久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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内倉武久
1時間50分の音声

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お聴きになったらお分かりになりますが、この講演は当方が主催したものではありません。しかし、研究会メンバーも多数参加しており、主催団体の許可を得て当方で収録したものです。
収録状態も非常に良く、それ以上に重要な内容を含んでいることから、現在の考古学の実態を広く知っていただくためにも音声での公開を行うことに致しました。
ご存知のとおり、内倉武久氏は朝日新聞の記者として関西圏はもとより吉野ヶ里遺跡など広く全国各地で取材活動を行なわれ、遺跡の発掘調査や考古学会の実態に精通されています。この講演も取材活動にもとづいて話されたものですが、水城の成立年代を調べるために行なわれた三層の敷粗朶(シキソダ)の放射性同位体(C14)によると、240年、430年、660年が検出されており、「日本書紀」に符合する660年だけが公けにされているなど驚くべき話が含まれています。
久留米地名研究会【編集員】 古川 清久
仮説に仮説を重ね、在りもしない“証拠”を在るかのように吹聴する。そしてとんでもない古代史像を市民に信じ込ませる。そんな風潮を徹底して排除し、考古学の成果、日本書紀、古事記の批判と再探索、日本列島の権力と距離を置く中国、朝鮮の史書の記述などできるだけの証拠を集めて古代史の真実に迫った著作を長年古代史と向き合ってきた内倉武久がわかりやすく市民に問います。
「卑弥呼と神武が明かす古代」は、邪馬壹(台)国がどこにあったのかを魏志倭人伝に描かれるこの国の産物、風物、距離、方向などの記述を徹底的に検証し、北部九州以外ではありえず、現在古代史家らが喧伝する大和・纒向(まきむく)遺跡などでは決してないこと、記紀の記載やさまざまな証拠からいわゆる神武天皇は実在した人物であり、その出身地は現在の福岡県前原市、あの金印を受けた古代国家伊都(委奴)国の王家の一員であり、内紛に乗じて主権を奪った卑弥呼に放逐され大和へ向かったことを記述しています。
 「太宰府は日本の首都だった」は卑弥呼の後、日本列島を支配していたのは大和政権ではなく九州政権であったことを年号の問題、放射性炭素による年代測定の結果、考古学界による九州の遺跡の年代がとんでもない過ちを犯していて、現在の推定よりはるかに古かったこと。たとえばかの有名な防衛施設「水城」は、考古学界は日本書紀の記述から7世紀の建造と言っていましたが、最初に築かれたのは卑弥呼の時代(240年ごろ)で、その後430年ごろに大大改造され、九州政権消滅の契機になった白村江の戦いの直前660ごろに補修されたことがわかっています。いわゆる日本と深い関係を結んでいた中国史書の証言も大きな証拠として記述しています。そして今、日本の正史とされている日本書紀は、九州政権の史書を掠め取り、あたかも自らが主権者であったかのように改作した“偽りの史書”であることを明らかにしています。
ぜひ、両著をひもとき目からウロコを落としてください。いずれもミネルヴァ書房刊。(内倉)
ミネルヴァ書房
〒607-8494 京都市山科区日ノ岡堤谷町1
電話代表 075-581-5191
振替口座 0120-0-8076
内倉 武久氏は、昨年も「太宰府は日本の首都だった」として九国博において講演されています。本案内文は氏からの依頼を受け当会が配布しています。13年7月7日には再び菊池(川流域)地名研究会において講演して頂こうと考えています(菊池市七城町公民館)。
