久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
文字の大きさ変更
A4印刷用サイズ
久留米地名研究会 古川清久
お問合せ >>HOME
田ノ浦 “タウヌイ、カウヌイは大きな舟”
今から30年ほど前になりますが、東海大学(当時)の茂在寅男教授が『日本語大漂流―航海術が解明した古事記の謎』(光文社、1981年)で、古代ポリネシア語の発音と対応する言葉が『記紀』などに記載されているのではないか、と問題提起されたことがありました。
  一例を挙げれば『古事記』仁徳記には「枯野」という高速船のことが書き留められています。これをのちの学者は「枯れ野を駆けめぐるほど速い舟」といった訳の分らない意味に解釈してきたのですが、教授は「枯野」という字は表音表記でしかなく、広く「船」という意味を「カラノ」とか「カノー」という普通名詞で呼んでいたのではないかとされたのです。
もちろん、この船はカヌーのことです。通説では、この言葉は15世紀末にコロンブスによってカリブ海の原住民の言葉(アラワク語)としてスペインに伝えられたとされていますが、教授は源流をたどると北太平洋大環流に行き着くとされたのです。
 『日本書紀』では応神紀に長さ10丈(30m)の船が伊豆で造られ、それを「枯野」ないしは「軽野」といったという記述が出てきます。 
もちろん、対馬の厳原が、かつては、伊豆原と記された(『海神と天神』永留久恵)ことを知っていることから、九州王朝説の立場からは、単純に静岡県の話とも考えませんが(対馬の厳原の語源となった茂地伊豆原(ハル)に隣接して田淵=タウがあります)、教授は現在も伊豆の山間部に「軽野(かるの)神社」があり、付近を流れる「狩野(かのう)川」が駿河湾に注いでいることから、ここで舟を作る木を切り出し、狩野川を使って海辺へ運んだと考えられたのです。
この「軽野」や「狩野」という地名は各地で見ることができ、『常陸国風土記』には、長さ15丈(45m)の大船を造った「軽野の里」のことまで記されています。
 また、志賀島の北の岬に勝間がありますが、茂在氏は「无無勝間(マナシカツマ)の小船、無目堅間(マナシカタマ)の小船のカタマはカタマランの事で「筏」。カタマラン=カタマラ船の寄港地とか、鹿児島の鹿屋市のカノヤもカヌーの寄る港を意味するといった事も書いています。
 
実は私がこの本(『日本語大漂流—航海術が解明した古事記の謎』)を読んだ当時、茂在教授は伊万里湾鷹島において水中考古学に基づく元寇時の沈没船の発掘調査を行なっておられ、たまたま、魚釣りで鷹島に渡り帰りのフェリーを待っている間にその発掘調査の一行に遭遇したことがありました。
ちょうど騎馬民族国家論で有名な江上波夫教授も来られていた時で、二人の大学者を眼前にして興奮した記憶があります。
なお、後にも触れますが、そのフェリーの発着場は殿ノ浦(トノノウラ)で、それは松浦党の殿様のゆかりなどではなく、「タウヌイ」の浦であったことを知る今、戦慄をさえ覚えるのです。
恐らく、教授も、その当時はそこまでは考えておられなかったのではないかと思うからです。
「古代日本語の船舶の名称における異文化の要素について」
―博多を中心に― 
黄 當時(仏教大学文学部教授)論文の衝撃
2011年3月1日仏教大学文学部論文(仏教大学『文学部論集』)
黄教授は、通説はもとより、先行する異説を唱える茂在寅男氏や井上政行氏、寺川真知夫氏の論文他『万葉集』に関する寺川真知夫氏の論文等を詳細に検討され(これについては学術論文であることを考慮し引用が不正確にならないように後段に全文をPDFファイルとして掲載しています)ています。
当然にも全文は精緻な論証の長文となるため、以下、古川の責任で略記します。
黄 教授は、
古代において、手、田、多などと表記され、「タtau」と発音された舟、小乎などと表記され、「コkau」と発音された舟が存在した。
さらに、「手/田/(多)舟」、「手/田/(多)乃舟」と表記された舟についても、「手/田/(多)」のみで、本来意味は通じていたのだが、理解しやすくするために、あえて、舟、船の意味を補足し重複して表現されたとされています。
ここで、問題になるのは「乃」の意味です。
井上夢間(政行)氏の簡潔な要約、
をもとに、
と、されました(同論文7p)。
井上
カヌー(一般的な呼び方)カヌー(種類で区別した呼び方)
ハワイ語 ワア WAA
一つのアウトリガーが付き カウカヒ KAUKAHI KAHIは「一つ」
双胴のカタマラン型 カウルア KAULUA LUA は「二つ」
 
サモア語 ヴア VA′A
 
マオリ語 ワカ WAKA ―
― 双胴のカタマラン型  タウルア TAURUA
TAUは「キチンとしている、美しい、恋人→しっかりと作られた可愛いやつ」
 
寺川
(伊豆)
手乃、手 「た」か「て」  
(熊野、足柄) いずれも舟を意味する外来語の音訳      
小/乎 「を」か「こ」か 
 
井上説から推測すれば
tau
手乃 tau-nui を書き記したもの
小/乎 kau
 
(マオリ語)
伊豆には 手 tau
(ハワイ語) と呼ぶ人々がいた
熊野、足柄には 小/乎 kau
 
現在の日本語では修飾語が前置されていますが、古代においては、後置修飾語が存在しており(そのような言語を話す人々が列島に来ており=住んでおり)、そのなごりが『万葉集』などに残されていたとされているのです。
 
以下、4.无間勝間之小舟、5.手という舟/船、6.田という舟/船、6.多という舟/船 など4.は茂在氏も取り上げた、勝間(志賀島の北西岸)カタマラン(双胴船)など、詳細な論証をされています。
詳しくは、論文そのものを読まれるとして、地名についてはあまり触れられてはいません。
その後、二〇一二年一月に開催された九州古代史の会の例会においては、このテーマと漢倭奴国王印の読み方などについても講演され、そこでは五島の田ノ浦など、地名についても触れておられるのです。
茂在氏も鹿児島の鹿屋(カヌー)や志賀島の勝間(カタマラン)などを例示されているように、古代の舟、船が寄航していた港、また、その舟、船が造られた場所、さらには、古代の海人族(ポリネシア系、江南系、タミール系・・・)が居住し、大きな船で通過していた場所までが推定できる可能性が出てきたのです。
黄教授が、田浦、田野浦、田の浦、田ノ浦、田之浦などと表記される地名が、大きな田んぼが広がる港などではなく、その時代において非常に印象的な外洋船の通過し、停泊し、その乗員たちが、上陸し、居留し、後には住み着くことになった土地ではなかったかという提案をされたことは、私にとっては大変刺激的でした。
そして、ここからはフィールド・ワークを中心に活動する地名研究会の領域になります。
この鮮烈なメッセジを受け取った途端、まさに「・・・夢は枯野をかけ廻る・・・」様な状態になり、このtau地名kau地名には他にも多くのバリエーションがあることに気付きました。
直ちに多くの候補地が頭に浮かんできます。
門司の田ノ浦、平戸の田の浦、芦北の田浦、五島列島久賀島の田ノ浦・・・、平戸の幸ノ浦、佐賀関の幸の浦、平戸の的山大島の神ノ浦と殿ノ浦、そして、茂在寅男教授と遭遇した伊万里湾鷹島の殿ノ浦・・・が。
 
