちろんこれは極めて荒い現行の字単位の検索であり、木目細かく調べれば、まだまだ多くの船越地名を拾うことができるでしょう。 それほど目だった傾向は見出せませんが、九州に関しては、鹿児島、宮崎、熊本、佐賀、大分にはなく、一応"南九州には存在しないのではないか"とまでは言えそうです。
 勝手な思い込みながら、海人(士)族の移動を示しているのではないかと考えています。この点から考えると、大分県南部や熊本県の八代あたりにあってもよさそうなのですが、ちょっと残念な思いがします。大分にはたしか海士(海人)部があったはずですし(現在も南、北海士郡があります)、かつては海賊の拠点でもあったのですから。もちろん地名の意味は半島の付け根で、廻送距離を大幅に軽減するために船を担いだり曳いたり、古くはコロによって、後には台車などに乗せて陸上を移動していたことを今にとどめる痕跡地名であり、踏み込んで言えば普通名詞に近いものとも言えそうです。Mapionマピオン(以下同じ)
 ここで、一応お断りしておきます。"佐賀にはない"としましたが、日本三大稲荷と言われる鹿島市の祐徳稲荷神社南側の尾根筋に「鮒越」(フナゴエ)という地名があります。地形から考えてこれはここで言う船越地名ではないと思います。また、表記が「船越」であっても鳥取県西伯郡伯耆町の船越のように本当の山奥にあるものもありますので、ここで"船越"が行なわれたわけではありません。あくまでも全国の船越という地名の中には"船越"が行なわれていたものがかなりあるのではないかというほどの意味であることをご理解下さい。また、山奥にあっても、海岸部の船越地名が移住などによって持ち込まれたものがありますので、地名の考察とは非常に難しいものです。
 
九州の船越
 この船越地名が九州西岸を中心にかなり分布しています。近いところでは佐世保市の俵ヶ浦半島の付け根に上船越、下船越という二つの集落があり、実際に船を運んだという話も残っています(長崎県佐世保市船越町)。
 「佐世保から目的地の鹿子前(かしまえ)や相浦(あいのうら)の方に向かう途中に俵ヶ浦半島があり、遠回りしなければなりません。遠回りすれば風向きが変ったり、天候が急変することもあります。そこで半島の付け根の平坦な地形のところで、船を陸にあげ、小さな船はかつぐなり、大きな船は引っ張るなりして陸地を越えました。荷物はひとつひとつ運び、乗客や乗組員は歩き、最後に船を丸太を並べたコロの上を引っ張りました。」(「ふるさと昔ばなし」佐世保市教育委員会・佐世保市図書館)
 他にもありますのでいくつか例をあげてみましょう。十年ほど前まで良く釣りに行っていた魚釣り(メジナ、キス)の好ポイントです。長崎県の平戸島の南端に位置する志々伎崎ですが、ここに小田と野子の二つの船越(長崎県平戸市大志々伎町)があります。特に小田の船越は誰が考えても船を曳いた方が断然楽と思えそうな地形をしています。
 また、福岡市の西に糸島半島がありますが、この西の端、船越湾と引津湾に挟まれた小さな岬の付け根にも船越地名があります(福岡県糸島郡志摩町大字久家)。
 九州王朝論者で著名な古代史家の古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)が、『「君が代」は九州王朝の讃歌』市民の古代 別巻2(新泉社)という本でこの糸島半島の船越にふれておられますので紹介します。 灰塚さんが『糸島郡誌』(昭和二年刊)から抜粋して、コピーして下さったものの中に、つぎの史料があった。
 