その折には前述の「水城が白村江戦いの敗北後に大和朝廷によって建設されたなどといった話はとんでもない大嘘…といった驚くような話が聴けるかも知れません。
「九州倭国政権の存在から見た考古学上の重要遺跡」内倉 武久 という小稿は、今後、公刊が予定されている数人の九州王朝論に立つ研究者による共著:ガイドブック「九州王朝を歩く」(仮題)に寄せられた原稿ですが、一部に、近々(九月末日)、ミネルヴァ書房から出版される予定の「熊襲は列島を席巻していた」の原稿がふくまれています。
九州倭国政権の存在から見た考古学上の重要遺跡
内倉 武久
写真提供 松尾紘一郎(糸島市)
九州倭(い)政権の首都の遺構である。考古学界や福岡県教委などは九州政権について無知であったため遺跡を「大宰府政庁遺跡」と呼んでいる。「政庁」とは八世紀以降、近畿和(わ)政権が九州に置いた地方官庁を指す言葉である。考古学界と国史学界は日本書紀の記述と遺跡の誤った年代推定からこのような遺跡の表示をしている。
遺跡は、北側に天皇あるいは天子が居住し政務をとる大極殿区画、その南側に官僚たちが勤務する朝堂院区画、さらにその南側に四角に区画された条坊地域が広がっている。大阪の第一次難波京や奈良の藤原京に先行する日本列島最古の中国風都城である。正確には付近の地名をとって「都府楼(とふろう)遺跡」と呼ぶべきであろう。
首都の防御施設である水(みず)城(き)や外交施設である鴻臚館(こうろかん)は都城とほぼ同時に造られたとされているが、放射性炭素(C14)による年代測定では四三〇年前後という測定値が相次いでおり(水城、鴻臚館の項参照)、「政庁遺跡」と見誤られている都城遺構は五世紀中ごろ、中国史書に記す日本の大王、いわゆる「倭(い)の五王」(讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ))時代に本格的に建設されたことがはっきりしている。実際の遺跡は弥生時代、あるいは古墳時代初期に始まる遺跡である。考古学界は、日本の政権は唯一で古くから近畿にあったとする誤った観点から全国の遺跡の年代判定をしており、世界中で信頼され使われている放射性炭素などによる理化学的年代判定を怠ったり、自らの年代判定と食い違う測定値を隠したり、公表していない。
現在、「都府楼」遺構は三時期にわたって建設されたことがわかっている。多くは主として掘立柱を使った遺構であるが、観世音寺や大極殿など重要な建物は礎石を使った建物となっている。遺跡には天皇、ないしは天子が居住したと考えられる字名も残っている。大極殿地域に「大裏(だいり)=大内」、朝堂院地域の東端、公衆トイレのあるところに「シシンデン=紫宸殿」などである。
要するに日本書紀という書物は近畿大和(わ)政権が九州倭(い)政権から権力を奪取した後(七〇一年)、自らの権力の正統性を訴えようとして歴史事実を改ざんして描いた(七二〇年)客観性のない書物である。古代史学界や考古学界が日本書紀の記事を検証なしに信じ込んでしまうことは偽りの歴史を市民に押し付けることに通じる。九州(倭(い))政権実在の証拠には次のような論点がある。
「日本書紀」に続いて編纂(へんさん)された「続日本紀」によれば、日本で最初に公布された(建元)年号は
七〇一年の「大宝」であるという。これは現在の「平成」まで続く。ところが、記紀以外の数多くの史書には「九州年号」と呼ばれる年号が記録され(例えば「二中歴」とか「興福寺年代記」)、時代の指標として数多く扱われている。この年号は五一七年の「継体」、あるいは五二二年の「善記」あたりから始まり、七世紀末の「大化」、あるいは「大長」まで連続して続く。実際の使用例も青森から鹿児島まで全国の史書や神社仏閣の縁起のなかで4百件近くが採集されている。
