久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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古川清久
(武雄市)久留米地名研究会編集員
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杵島(きしま)
 久留米地名研究会は2012年1月28~29日にかけて、佐賀県の西南部に位置する杵島山周辺の古代史ポイントを探訪するトレッキング行ないました。
 当然にも武雄温泉に宿泊することから新年会が併せて行なわれたことは言うまでもありません。
 本稿はこの現地探訪のために作成したガイドブックをベースに、中央では全く省みられることのない重要な古代史ポイントを紹介するものです。
 通説派の邪馬台国畿内説論者は当然のこととして、九州王朝論者や邪馬台国九州説論者においてさえ、筑前、筑後には目が向けられますが、佐賀県の西部地域が取り上げられることはほとんどありません。
 この点は、肥後、肥前(長崎)も同様でしょう、ましてや、この杵島山周辺を中心とする佐賀県の西南部一帯については、僅かに、おつぼ山の神籠石と歌垣山がたまに取り上げられる程度で、地元の郷土史会、史談会においてさえ、まず、まじめに議論されることは無かったようです。
 しかし、武内宿禰の父を祀る武雄神社や母の山下影姫を祀る黒尾神社の存在はもとより、橘 諸兄を祖とし、橘 一族のルーツにも見える長島の荘、そして、その後継とも言える明治の旧橘村や潮見神社、橘氏に嫁いだ和泉式部の生誕地、生育地、百済の滅亡の前に亡命した聖明王の一族が上陸し、尚、主神として祀られる稲佐神社や、柿本人麻呂一族の墓所、倭姫命を主神として祀る味島神社の存在など、その虚実を判断するだけでも調査する必要性は重分あると考えています。
 まず、一般的には和泉式部が佐賀県の出身だなどとは、地元の人以外は誰も知らないでしょうし、橘 諸兄のルーツが佐賀県などとは、考えたこともないことでしょう。
 それほど、中央からはこの一帯は無視され、番地(蛮地)扱いされているのです。
トレッキングは、28日(土)の午前10時から夕刻までと、29日(日)午前10時から夕刻までの二部編成で十数箇所のポイントを二度廻るという形で行ないました。
 この方式は、土曜日の朝から武雄温泉での新年会に参加し、翌朝帰りたいという人、土曜日仕事をして新年会に参加し翌日の探訪会に参加したいという人、さらには、トレッキングのみの参加も受け入れる事ができることから便利な反面、ガイドする側は同じポイントを二度案内する必要が出てきます。
 中には宴会だけ参加する方、二日間とも廻られる方、温泉と宴会だけが目的といった方もおられましたが、風邪による土壇場キャンセルも多発したため三十人弱の宿泊に減ったものの、参加延べ人員四十数名規模の現地探訪となりました。
 なお、この小稿の最後には、単独でもカーナビで現地に回れる様に、電話番号、住所、目安となるポイントを入れた一覧表を添付しています。
 ぜひ、御自分の目で探訪されることを望みます。
1 柿本人麻呂末裔の墓 江北町佐留志 佐留志は
(猿丸太夫の志)
2 江北町上小田の天子宮 江北町上小田 佐賀県では鹿島にも一社が
3 八艘帆ケ崎
(百済聖明王一族の亡命避退地)
白石町稲佐神社 空海入唐後の上陸地でも
4 和泉式部生誕地 白石町有明福泉禅寺
(旧錦江村)
旧錦江村の錦江はクンガン
5 龍王神社 龍王崎古墳群、海食崖 白石町有明 海人族の海岸性墳墓
6 和泉式部生育地 嬉野市塩田町五町田 式部は和泉守 橘 道貞の妻
7 味島神社
(日本で唯一倭姫命を祀る)
嬉野市嬉野町谷所味島 伊勢神宮の鎮座地を求めた
8 八天神社
(八咫烏のルーツ)本社
嬉野市塩田町谷所 福永晋三説でも登場
9 丹生神社
(嬉野塩田水銀ルート)
嬉野市塩田町宮元 ここにも丹生津姫がいた
10 万葉の杵島山は島だった 白石町歌垣山 あられふるきしまがたけに
11 杵島山西水道 提(ヒサゲ)の浦 嬉野市塩田町西山 田んぼの中の分水嶺
12 おつぼ山神籠石 武雄市橘町 考古学者に封印された
13 奈良麻呂の変の
廃太子道祖王の墓地
武雄市橘町 ドウザノボチ
14 橘 諸兄とかっぱを祀る
潮見神社
武雄市橘町潮見 渋江河童のルーツ
15 武内宿祢の父武雄心尊を祀る
武雄神社
武雄市武雄町武雄 武雄の一宮
16 樹齢3000年の大楠 武雄市武雄町武雄 市内には他に2本の大楠あり
17 武内宿祢を祀る武内神社 武雄市武雄町武内 武内地名は武雄にしかない
18 磐井の乱と関係があるか
中野の磐井八幡社
武雄市朝日町中野 磐井の乱の磐井を祀るか?
19 武内宿祢の母親山下影姫を祀る
黒尾神社
武雄市朝日町中野 武内宿祢の生育地?
20 武雄温泉 武雄市武雄町 神功皇后三韓征伐後の湯浴
21 御船山 武雄市武雄町武雄 柿本人麻呂が読んだか?
22 久留米に向かう岬上に鎮座する
高良玉垂宮
武雄市橘町 武雄にも高良玉垂宮が・・・
23 武雄北方インター辺りで鯨が捕れた! 武雄市北方町芦原 多久の殿様日記より
1.柿本人麻呂末裔の墓所
現地で死んだとされ、幾つもの柿本神社、人麻呂神社が名を競い、人麻呂の像が並ぶのは石見の国ですが、ここで取り上げるのは、人麻呂一族の本願地、もしかしたら生地としての可能性です。
  二十年近く前、ホテル・ニューオオタニ(佐賀)で行われた古田武彦講演会に現在D市にお住いのKさんという方がおいでになり、「私達は人麻呂の末裔と伝え聞いており系図もある…」と話されたそうです。
実はその一族の墓と言われるものが、江北町大字佐留志の某所、JR肥前山口駅北にあります。
 人麻呂が大和朝廷によって粛清されたとの話は梅原 猛の「水底の歌」で知られています(古田武彦氏は「面白すぎる」とされ否定されていますが…)。人麻呂は貶められ猿丸太夫の歌とされたとの説もあり、佐留志(この地名は全国的にも類例が無く、三字であることから好字令以前の地名の可能性もありますが、貶められ佐留志とされたのかもしれません)も関係があるのではないかと思うものです。
 ただ、猿丸太夫の墓と称するものは全国にあります。
九州でも、福岡県香春町の柿下地区と熊本県高森町猿丸地区にあることを確認しています。
 現地は非常に分り難く、JR肥前山口駅の北に聳える御嶽山の山裾を這う旧道(一定の時代の旧長崎街道)の山側にあるのですが、この地は、しばらく前まで大規模な墓地があった場所です(分らない場合は当方までご連絡下さい、都合が良ければご案内致します)。
恐らく、古代においては長崎本線、佐世保線の北側まで有明海の波が洗い、それ故に、葬地が山の頂まで延びており、古代官道はこの崖下の道ではなく、山越えルートを通っていたはずです。
 現在、この地には不必要極まりない急傾斜対策事業(見た目にも薄汚いコンクリート構造物は二十年もすれば劣化が進み強度も急激に落ちるため絶えず再生する自然林の方がよほど強いのです)が施され、大量の墓石なども、かなり、移転され、ここ十年で様変わりしてしまいましたが、それまでは、山裾に大木が繁り、その合間に数多くの墓石が並んでいました。
 その一画に、改葬されたものの、柿本人麻呂の末裔と称する一族の墓が残されているのです。
 九州王朝論の立場からは、人麻呂は九州王朝の宮廷歌人であり、出身地が九州にあるのは当然のことで、畿内などにあるはずがないのです。
現在、この人麻呂の末裔と称する一族はK家とY家に別れ、各々にD市とS市にも分骨されたと聞いております。
 真偽の判断は皆さんの判断によるものとして、今も現地には柿本人麻呂の末裔の墓地跡の石碑が残されています。
2.天子社(江北町上小田)
 九州一円から西日本にかけて天子宮、天子社、天子神社という奇妙な神社群があります(東北地方にも在るのですが調査が届きません)。
 そして、この江北町上小田にも、かつて九州古代史の会の荒金卓也氏(「九州古代王朝の謎」他著)が随書「倭国伝」に言うタリシヒコを祀るとした天子宮があるのです。
 これについては、天子宮調査として書き続けているものの中から「伊倉」51をご紹介しておきます。
なお、鹿島市七浦にも天子神社があります。
 これまで、西日本の天子宮については、現在まで百数十本のリポートを書いていますが、内六十本ほどはネット上に公開しています。
 最近も新たな天子神社を調査しました。リポートとしては最後のつもりで書いたことから、ここ一年ほどで全編を画像付きでオンエアしたいと考えています(古田史学の会のHPで公開したものは「伊倉」「天子宮」でダブル検索してください)。
 上小田の天子社の所在地については、1.柿本人麻呂末裔の墓所 添付の位置図を参照して下さい。
139 伊倉 五十一 “佐賀県江北町小田天子社の秋祭り”
 十月、十一月はどこの神社も祭りの季節です。これほど天子宮を周りながら祭りや神事を知らないでは話にならないため、まずは、もっとも近い江北町小田の天子社の秋祭りを見に行くことにしました。
 いまどきどの祭りに行こうが伝統的な神事や祭礼など見るべくもなく、消行く日本の伝統、文化、民俗に涙するなどというのがおちなのでしょうが、とにかく週末の午後から天子社に向かいました。朝方パラついた雨もあがり、良い天気になってきました。神社に着くと、かなり練習したと思われる振れ太鼓が出かけるところでした。既に、御輿は巡幸に降っており、お清めの水持ち、中学生男子、女子の幟、御輿(最近は担ぎ手の不足から大半が山車に乗せますが、本来は担いでいたのでしょう)、傘持ち、神官、お囃子の山車、舞というより踊手の女連・・・と続きます。私は後追いで巡幸に参加し、結局、二時間あまり全てにルートに付き添い、途中、氏子の主だった方や、神官のお話をお聴きすることができました。まず、この長崎街道上の小田宿は陸化の進展によりルートは多少変わっているものの(『延喜式』に基づく「風土記の考古学 肥前国風土記の巻」小田富士雄編を始め、幾つかの説もありますが)、基本的には古代官道上にあります。
 巡幸もこの街道筋を中心に行なわれましたが、いまどき平日の昼から二百人もの巡幸が行なわれることに正直感動を禁じえませんでした。また、この地は、昭和の始めから石炭の採掘が行なわれ、一時期、相当の炭鉱労働者の住宅がこの上小田地区一帯にできたのですが、その際にも神事には伝統的な上小田、下小田の七(八)区によって行なわれているようです。既に古文書等もなく、神官もさらに湾奥の大江神社の神主が兼務されていますのでなかなか実態は描けません。
 以前掲載した江北町商工会のホーム・ページによると、この天子社は
神功皇后道徳山に野立し給う時に始まり土民がその御聖徳を欽仰するのあまりその行啓由縁の地を朴し仲哀天皇を合祀して鎮護神とした-岡の明神