桜谷神社―(祭神)苔牟須売神
 糸島郡の西のはしっこ。唐津湾にのぞむところ。そこにある神社だ。引津湾と船越湾というニつの小湾(唐津湾の一部)の間に岬が飛び出している。その根っ子のところが、字、船越。よくある地名だ。縄文時代や弥生時代の舟は底が浅かった。ずうたいも小さい。一本造りの丸木舟や筏。
 こういうものなら、岬をずっーと回るより、根っこの部分を"押して"越えた方が早い。五十メートルや百メートルくらい、うしろから押す、前から綱で引っ張る。その方がずっと手っ取り早い。時間とエネルギーの節約なのだ。岬の突端など、速い潮流が真向うに突っ走っていることも、珍しくない。雨や風の日など、もちろん。 
 というわけで、日本列島各地にこの地名が分布している。ここでは詳しくふれませんが、『「君が代」は九州王朝の讃歌』は衝撃的な内容であり、興味がある方は同書を読むか、古田史学会のホーム・ページ「新・古代学の扉」にアクセスして下さい。博多湾周辺には、「千代」「八千代」「細石」(サザレイシ)=細石神社「井原」(イワラ)、「苔牟須売」(コケムスメ)桜谷神社=苔牟須売神という"君が代"に関連する地名がセットで広がりを見せています。つまり、これらの地名が織り込まれた歌を明治政府(宮内省)が「君が代」(「古今和歌集」で「我が君は」となっていますが)に仕立てたことになるのです(結果的に明治政府の思惑に反したことになるのですが)。ともあれ、お読みになれば、糸島の船越が桜谷神社―(祭神)苔牟須売神に関係したものであることがわかってくると思います。
 
対馬 小船越 と阿麻氏*留神社
 
 もうひとつ例をあげましょう。この船越は"フナゴエ"と呼ばれています。対馬の二つの船越です。今の対馬は大きく二つの島に分かれていますが、昔は一島を成していました。対馬の中央にある浅茅湾は複雑な溺谷が幾つもあるリアス式海岸ですが、ここには非常に幅の狭い地峡がいくつもあります。対馬の東海岸から西海岸に船で移動するためには七〇キロあまりも航走することが必要になりますので、昔から"船越"が行なわれてきましたが、ここに運河が造られます。まず、大船越瀬戸が寛文一二年(一六七一年)宗義真(宗家第二一代)によって開削されます(「…昔から船を引いてこの丘を越え、また荷を積み替えて往き来きした。船越の地名はここに由来すると言われる。…」=現地大船越の掲示板)。その後、明治三三年(一九〇〇年、結局、日露戦争では使用されなかったようですが)には艦隊決戦を想定した運河=万関瀬戸(マンゼキセト)が帝国海軍によって掘られます(ダイナマイトを大量に使う難工事だったようです)。当然にも、大船越(長崎県対馬市美津島町大船越)があれば小船越(〃美津島町久須保)があります。小船越には知る人ぞ知る阿麻氏*留神社(アマテルジンジャ)がありますが、この小船越にも「東西から入江が入り込み地峡部を船を曳いて越えた。ここは小舟が越えたので小船越。大きい船は大船越で越えた」(史跡船越の表示板)という伝承があります。北に位置する小船越には水道はありませんが、この小船越と対馬空港に近い南の大船越の間にあるのが万関瀬戸になります。
 ところで小船越の阿麻氏*留神社ですが、この船越についても古田教授が前述の『「君が代」は九州王朝の讃歌』の中でふれています。「…小船越の方には、阿麻氏*留(あまてる)神社。日本で一番有名な神さま、天照(あまてらす)大神(おおかみ)の誕生地。わたしがそう思っている神社だ。」
 詳しく知りたい方は、「古代は輝いていた」全三巻のT第四章(朝日新聞社)昭和五九年一一月などを読んでください。
 これについては面白いエピソードがありますので、二〇〇三年三月に大阪八尾市で行なわれた「弥生の土笛と出雲王朝」という講演内容から紹介します。「…小船越に阿麻氏*留(アマテル)神社があります。わたしは、ここがかの有名な伊勢神宮に祭られている天照大神(アマテラスオオカミ)の原産地である。そのように考えています。」『…宮司さんは居られなかったが氏子代表の一生漁師である小田豊さんにお会いし、お話をお聞きしました。そこでは小田さんに「天照大神について、そちらの神様についてお聞きになっていることはありますか。」とお尋ねしました。「私どもの神様は、一番偉い神様です。だから神無月になると、出雲に行かれるのに一番最後に行かれます。なぜかと言いますと待たずに済みます。早く行った神様は、式が始まるまで待たねばならない。わたしどもの神様は偉いから最後に到着します。わたしどもの神様が着けば、すぐに式が始まります。そして式が終われば、わたしどもの神様は待たずにすぐ船に乗って帰って来られます。他の神様は、帰る順番を待って帰って行きます。一番偉い神様と聞いております。」』)。そして、古田教授は帰りの飛行機の中でとんでもないことを思いつきます。「何んだ!天照大神は家来ではないか。」「…一番偉いのは出雲の神様ではないか。動かなくともよい。天照大神は、参勤交代よろしく、ご家来衆の中では一番偉い…」と。「古事記」の国譲り神話に関連した話です。
阿麻氏*留神社: 阿麻氏*留神社の氏*は氏の下に一がありますが、表示できませんので氏*としておきます。
「延喜式」新訂増補国史体系第二部 10 葛g川弘文館
 