多くの市民が国の検定済みの教科書で習う「大化の改新」(六四五年)の「大化」を、書紀は、自ら制定した年号であるかのごとく書いているが、それ以前に元号を定めた記録がないのに、「改元」(元号を改めた)などと記している。明らかに九州年号の「大化」の記事を取り込んで改作し、時期を五十年近く遡らせて自ら公布した年号のごとく取り繕(つくろ)ったものである。
「元号」の発布は元来天皇だけが権限をもつ「権威の象徴」の最大のものである。近畿和政権が元号発布の権限を得た、つまり列島の支配権を得たのは七〇一年以降であることの証拠である。この記紀に記録のない年号群を「鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげたものだ」とする「年号学者」所(ところ)功氏らの主張は、八世紀の聖武天皇の勅語にこの年号が記されていることや、「大化」年号をきざんだ七世紀後半の土器などの存在で瓦解している。
遺跡の年代判定で最も信頼性が高いとして、世界中の考古学界が採用している放射性炭素(C14)による年代測定によると、九州や東北の遺跡、そして古墳の年代は、現在の考古学界が表明している年代よりはるかに古い。福岡県教委などは、太宰府周辺の都城遺跡は「七世紀後半に始まる」などとしているが、太宰府政庁と同時期に建設されたという防衛施設、・水(みず)城(き)や外交施設である鴻臚館(こうろかん)などでは、いわゆる「倭(い)の五王」時代直前である四三〇年前後という測定値が相次いでいる。
太宰府は別名を「都府楼(とふろう)」という。「都府」とは、東アジアの盟主であった中国の天子の名代として、一定の地域を支配する権限をもつ「都督(ととく)」の政府機関のことであり、「楼」は建物のことである。日本列島の中でここだけにしかない名称である。
中国の天子に対して、「後ろ盾になってほしい。中国の制度そのままの府を設ける」と宋などに使者を派遣して「都督(ととく)」などの官位をもらった「倭(い)の五王」の居所にふさわしいネーミングである。「倭の五人の王」のうち「済」と「武」が「都督」の称号を得ている。
都府楼遺跡には、現在でも天皇の居所を示す「内裏(だいり)」や「紫宸殿(ししんでん)」、あるいは「府庁」小字名な
どが残っている。福岡県教委などがこの遺跡を「七世紀後半以降、近畿の大和政権が設けた出張所『大宰府政庁』の遺跡である」などとごまかして宣伝しているのは、古代史学界を牛耳り、反対意見の持ち主を排除して保身をはかる「守旧派」に媚びついた主張である。木簡などのデータを隠し続けるなど主権者である市民を愚弄(ぐろう)し続けている。
日本書紀は「七世紀後半」に対馬や太宰府の北側などに「七世紀後半に複数の山城を造った」と記しているが、疑わしい。例えば対馬の金田城は、長崎県教委の発掘調査とC14年代測定で当初造られたのは百年近く古い「六世紀中ごろ」であったことが判明している。あきらかに当初九州政権が造ったものを改修し、「自分が造った」とごまかしていると考えられる。六六四年に造ったという水城や太宰府北側の大野城も同様である。日本書紀に記載がある「長門城」や「屋島城」「高安城」はその跡形さえ定かでない。白村江の戦いに敗れ、唐の占領軍が日本に上陸しているというのに、国史学者や考古学者らが言うように「唐の脅威に対して備えた防衛施設」など造れるはずがない。
山城や水城などで幾重にも厳重な防御体制を敷いている太宰府に対して、近畿和政権の都があったという奈良には、首都らしい防御施設はまったくない。おそらく、反逆を恐れた九州倭(い)政権が造らせなかったためと思われる。「飛鳥や藤原京が古来、日本の首都であった」というこれまでの国史学者や考古学者らの主張では、天皇と政権中枢部が集まる首都はまったくの無防備、無抵抗状態。出先の「出張所・大宰府」だけは十重二十重にがっちり防備しているなど、世界中どこを探してもあり得ない状況であったことになる。