2012年12月25日から30日にかけて、とりあえず、第一回目の「田ノ浦」の地名調査を行うことにしました。まずは、大分の南から時計回りで宮崎~鹿児島~熊本と周る南九州ルートを取りました。
大分県南部
① 幸の浦(大分市佐賀関町)
阿蘇から国道57号線を東に進み、高崎山自然動物園の手前、大分生態水族館マリーパレスのある大分市神崎にある田ノ浦を確認したいとも思いましたが、年末の交通渋滞も考え大分市の南の佐賀関に直行しました。
現地は、何回か訪れていることもあり直ぐに着きました。
 この佐賀関の中心地である関地区は、佐賀の関半島の付け根に位置していますが、かつては実際に水道があったのではないかと思われるほど標高が低く、最大でも五メートル程度しかないようです。
現在、この部分は幅三メートルほどの道路になっており、行政機関、公民館、郵便局、銀行、魚協などが軒を並べています。
私は佐賀関とはここのことであり、東の港と西の港の間で船越が行われていたのではないかと考えています。
幸の浦地区は東の金属精錬地区の反対側、西の漁港地区の一画にあります。
最近はそれほどでもありませんが、全国を席巻した関アジ、関サバ効果で、潮待ちのためか、船溜りには漁船がひしめき合っていました。
幸の浦は、この大きな漁港の中でも中心部から外れた端の砂地の浅い浜の傍にあります。
そして、「幸の浦」という地名は平戸市の田の浦温泉の東、平戸の瀬戸に面した平戸島側、田助港の直ぐ南にもあることから、まず、黄教授が考えておられる「タウヌイ」浦「カウヌイ」浦の可能性が最も高いものの一つと考えています。
平戸の家船は、平戸瀬戸に面した幸の浦を本拠地として、松浦藩から、領内の壱岐を除く平戸島一円・生月・大島・度島・鷹島・伊万里湾から九十九島に至る北松浦半島に及ぶ沿岸の採鮑権を認められていた。
『日本民俗文化体系 5 』「山民と海人」=平地民の生活と伝承=小学館
佐賀関の幸之浦公民館
 
 この他にも旧帝国海軍の海軍兵学校が置かれた瀬戸内海の江田島にも同じ地名があります。海上特攻(○4艇=震洋艇)部隊の基地が置かれたところです。
さて、佐賀関の「幸の浦」は佐賀関の製錬所のある東側ではなく、西にある小港です。
以前訪れた時も、水銀採取集団が愛媛に渡る出発地ではないかと睨んでの事でしたが、その理由はバジャウ起源と考えている船上生活民=家船の人々の拠点であった平戸にも、この「幸の浦」という地名があるからです。
周辺を見て回りましたが、狭い路地をはさんで住居が集中している普通の漁師の集落に見えました。
漁師さんがおられたら、話を聴きたいと思いましたがかなわず、通り掛りの女性から「コウノウラ」と呼ばれていることだけを確認しました。
集落の裏の高台に三柱神社がありましたが、天満宮の額束があるだけで、他の祭神も確認できず、集落の性格を判別するまでには至りませんでした。
「戦後直ぐの家船」の貴重な写真 ネット上の「アトリエ隼仕事日記」より
 
下は、戦後間もない頃まで見られたという「家船」の一行です。(平戸市・幸の浦にて)ネット上の「アトリエ隼仕事日記」より
一般的には、家船の人々は九州と瀬戸内海を拠点にしていたと言われますが、主なところを拾い出せば、九州では宗像鐘崎(アマ)、臼杵津留、平戸島の幸の浦、長崎県大瀬戸町蛎ノ浦島中戸、今泊などに、瀬戸内海では、三原能地、竹原二窓、尾道の吉和と言われています。
なお、繰り返しになりますが、「幸の浦」という地名は海軍兵学校のあった江田島にもあります。
漂海民(バジャウ族)香港の蛋民(たんみん)やミャンマーの南部メルギー諸島からタイ南部のアンダマン海、さらにマラッカ海峡、インドネシア沿岸諸地域に分布し、一般にオラン・ラウトorang laut(水の民)と呼ばれる人々などが漂海民として知られている。後者のなかでは北ボルネオからフィリピンのスルー諸島,ミンダナオ島南部沿岸に分布するバジャウ族Bajauが著名である。日本では〈家船(えぶね)〉と呼ばれる漂海民が,長崎県西彼杵(にしそのき)郡や瀬戸内海の各地に分布していた。
世界大百科事典より
② 田之浦(臼杵市一尺屋)
次に向かったのは、佐賀関の西から南に向かう臼杵の田之浦集落でした。
田之浦(臼杵市一尺屋)
 
幸の浦から十キロ程度南の海岸沿いの砂浜の奥の深い谷間にある、かなり大きな集落でした。どう見ても水田はありません。
畑はありますが、用水系統が認められないことから、また、人家の形状からも、ほとんど水田稲作が行われていたとは思えません。
 人家の密集度を見ると、どうしてこれほどの集落が成立していたのかと不思議に思えましたが、たまたま、みかんの積み出しをされていたご老人から話をお聴きできました。
 お話によると、山の上にかなりの畑があり、麦とみかんの半農半漁の集落で、古くは平家の落人集落だったそうです。        
③ 漢の浦(臼杵市中津浦)
ここは、うっかり通過してしまい未調査。地図で見る限り浜沿いの小集落のようです。
④ 硴江(臼杵市津留)カキエ 
ここも、うっかり通過してしまい未調査。ここも民俗学では著名な家船の拠点港です。
⑤ 観音崎(津久見市江の浦)
ここは魚釣りで何度か訪れた四浦半島の付け根の先端にある岬ですが、観音様が鎮座している様子もなく、恐らく、「カウヌイの崎」が、表記の段階で観音様が持ち込まれたものでしょう。 
JR日豊本線佐伯駅そばの田の浦
⑥ 田の浦(佐伯市田の浦町)
日豊線佐伯駅の東四百メートル
ほどのところにある集落ですが、大半は戦前戦後の埋立地であり、JR日豊線と同線に並走する217号線とその旧道の外側の大半が戦前までは海だったようです。
実質的には日豊線の内側の田の浦川周辺の湾奥泊地だけが、この地名が付された土地だったもののようです。
佐伯は戦時中に零式水挺専用の海軍航空隊の基地が造られ、戦後も興人を始めとして大
 きな工業都市に変容した佐伯は膨大な埋立地が造られていますが、その湾奥にあるのが、ここの田の浦です。
JR日豊本線佐伯駅そばの田の浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
現地は二十メートルほどの高さの崖沿いの傾斜地であり、水田など微塵もありません。
なお、近くの数人の方から話をお聴きしましたが、もはや、八十歳を越えた方でも戦前の事を詳しく覚えておられず、「もとは海だったち聴いちょんじゃが…」といったお答えしか頂けませんでした。
実質的には国道と線路の辺りまでが、川と湾の部分で、現在、田の浦は埋立地の中を暗渠として貫き、海まで延びる暗い放水路と化していたのです。
 陽が陰ってきましたので、佐伯から延岡に移動し、翌日(20121227)は日向から調査を始めることにしました。
宮崎県
① 金ケ浜(日向市)
初めに向かったのは金ケ浜、神武天皇お船出の地などとされた美々津の外に広がる浜辺です。美々津港を左に船出すると、直ぐのところにこの浜があります。サーファーのメッカにもなっているようですが、現地の方々数人にどう呼ばれているかを聴くと、「カネガハマ」とのことでした。海蹉跌の採取などの話は聞いていませんので、カヌー(カウヌイ)の浜ではないかと考えたものです。
実は、海までは至りませんが、河口左岸の一帯が「幸脇」というと地名であり、「コウノワキ」ならば、カウヌイの脇となり、金ケ浜の裏付けになると思ったのです。
八十近いおばあさんにお尋ねすると、直ちに「サチワキです」とお答えになり、ここまでとして南に向かいました。その後気付いたのですが、耳川から一キロ南の石並川の五キロ上流に田の原という切り出しに最適な場所を見つけました。いずれにせよこの一帯は可能性が高いようです。
② 田島(旧佐土原町上田島)
宮崎市の北に一ツ瀬川の支流、三財(サンザイ)川が流れています。
一ツ瀬川の最下流部に下田島が、旧佐土原町の三財川右岸に上田島があります。
初めは、宗像大社の鎮座地である大字田島の地名移動かと考えたのですが、付近に三女神を祀った痕跡は認められませんでした。
 この上田島は江戸期に旧佐土原藩の豪商坂本家(後に阪本と改称=木瓜紋 どうも、この一族は久留米市の王子宮、坂本宮と関係がありそうですね。)
 さらに、この三財川上流部は西都市に通じ、その地には鹿野田(かのだ)という地名が拾え、鹿野田神社まであるのです(未調査のため、古田史学の会会員の甲斐氏に調査を依頼しています=後に山幸彦とされているらしいとの連絡が入りましたが、既に良くわからなくなっていたようです)。タシマにカノウダがあれば、より、補強できそうです。
③ 加納(宮崎市加納町)
午後からは前述の甲斐さんに同行してもらいました。
まず向かったのは、宮崎市の中心部に流れる大淀川に河口部で合流する古城川、八重川の上流部の加納地区でした。
宮崎市清武町の加納と船引(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
ただ、ここは既に都市化が著しく、もはや、カウヌイの痕跡を拾うことはできません。
近年まで台地の上に大きな森が広がっていたそうですが、今では、戸建ての住宅が立ち並ぶ巨大な住宅団地になっています。
ただ、面白いことに、この大きな台地には菰迫とか宮ケ迫といった地名が拾え、台地の上の土地には連絡しない坂が川から這い上がっています。
これらは木を切り出すことだけを考えて造られた搬出路だったのではないでしょうか?
どうやら、加納は三本の河川を持つかなり広い流域を持つ土地だったようです。
この程度のことしか分からないため、現地の加納神社の調査は甲斐さんに任せ、田野町を貫流する清武川に面した船引地区に向かいした。
④ 船引(旧清武町)
ここは加納に隣接した土地です。面白いことに、地区の中心地にある船引神社の参道が、清武川の旧汀線であったと思われる県道13号(高岡郡司分)線に向かって幅三メートルほどの直線道路で伸びていることです。
船引神社とその参道
 