・天平年間(729)にときの小田駅長広足 この社に応神天皇をも勧進申し上げ新たに社殿を造営 岡の明神を改め大森大明神と尊称し宝祚の無窮、五穀の豊穣、交通の安全を祈願することとなった 之が天子宮の起源である。・・・・・・
祭神は応仁天皇、仁徳天皇、仲哀天皇、神功皇后、豊受大神、菅原道真、崇徳天皇、天照皇太神、大山祇神、倉稲魂神、素戔鳴尊の11柱
境内に 海律見神を祭る沖社社
猿田彦神を祭る庚神社
三女神を祭る厳島神社 等あり
境内 1236坪 神社三社あり
とあります。
復刻版『佐賀縣神社誌要』(洋学堂)によると
応仁天皇がなく、「・・・鎌倉の家臣十郎蔵人対馬守当国へ下向の折若宮八幡宮を当社に勧請して乙宮社と称し、別に応神天皇のみを勧請し天子社と称せしが、・・・」
(一部文字を変えています)
とあります。今後、神官などに直接資料を見せて頂き調査を続けたいと思います。特に神官からは別の伝承があるようにも聞き及んでいます。
本殿から行一キロ下の参道入口から降りの巡幸の出発
降りの巡幸、天子社の文字も鮮やか
後ろは御岳(ウタキ)山、背後の低地は、かつて、海だったかと思われます。
ウタキ山は開聞岳と並び九州のウタキの痕跡ではないかと思っていますが、どうでしょうか。有明海に突き出した岬であったと考えています。
3.八艘帆ケ崎 (百済聖明王一族の亡命避退地)
 杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する、主神として百済の王を奉祀する神社です。 
 
 稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3(861)年8月24日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが、稲佐神社の正史に現われた最初の記録のようです。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。
 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。
 この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も大師が入唐後最初に着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。
また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。
八艘が崎の掲示
八艘帆が崎(ハスポガサキ)
 このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として …百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。…と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
 少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。ここには県道錦江~大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。
 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは全く別の勢力(最低でも九州王朝の王族、大王とは書けなかったことから、磐井の乱同様、筑紫の君とか火の君と表記していると考えています)に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。
稲佐山玉泉坊縁起には空海の上陸が書かれています。
稲佐神社
〒849-1206 佐賀県杵島郡白石町大字辺田2925
0954-65-2177 (カーナビ検索入力用)
4.和泉式部の生誕地白石町(旧錦江村)
 「万葉集」に、「あられふる 杵島が岳を険(さか)しみと 草とりかねて 妹(いも)が手をとる」と詠われる杵島山では、かつて歌垣が行われていたと伝えられています。
 このことから、この地に揚子江流域から呉越の民、ビルマ、タイ系の人々が入ったことは疑いようがありません。
 和泉式部は佐賀県白石町(旧錦江村)の福泉禅寺で生まれています。すぐそばには、百済の聖明王の一族が渡来(亡命)したとされる稲佐神社があります。
 式部は和泉守の橘 道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて和泉式部と呼ばれます。この道貞との間に小式部内侍が生まれます。夫とは後に離れますが、娘は母譲りの歌才を示しています。
 皆さんご存知でしょうか。百済の王都は錦江(クムガン)にありましたね。稲佐神社に聖明治王の一族の亡命伝承があるとすれば、錦江村の錦江がクムガンと無関係とは思えないのです。もしかしたら、和泉式部も百済系渡来人の子孫かも知れないのです。
福泉禅寺
0954-65-4162 (カーナビ検索入力用)
5.龍王神社 龍王崎古墳群、海食崖
杵島山の南端の龍王崎には海人族の墓制とされるかなり大規模な板式箱形石棺墓の古墳群があります。
百済の王族の亡命を荷った一族と見ています。
6.和泉式部が育った塩田町
 式部は杵島山を西に越えた嬉野市塩田町五町田の大黒丸夫婦に九歳まで育てられ京都に登り参内します。
 平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、佐賀県杵島の福泉寺に生れ、塩田郷の大黒丸夫婦にひきとられて9歳まで過ごしました。その後、式部は京の宮廷に召され、優れた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられます。
 今でも嬉野市塩田町には和泉式部にまつわる地名や伝説が数多く残っており「五町田」という地名は式部が詠んだ「ふるさとに 帰る衣の色くちて 錦の浦や杵島なるらん」という歌に感動した天皇が大黒丸夫婦へおくった「5町の田圃」から由来するものです。「和泉式部公園」はこうしたロマンあふれる伝説の地に造られています。
(嬉野市のHPより)。写真は和泉式部公園(嬉野市塩田町)
7.味島神社(嬉野市塩田町谷所)
  味島神社(佐賀県藤津郡塩田町)
  味島神社 谷所 鳥坂
 鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社があります。神社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば「仁明天皇承和年間(八三四~八四八)新に神領を下し社殿を建立した。」(塩田町史)と、あります。
 問題は「倭姫命を祭神とする」ですが、単独で倭姫命を祀る神社は伊勢神宮以外にはなく、これも、後世のものであることから、この神社がいかに重要であるかは言うまでもありません。
 なぜならば、倭姫命こそ、伊勢神宮の鎮座地を求めて全国をさまよったとされる神であり、その根拠地がこの地であった可能性が濃厚なことです。
8.八天神社 “ヤタガラスの神社か?”(嬉野市塩田町谷所乙766)
 一般的には、「祭神は、火之迦具突知大神・建速須佐之男大神・火の神に属される神々様です。」などとされるのですが、この神社の本来の意味が分かる人はほとんどいないように思えます。
 インターネット上に出てくる内容を見ても、全く実態をつかめていないといったところでしょう。
 八天社、八天神社なるものが大分、福岡、佐賀、長崎の主要な山の頂上に祀られている上に、八天山もかなり見かけます。
この祭神を求菩提山八天狗であるとするのが、九州王朝論者でも特異な位置を占める、東京の福永晋三(神功皇后紀を読む会主宰)氏であることを我々は知っています。以下ご参照下さい。
八天神社は、味島神社から一~二キロ程度のところにありますが、所在地の字名は鳥坂です。
古代製鉄の地、山岳修験の地など、小鳥神社、鳥子集落、烏尾峠…と「烏」「鳥」をシンボルとしたものがありますが、これも、ヤタガラスと無関係ではないように思えます。
神武東征研究   - 中国史書と日本書紀の整合性 -
邪馬台国成立の絶対年代
先に、『後漢書』倭伝と記紀を比較して、「倭国大乱」時に神武東征があったのであれば、そこで「倭奴国」が滅び、「邪馬台国」が成立したと見るべきだったのである。「歴年主無し」が、記紀のいわゆる「欠史八代」に相当し、卑弥呼は「邪馬台国大乱」の後、崇神天皇紀の頃に共立されたのであった。事実、神武朝(邪馬台国)は終に「後漢」に遣使することなく、「魏」に交替して初めて遣使したのである。故に、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せていない。  大(頭)天狗+八人(ヤタリカラス)
 と書いたが、ここには一部誤りがあったようだ。倭国乱の始まりに関しては、やはり『魏志倭人伝』の方が正確であったようだ。
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
其の國本亦男子を以って王と為す。住まること七八十年。倭國亂れ相攻伐すること歴年。乃ち一女子を共立して王と為す。名づけて卑彌呼と曰ふ。
 この男子こそが神武天皇(大王)その人である。次の一文が「(王位に)住とどまること七八十年」の意であるとするとき、『日本書紀』「神武天皇紀」には、
辛酉年の春正月の庚辰の朔に、天皇、橿原宮に帝位に即く。
七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩ず。
とあり、「(王位に)住とどまること七八十年」と「七十有六年、天皇、橿原宮に崩ず」とはものの見事に一致する。
 最後の倭奴国王が紀元一〇七年に在位した倭國王帥升と目されるなら、そこに最も近い「辛酉年」は「紀元一二一年」の絶対年代となる。
また、神武は七十有六年後に崩御する。倭国の春秋暦(二倍年暦)であるなら、崩御は「紀元一五八年」となり、「倭国の乱」はこの三年(あるいは一年半)後の綏靖天皇の庶兄手 耳命謀殺から始まったと推測される。一五八年は後漢の桓帝の延熹元年に当たるから、『後漢書』倭伝の
桓霊の間、倭國大いに亂れ、更も相攻伐し、歴年主無し。
の記事も決して間違いではないようであり、霊帝の次の献帝の在位期間中(一九〇~二二〇)に卑弥呼が即位したのではなかろうか。ぎりぎり後漢時代に即位したからこそ、范曄は『後漢書』倭伝に、邪馬台国の女王卑弥呼の共立までを載せ、卑弥呼の遣魏使や魏朝の倭国記事(二四〇年の倭国遣使等)を載せなかったのだろう。史家としての良識を見てとることができよう。
『三国志』の二三八年の遣魏使の事実はもとより不動である。
 思えば、『後漢書』と『三国志』のいずれかが正しく、他方が誤りとするかのような「偏った邪馬壱国論」からは決して私のような分析は生じない。むしろ、『後漢書』と『三国志』は補完の関係にある正史と見るべきである。
