|
打ち水"という小さな"捨て水 |
|
夏の盛りに"打ち水大作戦"と銘打った"焼け石に捨て水"のイベントが行われています。
善意で行っておられる方を揶揄し文字通り"水を差す"ことは本意ではありませんが、これを国家機関(環境省、国土交通省、内閣府・・・)が本腰を入れてやりはじめるとなると、どう考えても政策の投げ出しと同時に無策の露呈としか言い様がありません。
これは一例です |
|
大都市の下水道は打ち水大作戦を応援します!!(お知らせ)
平成18年7月14日<問い合わせ先>
都市・地域整備局下水道部下水道企画課(内線34133)TEL:03‐5253-8111(代表) |
国土交通省のホーム・ページから |
|
|
|
このキャンペーンをやっているのが、大都市の地表から雨水までを奪い、ヒート・アイランド現象の原因者であり張本人であり続けている国土交通省の分枝である下水道部下水道企画課というのですから、「免罪符」としてならばいざ知らず、物理法則への基礎的な知識が無いのか、自分達がやっていることの意味がそもそも分かっていないのか?…としか思えないのです。
ましてや、「地球温暖化に冷房をやめて打ち水で対抗しよう!」などと、マスコミまでが巻き込まれて騒ぎ始めるや、まずは科学性のなさを嘆かざるを得なくなってきます。
既に、「CO2温暖化論」が全くのデマであったことが、クライムメート・ゲート事件により全世界的に明白になっていますが、恥を知らないのか?まだ、信じ込んでいるのか?このキャンペーンは継続されています。
それはともかくとして、二〇一三年夏、高知県江川崎41℃、山梨県甲府40.7℃、山梨県勝沼40.5℃…(私の住む佐賀県でも、過去、佐賀市で三九.六度という記録があったと思いますが)、いまさら"打ち水大作戦"をやったところで、温度が下がるのは一分足らずの瞬間に過ぎず、二度下がったと誇らしげな環境省の小役人も、その場凌ぎのパフォーマンスが終わって快適な部屋に戻れば、冷房の温度を閉庁まで二度以上は下げたくなった事でしょう。
もはや大半の水を一気に海に流し去り、あまつさえ、雨水の一部までも下水道で地下に流し込むことによって地表から水を奪っておきながら、温度上昇は「地球温暖化のためではないか?」などととぼけた話をしているのです。
この取り返しがつかないほどに破壊された都市の水循環と、その背景にある科学性の喪失にはそら恐ろしささえ感じるものです。
"打ち水大作戦"については、まずは大笑いというところですが、実は笑っていられるほど事態は楽観できないのです。
そもそも、これほどまでに都市の表面温度が上昇した事の背景には都市の乾燥化があるのです。
そしてその保水力を失わせ都市の砂漠化を促進したものこそ、道路を舗装し尽くし、末端水路から大型河川に至るまで、また、河川管理道路から歩道に至るまで、三面張側溝やコンクリート、アスファルトで覆ってきた国土交通省であったのです。
しかも、あれほどまでに不必要なダムを乱発したにもかかわらず、都市洪水を押さえ込むことさえもできずに、環境省からその外郭団体が"打ち水大作戦"とやらでお茶を濁すに至るや、また、挙句の果てに、"下水再生水を「打ち水」用水として市民に無料で提供する"というのですから、もはや、応仁の乱期、京の町で飢餓によって多くの民がバタバタと倒れていた時に、"能"だ"和歌"だと呆けていた足利将軍家のごとき優雅さと感じ入るばかりです。
こうしている間にも、大都市の片隅では、エアコンも使えずに熱中症で多くの民が倒れているのです。
私には、打ち水は環境省から国土交通省の官僚どもの顔にこそひっ掛けるべきであり、貴重な水の打ち捨ては断じてやめるべき(焼石に水)、打ち水に大量の予算を消費するぐらいなら、コンクリートを引っ剥がせ!打ち水よりは張り水を!もっと本質的な対策を取れ!としか言いようがないのです。 |
|
地球温暖化とヒート・アイランド |
|
さて、"CO2地球温暖化説は原子力産業から流された悪質なデマだ!"といった話は、「温暖化は憂うべきことだろうか」“CO2地球温暖化脅威説の虚構”(不知火書房)を世に問われた近藤邦明氏にまかせるとして、今回は"打ち水"からヒート・アイランドに関する話をしたいと思います。
ただ、その前に、現実に存在している温暖化傾向とヒート・アイランド現象とを分離し整理する必要があるでしょう。
もちろん、計量的な意味で、市民が感じている現実の気温の上昇の中からこれらの要素を分離する事は不可能でしょう。
これから書く事は、あくまでも経験に基づく推論でしかありませんが、最近の都市の気温上昇は尋常ではありません。
実際、私達が子供の頃これほどまでに暑さが辛いと思った事はありませんでした。
以前にも書いたことですが、小学校時代の夏の課題、"「夏の友」"とかいったものの日記を読むと、「今日は二九.五度すごく暑かった!」などと書いています。
まず、七、八月を通して三〇度を越える日は二週間を越えなかったように思いますし、ほぼ、毎日夕立が降り、夜も二五度以下にはなったために、本当に寝苦しい日は十日を越える事はめったになかったという記憶(印象)を持っています。
もちろん地方差や住宅環境の違いから一概に言えるはずもありませんが、五十歳代の方までにはある程度同意していただけるのではないでしょうか。
それが、最近のこのあり様です。確かに全体としての温暖化は事実でしょう(これはここ数年気象庁も認めるように低下しています)。ただ、主として都市部において夏の耐えがたい暑さになすすべもなく絶望し、大半の人々が"地球が温暖化しているのだから仕方がない"と考えて納得していることの相当の部分が実際にはヒート・アイランド現象によるものと考えています。