万葉集等にも太宰府のことを「遠の朝廷」と呼んでいる(例えば柿本人麻呂の歌)。
日本書紀は七世紀初めごろの「天皇」を「女帝の推古天皇」であると記しているが中国の正史のひとつ「隋書」には「開皇二十年(六〇〇年=推古天皇八年)倭(い)王は姓を阿毎(あま)、名を多利思(たりし)比(ひ)孤(こ)(北孤と誤刻=足彦?)という男王で、皇太子は和(わ)歌(か)弥(み)多弗(たふり)利(り)(和を利と誤刻=若美田振?)と記し、さらに国中に「阿蘇山がある」「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」という無礼な手紙を使者に託した、と記録している。書紀にはこの記録はない。国史学者らは「多利思(たりし)比(ひ)孤(こ)」を「聖徳太子のことだ」などと流布し、ごまかしを続けているが、聖徳太子にはそのような名前はないし、天皇でもなかった。
七世紀に九州倭(い)政権と東アジアの盟主の座を争った中国・唐の正史「(旧)唐書」は、「倭(い)国」とは別に近畿和政権を指す「日本」を別立てにして「倭の別種である」と記録。「わが国の政権に異動はなく、名前を変えただけ」と主張する近畿和政権の使者の陳述には「疑いがある」と書く。
唐は「白村江の戦い」の一方の当事者である。戦いの相手は名実ともに列島を支配し、これまでずっと付き合ってきた倭(い)政権であることを疑いなく認識していたであろう。唐王朝は戦いの相手も分からないような「間抜けな王朝だった」とでも言うのだろうか。これに対して百年ほど後の十一世紀(日本では平安時代)に書かれた「新唐書」は名実ともに支配権を確立した近畿和政権の言い分をそっくり認めた形で記録している。
「古事記」は原本が現在知られているようなものであったのかどうかはわからないが、わりと正直にオリジナルな話を綴ったものであろう。しかし、「日本書紀」は近畿和政権が、「北部九州倭政権は元来自分たちのものであった」という身勝手な「立場」から、九州倭(い)政権の史書である「日本(旧)記」(書紀・雄略紀にも出てくる)を改作し、九州政権が行っていた外交や戦役をあたかも自らの主導で行ったがごとく記述。地名や人名などを入れ替えて作った客観性のないものである。
『常陸(ひたち)国風土記』では「倭(い)武(ぶ)天皇」という記紀に登場しない天皇が国を巡視した、とか土地に名前をつけたという記事が数多くでてくる。「古(いにしえ)はこの国を紀の国といった」「東北を巡視した」などの表現からこの天皇は、都督(ととく)の位をうけた九州倭(い)政権の王「武」であることは間違いない。常陸の国と東北各地には熊本、福岡両県を発祥地とする彩色壁画古墳や前方後円墳が多数存在することもその証拠のひとつである。国史学者らはこの「天皇」を記紀に記す「倭(やまと)武(たける)の命(みこと)」であるとしているが、彼が天皇になったことは一度もない。
水(みず)城(き)  太宰府市、大野城市、基山町、久留米市
九州倭(い)政権の首都であったと考えられる太宰府。その首都を取り巻く防衛施設のひとつである。平野
部を完全に塞ぐ土塁を築き、博多湾岸と南の久留米方面からの敵を防ぐ目的で作られた。太宰府市と大野城にまたがる最大のもの(大水城)は総延長1.2㎞、高さ約10m、最大幅約80mある。大野城市の北側、春日市にある小水城は一部が残っており、太宰府の北西の山中を通って侵入する敵を防ごうとした施設らしい。南側の基山町にも一部が残り、さらに南の久留米市上津(かみつ)町にもあったらしいが、今は寺院の一角に名残りを留めているだけである。
 現在福岡県教育委員会はこの施設を、日本書紀の「天智天皇三年(664年)に造った」という記述に由
って七世紀後半に建設されたと言っている。ところが、底部に幾層にも敷かれた小枝を放射性炭素(Ⅽ⒕)
によって年代測定したところ、西暦二四〇年、四三〇年、六六〇年と出た。また、堤の下部に敷設され