(『越境としての古代』6「神武は筑豊に東征した」(福永晋三)の一節)
邪馬台国年表
豊前の天台修験(聖護院系)求菩提山
前一四 饒速日、豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。瓊々杵、
日向のクシフル岳に降臨。
天満倭国=倭奴国が成立する。
饒速日は古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都を建設。天物部八十氏が筑豊の山や島を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。
瓊々杵は博多湾岸を領有し、百余国の一角を形成する。
後五七 倭奴国王、漢光武帝に遣使。金印を受く。天孫本紀に云う天香語山命か。
後七〇 磐余彦誕生。後の神武である。
後八三 お佐賀の大室屋(吉野ヶ里遺跡)陥落。鸕 草葺不合尊の佐賀平野攻略戦。
一〇七 倭国王帥升、後漢の安帝に生口一六〇人を献ず。天孫本紀に云う天忍人命か。
この頃から韓半島・倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶する。
一一四 磐余彦、冬十月、諸兄・諸皇子らと第一次東征を開始。
十一月、岡水門に至り、軍備を整える。
一一五 春三月、遠賀湾を遡り、夏四月、長髄彦軍と交戦、五瀬命負傷し、敗戦。博多湾住吉神社近くの草香津に帰還。
五月、五瀬命死去、竈山(宝満山)に葬る。
竈山の高千穂の宮において、三年間再軍備。
一一八 春二月、第二次東征開始。「日を背にして戦う神策」を実行に移す。速吸門(関門海峡)に至り、珍彦を道案内とする。菟狹(宇佐)に至り、一柱騰宮に入る。
数ヶ月、狹野嶽(求菩提山)に通い、頭八咫烏(求菩提山八天狗)一族と同盟を結ぶ。
六月、「天皇獨り、皇子手研耳命と軍を帥ゐて進む。既にして皇師中洲に趣かんと欲す。」
七月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。
八月、「菟田縣の血戦」に勝つ。
九月、天香山(香春岳)攻略にかかる。
十月、赤銅の八十梟帥を国見丘に破る。
十一月、彦山川水系を南下し、嘉麻川水系に入る。「十有一月の癸亥の朔己巳に皇師(みいくさ)大きに擧(こぞ)りて、磯城彦を攻めむとす。」
立岩丘陵(飯塚市)に籠る磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島(飯塚市)に上陸、遂に「熊野の神邑」を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。「天磐盾(立岩神社)に登り」、東征成就を天祖に祈願する。
十二月、長髄彦との最後の決戦に臨む。「十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髓彦を撃つ。」苦戦を強いられたようだが、辛勝し、終に長髓彦を殺す。
倭奴国滅亡。 長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、天忍人命・天忍男命のようである。饒速日の別の末裔は神武に帰順したようでもある。
一一九 春二月、「諸將に命じて士卒を練(えら)ぶ」。倭奴国の残存勢力を掃討する。
三月、畝傍山(香春一ノ岳)の東南の橿原の地に帝宅の建造を命じる。この後、鞍手郡誌によれば、神武は一旦、宝満山すなわち筑紫に陸路で凱旋する。
一二〇 秋八月、香春に戻って来た神武は、正妃を娶ろうとする。
九月、「媛蹈韛五十鈴媛命を納(めしい)れて、以て正妃と爲す」天神の血統を入れる婚姻である。
一二一 「辛酉年の春正月の庚辰朔に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。」
邪馬台国創始。
二月、論功行賞。「頭八咫烏、亦賞の例に入る。」求菩提山・英彦山から彦山川水系に沿って、今日の田川郡赤村より「烏尾峠」辺りまでの「飛ぶ鳥の明日香」の地の領有を認められたらしい。
一三六 神武、邪馬台国を巡幸。秋津島倭の国号始まる。
一四一 春正月、神渟名川耳尊のクーデター。手研耳命暗殺さる。天孫系から天神系に王権が移る
一四六

一八九
倭国大乱(後漢書)。
一五八 春三月、神武崩御。秋九月、畝傍山東北陵に葬られる。
一七八

一八四
「漢の霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年」
一八九 卑弥呼共立か。(『三国史記』によれば一八四前後の即位も考えられる)
二三〇 「将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む」、三国志呉書「孫権伝」黄竜二年
二三八 卑弥呼、魏に遣使。景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝 獻,太守劉夏遣吏將送詣京都.
二四〇 魏使、邪馬台国に至る。正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國
二四三 卑弥呼、大夫伊聲耆﹑掖邪狗等八人を遣使。
二四五 正始六年,詔賜倭難升米黃幢,付郡假授.
二四七 邪馬台国狗奴国と交戦。正始八年,太守王頎到官.倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯・烏越等詣郡說相攻擊狀遣塞曹掾史張政等.因齎詔書・黃幢,拜假難升米為檄告之.
二四八 卑弥呼死去。卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步.
二四九

二五五?
再び倭国乱る。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人.臺與この間に即位か。
二六六 臺與、晋に遣使。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定.獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹.政等以檄告喻壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺.
三六七 邪馬台国、神功天皇に滅ぼされる。
三六九 水沼の皇都(大善寺玉垂宮)建設される。新・邪馬台国の創始。
〒849-1423 佐賀県嬉野市塩田町谷所乙766
0954-66-4205 (カーナビ検索入力用)
9.丹生神社 丹生都比売伝承
 大分市の丹生都比売神社は知られていますが、嬉野市の嬉野町、塩田町に多くの丹生神社があることは、ほとんど知られていません。
 一般には、佐賀関から愛媛に渡り、中央構造線に沿って水銀採取集団が移動したとされるのですが、良くても、その起点は八代から球磨川の大峡谷を通るものが想定されているようです。しかし、構造線の枝流とも言えるものがあり、九州の北西部の嬉野町の不動山辺りからも発していたのです。
 嬉野市には丹生神社が少なくとも5ヶ所はある。これが構造線に沿って大分の丹生津媛神社を経由し、四国の大構造線に沿って並んでいるのだが、これが江南系の水銀採取集団が辿った足跡と考えれば理解しやすい。
太伯説話
 神話と歴史をつなぐ夏王朝や実在が確かめられた殷王朝が周王朝に先行した。
 周の王子であった太伯は、聖人の資質を持つ末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。
 なお倭は自らを呉の太伯の後裔と信じていた。
春秋時代(BC770~BC402)
 周の後に春秋時代と呼ばれる時代となった。江南には越と呉の強国が建ち、相争う事幾たびにも及んだ。呉は太伯、越は禹の苗裔で夏后帝少康の後裔と称した。ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。我が倭も「夷」である。見よ「華」の傲慢さ、華より夷だ。夷の持つ礼節と独自の文化を大切にしよう。
誕生から美少女へ
 揚子江の南、西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産する。
稚日女は、江南の呉王国の妹王女 として生を受けた。姉王女は大日女と云う。この地は遙か東の倭国に至る 中央構造線 の西端に当たる。
 臥薪嘗胆の故事 結局呉王夫差は越王勾踐に敗れる。
 BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。なお楚国は始皇帝の秦に滅ぼされる。呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。
 この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉戴し、まさに呉越同舟で船出をし、新天地の倭国へ向かった。
 呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。
九州上陸
 南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。狗奴国の狗は呉(gu)であるか。
 妹姫の稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。稚日女姫を奉戴した一族は熊本の八代や 佐賀 の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。 天野大社(丹生都姫神社)の丹生良広氏の「丹生神社と丹生氏」によれば、丹生氏の第一歩は筑前の伊都の地とされている。  この地は邪馬台国の伊都国であるがここには水銀鉱床は出ていない。しかし紀の国の主な水銀産地は伊都郡内にあり、伊都国から人と共に地名が運ばれたとの想定である。伊都国王の後裔が紀州丹生氏や怡土県主の五十ト手につながり、大分豊後丹生氏になっていったとの見解を開示されておられる。伊都国の氏神の高磯比 咩神社の祭神を丹生都姫と見ておられる。
 誠に興味ある説である。伊都国の官は爾支(にき)と云い、これは丹砂に通じるか。
大分で大きい鉱脈見つかる。
大分 で大きい鉱脈を発見、姫と氏族は移動した。
丹生都比売は中央構造線を進む。
 四国 の各地で鉱脈を発見・採掘を行いつつ移動した。四国は空海の生まれた土地でもあり、高野山真言宗が丹砂を狙ってか進出しており、二重構造になっているようだ。
以上kamnavi.jp/ny/nyutu.htmから切り出したもの
佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下甲 1769
0954-66-9117 (カーナビ検索入力用)
10.万葉集に歌われた杵島山は島だった
古川のHPからの切出し!