『肥前国風土記』、『延喜式』に見る高来郡駅と船越
 
 実は、この船越地名が有明海沿岸にもあります。諫早の船越(長崎県諌早市船越町)と小船越(〃小船越町)です。また同地には貝津船越名(〃大字貝津小船越名/長崎県内には末尾に"名"が付く地名が非常に多い)という地名もあります。ここの船越地名が古いものであることは確かです。肥前国風土記や平安時代に編纂された「延喜式」(*)に、この"船越駅"(駅=ウマヤ)のことが出てきます。「延喜式」に駅馬五疋が置かれていたと書かれていることから考えると、烽火(トブヒ)の存在とともにこの諫早という土地が政治、軍事の重要な拠点であったことが容易に想像できます。
諫早は千々石湾(橘湾)、有明海(諫早湾)、大村湾の三つの海に囲まれた地峡ですが、それゆえか、古代の官道(?)が通っていました。当時、長崎は取るも足らない場所であり、陸路を考えれば、重要なのは大宰府から西に進み、佐賀県の塩田(塩田町)を通り吉田(嬉野町吉田)あたりから山越えして長崎県の大村(大村市)に下り、諫早を通って島原付近(野鳥?)から海路、肥後(熊本)に向かうものでした(ただし、延喜式の時代にはこの海路は廃止されたと言われます)。
 「肥前風土記」(肥前国風土記)は、一応、七一三(和銅六年)年の詔により奈良時代中期に成立したとされていますが(もちろん異論は存在します)、古代史家を中心に良く読まれているようですので、ここでは原文を省略します。
 ただし、「肥前国風土記」には船越駅の記述は直接的には出てきません。このことについて、日野尚志 佐賀大学名誉教授が書かれた「肥前国の条里と古道」(「風土記の考古学D」肥前国風土記の巻 小田富士夫編 同成社)から引用させて頂きます。
律令時代になると駅伝制が整備された。肥前国における初期の駅制は明確ではない。『肥前国風土記』によれば、肥前国の駅路は小路で、養父郡を除く一〇郡に一八の駅家が置かれていた。そのうち具体的な駅名が判明するのは松浦郡の逢鹿・登望ニ駅にすぎない。『延喜式』によれば肥前国に一五駅あって『肥前国風土記』の総数と比較して三駅減少している。この三駅の減少は単に駅の廃止だけではなく、駅路の変更に伴う駅の減少である可能性が強く、奈良時代と『延喜式』時代では駅路が必ずしも同一でない可能性が強いことに留意すべきであろう。 対して、九二七年撰進、九六七年施行の「延喜式」(巻二十八 兵部省)には、ほんのわずかながら、他の駅と並んで、肥前國驛馬として「船越 傳馬五疋」の記述が出てきます(「延喜式」吉川弘文館)。 ただ、船越の場合は駅路変更の余地がない場所だけに、「肥前国風土記」が成立したと言われている時期に先行する七世紀、もしかしたら、六世紀にも一定の政治権力によって(もちろん我が「古田史学」は大和政権とは考えませんが)烽火や駅が整備されていたのではないかと考えています。
 