ている木製の樋(ひ)も四三〇年という年代を示した(九州大学・坂田武彦氏の測定)。
土塁は三時期にわたって築かれたことは発掘調査でわかっている。Ⅽ⒕の測定結果から土塁はまず卑弥呼時代に築かれ、五世紀前半にはほぼ現在の形として完成。最後は九州倭(い)政権が国家の興亡をかけた白村江の戦い(六六二年)を前に首都の防備を固めようと補修工事していたと考えられる。糸島市の雷山千如寺の縁起(えんぎ)には「(日本書紀が卑弥呼になぞらえようとしている)神功皇后の時代に水城を築き、敵を溺れさせた」という記述があり、Ⅽ⒕測定値が伝説を裏付けた形になった。
考古学界は大和政権のPR文書である日本書紀の記事に惑わされて築造時期を誤っている。御笠川(みかさがわ)をせき止めて土塁の内側に水を貯め、敵が近づいた時に、底部の六ヵ所?に設置された水門から水を一気に流して溺れさせようとした施設とみられる。
鴻臚館(こうろかん)  福岡市中央区舞鶴公園内
九州倭(い)政権の外交施設。百済、新羅、高句麗、中国など外国からの賓客を宿泊させ、またもてなしの宴会を催した迎賓館の遺構。迎賓館は太宰府の南、小郡市にもあったらしい。福岡市教育委会などは「大和政権が七世紀後半に設けた迎賓館施設『筑紫の館』である」と強弁しているが、Ⅽ14による年代測定では、トイレ遺構の底にあった木片が四三〇年前後の年代を指した。水城や太宰府の楼閣群と同様、五世紀中ごろには完成していたと考えられる。国家の重要な施設である迎賓館は都に近接した場所に置くのが常識。中国の史書・隋(ずい)書に記す隋(581~619年)の使者・裴清らも「都の郊外で歓待された」ことが記されている。近畿和(わ)政権の迎賓館なら奈良県、あるいは大阪府のどこかになくてはならない。
大野城  太宰府市、大野城市、糟屋郡宇美町
太宰府を取り巻く防衛施設のひとつで、太宰府の北方を守る山城である。通称「大城(おおぎ)」と呼ばれる。山頂下付近の斜面に石垣や土塁を設け、山頂部分をぐるりと囲んでいる。中に数多くの倉庫や住居の遺構があり、武器や食料を貯え、緊急時に城に避難できるようにしたらしい。同様の施設は太宰府の南端にも設けられていることが最近わかった(阿(あ)志岐(しき)山城)。山城はこのほか、対馬(つしま)に金田城、有明海沿岸には佐賀県武雄(たけお)市におつぼ山、佐賀市に帯(おび)隈(くま)山城、山門(やまと)郡みやま町に女(ぞ)山(やま)城、三養基(みやき)郡基山(きやま)町に基肄(きい)城、久留米市に高良(こうら)山(さん)城、熊本県菊鹿町に鞠(くく)智(ち)城、玄界灘側には糸島市に雷(らい)山(ざん)城、瀬戸内海方面には行橋(ゆくはし)市に御所ケ谷城、頴田(かいだ)町に鹿毛(かけ)馬(ま)城、朝倉市に杷木(はき)城、豊前(ぶぜん)市に唐(とう)原(ばる)城、山口県大和町に石(せき)城(じょう)山(ざん)城、岡山・総社市に鬼(き)の城(じょう)、坂出市に城(き)山(やま)城など二十数基が築かれている。中国、朝鮮、大和勢力の侵攻、反逆に備えている。
以前は築造時期が古いと思われるものを神(こう)籠(ご)石(いし)山城、日本書紀に記された六六三年の白村江戦以後の
築造という新しいものを朝鮮式山城などと呼んでいた。が、朝鮮式山城とされる対馬の金田城も長崎県教育委員会が土塁を放射性炭素によって年代測定したところ、当初は四五〇年前後に築堤され、五〇〇年前後に修復されていたことがわかった。他の朝鮮式山城も同様と考えられ、日本書紀に基づく考古学界の年代観や説明はまったくの間違いであることがはっきりした。
大野城も九州政権の興亡をかけた白村江戦直前に戦いに備えて修復されたらしく、城門の柱の年輪年
代法による測定では六四八年であった。九州歴史資料館などは市民に対してさまざまな根拠のない言い訳を弄して山城群の築造時期をあざむいている。