HP「有明海諫早湾干拓リポートⅡ」68.「杵 島」("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)から
歌垣山
 私が住む佐賀県武雄市の南部に通称杵島山(キシマヤマ)と呼ばれる標高三〇〇メートルほどの山があります。とりたてて姿が美しいというほどのものではありませんが、"歌垣"伝承のある山として一部には知られています(大阪府の能勢町や茨城県筑波市と合わせて日本三大歌垣とされています)。また、古代史や考古学に興味をお持ちの方には、神籠石(コウゴイシ)を持つ山としても知られています(古代の山城の木柵の礎石と考えられている"おつぼ山"の神籠石はこの山の北西域に存在します)。今回は"杵 島"としてこの山の西側に関する話をします。                 
 この山は数峰(勇猛山、犬山岳、杵島山、飯盛山、白岩山)からなっています。地図を見るかぎり歌垣山という山はありません。しかし、杵島郡(藤津郡にも跨っていますが)一帯の人々は、歌垣が行われたと伝わるこの山全体を杵島山と呼び、その東側中腹の丘陵を、親しみを込めて歌垣山と呼んでいるのです。もちろん、歌垣は筑波や能勢や杵島だけで行われたわけではなく、この外にも歌垣伝承のあるところは全国にあります。それどころか、江南系の農耕民族が住みついたと思える西日本の各地に広く分布していたはずなのです(この歌垣の話は八月以降に予定している小稿「兵主部」で書くつもりですので、今回、これ以上は触れない事にします)。
 ただ、西日本に顕著な夜這いの風習とは別に、"歌垣の風習は遠い上代に存在していたのではなく、部分的には現代まで実際に生きていた"ということは知っておいて欲しいと思います。
 一例をあげておきます。永遠のベストセラー「忘れられた日本人」宮本常一(岩波文庫)"対馬にて"ですが、この本にはほんの半世紀前まで実際に歌垣が存在していたことを伝えています。
 対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭(か)けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契(ちぎ)りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。
 対馬の歌垣の記憶は宮本常一によって、潰え去ることなく今に甦りましたが、この他にも歌垣の痕跡を思わせるものがいくつか存在します。私は、以前から福岡県の大牟田市に近い高田町に濃施という地名があることが気になっています。詳しく調べてはいないのでなんとも言えませんが、場所と言い、地形と言い、この地で歌垣が行われたのではないかと考えています。もしかしたら、江南系の渡来人がこの地から大阪の能勢に移動していったのではないかと勝手な思いを巡らせています。
11.杵島山西水道 匙ケ浦 提の浦(ヒサゲノウラ)の論証から
 長崎自動車道武雄・北方インターから四九八号線に入り、杵島山西側の山裾に沿って南に進むと、五分ほどで杵島郡から郡境を越え藤津郡塩田町に入ります。さらに五〇〇メートルも走ると北志田という地区にある"提の浦"という集落に出くわします(字名にも"提の浦"があり、掲示板もあります)。
さて、この小論は有明海に臨む杵島山が文字通り"島"だったのではないかという作業仮説の検証をするだけのものですが、はじめに"提"(ヒサゲ)の話しから始めます。 
 "提"とは「銚子の一種。銀・錫製などで、柄がなく弦(つる)のある小鍋形の器具。酒を注ぐのに用いる」(広辞苑)とされています。ただ、"瓢"(ヒサゴ)の方はともかくとして"提"(ヒサゲ)の方は明らかに死語になっています。
提の浦
 "提" (ヒサゲ)は"干下げ"とも読め、潮が引いたら干上がってしまう浦とも考えられるのですが、事実、地形はそれを示しているのです。
 もちろん、有明海の西岸には多くの"浦"地名があるのですが、海岸部ばかりでなく、相当の内陸部にも散見されます。この杵島山の東側の山裾には湯崎、川津、島津(いずれも杵島郡白石町)、南に近付けば、八艘帆が崎(ハスポガサキ)(*)錦江、廻江津(いずれも杵島郡白石町=旧有明町)という地名があり、さらに南側の先端には室島(杵島郡白石町=旧有明町)、深浦(同)があり、竜王崎が突き出しています。杵島山の東側から南端にはある程度の沖積平野か海成平野とでもいうべき干潟から発達した平野があり、太古には、直接、有明海に接していたことは疑いないと思います。  
また、竜王崎の崖下には国道二〇七号がかすめていますが、ここから北にかけて杵島山の山裾を通ると海食洞と思えるものも見かけるのです。
 北側には、樺島(杵島郡北方町)があり、鯨の話で紹介した六角川が流れています。さらに上流に入れば潮見神社(武雄市橘町)があり、今でもこの付近まで海水が上がってきます(この川の上流にも北浦という地名まであります)。さらにJR佐世保線の武雄温泉駅の付近にも私が幼少年期を過ごした西浦や天神崎という地名があります。 
 杵島山の北西側には、花島(武雄市武雄町)永島(武雄市武雄町、橘町)、楢崎、玉島(武雄市橘町)があり、西側に提の浦と久間(いずれも藤津郡塩田町)という地名が展開しています。このように杵島山は海湾地名に取り囲まれているのです。
 今回、この"提の浦"を取り上げたのは単に内陸部にあるということばかりではなく、もしも、ここまで潮が入っていたと仮定すると、杵島山西側の山裾の中でも最も標高の高いところであり(と言っても標高10メートルほどの全くの低平地なのですが)、この廻廊が水道であった可能性さえあり、結果として杵島山が文字通りの"島"であったことを最後に証明する痕跡地名にも思えるのです。
"クマ地名"の論証
 前掲した久間(藤津郡塩田町)地名についても全国的には理解しがたいと思われますので、多少のコメントを加えておきます。ここで"久間"を海が近接していたことを示す地名として取り扱った理由は、これをいわゆる"クマ"地名と考えたからです。"クマ地名"は九州において顕著であり、一般的には河川邂逅部(川が海や大河川と繋がる部分)に付く地名です。福岡県では雑餉隈、七隈、三隈、金隈、月隈…がありますが、佐賀県にも、松隈、日の隈、早稲隈、帯隈…と多くの"クマ地名"があります。
 これは、大きな川が流れる大平野よりも小さな川が海沿いなどの低地に流れ込む場所の方が水を利用しやすく、最初の近代的な稲作農業(陸稲型の雑穀農業、縄文稲作はここでは考えない)はこういった場所で始められたのではないかと考えられているのです。
 一般的に、このような場所が九州の場合"クマ"と呼ばれていることが多く、稲作農業との関係で形成された地名とも言われています(もちろん朝鮮の"コマ"地名と考える説もあります)。
 簡略化すれば、川底の深い大河川からは引水することが難しいために、小河川や山からの湧水など利用しやすい場所に最初の水田が開かれたと想像されたためです。これが"クマ地名"であり、佐賀平野では貝塚ラインと並んで古代の海岸線を探る一つの指標ともされてきたものです。この地名については、宮崎康平による「まぼろしの邪馬台国」(講談社)にもある程度の説明がありますが、ここではふれないことにしておきます。広辞苑には『…②奥まって隠れた所。すみ。源氏物語(明石)「かの浦に静やかに隠らふべき―侍りなむや…」』とありますが、海に川が流れ込む場所は当然に奥まり、堆積によって平地が形成されますので、水田稲作の適地だったと想像できるのです。
 さて、杵島山は一周五~六十キロ程度の船形の細長い連山であり、その西側にも低山が延びています。その低地に六角川の支流である東川が北に向かって流れています。この川の支流が杵島山西側の山裾で標高が最も高い場所を流れていますが、その途中に"提の浦"があり、今でもそこから一キロ余りのところまで潮が上がっているのです(堰で止められていますが)。もちろん、一キロ余りといっても標高差は僅かであることはいうまでもありません。
 有明海沿岸には満潮時に潮がかなり奥まで上がる川が数多くありますが、この地域の浦地名は単なる川(淡水)の船着場でしかない"川津"とは異なり、あくまで潮に乗って舟や船が上がる川沿いの入江に付いたものと考えるべきでしょう。潮位は東京湾平均海面に基づくものですが、大潮の満潮時には相当奥まで潮は上がるものです。私は、最低でも"提の浦"という地名によって、ここまでは潮があがっていたのではないかという推定が可能ではないかと考えています。
籠(コモリ)地名の論証
 "提の浦"という地名による論証とは別に、ここまで有明海が奥まで入っていたという傍証がもう一つあります。六角川河口から河道延長で二五キロ以上、直線でも一五キロ以上はあると思える場所に明確な干拓地名が残っているのです。"提の浦"のさらに上流にある"籠"地名です。
 籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩(この表現には長崎県民の抵抗が少なからずあるかもしれませんが、幕府直轄領であった長崎市周辺にも、また、大村湾岸東部地域を中心に鍋島藩の親戚筋の諫早藩領や鍋島藩の領地が存在したのです)にしかない地名であるため、これについても一応簡単なコメントを加えておきます。
 もちろん干拓地は全国にありますが、集中して存在するのは関東の霞ヶ浦、印旛沼周辺、福井県、新潟県の海岸部、岡山県の児島湾周辺と有明海、不知火海であり、それ以外にはそれほどまとまった干拓地はありません。一般的に全国の干拓地は新田、新開、開などと呼ばれていると思います。山口恵一郎氏による「地名を考える」(NHKブックス)という本がありますが、この本にも籠、搦地名が出てきます。
籠・搦・開
 遠浅の有明海沿岸は、主として近世以降、干拓が進められて新しい陸地が増えていった。こうした新開の土地は、ふつう新田(関東・北陸その他一般の名称)とか新開、(中国・四国に多い)とかの呼称がつけられるが、この地域ではここに特有な呼称がつけられている。籠(こもり)・搦(からみ)・開(ひらき)などの名称がこれである。
 干拓地は、とくに江戸前期から中期にかけて大量に増加したが、明治以後は~干拓というような地名も現れてくる。搦は柵(しがらみ)のことだが、これは干拓が前面に潮土井(または土井)と称する潮止堤(護岸)を築き、その内側を陸化していくことから来たと思われる。そして、干拓地の名称と同時に、堤防にそって形成された集落の名称ともなる。…中略…
 小地域的にみれば、この三者の呼称は分布する地域を異にする。ざっとみると、肥前すなわち佐賀県側には籠・搦が分布し、筑後川の東部つまり筑後すなわち福岡県側では開と呼ぶ。しかも、佐賀県側の川副(かわぞえ)付近では、内側つまりやや内陸に籠が、外側つまり海に近いところに搦が多い。…
 籠、搦地名は特殊ですので、地元研究者の原口静雄氏(伊万里市)による「佐賀県西部の地名について」という論文もご紹介しておきます。
籠(こもり)と搦(からみ)
 佐賀平野の地形図を読むと有明海にのびる干拓地名に、新しく干拓されたところに搦、内陸部に蘢地名が見出される。同様に、伊万里湾でも東山城町松浦線の東山城駅付近に、「奥浦蘢一ノ割」「奥浦蘢ニノ割」の外側(海岸より)に「田土居尻搦」「新搦」などがあり、たしかに「こもり」が古くて「からみ」が新しい。…中略…
  蘢とは入江の静かな浅い海を人手でしめきった干拓造成であったところにつけられた地名であり、搦とは遠浅に杭を打ち、その間に横木をならべ石を置き干満交互に泥が「からみ」つくことから発生したもので、蘢よりも積極的に波にさからって築立てる差が認められるようである。年数さえたてば「からまった」泥土は次第に積み重なって高まり、そこをしめきった。