この一帯は他にも数本の直線道路が川に向かって延びていました。
恐らく、かなり古い時代からこの神社の後背地から多くの大木が切出され、半加工の状態で清武川に運び出されていたのではないでしょうか。
社殿の背後には樹齢九〇〇年と推定される大楠が鎮座していて、直ぐに天磐樟船(アマノイワクスブネ)の故事を思い出します。
恐らく、大半を切り倒し、最期に一本だけが残されたのではないでしょうか?
宮崎市清武町船引(昭文社「県別マップル道路地図」)
⑤ 外ノ浦(南郷町)
あたかも、祭神である応神、神功皇后、中哀天皇よりも、この大楠こそが神体かのようでした。もはや疑いようはありません。宮崎市の加納、船引、田野の一帯は古代の一大造船地帯だったのです。
できあがった船は大淀川水系から日向灘へと引き出され、黒潮の分流に乗せられ、関門を抜け、玄海灘へ、そして、瀬戸内海へと運ばれたのです。
⑥ 田野(旧田野町)
現在もなお、杉、檜の馬鹿げた生産地である田野ですが、七年ほど前、樹齢四十から六十年にも近づく管理された百万本の国有林が土砂崩れで山体崩壊とも言える大崩壊を起こしたことは、ひたすら大雨のせいにされ、あまり知られていません。
今や、都会の住宅は鉄とコンクリートとガラスとプラスチックと僅かばかりの外材(米マツ)で造られ、小泉、竹中によって国民の所得が低下したことから売れる見込みがないのです。林野庁の拡大造林政策のもとで、全く売れもしない危険極まりない針葉樹林が急傾斜地に事実上放置されているのです。
この田野という地名が、タウヌイ(大船)であったことは、皮肉としか言いようがありません。
付近には、松ノ木田という気になる地名もあります。また、大淀川の支流本庄川沿いにある金崎という地名も、カウノウ=カヌウの崎かもしれません。
「鰐塚山では、総雨量が1000mmを超え、6個の大規模の崩壊が生じ、そのうち3個はかなりの規模のものであった。国交省や宮崎県の調査によると下流の「鰐塚渓谷いこいの広場」への流出土砂は500万m3に上ると推定されている。」
宮崎県田野町 鰐塚山の崩壊と土砂流出(2005/12/26 暫定第3版)
九州大学大学院農学研究院 森林保全学研究室(参照)
 ほかに「環境問題を考える」アンビエンテ「有明海諫早湾干拓リポート」「田野」(参照)夜は不動産関係に精通された甲斐さんにお話をお聴きし、その日の調査を終えました。
⑦ 戸ノ崎(宮崎市青島)
朝から生憎の雨になりました。トサキはタウ、トウの崎と考えられることから確認にきたのですが、それほど急峻な正面を塞ぐ戸板のような岬ではないもののかなりの標高があり、タウ、トウの崎とも言えそうですが、判然としません。
⑧ 外ノ浦(南郷町)
宮崎県南郷町外の浦
 
南郷町役場の南、日向灘に面した大きな漁港です。
移動中にこの地名に気付き、「ソトノウラ」ではなく「トノウラ」であるとすると、田ノ浦地名の変形になるのではと直ちに引き返しました。
雨の中、付近の観光船の発着所で話を聞きました。発音は「トノウラ」であり、古くは湾奥の脇本地区から潟上神社のある潟上地区あたりまで広大な浅い海であったということで(江戸期の文書がある)、この湾は今でも水深があまりない砂地の入江であるとお聴きしました。面白いことに、正面には観音崎という岬まであるではありませんか。
既に、「トノウラ」ではありませんが、「トノノウラ」という地名も関係があるのではないかとは気付いていました。
先にふれましたが、魚釣りで三十年来通い続けた伊万里湾鷹島のフェリーの着く港が殿の浦であり、北松浦の的山(アズチ)大島の、これまたフェリーの着く港が神ノ浦(コウノウラ)と呼ばれていることを知っていたからでした。
宮崎県南郷町外の浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
宮崎県串間市幸島
 