元岡(もとおか)桑原遺跡  福岡市西区元岡、桑原
糸島半島の東南基部に予定された九州大学移転構内で発見された。日本列島最大級の古代製鉄遺跡。細長い谷沿いに約五十基の製鉄炉が発見されている。特筆されるのは、材料に付近の海岸から採れる砂鉄を使っていること。付近の十数基の古墳に精錬の際に出る鉄(てっ)滓(さい)を副葬している例が多いこと。多数の木簡(もっかん)も発見され、遺構の解明に糸口を見つけられることなどである。
遺跡の発見で従来、日本の鉄材料は鉱石を使っていたという「定説」を覆した。付近の古墳から副葬された鉄滓が発見されることは、この製鉄炉が五世紀、あるいは六世紀などかなり古い時期から操業していたことが推測できる。遺跡の6号古墳(直径十八㍍、横穴式)からは「庚(かのえ)寅(とら)正月六日庚寅日時作刀」と象嵌した太刀も見つかっている。年と日付に干支が入っていて間違いなく「西暦五七〇年の正月」に造られた刀であることがわかる。
さらに「壬(みずのえ)申(さるの)年(とし)韓鐵(からてつ)」と墨書(すみがき)した荷札木簡もある。壬申年は六〇年周期で巡ってくるから年代は確定できないが、五七二年、六三二年、六九二年、七五二年あたりが候補となる。五七二年であれば古墳出土の太刀と同じ時期、六三二年であれば隋、唐との軋轢(あつれき)など緊迫度を増した東アジア情勢に対応して九州倭(い)政権が鉄の生産を増強したとも考えられる。七五二年であれば福岡市教委などが考えているように近畿和政権が操業を引き継ぎ、朝鮮半島の鉄素材を持ち込んでいたことを思わせる内容となろう。
炉周辺の溝の上層から「大宝(たいほう)元年(七〇一年)」「延暦四年(七八五年)」と記された木簡も出てきているが、いずれもこの付近にあった郷役所の徴税、関札関係のものであり、直接鉄生産と関係する木簡ではない。九州倭政権が操業していたものを政権を奪取した近畿和政権が接収して操業を続けさせたとも考えられないこともない。
また木簡では「額(ぬか)田(た)部(べ)」の名もある。額田部氏は「泥型(ぬかた)」すなわち土製の鋳型(いがた)を氏族(部)の名としたことが考えられ、元来金属の精錬や馬の飼育に関係する氏族であった。遺跡の東方には現在「野方」と称する旧額田郷もある。付近は日本最大の直径四六・五㌢もある弥生時代の大鏡が生産された伊都(いど)(委(い)奴(ど)、倭(い)奴(ど))国の地で、早くから金属の生産基地でもあった。旧唐書には「倭(い)は古(いにしえ)の倭(い)奴(ど)国である」と記録されている。
付近の川辺里(かわなべのさと)の戸籍(大宝二年、正倉院文書)には、朝鮮半島の百済から九州倭政権に送られたという(古事記・応神段・四世紀末)韓(から)鍛冶(かぬち)・卓素(たくそ)一族が住んでいた(宅蘇(たくそ)吉士)ことをうかがわせる記載がある。額田氏が操業の実務者として当時九州倭(い)政権の勢力下にあった朝鮮の工人を使ったことも考えられる。
発掘調査した福岡市教委は、木炭や灰など大量の理化学的年代測定の材料を得ながら、確実な年代測定をいっさい行っていない。自らのいいかげんで不確かな土器編年による年代推定や荷札木簡の記載で遺跡を「奈良時代の近畿大和(だいわ)政権の鉄生産基地」とし、間違いのない古代史を市民に伝えるという責任を放棄している。遺跡で特徴的な「箱型精錬炉」がどこの地域に由来する技術であるかも謎のひとつである。
下高橋(しもたかはし)・上岩田(かみいわた)遺跡群
大刀洗(たちあらい)町下高橋、小郡(おごおり)市上岩田
下高橋遺跡は九州倭政権の首都・太宰府の南方一帯に広がる首都関連の外郭施設群である。宝満川東岸の小高い丘にあり、遺跡の東側に大小二重の溝に囲まれた東西一七五㍍、南北一七〇㍍の方形区画があり、十棟以上の掘立て柱建物が整然と配置されている。何に使った建物群かは木簡などの出土がなく、わかっていない。日本書紀・天武、持統紀に「小郡に新羅の使節をもてなす外交施設があった」と考えられる記述があることから、九州倭政権の重要な施設を建設した地域である可能性が高い。