 諫早周辺の籠・搦地名は、鍋島藩の干拓技術が持ち込まれたものと思われますが、佐賀県全域で、そう呼ばれているわけではなく、幕府直轄領であった唐津藩(佐賀県の唐津市を中心とする北西地域)では開、灰といった干拓地名も認められます。このため、伊万里湾の南岸には搦地名が、北岸には灰地名が見られます(前述の原口静雄氏は灰坊、拝向、拝川、小拝浦などをあげておられますが、伊万里湾北岸では灰地名の外側に新田があるようです)。
 また、佐賀平野などを字単位で調べれば、内陸側に非常に多くの籠地名があり、その外側に搦地名が分布していますが、籠はそれほど労力を投入せずに締切る程度で陸化できた古い干拓地であり、搦は大量の労働力を組織的に投下し意識的に造られた比較的新しい干拓地のようです。
 籠地名と搦地名の説明にも多くをついやしましたが、この古い方の籠地名が"提の浦"の上流にあるのです。地形から判断して"提の浦"は前述の東川の右岸にあるのですが、この東川の右岸にあるのが天神籠であり、左岸にあるのが明神籠です。
 
※ 一応、"籠と搦という干拓地名も有明海沿岸というよりは、鍋島藩とその属領であった諫早藩にしかない地名であるため"としましたが、籠地名の方は、戦国期から場合によっては室町期以前にまで遡る可能性があるため、上記の表現が適切であるかは熟慮の余地があります。また、地域によっては籠地名と搦地名が逆転し、内陸部に搦地名がある場合もありますので(これは内陸部の篭地名が移住により持ちこまれたことによる逆転と思われます)、単純に判断することできませんが、杵島山西側の天神籠と明神籠はかなり古いのではないかと考えています。今後の古地図や古文書などによる調査が待たれますが、ここでは作業仮説と理解していただきたいと思います。
司馬遼太郎の"小便が南北に流れる分水点"
 しかし、さらに分水点を越え向こう側まで潮が廻らなければ杵島山が島であったことの証明はできません。
 事実、この志田地区を北流し六角川に流れ込む東川の支流と、南流し塩田川に注ぐ小河川は百メートル余りと近接し、事実上は数枚の水田で流下方向が異なるだけなのです。規模は違いますが、これに似た話が司馬遼太郎の「街道をゆく」芸備の道 に出てきます。
 「ここは上根(かみね)というところですよ」運転手さんがいった。
 道路は遠くまでまっすぐについている。自然の地形としてこの北にむかって細長い平坦地は尾根なのか高原なのかよくわからない。
分水点付近 498号線を南に進む
「このへんですよ、日本海へ流れてゆく川の上流と瀬戸内海へ流れてゆく川の上流とが一ツ所にありまして、そのあたりの人は立小便をします」
 運転手さんがいう。まさかと思いつつよくきいてみると、そういう習慣があるのではなく、平坦地に小便をして自分のゆばりが日本海へゆくか瀬戸内海へゆくかを見るのだということらしい。それも下界の物好きが創(つく)った笑いばなしにちがいなく、ともかくも一ツ在所で水の流れるむきが南と北とにわかれているのだということの地理上の落し噺(はなし)なのである。
 道はただひたすらに平坦なのだが、ごくわずかにすでに北の日本海にむかって傾斜しているのであろう。このことは、一つの驚きである。
 広島県というのは瀬戸内海文化圏だとおもっていたのだが(事実そうではあるが)、それについての自然地理の面積は実にせまい。広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海にむかって流れているというのは、ただごとではない。
 分水点にちかいという上根から測って、川筋をたどりつつ島根県海岸の江津(ごうつ)(旧石見(いわみ)国)に出るには、一五〇キロもある。松江(旧出雲国)までなら、それ以上ある。
 普通の理解では"現在の標高が何メートルで、また、東京湾平均潮位がどれだけであり、いくら昔であっても最大潮位を考えればそんなところまで海水が入っていたとは考えられない"といったところで思考を中断させてしまうのですが、数千年(もちろん、二~三千年の意味ですが)の単位で物事を考えれば、多くの国造干拓地や諫早湾干拓堤防や熊本新港などといったものが全く存在しなかった太古の有明海は、現在よりもはるかに広い奥行きを持ち、その沿岸には多くの島や岬や沈み瀬などが存在する非常に変化に富んだ遠浅の海が広がっていたと思われるのです。浅く奥行きの長い海は潮汐がさらに増幅するとも言われ(イサカンの逆、イサカンのギロチン堤防建設の結果、潮汐が上下で六〇センチから一メートル近く減退したと言われています)上下で六メートルと言われる有明海の潮汐も、場所によっては、七メートルを超えるものだった可能性さえあるのです。
 また、杵島山周辺には他地域にあまり見られない特殊な墓制があります。一般には甕棺(カメカン)と呼ばれますが、敬愛する古田史学に従えば、甕棺(ミカカン)と呼ぶ蓋を合わせる二基の素焼きの甕に埋葬する(この墓制にそっくりなものが南インドにもあるとの話しも聞きます。南インドと言えば、国語学者の大野晋教授による日本語ドラヴィダ語起源説が直ぐに頭に浮んできますが、思考が全く追いつきません)もので、公共事業による工事などでも杵島山周辺からはおびただしい甕棺が出ています。また、終戦直後までは、杵島山西部では製陶業が盛んでした。このため杵島山とその西の西山は燃料を取り続けるためのものであり、海の運搬作用による堆積ばかりではなく、森林伐採の結果の土壌流出による堆積が上乗せされているものと考えられます(年一ミリとしても二千年でニメートルですから)。古代には堆積も今ほどではなかったはずであり、古代において六角川の支流と塩田川の支流とがつながっていなかったとしても、"53.船 越"で書いた意味での水道は存在したことは間違いないのではないかと考えるものです。
杵島山は出島だった
 現在の六角川と塩田川の支流が近接しているとしても、山を取り囲んで繋がり、また、潮が上がってこなければ、杵島山が島だったことの証明できません。
 では、この可能性はあるのでしょうか、縄文海進期を念頭に置いて有明海の図鑑などには良く「弥生時代の貝塚線から判断して4,000~5,000年前は有明海の中の大きな島であったと推定されている」などと書かれていますが、仮にこの時期に"杵島山が島ではあった"としても、私が考えているのは、そのような古い時代のことではなく、縄文晩期~弥生前期への移行期の話であり(稲作で画期するのか土器で画期するのか明確ではないようですが、ようやく縄文稲作が認知され、五百年ほど遡ることになってきました)かなり、可能性の薄い想定です。つまり、島という大和言葉が確立して、一定の支配力を持ってこの土地に定着した時代(これが難しいのですが、逆に、杵島山が島だった時代に島という言葉が確立したという想定も含めて)、この山が島の形状をしている時代に杵島という名前が付けられたのではないか、もしくは、かつて島だった時代の記憶や伝承が継承され定着したのではないかと想像を巡らすのです。
 九州大学大学院理学研究科の下山正一助手らは地質調査に基づき、古代の海岸線を復元ざれていますが、特集「有明海大全」掲載のコラム1「有明海のなりたち」添付図面=■図2-筑後平野の表層粘土分布によると、残念ながら杵島山は陸続きになっていました。同助手と短時間ですが電話でお話したことがありますが、"夢を潰すようで悪いけれども、杵島山西部には低い溶岩台地があるために潮は越せなかったであろう。ただし、船を担いで運ぶという意味での水道は十分に可能性があったのではないか"との話でした(不正確な場合はご容赦いただきます)。
 私の杵島山が島であったという作業仮説は下山研究により脆くも崩れ去りましたが、南北七~八キロの大山塊が、出島か船を接岸させたような形で実質わずか数百メートル程度の廻廊によって繋がっていたということは、洪水期や高潮時には、文字通りの低平地に浮ぶ島の様相を呈する景観が出現したはずです。実際に島のように見える時は頻繁にあったのではないかと考えられ、そのことによって、杵島という名が付けられたのではなかったかと思うものです。
 この陸続きとなっている延長は添付図面=■図2-筑後平野の表層粘土分布から見ると、一~一,五キロ程度の陸続き(海成粘土分布限界線ラインではなく、非海成粘土分布域から私が勝手に推定)になるのですが、私は最高潮位の、川床(標高で二メートルほど下がる)で考えているために可能性は高まるのではないかと考えています(添付図面の数字は標高です)。
縄文早前期、弥生時代末期の海岸線
 杵島山は万葉集に歌われるとともに、歌垣の伝承がある山です。中国の雲南省、貴州省など(照葉樹林帯)の少数民族に今なお生きる歌垣の習俗がこの杵島山にも存在し、この歌垣の行なわれる日には西から久間水道(仮称)を渡って適齢期の男女が伴侶を探して恋歌を掛け合っていたのではないでしょうか。 
この場所を通過するたびに、杵島山西麓の分水点に近い「提の浦」に南北から小船が入る姿を夢想するこの頃です。
前述したとおり、最低でも、53.船 越で書いた意味での水道は存在したと思われますので、この場所に古代の官道が通っていたことと合わせ考えれば、いまさらながら、この場所の重要性が見えてくるのです。杵島山西側に位置し、水道、陸道のボトルネックにあたるこの場所は、「おつぼ山の神籠石」の存在が示すように極めて重要な場所であったと考えられるのです。
 それはともかくとして、有明海の奥行きを決定的に奪い、"潮汐振幅を著しく減退させた「イサカン」の破壊性、破滅性、犯罪性は明らかではないか"と、今さらながら思うものです。
以上は、古川のhp「環境問題を考える」(アンビエンテ)「杵島」より
12.おつぼ山神籠石
 おつぼ山神籠石の列石は、総延長が1866メートルあり、このうち北端から南西部にかけて列昭和41年6月21日 追加:平成16年9月30日おつぼ山神籠石は、昭和37年に全国で8番目の神籠石として発見され、翌38年に発掘調査が行われました。
 その結果、朝鮮式の山城であることが確認され、それまで神域説と山城説で大論争をしていた神籠石の性格に終止符を打った遺跡として学史にその名を残しています。石が抜けて確認できないところがあります。おつぼ山を取り巻いている列石の個々の石はおよそ高さ70センチメートル、厚さ40センチメートルで、残石の数は1313個です。列石の前面には3メートル間隔で10度内傾させた柱穴があり、城壁となる土塁を築くための板を押さえた柱の穴と考えられます。また、第一土塁の前面では、この柱穴列と列石の間に小礎石が1メートル間隔で発見されていることから、柱穴の柱と小礎石の柱を合掌式に組み合わせて防御柵を構成したとも考えられています。確認された柱穴のうち、第一水門前からは柱根3本が出土しています。おつぼ山神籠石に関する遺物としては唯一のものです。
(以上武雄市HP)
 
このおつぼ山の直ぐそばに長崎街道(旧塩田ルート)が通っていることから、古代の要路を押さえるべくこの城が築かれていたことが良く理解できるはずです。(古川)
13.奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地
 杵島山周辺でも、最も重要なポイントが、この道祖王の墓地でしょう。
 現在の天皇制が確立するのは、橘 諸兄の死と、その後の奈良麻呂の変による橘氏の中級公家への零落が契機となっているように思えます。
 ここから事実上の藤原天皇制が確立したのであり、以後、現在までその専横は続いているのです。
 では、なぜ、この地に廃太子とされた道祖王の墓地があるのでしょうか?
