久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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倭人も太平洋を渡った  (南米の九州縄文・弥生の土器)
豊中歴史の会 大下隆司 (古田史学の会)
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古川 清久+大下隆司
1時間40分の音声

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1.はじめに
近年、DNAの解析技術が飛躍的に進み、現在の人類の祖先は20万年頃前にアフリカで生まれ、6〜7万年前に世界各地に旅立ち,アジアへは約4万年前にやって来たことが明らかになっています。さらに2万年前ごろから当時陸続きであったベーリング海峡を越えてアメリカ大陸へ渡っています。1万年前には太平洋を船で渡ったグループも出てきました。
中国の史書には、大洋のかなたにある倭人の国のことが書かれています。そして太平洋の向こう側、南米のエクアドルでは、日本の縄文・弥生土器が出土しています。
古代の人々は我々の想像をはるかに越えたダイナミックな動きを行っていたようです。
(図:『古代日本の航海術』小学館、茂在寅男著)
2.中国史書に描かれた南米の倭人の国
イ) 三国志・魏志倭人伝(3世紀後半に記述)
卑弥呼で有名なこの本には邪馬台国だけでなく多くの“倭人の国名”が記載されています。その最後のところが「倭国の東南の方向、船行一年にして“裸国・黒歯国”に至る」です。
日本の東南の方向、黒潮の行き着く先は南米のエクアドル、ペルーの沿岸です。
ロ) 後漢書・倭伝(4世紀前半)
この史書には“漢倭奴国王”の金印のことが「建武中元二年・・、倭国南界を極める。光武、賜うに印綬を以てす」“倭国が南界を極めたために金印を与えた”と書かれています。そして、倭伝の末尾には南界のことが「東南、船を行ること一年“裸国・黒歯国”に至る。使駅(使者)の伝うる所ここに極まる」との説明がされています。倭国王が南米のことを光武帝に報告したために金印が与えられたものです。
(出典:『「邪馬台国」はなかった』古田武彦。2010年、ミネルヴァ書房。他)
3.縄文・弥生の頃のエクアドル・コロンビア
中南米の古代文明といえば、マヤ・インカ・アズテカなどが思い浮かびますが、それ以前は南米大陸の北部、今のエクアドル・コロンビアの太平洋岸に古代文明が栄えていました。
イ) エクアドルの縄文文化 
今から6千年前のエクアドル、現在のグアヤキル市近くの太平洋岸にあるバルディビアに縄文文様をもった高度な土器文化が突如出現しました。この文化は約2千年間続いています。彼らは航海の民で、優れた航海技術をもち、北はメキシコ、南はペルー・チリ、そして東はアンデスを越えてアマゾン地域との交易を行っていました。
古代において、エクアドル周辺の地域は中南米の交通十字路の中心として栄えていたと考えられています。
曽畑式土器 バルディビア土器
6千年前、曽畑式土器が種子島、沖縄に拡がっています。同じ頃、南米エクアドルの太平洋岸で突如高度な縄文文様をもった土器が出現しました。黒潮の行き着く先です。
1960年代に考古学者でもあったグアヤキル市長エミリオ・エストラダ氏とアメリカのスミソニアン博物館の考古学者、エバンズ・メガーズ夫妻が、バルディビアから出土した土器が
@ 縄文前期の九州の土器と同じ文様をもっていること
A 類似した製作技法で作られていること
B それを伝える黒潮という交通手段があること
C それまでアメリカ大陸には高度な土器文化が存在していなかったこと
から「縄文土器の南米への伝播・古代の太平洋における文化の交流」というテーマを提唱しました。
ロ) エクアドルの弥生時代
紀元前5世紀から紀元5世紀ごろにかけて、エクアドルの北部海岸ラ・トリタ地区からコロンビア南部の太平洋岸にかけて黄金文化が栄えていました。魏志倭人伝の時代です。
そこでは、弥生時代に北部九州で大量に作られていた埋葬用の大型甕(甕棺)と同じ形をした甕が同じく埋葬に使われていました。高さはいずれも1.5mほどです。
九州・吉野ヶ里出土の甕棺 ラ・トリタ地区出土の甕棺
ハ) コロンビアの縄文土器  (B.メガーズ論文より)
カリブ海側にあるサンハシント遺跡から、縄文時代中期(4〜5千年前)に中部日本で盛んに作られていた火炎式装飾の土器が出土しています。
バルディビアからカリブ海側のサンハシントへはコロンビアの太平洋岸を流れるサンフアン川をたどってゆくことができます。この流域に住むノアナマ族にHTLV-1型のキャリアーが多くいます。倭人がここを通りカリブ海側へ移動していた可能性が考えられます。
(HTLV-1:九州・沖縄などの西南日本に多いウィルスで、アメリカ大陸ではアンデスの山奥にだけ見つかっています)
南米大陸西北部太平洋岸
4.その他南米の日本語地名など
バルディビアの北にマンタという大きな町があります。その名前は魚のマンタ(エイ)から由来していると思われますが沖縄ではエイのことをカマンタと呼んでいます。 (古川清久)
その北の海岸にある村がハマと呼ばれています。インディオの古くからの地名です。
沖縄では最近まで結縄文字が使われていました。同じ結縄文字が5千年前の古代ペルーの遺跡からも見つかっています。
その他DNAの類似など、多くの分野で古代の太平洋の交流を示す痕跡が見つかっています。
バルディビアには資料館もあります。南米へ旅行に出かけられる時は是非エクアドルヘゆき倭人の足跡を見てきて下さい。          
(2013年7月10日大下記)
NPO法人 とよなか市民活動ネットきずな
【参考文献】
1) 『「邪馬台国」はなかった』古田武彦著、2010年、ミネルヴァ書房(1971年朝日新聞社の復刻版)
2) 『海の古代史』古田武彦著、1996年、原書房
3) 『新・古代学』第4集、新・古代学編集委員会編、1999年、新泉社
・文化の進化と伝播(太平洋文化伝播説の紹介):ベティ・メガーズ
4) 『なかった・真実の歴史学』四号、古田武彦編、2008年、ミネルヴァ書房
南米の古代地名:古田武彦。”エクアドルに倭人が残した言語は?”。
エクアドルで報道された特集記事(EL UNIVERSO):翻訳大下隆司
5) 『なかった・真実の歴史学』五号、古田武彦編、2008年、ミネルヴァ書房
裸国・黒歯国の頃の南米: 大下隆司
6) 『古代に真実を求めて』十一集、古田史学の会編、2008年、明石書店
人類と日本古代史の運命: 古田武彦講演録。
エクアドルの大型甕棺 : 大下隆司。
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