隣接の上野遺跡には同様の方形区画があり、十七棟以上がコの字型に並んでいる。その多くは総柱建物で、米や武器を貯えた「正倉院(しょうそういん)」の遺構と考えられている。溝の中から大量の鉄鏃(矢じり)も見つかっている。
上岩田遺跡は下高橋遺跡の北方約三㌔にある。寺院の金堂と考えられている基壇や規則的に配置された掘立て柱建物群が見つかっている。大量の瓦や墨書土器、帯金具なども出土している。同様の建物遺跡群は久留米市や朝倉市一帯でも発見されている。
 九州歴史資料館などは遺跡の規模や出土品が全国各地の郡役所のレベルとはまったく違うことに目をつぶり、理化学的な年代測定を実施することを怠ったうえ、遺跡群をあくまでも当地の八世紀以降の「御原郡(みはらぐん)役所の遺構である」と矮小化(わいしょうか)して言い張っている。
王塚古墳  嘉穂郡(かほぐん)桂川町(けいせんまち)大字寿命
全長86m、高さ9.5m。彩色壁画をもつ前方後円墳。国の特別史跡。横穴式石室の全面に赤、黒、黄などの顔料を使って馬、靫(ゆき)(矢入れ)、盾、弓、山形文、円文、双脚(そうきゃく)輪状(りんじょう)文(もん)などが描かれている。盗掘がほとんどされていなかったため鐙(あぶみ)、轡(くつわ)、雲(う)珠(ず)などの馬具や太刀、矛、鏡、鎧(よろい)の鉄片など数多くの副葬品が残されていた。六世紀中ごろの築造とされるが、理化学的な年代測定はされておらず、実際は新しくても四世紀中ごろの築造ではないかとも考えられる。古墳の様子などは隣接する装飾古墳館に展示されている。
考古学界は記紀の記述を盲信して、前方後円墳は近畿大和政権が採用した墳形だ、としているが証拠はまったくない。逆に高槻市の今城塚をはじめ近畿のいわゆる「大王墓」のほとんどに九州産の石棺(阿蘇ピンク石など)が納められており、茨城県の著名な彩色壁画前方後円墳・虎塚古墳の壁画の文様も基本的なモチーフは九州のものと全く同じである。日本書紀に大和政権に反抗した「九州の王」と描かれている「筑紫(ちくし)の磐(いわ)井(い)」が、生前から築いたとされる八女市(やめし)の岩戸山古墳も前方後円墳であることなどから、この墳形も元来、九州政権が採用した墳形であると考えられる。九州には有名、無名の数多くの装飾古墳や前方後円墳が築かれているが、基本的なモチーフは王塚古墳と同様のものである。ただ、近くの竹原古墳やうきは市の珍敷(めずらし)塚(づか)古墳のように船で死者を送る様子やヒキガエルで表した月、カラスが先導する様子、火を吐く龍など中国風の思想に日本の思想を交えた図柄のものもある。
 彩色古墳に描かれている文様も熊襲(熊曽於)族など九州人が好んで用いた図柄やマジカルな独自のものである。この墳形も横穴墓と同様、九州政権の全国展開を表すものと考えざるをえない。近畿の前方後円墳が巨大であるのは、近畿勢力に対する威嚇ないし示威が目的であったと考えられる。
竹並(たけなみ)横穴墓群  行橋市(ゆくはしし)竹並
総数1,500基以上あった列島最大の横穴墓群。うち約1000基が調査されている。横穴墓は崖に掘った穴を墓室とした形で、九州から東北まで数千基が築かれている。列島では中、北部九州で発生。現在、四〇〇年代後半に築造が始まったとされるが、九州の考古学研究者の年代判定は確実な検証なしの仮定(古墳に副葬された硬質土器・須恵(すえ)器はすべて大阪・陶(すえ)邑(むら)村からもたらされ、複製された)に基づいたいい加減なものである。放射性炭素の年代測定で九州の須恵器の実年代は、現在の推定より二〇〇年以上古い測定値が相次いでいる。横穴墓の築造年代もさらに古いものであると考えられる。日本列島の須恵器生産技術は朝鮮半島からのものの以外に、主として生産の先進地域である中国大陸、特に南部の越(えつ)地域から伝わり、北上したとみられる。越地域では紀元前八世紀には日本のものとまったく同じ製法の「硬質土器」が盛んに生産されていた。朝鮮半島の「硬質土器」生産は中国よりはるかに遅く、早くても四世紀後半からと考えられている。