 それは、ここが橘氏の拠点であったからに他ならないのです。
 757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。 
 4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
 藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
 大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
 7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
 前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
 8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。
hp「エピソード日本史」より
 概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。
 では、なぜ、道祖王の墓(ドウザノボチ←ドウソオウサマノボチ)がこの地にあるのでしょうか?橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした、諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性はあるでしょう。何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたと思われ、もしかしたら、橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。(古川)
14.橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社
 春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
 「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」
 さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。(hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より)
 「奈良麻呂の変」後、橘氏のかなりの部分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢させます。その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。
 詳しく知りたい方は、古川のhp「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。
橘 公業(キンナリ)
 武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元2年2月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年9月6日関東御教書案(鎌遺6235)には,9月9日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。
 当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。…(中略)…
 当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。社蔵の御正体(市重文)は元禄5(1692)年の再興銘を持つが,その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。以上、久留米地名研メンバー牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」より。
■参考略系図
『武雄市史』に掲載されていた渋江氏系図をもとに作成。
 ここまで、読まれた方は、橘諸兄の一族が、杵島山の一帯にいたからこそ、和泉式部が中央の橘 道長の妻になることができたのだとお分かりになったのではないでしょうか。
 時代は異なりますが、奈良麻呂の変の時の太宰帥は吉備真備でした。
 そして、橘 諸兄が太宰帥の時の副官は吉備真備だったのです。このよしみから、敗北した橘一族の一部がこの杵島山一帯に匿われた可能姓は否定できません。
 もし、それが正しかったとしたならば、潮見神社に橘 諸兄が祭られることも、廃太子としての道祖王の墓があることも、鎌倉期に橘 公業が伊予から入ってきたことも、合点が行くのです。
 さらに言えば、奈良麻呂の子島田丸がなぜ兵部大輔に抜擢されたのかについても、別稿とするため詳しくは触れませんが思い当たることがあります。
 それは、杵島山と筑波山の歌垣の存在です。現在でも中国の少数民族が歌垣を行い、また、鼓楼や呉橋を造ることは知られています。
 彼らは現在でも、一切釘を使うことなくプレカットされた杉材で、一夜にして高楼に組み上げることができるのですが、その技術をもったビルマ・タイ系の技術者集団が、杵島山と筑波山一帯、少なくとも杵島山周辺にいたとして、また、島田丸がそれを束ねることができる立場にあったとすれば、兵主を使い、一夜にして春日大社を完成させることができた事も納得が行くのです。
 そうです、後の橘氏にも繋がる一族は、古くからこの地にいた可能性があるのです。
 常陸と肥前に鹿嶋と鹿島があり、奇妙に、杵島と鹿島も、建借間命(タケカシマノミコト)も音通していることも気になりますが、鹿嶋と鹿島が双方にあり、常陸国風土記の建借間命(タケカシマノミコト)の故事も成立したのではないでしょうか?
 言うまでもなく、春日大社の主神は春日大神(武甕槌命)であり、藤原氏は一族を守る軍神とするため春日大神を求めたのです。その戦ぶりは、常陸国風土記にあるように、建借間命が配下に杵島ぶりを歌わせ、安心した国栖の賊党をおびき寄せ殺すことができたのです。
 藤原氏の出自が春日大神(武甕槌命=草壁吉見=海幸彦)にある可能性否定できませんが、この騙し討ちの手口が、後の藤原氏の手法の始まりなのかもしれません。
15.武内宿禰の父武雄心尊を祀る武雄神社
 知らぬ者のない武内宿禰(実は明治まではタケシ・ウチ・ノ・スクネと呼ばれています。タケシが名、ウチが姓であり、兄弟にウマシ・ウチ・ノ・スクネがあることからそのことが分ります。ヨーロッパ系の姓名同様に、姓が後置されています。これは彼の出自についてそれなりのイメージを与えます)ですが、北部九州でも多くの神社で祀られているにも拘らず、なぜか、出身地は紀州とされています。
 その遣えた天皇が何代にも亘っていることから、代々の襲名の可能性さえ指摘されていますが、父とされる武雄心尊(主祭神)が祀られていることから、この武雄神社には只ならぬものを感じます。
 それは、“夜這いの距離”程度=4キロ北の黒尾岳の裾野に、主神として山下影媛を祀る黒尾神社があるからです(武雄市朝日町黒尾)。
 以前から、紀州には山下影媛を祀る神社がないのに、武内宿禰が紀州の出身だといった説がまことしやかに流れていることに疑問を感じていました。
 同様の疑問を抱く人はいるもので、「紀氏」というホーム・ページにもこれについて触れてありました。以下。
紀氏の祖 武内宿禰
 紀氏の二系統  6世紀後半から7世紀前半に紀氏集団が分断、紀の国の紀氏 紀直 神魂命の五世孫の天道根命もしくは神魂命の子の御食持命を祖とする神別氏族 日前国縣神宮を祭祀している。
中央の紀氏 紀朝臣 紀角宿禰(武内宿禰の子)もしくは屋主忍雄武雄心命(武内宿禰の父)を祖とする皇別氏族
 武内宿禰は紀の国の出身か? 佐賀県武雄市に武雄神社が鎮座、やはり武内宿彌誕生の地です。
 父親とされる比古布都押信命(比古太忍信命)を祀る神社 福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社 佐賀県伊万里の伊萬里神社 鹿児島県川内市の新田神社摂社武内社 京都府天田郡三和町の梅田神社、母親とされる山下影日売を祀っている神社 福岡県宗像郡玄海町葛原神社 福岡県小郡市の竃門神社 福岡県八女郡水田町大字月田字宮脇の玉垂神社 筑紫の紀氏の出身と思われる母親とされる山下影日売は福岡県にのみ神社が残っている。これは武内宿禰は九州で生まれている事を思わせる。基山付近を根城にしていた筑紫紀氏の出身であろう。やはり武内宿禰は神功皇后・応神天皇一家をつれて東遷したのであろう。Hp「紀氏」
 立派なリポートです。紀氏がこの武雄市周辺にいたことは間違いないでしょう。
 まず、杵島山の「杵」自体が紀氏の拠点であったことを今に伝えるシンボルに見えます。そして、紀氏の拠点とか本願地とも言われる基山の「基」も、紀氏を思わせるのです。
 紀氏の「紀」、「木」、「貴」、「城」は乙類ですが、杵島の「杵」は甲類なのが難点ですかね。
 下に武雄神社の縁起と「佐賀縣神社誌要」の郷社「武雄神社」の記載を添付しています。

※無理からぬことですが、武雄市武内町に数社、武雄市武雄町黒尾に山下影姫を祀る神社があることはこのサイトでは把握されていない模様。
なお、現在、この掲示板は撤去されているようです。
佐賀県武雄市武雄町大字武雄5335
0954-22-2976 (カーナビ検索入力用)
16.樹齢3000年の大楠社
 これは説明の必要はないでしょう。武雄神社の境内から300メートル歩くと感動が待ち構えています。
武雄神社の神木でもあり、推定樹齢3000年、樹高30m、幹周り20m、枝張り33mという縄文楠の迫力に圧倒されます。
 なにやら、武内宿禰が長命で、五代の天皇に遣えたとされたかのようですね。
17.武内宿祢を祀る武内神社
 武雄市武内町武内神社があります。多少、出来すぎの感があるため、信憑性に乏しいと思っていましたが、付近に、と言っても、町村合併前には武内町とは別町であった2キロとは離れない山内町黒髪地区に山下影姫を祀る黒尾神社を複数発見したときに、その疑いは驚きに変わりました。
 後は皆さんでご判断下さい。ただ、一つの鍵として、武雄市の市街地の南半(佐世保線の南側一帯)は当時(武内宿禰の時代)は海もしくは巨大な湿地帯であったため、穀倉地は、現在、山下影姫が祀られる黒尾地区や武内神社の一帯であったと考えられることです。
 このことは、この一帯の集落にある寺の方が武雄の市街地のそれよりも寺格が高いことでも一定の推測ができるように思えます。
武内神社の画像は「佐賀新聞情報コミュニティ」より借用したもの。
18.磐井の乱と関係があるか中野の岩井八幡社
 武雄市朝日町中野に磐井八幡社のある大きな独立丘がある。ここは武雄城主第七代後藤政明が、次男十郎定明に東目の防備として築城しておらしめ、その後、武雄城主第二十代の後藤家信の時に、佐賀の龍造寺八幡社の分霊を磐井八幡社として奉祀した土地であるが、古く筑紫国造磐井が砦を築いて肥前方面の統制と朝廷への反抗の一拠点としたところという伝説があって、古くから磐井の丘といわれている。伝説の真偽は不明であるが、磐井は筑(筑前・筑後)・豊(豊前・豊後)・肥(肥前・肥後)によって反乱を起したもので、その肥前では唯一ともいうべき磐井の反乱に関係した伝説が存在することは興味のある問題であろう。(文は「武雄市史」より借用)