諫早の船越、小船越
 
「風土記の考古学D肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図です。
 
 地図を見ていただければ直ぐに分かるのですが、船による移動が重要であった古代において、もしも、諫早の"船越"が事実であれば、大宰府から南に宝満川を下り有明海に出て、西に進み、さらに、諫早湾から船越を経由して大村湾から西に出て(大村湾には西海橋が架かる急潮の針尾瀬戸と小さく緩やかな早岐瀬戸の二箇所の海峡があります)対馬海流に乗れば、労することなく自然に朝鮮半島にたどり着くことができるのです。
 最近、古代史界の一部では、朝鮮半島へのルートとして、下手すればロシアのウラジオストック方面に流されかねない博多や唐津(唐津の唐は遣唐使の唐ではなく、任那=加羅、金官伽耶、高霊伽耶なのでしょうが)よりも、むしろ有明海ルートの方が合理的ではなかったかということが言われ始めているようです。
 仮に、有明海湾奥部から北に向かうとしても、島原半島を大迂回するよりは、諫早の船越経由による大村湾コースが極めて有利であることは言うまでもないでしょう。
 博多湾、唐津湾から朝鮮半島に向かうとしても、一旦は西に向かい対馬海流に乗ったと言われていますので、荒れる玄界灘を直行したり、弱風で西に進むよりは、有明海、大村湾を西に進む方が遥かに安全だったはずなのです。
 これまでにも繰り返し述べてきたことですが、今でも、有明海は非常に大きな潮汐を見せる海です。ギロチンが行なわれるまでは、上下で六メートルと言われていましたので、干拓が行なわれていなかった古代においては、浅い海が広がり、多くの島や半島が入り組んだ複雑な地形をしていたはずですので、潮汐は今よりももっともっと大きかったはずなのです(奥行が深く海が浅いほど振幅は増大するとされています)。 
 現在でも諫早は低い平地ですが、実際に"船越"が行なわれていた時代には、その距離は今の地形から想像する以上に短かったのではないかと思います。
 諫早地峡の東側には本明川と半造川が諫早湾に向かって流れています。また、西側には東大川が大村湾に向かって流れています。この間が約一キロですから、ここさえ"船越"すれば良いことになるのです。記述にもあるとおり駅に馬が置いてあったのですから、この外にも馬はいたはずですし(島原半島の口之津、早崎半島に"牧"があったと言われています)、馬に曳かせるなどして、船を運ぶことは思うほど大変なことではないでしょう。小さい船であれば数人で曳けたでしょうし、大きな船でも極力、川を利用し、時としてパナマ地峡のように川を堰き止め水位を上げるなどしてその牽引距離をさらに縮めたはずなのです。
 逆に言えば、そのような重要な場所であったからこそ、古代の駅が置かれていたのです。
 いずれにせよ、ほとんど遮るものがなかった古代において、船を曳くということは普通に行なわれていたと考えられ、もしかしたら、ある程度組織化されていたのではないかとまで考えています。また、民俗学の世界には"西船東馬"という言葉があります。これは中国の軍団の移動や物資輸送が"南船北馬"と表現されたことにヒントを得たものでしょうが、確かに西は船による輸送が主力でした。また、"東の神輿、西の山車"という言葉もあります。これは、それほど明瞭ではないのですが、東には比較的神輿が多く、西には山車が多いというほどの意味です。
 非常に大雑把な話をすれば、全国の船越地名の分布と、祭りで山車(ダンジリ、ヤマ)を使う地域がかなり重なることから、もしかしたら、祭りの山車は、車の付いた台車で"船越"を行なっていた時代からの伝承ではないかとまで想像の冒険をしてしまいます。
 直接には長崎(長崎市)に船越地名は見出せませんが、ここの"精霊流し"もそのなごりのように思えてくるのです(長崎の精霊船は舟形の山車であり底に車が付いており道路を曳き回しますね)。
 少なくとも、諫早の船越地名は非常に古く、潮汐は今よりも大きかったはずですから、太古、大村湾と諫早湾の間において船で"陸行していた"という推定は十分に可能ではないかと思うのです。
 さらに、地質学的な調査、例えば海成粘土の分布といった資料があるのならば、"船越"のルートを特定し、地峡の幅、従って"船越"が行なわれた距離(延長)もある程度推定することができますので、今後の課題にしたいと思います。
* 延喜式:@弘仁式・貞観式の後を承けて編纂された律令の施行細則。平安書初期の禁中の年中儀式や制度などの事を漢文で記す。50巻。…(広辞苑)
なお、本論文は「古田史学の会」の会報とホーム・ページにも掲載されています。
発行 古田史学の会 代表水野孝夫
事務局   〒602 京都市上京区川原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
電話/FAX 075‐251‐1571 ホーム・ページ 「新古代学の扉」
西光知巳「オコンゴ考」
松尾寿春「景行天皇と口之津」
武雄市 古川 清久
このページの上へ
お問合せ >>HOME