⑧ 幸島 コウジマ(串間市)
京都大学の霊長類研究所の報告
で知られる芋を海水で洗って食べるサルが現れたという話の舞台がこの幸島です。何度か訪れていますので、既に地形は頭に入っています。潮が引くと浅い水道を歩いて渡れるようになるのですが、これもカウ島、コウ島であることは間違いないようです。
 むしろ気になったのは、さらに、南に七キロほど下った美しい砂浜、恋ケ浦(コイガウラ)です。ここもカウ、コが淀泊するにはぴったりの地形です。玄界灘に面した福岡県津屋崎にも恋ノ浦があります。
⑨ 金谷(串間市)
 この日最後に向かったのが、串間市の福島川河口にある金谷(カナヤ)地区でした。
 カウノイを意味する地名ですが、直ぐに頭に浮かぶのが、桜島のある錦江湾側の鹿児島県鹿屋市のカノヤですね。この鹿屋は茂在寅夫教授が「日本語大漂流」でカヌーとの関係を指摘しておられたところで、そのバリエーションの一つということになるのでしょうか。
 現地には金谷神社があり確認に行きました。しかし祭神も見当が着かず、傘をたたみながら引き上げました。この串間は南に口を空けた巨大な志布志湾の縁にある都井岬の付け根にあります。古代においても最も重要な港だったはずで、その痕跡地名が金谷ということになるのかもしれません。
鹿児島県
 鹿児島県は過去に何度もフィールドワークを行なっているところです。今回は大隅半島と薩摩半島の外側と錦江湾岸は全て省きました。前述した鹿屋がカウヌイであることは確実でしょう。ロケット発射基地のある内之浦周辺でも戸崎、舟木、舟間といった地名は気になるのですが、舟木、舟間は後代の船舶用の木材の伐採地の可能性があると思います。
 ところで、鹿児島県に入って、九州の東岸と西岸の間を南回りで船行する場合を考えたのですが、当然、薩摩半島と大隅半島の先端を通過することになります。実はここに全く同名の地名が存在していることに気付いたのです。
田ノ崎と田之崎
① 田ノ崎(指宿市開聞十町)②田之崎(南大隅町)
指宿市開聞十町の田ノ崎と南大隅町田之崎(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
薩摩半島側は開聞岳の西の裾野が海に落ちるところにある田ノ崎、大隅半島側は半島の先端、佐多岬の付け根にある田之崎(南大隅町)です。
田ノ崎は全くの溶岩海岸であり、水田などどこにも見当たりません。以前、「大宮姫伝承」と関係が深い皇后来(コウゴウライ、コゴラ)という港を見に行った時に確認しています(これもカウが浦かも知れません)。田之崎は伊座敷漁港のある水産基地ですから、こちらも水田とは関係がありません。
そのような場所に同じ地名が残ったのは、九州の西岸と東岸の間をタという船が移動していたからだと思えるのです。
① 観音(長島町川床)
夜釣りのキス狙いで何度か入ったことのある長島ですが、阿久根市の北、黒ノ瀬戸の北岸に観音という十戸足らずの小集落があります。
沖は砂地のようですが、このゴロタ石の浜には始めて入りました。
思っていたとおり観音様は祀られてはいませんでしたが、代わりに港の入口のアコウの木の下に恵比寿様がおられました。
カウヌイ地名のバリエーションの一つに観音崎があることから訪れたのですが、ここが外海と不知火海の間の水道を往来するカヌーにちなんだ地名であることは間違いないでしょう。
なお、黒ノ瀬戸意味はまだ掴めません。九州は、黒島、黒崎、黒浦というクロ地名が異常に多く、黒ノ瀬戸も黒潮が入る瀬戸ならそれで良いのですが、クロは「カウルア」と関係があるのではないかと思えて仕方がありません。
熊本県
② 田浦(タノウラ)③ 小田浦(コダノウラ)いずれも、芦北町
不知火海の「タウ」「タウヌイ」地名として直ぐに浮ぶのは田浦町です。田浦と書かれ
ますが、タノウラと呼ばれています。
湾内にはアコウの木が繁る殿島もありますが、こちらはタウヌイの島でしょうか(未調査でしたが、地元地名研究会メンバーの吉田さんから直ぐにトノシマとの連絡がありました)。
八代と宇土の間の旧竜北町には、鹿島、鹿野がありますが、この一帯は近世以降の干拓地です。これらの地名がどこから持ち込まれたものか分らないため断定できません。
足早な調査でしたが、歳の瀬も押し詰まったことから第一回目のフィールドワークを終えました。
2013年1月9日、第二回目の「田ノ浦」地名調査(宇佐市金屋ほか)
今回は行橋市からのスタートです。行橋から南の大分市に向けて、「田ノ浦」地名と思われる候補地を訪ねてみました。
苅田町役場のそばを流れる殿川
 
これまで行橋市は、通過するだけ、フィールド・ワークのエリアではありませんでした。
そのため、小さな祠一つを見るにしても新鮮でした。北には瀬戸内海フェリーの出航地の苅田町も控えていますが、都市化が進んで埋立地も大規模に拡大していることから、古代の湾奥と思われる山際線で探るとしても現実的にはパスせざるを得ません。
地図上で見ると、苅田港の沖には神ノ島が浮かんでいます。もちろん、苅田そのものもカヌー地名の可能性がありそうですし、石塚山古墳と隣り合った役場のそばには殿川が流れ、殿川(トノガワ)町がありますので、タウヌイがこの川の河口から瀬戸内海に漕ぎ出していたのかも知れません。
① 金屋(行橋市金屋)カナヤ
 現地は古代(一応、紀元前後を想定)のウオーターフロントと思われる場所です。
 遠く英彦山に端を発した今川は赤村で90度屈曲し行橋に流れ下っています。
ここも急傾斜地区ですが宇佐市の金屋地区
金屋地区の中心にある金屋神社
 
現地は、その今川の河口付近にあります。製鉄や冶金の痕跡地名の可能性がないかを気にしながら周辺を歩きましたが、そもそも錆を嫌う金属加工地が、このような場所にあることは考えられず、これも「カウヌイ」のバリエーションの可能性があると思われます。
 
② 金屋(宇佐市金屋)カナヤ
 宇佐市の中心地を流れる駅館(ヤッカン)川右岸の、これまた古代から中世までの河口部ではなかったかと考えられる場所にあります。この地名のエリアは標高20メートルを超える台地から、急な崖を下った川岸の下金屋一帯をまで含んでいます。
 坂道を降ったり登ったりして具に見て回りましたが、農家集落でも漁師集落でもない上に醸造業なども散見され、一見、廻船業者の集落であったように見受けられます。
古来、醸造業と廻船業は関係が深いと言われています。多くの穀物を閉鎖的な船倉で搬送すると、自然に発酵が進み、その発酵の進み過ぎたものの抱え込みから醸造業が興り、商品生産が起こるのです。当地は中世以前まで遡るようなところであり、そのことが良く理解できます。
 集落の中心地の神社を見に行きましたが、奉納者の中に「南」姓が異常に多い(半数を超える)ことに気付き愕きました。念頭にあるのは「南」=「難」です。もしも、南(ナン)さんが「難」さんだったら、古代の航海者、難升米に通じるからです。
 なお、漢音と比べた場合の呉音の際立った特徴は、M音とB音、次に多いのがN音とD音の入れ替わり現象であり(濁音の清音化現象も)、いわゆる「魏志倭人伝」の難さんは、団(ダン)、壇さんにもなる可能姓があります。
牛頭天皇の神額が掛かる金屋神社
南姓がずらりと名を連ねるスサノウ系「牛頭天皇」神社の奉納者掲示板
N音がD音に転化せずすんなり発音できるのは新羅系の人々なのでしょうか?
豊後高田市の昭和の町
 
③ 金屋町(豊後高田市金屋)カナヤ
豊後高田市の「昭和の町」は有名ですが、その中心の新町商店街の延長上にあるのが金屋町です。そばには物資輸送に便利なかなりの川幅を持つ桂川が流れています。ただし、このはすぐ隣が鍛冶屋町であることから、金属加工業者の町だった可能性も否定できません。
今回は初めてのフィールドワークだった豊前と豊後の北半域で三つの金屋地名が拾えました。いずれも川筋の、しかも河口部の河岸に位置していることから、これらが古代にまで遡る「カウヌイ」=カヌーに起源を持っている可能性があることに感動をさえ覚えました。
 ここで、今回のテーマとは繋がらないケースを紹介しておきます。それは、大分市の生石地区の上流域の金谷迫です。
 ここは海岸部の生石(イクウシ→イクイシ→イクシ)に隣接する土地であることから、確認を行ないました。隣には蒔き、木炭など燃料の集積地と考えられる駄原(ダノハル)地区があり、白木地区もあることから、やはり、製鉄、金属精錬に通じる地名と考えるべきでしょう。
 ただ、古代においては、谷深い池状の入り江(現在は富士紡績の敷地)の池の臼状地か、壱岐の海人族が住み着いた土地が生石の語源ではないかと考えるのです。
 
2013年1月15日、第三回目の「田ノ浦」地名調査(臼杵市漢の浦ほか)
 
第二回目で廻りきれなかった大分県の続きです。
 
① 田ノ浦(別府市神崎)
別府市の田ノ浦の急傾斜地区の表示板
 
マリン・パレスに隣接して田ノ浦海水浴場があるところです。現在は六車線道路が前出しされていますので、元も砂浜であったと即断はできません。
しかし、田ノ浦集落は「高崎山」の山名の通りの急傾斜の山裾が海岸まで延びているところにあり、田んぼなどほぼ存在しないように思えます。 
 
② 漢の浦(臼杵市中津浦)
臼杵市中津浦の漢の浦バス停
 
前回、うっかり通過してしまったところです。インパクトのある地名でもあり、現地を見たく、再度、臼杵に入りました。
現地は湾の左岸の中ほど大字中津浦の片隅にあります。集落までの道はあるものの、車で入るには勇気のいるところでした。
中津浦でもあまり重要視されていない集落のようでした。聴き取りを行ないましたが、船を持つ漁師は既に一戸で、漁港も含めて中津浦の中に吸収されているようでした。
菅原の道真を祀る中津浦の人々は鼻筋が通り、背も高いようですが、漢の浦、そして後にふれる家船で有名な津留(漢の浦から一キロほど西の臼杵市諏訪砒江)の人たちは、映画評論家の水野晴朗氏やさかな君などに代表されるポリネシア系の顔立ちの人が多いようでした。
ウォーキング中にお会いした中津浦の綺麗な女性にお聴きすると、「津留の人は一目で津留の人と分りますからね・・・」とのお話をお聴きし、想定と一致し納得したところです。
津留も漢の浦の人も、概して砂浜や小さな石のゴロタ浜を好んでいるという印象です。
 