画像は「佐賀県武雄市 武雄温泉 あるタクシー会社 地域観光情報ブログ」より借用
(額束は岩井八幡宮)
19.武内宿祢の母、山下影姫を祀る黒尾神社
 影姫について「古事記」では、ヒコフツオシの信の命が木の国造の祖であるウヅヒコの妹、山下影姫を娶って生まれた子供は建内宿禰。となっています。微妙に系図が違っていますが、山下影姫が竹内宿禰の母だという点では一致しています。そこで彼女の方を調べれば何か手掛かりがあるかも知れないと思って、くるま座さんに話すと、「山下影姫を祀る神社が小郡市にありますよ。」と教えてくれました。それがこの「力武の竈門神社」だったのです。
 以上は太宰府地名研究会メンバー綾杉るな女史のブログ
 「ひもろぎ逍遥」から(ボールド表示は綾杉)
 もちろん、山下影姫を祀る神社は武雄市だけにあるわけではないのですが(福岡県内に数社)、武内宿禰の両親を祀る武雄市が本貫地であったと考えることは、一応、許されることでしょう。 
 山下影姫は一般的には紀氏(姫氏)とされていますが、この影姫を祀る神社は北部九州にしかありません。
 してみると、通説が主張するように、武内宿祢の出身地、生誕地が紀州とはおよそ考えられません。 ただし、後世の武内宿祢(恐らく宿祢の名称は称号に近いもの=襲名で、相続され多くの天皇に仕えたことになったのでしょう)が移動し、各地に足跡を残した可能性はあるでしょう。          
武雄市武雄町黒尾の黒尾神社
なお、武雄市山内町黒髪地区など山下影姫を祀る黒尾神社がいくつかあります。私には、武雄市朝日町中野の黒尾地区にある黒尾神社が真西に位置する黒尾岳、柏岳の直下にあることから、山下影姫の山下とはこ柏岳、黒尾岳の山下であり(柏岳には山下地区もありますが)、影姫の影も両山の山影の意味ではないのかなどと想像を巡らしてきました。
20.武雄温泉(旧称 柄崎温泉)
泉温45度のアルカリ性単純泉 シンボルの楼門は東京駅を設計した辰野金吾によるもの(実際にはスタッフが設計したはずですが)ですが、神功皇后が三韓征伐から戻り湯浴みしたとの伝承があります。
0954-23-2111 (カーナビ検索入力用)
21.御船山
 神功皇后三韓征伐のみぎり、この山の北側に船を繋いだとの伝承があります。こんな、有明海から直線でも20キロは入り込んだ内陸で船など泊められないと考えられるでしょうが、17.でも書いたように、御船山の正面は海だったのです。
それを示すかのように、この一帯には(私が数歳まで生活した西浦を始め)多くの浦地名があります。
面白いのは、国道34、35号線が分かれる御船山の西側は明治辺りまで沼だったと言うのです(御船山の西側のある精神病院は、戦前に沼を埋めて建てられたと病院関係者から聴いています)。
つまり、古代に於いては、海に通じる湖、湿地であったのです。この地は枯木搭(カレキノトウ)と呼ばれますが(枯木搭というバス停でも確認できます)、塔は遠野物語の遠であり、アイヌ語で湖を意味します。まさしく、立ち枯れの木がある湖だったのです。
 さて、この御船山を人麻呂が詠んだと言えば驚かれると思いますが、古田史学の会の公式ホーム・ページ「新古大学の扉」で御船山と内部検索すると、これについて書かれています。以下、お読み下さい。1.で書いた「柿本人麻呂末裔の墓」が、まんざら嘘でもないような気がしてきましたね。
み吉野の御船の山に立つ雲の・・・
二〇〇〇年一月二十二日 古田武彦懇親会
 最後に面白い問題を述べたい。
 佐賀県武雄。武雄温泉、以前の調査でも一泊しました。今回も古田史学の会木村さんが、いち早くここへ水野さんや私を連れて行きたい。そう言って宿を予約していただいた。八日が嘉瀬川の調査、九日の午後博多の講演と言うことで忙しかったのですが、木村さんがぜひ見せたいと思っていたのは御船山なのです。
 これについては実は問題の歌で、人麻呂が歌った歌がある。
 岩波古典文学大系に準拠
 『万葉集』巻三 二百四十四歌
 み吉野の御船の山に立つ雲の常にあらむとわが思はなくに
  右一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。
 (原文) 三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二
 実は私はこれを発見して喜んだ歌なのです。何故かというと『古今和歌集』の序文。古今和歌集の序文というのは、紀貫之が大変なエネルギーと独創力をつぎ込んで書いた名文章であると私は考えている。それを後世の人は誤解してきたのではないか。その中で、人麻呂は歌の聖と言われていた。ところが貫之の方から見ると「物足りないよ。」という話が出てくる。それが今の歌である。吉野を歌って、雲だけを歌い桜を歌っていない。そう言っている。しかし岩波の古典大系の注を見ますと「そんな歌はない。」と書いてある。しかし何処かで見たような気がする。だから一生懸命探したらあった。それがこの歌巻三の二四四です。雲を歌って桜を歌っていない。紀貫之がいちゃもんを付けているというか、人麻呂のことを「歌の聖」と言われていたが、自分から言うと物足りないと云っている。確かに奈良県の吉野なら、桜を歌って当たり前だ。そう思われても仕方がない。『万葉集』でも桜の歌を結構歌っている。万葉に桜の歌はないというのは嘘で、万葉に桜の歌はかなり有ります。だのに桜を歌っていない。紀貫之がそうクレームを付けている。その意味で彼のクレームは非常に鋭い。そのクレームの後、人麻呂と赤人の比較論に入っていく。「人丸は赤人がかみにたゝむ事かたく、(人麿は赤人の上にいかない。人麿は赤人の上ではない。)」と書いてある。詳述は略しますが、今度発刊される『古代史の十字路ー万葉批判ー』(東洋書林)を見て下さい。結局どちらにしても「赤人が上だ。」という話に入っていく。いきなりその話に入っていくのではなくて、間にクレームが入っていることに意味がある。それで最後は、「いにしへをあふぎて、いまをこひざらめやも。」で終わっている。つまり我々の古今集がもっとも優れた歌である。赤人もかなり進んでいるが、もっと良いのは我々古今集が技巧的に優れている。これこそ芸術だ。そういう文脈となっている。だから今の人にとって、その歌がないと理解した為に、その歌が持っている仮名序における文脈上の役割が、カットされてしまった。私は、この歌を見つけたことに非常に意味があった。とにかくそういう経過で『万葉集』には、明らかにこの歌がある。人麻呂の若いときの歌のようで、また人麻呂歌集とあるので人麻呂自身の歌か議論がありますが、紀貫之の目から見ると人麻呂の歌である。
 その歌に「御船の山」とあるが、奈良県の吉野にも三船山はある。しかし行って見て、はてな!と首を傾げた。全然特徴がない。あれが三船山かとさんざん考えた。さらに宮滝の歴史資料館の方に行って、やっと確認した。その山は特に船の形をしていませんし、第一宮滝は舟遊びは出来るかも知れませんが、船になにか特徴があるような川でもない。そこで「御船の山」と『万葉集』に有ったから逆に付けた名前ではないか。そんな馬鹿なと思われかかも知りませんが、「水分(みくまり)山」という山がある。あれが「水分(みくまり)山」だと霞に霞んでいたが、宮滝の歴史資料館の方に教えていただいた。但しあそこの山は分水嶺になっていませんと正直に言われた。別 の山があって、その山が本当の分水嶺の山である。分水嶺の山になって無くて「水分(みくまり)山」という名前を付けることはあり得ない。現在万葉を読んで「水分(みくまり)山」が無くては困る。だから名前を付けた。そういう話になっているようだ。だから「御船の山」もどうも同じ手口ではないか。どうもあの山を見ても、この山だという気がしない。
 それに対し佐賀県の御船山は、木村さんが絶対に見せたいと思ったとおりの「御船の山」ですよ。私はお恥ずかしいのですが、前回行ったときに御船神社に行ったので、明日の講演のこともあり今回は遠慮します。皆さんで行って来て下さいと言った。しかし朝になって考えて気が附いたのは、吉野ヶ里にも吉野がある。吉野山もある。ふたつ吉野がある。それから古賀さんに情報を頂いていたのは、武雄にも吉野はある。場所はどこか分かりませんが『太宰管内志』にも吉野がある。そうすると吉野が三つ有る。それまで私は「三吉野」という言葉が出てくるが、美称の接頭語である「御(み)」であると理解していた。皆さんもそうであったと思う。奈良県に吉野は三つ無いです。一つしかない。しかし佐賀県に三つ有る。文字どおり「三吉野」です。「三吉野の御船の山」は本当に、ここではないか。あわてて宗旨替えしまして、私も連れていって頂きたいと言いました。そう考えてタクシーに乗って行きました。確かに素晴らしい山だ。一回見たら忘れられない御船山だ。船の形をして居て、平地の中にその山だけが突き出ているから印象的だ。しかも山の上の岩。岩があること自体は珍しくないですが、岩が実に小刻みに刻んだ岩が目の前に大きく連なっている。何とも言えない神秘的な忘れられない印象の山です。木村さんが見せたい!と思ったのは当然です。ついでながら簡保(郵便局の簡易保険)の宿が、高い山の上にある。まさに御船山を見下ろす絶好の位 置にある。そこの三階のレストランに上がると御船山が見事に見えていた。しかしその場合は、そこから頂上は二つしか見えていなかった。ところが運転手さんに聞くと三つ有りますよ。その日は博多に行かなければならないので、そこで終わった。
 そして京都に帰ってから武雄市に電話すると、文化情報課の担当の女性の方が非常に熱心に教えて下さった。そして資料と写 真を送って頂いた。まさに三つ見えるのは、JRの線路の上から三つ見えます。しかも艫峯(ともだけ)、帆峯(ほだけ)、次が先頭なのですが何と鞆峯(みよしだけ)。船偏に手の鞆と書いて「ミヨシ」と読みます。辞書を引いたら出てきます。ここでも「ミヨシ」が出てきた。
22.久留米に向かう岬上に鎮座する高良玉垂宮
 武雄市武雄町の永島地区にも高良玉垂宮があります。場所は、花島幼稚園の直ぐそばです。
 東(つまり久留米)に向かって突出した岬状の小丘に鎮座しているのです。
有明海沿岸には、口之津の高良山神社、瀬高は河内の玉垂宮を始めとして高良玉垂宮が散見されます。
 大牟田市黒崎のこれまた西に突出した岬状の小丘に高良玉垂が鎮座しているのと同様、かつて、有明海沿岸に高良の神(高良玉垂命)を祀る信仰圏が存在したことを今に告げるものです。
花島保育園0954-23-0588(玉垂社の付近)
(カーナビ検索入力用)
23.武雄北方インター辺りで鯨が捕れた!「多久御屋形日記」に見る鯨の記事
 「多久御屋形日記」という資料があるのですが、旧「北方町史」の年表にはこの資料に基づく記事が掲載されています。
一七四〇(元文)五
一一・二〇 志久村の猫江井桶口に鯨のようなる大魚入来る。
猟舟六艘、牛津四、福母一、馬田一、で追込む、須子と芦原では鉄砲を数筒づ
つ発した。と注進
一二・ 三 右の鯨の入札あり、岸川町久右衛門落札する。
一七四一(寛保)元
一・一〇 牛津の鯨追込をして来た四艘の船主共、海上より追込んだ手数料を請求する。
新橋上から六角川上流を望む左岸の三番目の樋門付近か?