墓群の中からは南九州・熊襲(くまそ)(熊(くま)曽於(そお)族)の地下式横穴墓から集中的に出土する蛇行(だこう)鉄剣や龍環頭の直刀、馬具、矛、長大な矢じりなど数多くの鉄製品が出土している。中国南部、江南地域から渡来した形跡のある熊曽於族と北部九州の紀氏族が合体してこの墓制が採用され、九州政権・倭(い)国の全国展開に従って各地に広がったのではないかと考えられる。
 その祖型は中国の長江支流域に数万基築かれている懸崖(けんがい)墓(ぼ)や蛮子洞と呼ばれる横穴墓であろう。遺跡は今、住宅地の建設によってほとんどがつぶされているが、発掘調査で出土した鉄製品や遺跡の様子を写した写真などが行橋市歴史資料館に展示されている。遺跡の周辺は前方後円墳を含む古墳、弥生時代からの住居址の密集地帯である。
江田船山古墳  熊本県玉名郡和水町江田
全長62m、高さ10mの前方後円墳。全国最大の装飾古墳群地帯の真っただ中にあるが、この古墳からは装飾壁画は発見されていない。代わりに周囲に短甲をつけた武人の石像が配置されている。八女郡広川町の石人山古墳や八女市の岩戸山古墳との関連が注目される。この古墳を著名なものにしたのは出土した太刀に銀象嵌で花、馬、魚、鳥の絵とともに75字の銘文が刻まれていたことである。腐って欠けてしまったところはあるが、推定を交えた銘文の読み下しは次の通りである。

天下を治めた(治天下)獲□□□鹵大王の治世に、典曹人としてお仕えした(奉事)名前はムリテ(无利弖)が八月中、大鉄釜と四尺の廷刀を用いて八十練し、九十〔?〕振の極めて素晴らしい切れ味の(上好利)〔長さ〕三寸の刀の製作を命じた。この刀を服する者は長寿と子孫洋々、□恩を得るであろう。その統率する所を失わない。作刀者はイタカ〔イタワとも〕、書は張安なり

肝心の大王の名が腐食によって失われているが、埼玉県行田市の埼玉(さきたま)稲荷山(いなりやま)古墳から出土した金象嵌(ぞうがん)鉄剣の銘文にある「獲加多支鹵大王」(ワカタキル)と同じ雄略天皇(和名ワカタケル)のことではないかとされる。雄略天皇をいわゆる近畿大和政権の天皇とする考え方が古代史学界の「定説」であるため、近畿大和政権が全国を支配していた証拠として使われるようになった。 しかしこの「定説」は日本書紀、古事記によって作られた「定説」である。書紀は近畿大和政権のPR書にすぎず、九州政権の存在をひた隠しにし、魏志倭人伝に記す卑弥呼のこともいっさいカット、歴史事実を曲げたり地名や人物を入れ替えたりするなど作為的な叙述をしていることが明らかになっている。書紀に記される天皇群が近畿大和政権の天皇である可能性は極めて薄い。いわゆる「雄略天皇」も九州倭(い)政権の天皇と考えれば話は通じる。九州倭政権が関東にも進出、吉見百穴など横穴墓や前方後円墳を残したのである。 故宮崎市定・京都大名誉教授は埼玉稲荷山古墳の近くにも「紀伊郷」があり、通常、月日を示す「○○中」の次に「記す」などの文句が入るのはおかしいことなどから、銘文中の「七月中記す」の「記」は「紀」で、紀氏のことであるとする。氏の見解に従えば作刀を命じた「乎(お)別(わけの)臣(おみ)」の姓名は「紀の乎別」である。群馬県側の前二子塚の石室は九州の「肥後型石室」であったこともこの説を裏付けよう。
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