③ 田井(臼杵市田井)
「田井」姓を意識したのは今から三十年も前のことで、はじめは苗字としてでした。この地名が九州でも散見されることから気になっていました。
臼杵市田井のJR日豊本線下ノ江駅
 
臼杵市田井まで延びる下ノ江
 
の地名も「田ノ浦」地名のバリエーションの一つであることに気付いたのは最近のことです。
地図で見ると臼杵市の内陸部にあることから見過ごしてしまいそうですが、日豊本線の下ノ江駅のそばに大字田井、字田井があり下ノ江駅は海から直線で一キロは離れたところであることから不思議に思っていたのですが、現地を見ると直ぐに氷解しました。見た目は全くの川ですが、深い入江が田井の直ぐそばまで入っていたのです。
してみると、田井とはタウルイ(双胴のタウ)を操る人々の居住地、居留地の意味であることが分るのです。
これは、フィールド・ワークなくしては見えてこない例の一つでしょう。
田井姓を調べると香川県の高松市、大阪府の八尾市にその際立った集中が認められますが、八尾はかなりの内陸部のため、だれか調べてもらえないかと思うものです(岡に上げられた河童の状態に見えます)。
 
④ 田ノ浦(津久見市)
津久見市四浦半島の田の浦バス停
 
津久見市には豊後水道にサンゴの枝状に突き出した四浦半島があります。その北側に落の浦、鹿の浦、田の浦という漁港が並んでいます。
落の浦は河野水軍の一族、越智の人々の末裔であることは容易に想像できますが、鹿の浦は志賀島の鹿(シカ)かと思って入っみたところ、シノウラとのこと。やはり現地に行かないと分らないものです。
田の浦の方は水田とは無縁の場所でした。
残していた、大分の田ノ浦、臼杵の津留、漢ノ浦、田井を確認し、通常のフィールド・ワークのエリアと併せ、九州全域の田ノ浦調査を終えました。
 
2013年2月20日、第四回目の「田ノ浦」地名調査(門司~長門)
 
① 田野浦(北九州市門司区)
前回で、「田ノ浦」地名調査を終了し今後は郷土史などの調査に入るつもりでしたが、仕事の関係で北九州に入る機会が多くなり、省略していた門司の田野浦を見てくることにしました。
門司区田野浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
ここは九州自動車道の門司港インターの東側に当たるところです。埋立てが進んでほとんど原型は留めていないだろうと思っていました。ところが現地に入ってみると、沖には大規模の埋立地が造られているものの、全体として開発が遅れていることから内側はほぼ原形が保たれているようでした。埋立地に隣接して新開という大字が残っており、その部分は戦前の埋立地だったはずで、少なくとも明治期の波際線は今でも確認ができそうでした。
車を田野浦公民館に止め写真を撮りながら付近を散策していると地元の自治会長と出くわし、短時間でしたが話を聴くことができました。
旧運輸省港湾局による埋立地なのでしょうが、小規模な造船所や船舶関係の工場、倉庫群が並ぶ内側に、明治期の埋立地と思える前出しされた部分があり、そのさらに内側が古来の汀線、街並みと理解しました。
ここは、早鞆の瀬戸の急流を乗り切った船が衝突の危険から解放されて一息つける場所であり、風待ち、潮待ちで賑わっっていたのではないかと思います。
崖際には立派な春日神社が鎮座し、山を挟んだ反対側には同じ大字田野浦ながら大刀浦地区があります。風向きによってはこちらに船を泊めこともあったでしょう。
下関市彦島の田の首(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
公民館や春日神社がある田野浦地区から山越えで最短の道が通じており、降りたところに貴船神社がありました。この小山の道を移動する「タ」船の水夫(かこ)の姿が目に浮かぶようでした。
 
② 田の首(下関市彦島田の首町)
次に向かったのは海峡の西の出口、下関市彦島です。以前から気になっていた彦島の南端にある田の首(タノクビ)という奇妙な地名の現地を確認するためです。
現地には「田んぼに首が落ちていた…」「秀吉の朝鮮出兵の時に田兵衛さんという人が晒し首になった…」といった話があります。実際、海岸から少し離れた所にはしばらく前までは僅かな田んぼもあったようです。
しかし、人の首云々は後世の付会でしょう。好んで付されるような地名ではないことから、容易に消すことのできない古い地名であったはずなのです。
一般に海岸部、島や岬などには牛が首、亀の首、獅子島、ネズミ島、象の鼻といった動物名が、自然地形から付されます。佐世保市の沖に浮かぶ高島の先端には海上保安庁によって牛が首灯台が設置されていますが、船から眺めると確かに牛の頭に見えるのです。
さて、田の首です。現地に入ると、海峡を挟んで正面南には九州側の門司の海岸が間近に見え、ひっきりなしに大型船が行き来しています。
田の首の船着き場に立って西を眺めると、予想していた通り牛か亀か、何か動物の頭のような小山が目に入りました。住宅が立て込んでいることから胴体部分に当たる丘陵部はうまく見えません。
あちこちを歩き回り、ようやく首と胴体を一望できる場所を見つけました。恐らく、これで間違いないと思います。
田の首とは、牛の首のような形をした岬のある入り江から瀬戸を越えて九州側に渡る「タウ」船の発着場をさすものではなかったのかと思うのです。
田の首に見えますか? 戦前のものと思われる
田の首の古い船着き場
 
ネット上に半分は当たっているコラムがみつかりました。
「昔は今の平地部分が入り海になって港の形をつくり、田の首八幡宮のある丘が突き出して、ちょうど亀の首のように見えたので「亀首」といっていたのが、訛って「田の首」になったということであります。…」(拍手、古川)
 
③ 田ノ浦(長門市青海島 通)
次に向かったのは長門市の景勝地、仙崎港の沖に浮かぶ青海島です。
対馬海流に乗って日本海を航行する場合、青海島の南側は最適の泊地になるはずです。ここにも田ノ浦地名があるのではと当たりをつけて地図を見ると、通(かよい)に小さく「田ノ浦」と書かれていました。
長門市青海島通田の浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
これまで青海島には何度も入っていましたが「青」地名や「船越」地名の調査が対象で、青海湖(波の橋立)や最も細くなった紫津浦の船越地区より東には踏み入っていませんでした。
この田ノ浦は思ったより大きな集落で、崖際に漁師の家がぎっしり立て込んでいました。海岸に沿って走る道路から見る限り、背後は崖地を口実とする薄汚いコンクリートの急傾斜対策事業が施されており、車から見る限り田んぼの片鱗もないように思えました。
田ノ浦地区(写真はパノラマ撮影したもの)
 
聴き取り調査を始めると四人のおばさんたちにお会いしました。
二十分ほどいっしょにいると色々な話が飛び出してきました。
案の定、「コメが取れるから田ノ浦ちゅんじゃ…」「今はのうなったけんど、昔は半農半漁で少し田んぼもあった…」もありました。
後で中学校裏の畑を見に行くと、グランドの横に通路と水路が並んで山に延びていました。
田の浦の四人のおばさん
 
水路はかなり傾斜があるものの割と水量があり、田んぼの浦説もあるかもしれないと思えました。
全ての畑を歩き、傾斜と用排水の系統を見て回りましたが、どうやら多く見ても合計で一、二反、四、五枚程度のもので、人家の数から考えて、地名成立を左右するようなものではないとの印象を持ちました。
田の浦の水路
 