迷い鯨多久領内にて斃死するの一件
 多久市の郷土資料館の館長をされている尾形善郎氏が書かれた「肥前様式論叢」という本があります。ここにこの話しがまとめられていますので引用させていただきます。
 鯨なるものとはるか縁遠くなった現在、有明海にそそぐ六角川の上流・杵島郡北方町の川筋(旧多久領)に鯨が泳ぎついたというニュースは誰もが信用しないだろう。しかし多久市立図書館に「新橋江筋入込候鯨図」(紙本墨書・堅五三㎝・横一〇八㎝)の絵図が保管され、その確たる証拠を残している。
 あわれむべし、この鯨は「惣長サ四拾尺、但色とろ色」「背より腹まで差渡七尺」「ひれ長サ六尺八寸、横三尺」「鼻先キより口ひげ迄七尺」尾の部分は「差渡四尺八寸」(「 」は絵図に付記されている記録、以下同じ)という子鯨である。この鯨は、たまたま対馬沖の海流から有明海に迷い込み、清流を求めて六角川の川口にさしかかったのであろう。そして肥前の景観にみとれながら川登りを始めたのが運のつき、我に返った時は北方町の「新橋より凡そ八丁斗」の地で、両岸は「多久私領志久村之内初袋」なる部落で、眼前には「多久私領医王寺村之内、猫之江(・・)家三軒」があり、鼻先に「井樋」の水がそそいでいた。ここでは身をよじるによじられない川幅で、海にもどるにもどれず運つきて「井樋」の清水に死水をとって斃死するに至ったのである。
 それから二四一年たった。この現場を巡検すると、国鉄北方駅前のバス停から西へ四〇〇m、北方町追分の信号、交差点があってこれから南に入って追分踏切を渡って医王寺の方へ六〇〇m行けば「新橋」がある。現在架梁中の橋下をくぐって川筋の土手沿いに西に八〇〇m程行った所が、鯨の斃死地である。この両側には「井樋」があり、川筋は絵図通り南にカーブしている。「猫之江家三軒」は今はなく、広々とした美田が続いている。夕日が落ちるとき、この「瀬土井」に立てば、あわれむべきかの鯨のとまどいとあわてぶり、ためいき、そしてあがきと絶望がひしひしと胸にせまってくるのである。
 この一件について多久邑校東原庠舎教授のち大監察を勤めた多久出身の儒者、深江順房(一七七〇―一八四八)は、弘化四年撰した、「丹邱邑誌 巻五」(多久市立図書館蔵)に「元文四年、志久江筋(・・)鯨上り来而遂ニ腐損候」の一文を書き残している。
 また佐賀藩校弘道館助教をつとめた多久邑出身の儒者石井鶴山(一七四四―一七九〇)は同書「巻一」の上欄に「北方八景」の詩をのせている。その一つに「猫江(・・)皈帆」の次の詩がある。
 「地析江門(・・)秋色開 千鯨噴浪雪山来 渡頭日落天如水 一片孤帆擁月回」と。さきの迷い鯨は、この句の千鯨の一頭であろうか。「猫江」の場所といい「江門」といい不思議さもさきの一件と一致しているのではないか。迷い鯨は鶴山先生五歳の時の出来事であった。幼き時の感傷が後でこの詩を生んだであろうか。
 鯨とは、南太平洋を悠然として泳ぎ渡る縁遠いもののようであるが、この迷い鯨はのどかなる多久領内を興奮させた縁深いもので親しみのもてる身近なる思いをさせるのである。
「肥前様式論叢」尾形善郎(元佐賀県立博物館副館長)
絶滅した克鯨
多久市に伝わる江戸中期の絵図
 一九九九年(平成一一年)七月五日付「西日本新聞」に、"幻の鯨六角川をさかのぼった!?「絶滅した克鯨」と推定という記事があります。
 多久市に伝わる江戸時代中期の絵図「鯨図」に描かれた鯨について、長崎大水産学部の柴田恵司名誉教授(七四)=長崎市石神町=が「日本近海では絶滅した(こくくじら)と推定される」と鑑定した。絵図は有明海に注ぐ六角川を河口から約一二㌔さかのぼった地点で描かれており、柴田さんは「回遊性のある克鯨が迷い込んだのだろう。川に上がった鯨の絵図は全国でも例がないはず」と語り、近く海事史研究史で発表するという。
 この絵図は、多久市郷土資料館が所蔵する「新橋江筋入込候鯨図」(縦約五十二㌢、横約百十㌢)墨書きで、一七三九(元文四)年作。場所は旧志久村(現在の北方町)の六角川上流との添え書きがある。旧多久藩の「多久御屋形日記」にもこのときの記述として「大魚が入り込んだ」と記されている。
 北方町は内陸で山が迫り、鯨が川をさかのぼってきたことなど想像もできない地形だが、周囲を山に囲まれた多久市東多久町の六角川に注ぐ牛津川の支流にかかる橋にも「鯨橋」の名前が残っている。
「多久古文書村だよりNo.3」(昭和五六・三・三)
おかに上がった鯨
 複数の資料から、ほぼ、全体像が分かってきました。私の想像はこうです。
 「多久御屋形日記」には、牛津(小城藩)の猟舟とありますが、海で発見された鯨を、住ノ江(六角川河口、右岸の福富町、左岸の芦刈町にわたる港湾と漁港)あたりの漁師達が湾奥の浅瀬(といってももちろん干潟ですが)に追いこみ捕獲しようとしていたのでしょう。追い回しているうちにいつしか六角川に逃げ込まれ、とうとう二〇キロちかくもさかのぼり、身動きできなくなったところをようやく捕獲したということのようです。
 もちろん、当時の住ノ江は水運と漁労の集落があるだけで、鯨を専門に狙う"鯨組"などはもちろんなく、まず、鯨を仕留めるような"銛"さえ一本も持ってはいなかったはずです。せいぜい、網とか綱で絡め捕る以上の方法はなく、実際には他人に捕られないように鯨の遡上に追走しただけだったと思うのです。当事の佐賀は、鍋島本藩のほかに、分家筋の蓮池藩、小城藩、鹿島藩などの支藩とその他の関係領地(家老領…など)に分かれ、入り乱れていました(「佐賀県史」の図面参照)。まず、住ノ江の漁師と北方(志久)の領民とは行政区分が異なり(*)、当然ながら分け前についてはそれなりの対立が生じたはずです。しかし、獲物はそれを遥かに上回る値打ちがあり、お互いそれなりのものを得て収まったことも想像に難くありません。
 いずれにせよ、「鯨一頭、一村潤う」と言われたように、降って涌いたような宝物に住ノ江の漁師連も志久村の百姓もおおいに沸き立ったことでしょう。
(*)六角川左岸の住ノ江(芦刈)は小城藩領、右岸の住ノ江(福富)は鍋島本藩領、捕獲された場所の
現北方町(旧志久村)は多久領(鍋島家親類同格扱いの家臣領)だったようです。
全長一二メートルの鯨が上る川
 記事によると捕獲場所は河口から一二キロということですが、あくまでもそれは直線距離です。当時は現在以上に甚だしく蛇行していたわけであり、やはり河道延長で二〇キロ以上はあったはずなのです。しかしたまたまそこで捕獲されただけであり、堰があるので止まっていますが、海水はさらに五キロ近くは上がるのです(この場所からさらに上流部の武雄市橘町には"潮見"という地名もあります)。少なくとも、二百六十年前には全長十二メートルの鯨が逃げ込むほどに大きな江湖が広がり内陸まで潮が上がっていたことを示す良い資料と言えそうです。もちろん当事の六角川の河道は今とはかなり異なり、川幅ももっと広く、現在の北方町中心部に近接して流れていたようです。
 この話しは一つのエピソードであり、ただのコラムとして読まれて結構です。少なくとも昔の六角川がいかに大きく、また、いかに内陸部まで大規模に潮が入っていたかということは分かります。今、昔の有明海に比べて潮汐が非常に衰えてきたと言われますが、それは、当然にも藩政時代以来の干拓の拡大による影響もあるでしょう。
HP「有明海諫早湾干拓リポートⅡ」68.「杵 島」("かつて有明海に巨大な島が存在した"…か?)から
案内:久留米地名研究会  編集員  古川 清久(携帯09062983254)
1 柿本人麻呂末裔の墓 江北町佐留志 0952-86-2700 ナビは付近の東照寺から東300m
2 江北町上小田の天子宮 江北町上小田 0952-86-2291 ナビは天子社
3 八艘帆ケ崎
(百済王族の亡命地)
白石町稲佐神社 0954-65-2177 ナビは稲佐神社から北に200m
4 和泉式部生誕地 白石町有明福泉禅寺(旧錦江村) 0954-65-4162 ナビは福泉禅寺 錦江村は百済のクンガンか
5 龍王神社
龍王崎古墳群、海食崖
白石町有明 0954-65-5212 ナビはセブンイレブンそこから一キロ右手通過 
6 和泉式部生育地 嬉野市塩田町五町田 0954-66-5665 ナビは施設 和泉式部公園 丘の上
7 味島神社
(日本で唯一倭姫命を祀る)
嬉野市嬉野町谷所味島 0954-66-3913 妻の実家の隣が味島神社
8 八天神社
(八咫烏のルーツ)本社
嬉野市塩田町谷所 0954-66-4205 味島神社から車で1分
9 丹生神社
(嬉野塩田水銀ルート)
嬉野市塩田町宮元 0954-66-3859 県道沿いの神社 
10 万葉の杵島山は島だった 白石町歌垣山 0954-36-2152 杵島山中腹
11 杵島山西水道
提(ヒサゲ)の浦
嬉野市塩田町西山 0954-66-2315 ナビは楠田製菓(一香口旨い)目の前
12 おつぼ山神籠石 武雄市橘町 0954-22-2927 ナビは古川製陶所 付近にあります
13 奈良麻呂の変の
廃太子道祖王の墓地
武雄市橘町 0954-22-2927 ナビは古川製陶所 そこから東に800m
14 橘 諸兄とかっぱ
を祀る潮見神社
武雄市橘町潮見 0954-22-3662 ナビは長泉寺 高速を潜ると南側大駐車場有
15 武内宿祢の父
武雄心尊を祀る武雄神社
武雄市武雄町武雄 0954-22-2967 武雄神社前には大きな駐車場があります
16 樹齢3000年の大楠 武雄市武雄町武雄 0954-22-2967 武雄神社社殿から300m
17 武内宿祢を祀る武内神社 武雄市武雄町武内 0954-27-2291  
18 磐井の乱と関係があるか
中野の磐井八幡社
武雄市朝日町中野 0954-23-2116 ナビは㈱タケックス から南へ400m
19 武内宿祢の母親
山下影姫を祀る黒尾神社
武雄市朝日町中野 0954-23-2161 ナビは㈱タケックス 北側の道を300メートル
20 武雄温泉 武雄市武雄町 0954-23-2111 宿泊地から歩いて行けるので各自
21 御船山 武雄市武雄町武雄 0954-20-0222 通過
22 久留米に向かう岬上に
鎮座する高良玉垂宮
武雄市橘町 0954-23-0588 ナビは花島保育園 そばの小丘に
23 武雄北方インター辺り
で鯨が捕れた!
武雄市北方町芦原 0954-36-4332 追分交差点から踏切横断し平川豆腐から橋に!
0 佐賀県武雄総合庁舎
10時までに集合
武雄市武雄町昭和 0954-23-3103 34号線バイパス/リンガーハット前/締切なし
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