さて、話をお聴きした女性の中に目がクリクリとした、見るからにポリネシアンといった方がおられ、「どちらから嫁がれましたか」とお尋ねすると、油谷町からとのこと。「昔はアグネス・ラムみたいにおきれいでしたでしょう…」とお世辞を言うと「私は朝鮮系だから…」とすねる方もおられ大賑わいでしたが、実際、長門は百済の末裔と称する大内氏の国であり、土井ケ浜遺跡がある県だけに一目で半島系と思える人が多いことも事実です。             
土着の男性の中にはポリネシアンが多いかもしれないと考え男性を探していると、岸壁でイリコを干しておられる水産加工会社のご主人と思しき方に出くわしました。「これはカタクチイワシですか、ウルメイワシですか?」というような世間話を交した程度でしたが、まがうことなきポリネシアンでした。
用排水か排水のみか?
地方によって移住も混血も民族の入れ替わりもあって一概には言えませんが、侵略を受けても女性は生き残ることから、ある程度の形質は残るものです。                     
車まで戻る途中、先ほどの元は水田だったのかもと考えた畑の前に河野姓のお宅があり、ちょうど若芽を潜って持ち帰ったばかりのご主人がおられました。
河野(カウヌイ)姓と海人(男性が潜る側の)との関係を目撃した気がしました。つごう、二時間ほどのフィールド・ワークでしたが、非常に密度の濃いものになりました。
田ノ浦は小字なのかも知れませんが、大字通の中の通称地名でもあるようです。
大字通にはりっぱな住吉神社が鎮座していました。偶然お会いした神職に「田ノ浦地区の方もこちらの氏子さんですか?」と尋ねると、「そうです」とのことで、多少思い当たることもありました。
四回に亘った「田ノ浦」地名でしたが、普段のフィールドワークではなかなか廻れない土地勘の薄いエリアを調べて回りました。
ここからは、通常、頻繁に訪れているところを、地図と頭の中から拾い出したものになります。
天草下島と上島の水道に近い天草市戸ノ尾と金焼(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
② 博多、田崎(南さつま市坊津町)
鹿児島に入ると、九州東岸に比べて「タ」地名が急に少なくなります。
枕崎を過ぎ坊津に入ると、ようやくこの地名が見つかります。
坊津から国道226号線を旧加世田町に進み久志浦湾に入ると直ぐに博多浦と博多、田崎、平尾があります。
福岡市にお住まいの方なら、これが福岡の地名であることは直ぐにお分かりになるはずですが、坊津が、司馬遼太郎も訪ねた薩摩の密貿易の基地であったことは著名ですので、博多の商人の出張所であった可能性もありますが、“博多はタウ船の停泊地、船の駅であった”と黄 教授も指摘されていますので、田崎がタウの通過する岬であることも考えられます。
 
③ 唐浦 モロコシウラ(南さつま市坊津町)
これはなんとも言えませんが、鑑真和尚の上陸地のちかくでもあり、可能性はあると思います。
タウは砂浜を好んで入っている様で、最適の小湾であることは間違いありません。
アウトリガーやカタマランは波に乗りやすく安定性には富んでいますが、船体構造上は暗礁に弱く、接岸時には砂浜を選んでいるように思えます。
 
④ 小浦 コウラ(南さつま市笠沙町)
笠沙の岬の北側の付け根の入江です。
 
⑤ 神ノ川(日置市東市来町)
吹上浜は別件の「天子宮」調査で何度も足を踏み入れたところですが、神ノ川の意味は全く見当がつきませんでした。
地図上の表記は「カミノカワ」ですが、音韻変化が著しい薩摩のことから、まずは、カンノ川=カウヌイ川の可能性は考えられます。
 
⑥ 唐浜 カラハマ(薩摩川内市港町)
川内火力発電所の西隣の浜です。タウの浜かと考えたのですが、ここも古来、大陸との貿易拠点でもあっただけに即断できません。
長島の対岸の天草には、大矢野島と上島の間の大きな水道に、上大戸ノ崎、下大戸ノ崎が突き出していますが、これは門の崎の可能性もあり判別できません。
これに類する戸の崎が、上島と下島の不知火海への出口(天草市下浦金焼)にもあります。
これは、金焼(カネヤキ)と戸の崎(トノサキ)がセットになっていることから、「タウヌイ」である可能性が高いかも知れません。
 
① 大多尾(旧新和町大多尾)
 ここは現地に入っていませんので保留します。
 ただ、類型地名として、九州の北西岸に大田和など数多く拾えますので(三角港の裏側、宇土半島の有明海側にも大田尾の浜があります)関心を持っています。
 天草下島の河浦町は天草観光の目玉の一つ、崎津天主堂のある町ですが、旧役場は河浦地区にあります。
江戸時代も外洋船の寄港地(廻船も含めて)であったことから湾奥には町田川が注いでいます。
これも決め手がありません。
宮崎から鹿児島の大隅半島にかけては、通常のフィールド・ワークのエリアではないため最初に入りましたが、それ以外はこれまで頻繁に通過していることから、現地の状況は頭に入っています。
 
大分県北部
 
① 田ノ浦(大分市神崎)
現在なお水田など片鱗もない上に、隣接する田ノ浦海水浴場の存在から古代においても、最適の泊地だったことでしょう。
大分市神崎の田ノ浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
② 観音崎(旧姫島村)
天台密教の拠点である国東半島の沖であることから、これは観世音菩薩の観音の可能性が高いでしょう。
 
③ 金屋(豊後高田市)
海岸部のカナヤですが、真玉温泉のエリアで金属精錬地名の可能性もあります。
 
福岡県
 
① 殿川(苅田町)
この川は役場の傍を流れているだけに、今なお関西へのフェリーの出船場であることも無関係とは言えないでしょう。タウヌイの川であった可能性は高いでしょう。
 
② 田野浦(北九州市門司区田野浦
)ここは、海上交通の要地であり、まず、間違いなくタウヌイの浦でしょう。
 
③ 戸ノ上、戸ノ上山(北九州市)
JR門司駅東側の町が戸ノ上です。場所としては文句ないところです。
 
④ 田屋(芦屋町)
源平期に活躍した山鹿水軍の根拠地だけに可能姓は高いでしょう。
 
⑤ 手野(岡垣町)
既に、宗像海人族のエリアですが、阿蘇の国造神社の所在地にもこの地名があり、即断できません。現地では「テノ」と呼ばれていますが、古代、手はタであり、巨大な松原海岸の砂浜の地でもあることから可能姓はありそうです。
鐘ノ岬(宗像市)
 
「沈んだ鐘の音が聞こえる」との伝説もありますが、宗像海人族の象徴的な土地であり、最も可能性の高いカウヌイの岬でしょう。
 
⑤ 田野(宗像市)
砂の堆積が進み内陸部になっていますが、古代は汀線であり、さつき松原の砂浜海岸の地であり候補地です。
 
⑥ 神湊(宗像市)
この地も宗像海人族の本拠地であり、間違いなくカウヌイ湊でしょう。
 
⑦ 田島(宗像市)
宗像大社の所在地の大字が田島であることは象徴的ですらあります。
 
⑧ 恋の浦(福津市津屋崎町)
ここからは安曇族、宮地嶽神社の領域ですが、恋の浦は鳴砂の浜として知られています。
 
⑨ 田ノ浦(福津市津屋崎町)
恋の浦のある陸繋島(トンボロ)の内側で、現在は耕作地も広がっています。冬場は北西風の当たらない古代においては最適の停泊地だったはずです。
 
⑩ 唐ノ原(福岡市東区)
トウノハルと呼ばれていますが、これまではアイヌ語の痕跡地名と考えていました。タウヌイのハルかも知れません。
 
⑪ 唐原(福岡市東区)
唐原川が流れており可能姓はあるかも知れません。
 
⑫ 叶の浜(福岡市東区志賀島)
有名な金印の発見地とされる砂の浜で、これはカウヌイの停泊地か丸木舟の製造地ではないでしょうか。

⑬ 勝間(福岡市東区志賀島)
既に茂在教授がカタマランの泊地としたところです。
 
⑭ 博多(福岡市博多区)
これは、説明不要でしょう。黄 教授に従えばタウの停泊地=駅ですね。
以下、博多港周辺は都市化が進み判別が出来ません。
ただ、福岡市西区の叶岳はカウヌイ製造のための木材の供給地、伐出山かカウヌイが沖合いを通過するのが良く見える山の可能性があります。
 
佐賀県
 
① 殿ノ浦(唐津市呼子)
佐賀県唐津市呼子の殿ノ浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点となった呼子港の湾奥地名です。
殿ノ浦は伊万里湾鷹島、平戸沖の的山大島に類型がありますが、タウヌイの浦ですね。
 
② 田島神社(唐津市呼子)
呼子港を北西風から守る壁の島加部島の東端にある島状の半島に鎮座するのが、宗像大社と同一の祭神を持ち、宗像大社と同一の大字名の田島神社です。
以前から田んぼとは全く無縁なところになぜと思っていましたが謎が解けました。
タウの停泊する島とすれば氷解します。これまで宗像大社の大字が移されたとして理解していましたが、そうなると呼子の田島神社から宗像へ地名が移動したのかも知れません。
 
③ 田野(唐津市田野)
佐賀県で最初に頭に浮かんだのが、この旧肥前町の田野でした。
佐賀県唐津市田野(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
どうみても漁業中心の集落で、なぜ、田野と呼ばれているか奇妙でしたが、これも氷解しました。
 
④ 唐ノ川(唐津市唐ノ川)
上場台地の真ん中にこの地名があります。ここには比較的大きな松浦川の支流田中川が流れ、唐津湾に注いでいます。トウノカワともカラノカワとも呼ばれ、タウヌイ、カウルヌイを造って海に流す場所としてはありうるでしょう。
集落の中心地には田島神社が鎮座しています。
 
⑤ 神野(佐賀市)
コウノと読みますが、JR佐賀駅の西に戸神野公園があります。
古代の佐賀は有明海に突き出した岬状の地であったと考えられており、吉野ヶ里遺跡の神崎も同様ですが、これもカウヌイ、カウヌイ崎の可能性がありそうです。
迂闊にも写真家の松尾紘一郎氏(糸島市)からお教えいただきましたが、佐賀新聞の記者であった故山本末男氏の『佐賀は輝いていた』には、茂在教授の著書を読まれたか、神納、嘉納、花納・・・(佐賀市)神納(神埼市)など多くのカノウ、カンノウ地名があることを書いておられます。
 
長崎県 Ⅰ
 
① 殿ノ浦(松浦市鷹島町)
既に、呼子の鷹島で触れましたし、茂在寅男教授と遭遇したのが、この伊万里湾内の最適の中継港です。
ここが、鹿屋と同様の意味の地名とは教授は気付かれていたのでしょうか?
長崎県平戸市の田の浦と幸の浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
② 船唐津(松浦市鷹島町)
フナトウヅともセントウヅとも言われますが、魚釣りで頻繁に通った鷹島沖の黒島へのフェリーの中継港です。
以前から船がなぜ語頭に来ているのか奇妙でしたが、タウとフネが重複しているとすれば、多少意味が分るかも知れません。
 
③ 金井崎(松浦市)
松浦市の中心部の西、鷹島へのフェリーの発船場がある御厨から北に突き出した半島の先端の地名で、鷹島の殿ノ浦の真南に位置しています。
カウヌイの通過する岬の意味かも知れません。
 
④ 田ノ浦(平戸市)
空海が入唐する時の遣唐使船が出たのがこの港で、現在でも田の浦温泉があり、今は釣宿となっています。一度入ろうとしましたが、沸かし湯の鉱泉場で直ぐには入れませんでした。
 
⑤ 田助(平戸市)
ここも、釣りで何度か足を入れたところです。現在でも造船所があり、タウには関係がありそうです。
 
⑥ 幸ノ浦(平戸市)
田助港の南にある小さな漁港ですが、家船の西の最大拠点だったところです。
 
⑦ 観音崎(平戸市度島)
ポルトガル宣教師ルイス・フロイス(『日本史』の著者)も滞在した平戸の瀬戸の北に位置する度島の北西の岬です。
 
⑧ 神ノ浦(平戸市的山大島)
ここも頻繁に魚釣りで通った島です。
平戸からのフェリーが着くのが、この神浦港です。初めて訪れて以来、仰々しい名だと思っていましたが、カウヌイの浦とすれば良く分ります。
確か、この港の奥にも殿ノ浦があったと記憶していましたが、記憶が怪しく再度確認が必要です。
 
⑨ 田崎(平戸市木場町)
平戸島中部の木ケ津湾の湾口の半島です。
もちろん、田んぼなど全くない海岸性樹木の生い茂る森です。
佐世保市田の浦町(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
⑩ 神船町、神ノ川町(平戸市津吉)
平戸島南部の北西側の入江にあるカミフネ町と、南東側にある前津吉漁港の浜沿いの町で、カンノカワ町ですが、隣には船木町があります。
前津吉は佐世保港へのフェリーの出船場ですが、北西の風が遮断される良港です。
両方ともカウヌイが造られた可能性もある場所ですね。
 
⑪ 田の浦町(佐世保市)
大村湾から肥前国風土記に登場する早岐の瀬戸と田子の浦を通り佐世保湾に抜ける海上交通の要衝ですが、現在は埋立てと宅地造成により、深いものの、コンクリートの放水路しか残っていません。
 
⑫ 戸尾(佐世保市戸尾町)
魚釣りで上五島へのフェリーに乗る度に車を置いていた町ですがトノオと呼びます。これまで、アイヌ語のトウ(湖)と理解していました。
西海市大島の太田尾と塔の尾(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
⑬ 太田和(西海市太田和郷)
佐世保から南に西海橋を渡り、西彼杵半島の外側にある崎戸大島へのフェリーの出船場だった港です。
これも、キス釣りに何度となく通ったところです。
以前から奇妙な地名と思っていたところです。大きなタウの着く港の意味にはなります。
 
⑭ 田ノ浦(西海市大島)
大島の北岸の小さな入江ですが、冬場の強風の中、30センチを越えるキスを釣ったポイントです。
 
⑮ 塔の尾(西海市大島) 
田ノ浦の隣の非常に奥行きのある入江ですが、漁港築事業でコンクリートに固められ、かなり狭められてしまいました。佐世保の戸尾と同様に思っていましたが、どうやらタウの着く入江の奥という意味ですね。
 
⑯ 太田尾(西海市大島)
ここも田ノ浦の直ぐ傍に白浜海水浴場があります。タウは砂浜を好んだようです。
 
⑰ 神浦(長崎市)
ドロ神父で著名な隠れキリシタンの里で、神(カミ)の浦と呼ばれていますが、カウヌイの浦だと考えます。
 
⑱ 神ノ島(長崎市)
頻繁に訪れている長崎ですが、長崎港の長大橋女神大橋建設などの工事で陸続きになった神ノ島は一度しか足を運んでいません。
そのとき以来、隠れキリシタンは隠れているのであって、こんな地名を付すはずがないと思っていました。当然、それ以前の地名にしては奇妙だと考えていました。
カウヌイの寄航する島だったのです。付近の皇后崎も気になります。神功皇后ではなく、カウガサキかも知れません。
 
⑲ 鹿尾町、鹿尾川(長崎市)
グラバー邸付近から野母崎方面に南下すると、鹿尾(カノオ)町があり、今も中小の造船所や関連工場がひしめき合っています。これも、加納、叶、鹿野などと同様の船造りの地名のように思えます。
 
⑳ 神崎鼻、神崎神社(長崎市)
女神大橋直下の岬です。ここが事実上の長崎港の入口です。説明は不要でしょう。
長崎市時津の田ノ浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
長崎県 Ⅱ
 
① 田島(西海市西彼町)
何の変哲もない海岸性樹木に覆われた小島です。もちろん田んぼなど片鱗もありません。
長崎市香焼の田ノ浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
② 田ノ浦(長崎市時津町)
西海橋から国道265号線で長崎に向かい、時津町に入って直ぐの子々川が注ぎ込む砂地の小湾が田ノ浦です。
 
③ 金川内、田久保(大村市
鈴田川が注ぐ大村市の諫早市寄りの入江です。この地名が二つ並ぶと、カウヌイとタウがセットであると可能性があると思います。
 
④ 田ノ浦(長崎市香焼町)
三菱長崎造船所香焼工場(旧川南造船所)は元々香焼島にありましたが、今は埋立てが進み陸続きになっています。
今は工場の裏手の一角にこの地名が残っています。まさか、カヌーを焼いたのではないでしょうが、香焼島という地名も気になります。
この田ノ浦もどのように考えてもタウヌイの浦に思えます。
 
⑤ 藤田尾町(長崎市)
野母崎(長崎半島)東岸のトウダオと呼ばれる小集落です。
ここも長崎半島を迂回する際の寄港地には最適の場所です。湾曲した砂地の浜です。トウとタオが重複した地名かも知れません。
 
⑥ 太田尾町(長崎市)
 長崎市の真裏、旧長崎水族館から南に廻った海岸沿いの小集落ですが、この地名も前述の類型地名です。オオタオと呼ばれています。タウヌイと同じ意味ですが、ヌイが大きいに変ったものかも知れません。
 
⑦ 金屋入口(雲仙市旧千々石町)
大きな砂地の浜が広がる湾奥と言って良い場所ですが、直ぐ近くに戸崎もあり、カウヌイと関係がありそうです。
 
⑧ 金浜(雲仙市旧小浜町)
金浜川が注ぐ浜です。上流には鍛冶屋という地名もあり、判別が出来ません。
 
⑨ 田ノ平(南島原市南串山町)
国東半島の付け根の台地上の土地で水田はありません。そもそも、旧南串山町は有数のジャガイモの産地であり、米が満足に取れないからなのです。
 
⑩ 金崎(諫早市)
有明海に入るとこの地名が消えます。彼らは外洋を中心に活動していたからでしょうか。一応、保留したいのが、この金崎です。諫早湾干拓事業の大堤防が建設された北の付け根です。
 
壱岐
 
過去何度も入った壱岐ですが見つかりません。
ただ、前述の松尾紘一郎氏から加納という地名もあることをお知らせ頂きました。
現在、明治のいわゆる「全国小字調べ」で小字レベルで調査をされています。
 
対馬
 
対馬は、地元の民俗学者永留久恵の大著『天神と海神』を片手に、三泊四日の行程で四十近い神社を見て廻りましたが、一度のだけのフィールド・ワークで土地勘があるというほどのものではありません。
 その範囲で地図上の可能性のあるものを拾い出しただけです。
 
① 田ノ浦(対馬市豊玉町)
有名な木坂の海神(ワダツミ)神社(永留久恵
氏はこの社家ですが)の湾越の南の枝湾で、田川という川が注ぎ田橋という珍しい名の橋もあります。タウ船の入る川かも知れませんね。
 
② 塔ケ崎島(対馬市豊玉町)
印象的な鳥居が海上に浮ぶ和多都美(ワダツミ)神社に向かう崖上の狭い道路から見える無人島というより、海岸性樹木に覆われた孤立礁です。
 
③ 金田城、田ノ浜(対馬市)
白村江の大敗北の後、唐に備えて天智天皇が造ったなどと馬鹿げた説明がされる山上遺跡ですが、そもそも太宰府は郭務悰ら唐の軍隊に占領されているのです。それはともかく、なぜ、これが金田の城と呼ばれるかは全く分りません。南の金田と関係があるのかも知れません。
気休めですが、カウヌイも見える城としておきます。
この登山道の入口を見て今里方面に移動しましたが、その際見た美しい砂浜が田ノ浜のようです。 
対馬の田ノ浦(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
④ 金田、金田山(対馬市金田)
有名な銀山神社の南に聳える山が金田山です。
現在でも鉱業所がありますが、この一帯が金田です。少し下ると石葺屋根の倉庫(石屋)で著名な椎根です。
この地名は、カウヌイが見える山、金田山の裾野の集落と見たいのですが、一般には和銅年間に金まで発見されたという誤報にはしゃいだ銀山神社との関連などで説明されるでしょう。もちろん、当方も、決め手をもっている訳ではありません。
 
⑤ 神山、神崎(旧厳原町)
対馬の最南端、内院の銛状の岬がそれです。
対馬海流に乗り北上した時最初に見える尖った岬がそれです。
ざっと拾い出しても、対馬の西岸にしか見出せないのには理由がありそうです。
半島に移動する時は潮流を利用するために、現在のフェリーも含めて、対馬の西岸を北に向かいます。
動力船がない古代に於いては、反転流を利用して朝鮮半島の西岸を北行し、潮流が緩やかになる山東半島辺りまで進み始めて南行するので、対馬東岸には寄港地を持つ必要がなかったのではないかと思います。
 
五島列島
 
① 神ノ浦(新五島町)
② 田ノ小島(新五島町若松島)
③ 田ノ浦町、田ノ浦湾、田之浦神社(五島市久賀島)
④ 田尾(五島市富江町)
五島列島久賀島の田の(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
 五島列島は魚釣りなどで十回ほど入っていますが、限られた範囲でしかなく、とても判断できるレベルではありません。
これらはあくまで地図上の拾い上げに過ぎません。
神社を見るなり、現地の人から聴き取るなりしなければ、これ以上のリスト・アップは意味がないと思います。
 ましてや、奄美大島、甑島、種ケ島、屋久島、トカラ列島など未踏地の判断はすべきではないでしょう。
しかし、ある程度分ってきたこともあります。
それは、この地名群は外洋航路に関係しているようで、不知火海、有明海、錦江湾、志布志湾などからはそれらしき地名を拾えません。
また、平戸の幸ノ浦、大瀬戸から彼杵、臼杵の津留など家船のエリアともかなりの重複を見せます。
江南系も含め、バジャウなど俗にマライ・ポリネシアンと言われる南方系の海洋民族と関係があるのではないかと思われます。
有明海、不知火海、薩摩の両岸などは江南系の海人族が入ったためか、その外延部と九州東岸にこの地名を強く意識します。
瀬戸内海、山陰の調査を進めればもっと鮮明なイメージが見出せるのではないでしょうか?
とり急ぎ九州全域の第一次拾い出しを終えます。
 
その他の田ノ浦
 
 地図では多くの田ノ浦地名が見つかります。田ノ浦地名は全国に分布しているようです。
恐らく、遠い古代この地名を携えて多くの海洋民が津々浦々まで拡がったのでしょう。
そしてその分布を丹念に見て行けば、表記も含めある程度の法則性とか際立った偏りが発見できることでしょう。
防府市向島の田ノ浦と牛ケ首(昭文社「県別マップル道路地図」)
 
ただ、地名の世界では現地を見ることなく判断することは危険です。
 確かに原則的にはそうなのですが、単純にファクターを100から200に増やせば正確な判断ができると言うものでもありません。
 このため、このフィールドワークは九州に留めるつもりでいました。
 その最後の門司の田野浦まで着いてみると、正面にある田の首を見ない手はないと関門トンネルを潜ることにしました。
 確信はなかったのですが、防府市に牛ケ首と田ノ浦、田島、黒山がセットであることを思い出し、恐らくこの例であろうと思ったのです。
長門市三隅町野波瀬港沖の幸島(コウジマ)
 
この他にも可能性のありそうな地名が幾つもあります。下関市黒井(黒井川)カウルイの転化、下関市川棚町田島タウの転化、豊浦町観音崎(カンノンザキ)カウヌイの転化、三隅町幸島(コウジマ)カウの転化、中国自動車道の鹿野インターの鹿野町(鹿野川)カウヌイの転化・・・まだまだありますが、これぐらいにしておきましょう。
恐らく皆さんたちの直ぐ傍らにも直ぐに推定し確認できる類型地名が拾えるはずです。
武雄市 古川 清久
このページの上へ
お問合せ >>HOME