地球温暖化現象とヒート・アイランド現象とは一切関係がありません。
これは人間(主として行政)が人為的に自然に手を加えて(都市環境も歪な自然と考えればですが)水循環を変更したことから局所的に発生した温度上昇でしかなく、地球全体の平均気温、平均温度の上昇とは全く関係がないのです。
少なくとも、都市をこれほどまでにコンクリートで塗り固めさせず、これほどまでに水路を直線化させなかったならば、まだ、現在よりは地上の水分は保たれ夕立も消失せず、夏の暑さに耐えられずに倒れる人々は出なかったことでしょう。
ヒステリックなまでの"CO2地球温暖化説"の蔓延の背景には、地球温暖化とは全く関係のない、行政を先頭とし民間も含めた都市のコンクリート化、乾燥化と、一般住宅地におけるコンクリート化を放置した無策、さらには、草毟りをしたくない、溝浚えをしたくない、枝打ちをしたくない、また、それをできなくさせている都市住民から余裕を奪った現代資本主義社会の構造によって底上げされた"ヒート・アイランド現象"が背後に存在していることを見逃してはならないのです。
同時に、都市住民の生活に信じ難いまでの夏の暑さを持ち込んだ行政自らの無策を放置し"打ち水大作戦"や"地球温暖化論"でごまかす事を絶対に許すべきではないのです。 |
|
ヒート・アイランド現象の物理的基礎 |
|
@ 地下への捨て水 |
まず、大都市の乾燥化の原因の一つが下水道、上水道の完備、上下水を地下に持ち込んだ事にあると考えられます。
耐えられないまでのヒート・アイランド化が、ここ数十年前から発生している事を考えれば、上水道の整備までを敵視する必要はないうえに、いまさら御茶ノ水以来(将軍のお茶用に利用された湧水を江戸城に供給)の上水にまで引き戻す事は不可能ですから、一般的には上水を切り離して議論すべきかもしれません。
ただ、事実はそうだという認識だけは持っておくべきでしょう。
現在、下水道には雨水混入の合流方式と、雨水と汚水を別々の管路で流す分流方式がありますが、東京、大阪などの大都市ではほぼ百パーセントの普及率になっています。
しかし、これを単純に文明都市と考える人々は物事の一面しか見ていないことにしかならないのです。
最低でも生活雑排水を下水道に流し込んだ上に、唯一の雨水までも下水道に流し込み、水循環、温度循環を徹底的に破壊するようなことをやっていては都市のヒート・アイランド化をくい止めることなど始めからできないのです。 |
|
閑話休題 “土木を目指した人間” |
|
そもそも、都市のヒート・アイランド化などは自分たちとは無関係であり、それをくい止めることが国土交通省の任務とは考えていない(それは、打ち水大作戦を真顔でやっていることに認識がないことが証明しており、もし、そうでなければ、恥ずかしくて、人気取りだけのお祭り騒ぎなどやれないからで、彼らの通性からして、多分、ひた隠しにしていたはずなのです)こともあるのですが、自分たちがヒート・アイランド化の最大原因者=加害者になっているという理解がないことが最大の問題なのです。
「元々、土木をやる人間は成績が悪く、物理や化学が分からない連中だった」と、私の親密な東大卒の友人が言っていましたが、「よほどの馬鹿か、嘘つきだけが国土交通省で出世できるのだ!」と言ったのもその友人でした。
やはり、昔、陸軍、今、国土交通省、ですかね? |
|
A 都市河川の雨樋化 |
大都市の日常を賄う生活水の大半が上水道で持ち込まれ、再び下水道で地下から地下へと運び去られていることに対して、もう一つの水循環の要素としての雨水について、都市河川の問題として考えてみましょう。
大都市の場合は合併処理浄化槽の設置が困難な場所が多いために、ある程度の下水道化は仕方がないとしても、設置が可能な場合はできる限り処理排水を河川に還流させ(どこから来た水か分からないものを還元とか還流と表現するのは多少疑問があるかも知れませんが)、河川に滞留する表層水の絶対量を確保するべきなのですが、それ以前に、降った雨の大半をいち早く流し、海に捨て去る事しか考えていない現在の都市河川の整備のあり方にこそ最大の問題があるのです。 |
 |
深さ2メートルを越える典型的な都市型河川。大人でも落ちたら這い上がれない。 |
|
最低でもカラカラの放水路はやめるべきであり、ましてや地下の巨大放水路に至っては愚かとしか言いようがないのですが、現実はますます逆の方向に向かっているとしか思えません。
これには、付随して地下水の大規模な消失という話もありますが、本題には、ほぼ、関係がありませんのでこれ以上はふれない事にしましょう。
結局、大手ゼネコンが直ぐに税金を回収できるような形にしか事業の方向が向けられず、一般河川の表層水の滞留性(こんなものはある程度の低い堰や穴開き堰を造るだけでも直ぐに実現できるのです)を失わせ、河川周辺からも河畔林から土までも失わせ、見せ掛けの箱庭公園やセメントやモルタルで固めた親水河川公園で誤魔化しているのですから、その国土に対する敵対性は明らかです。
少なくとも、大都市の大型河川から末端の小排水路に至るまで、いち早く流し切ることしか考えていない河川整備=河川行政そのものをどうにかしなければ、都市の乾燥化は止まるはずがないのです。
多少、エピソード的ではありますが、その底流には、明治以来、江戸期の伝統的な河川技術を捨て去り、一挙にヨーロッパの河川工学、土木技術に移行したこと、また、特に戦後の河川行政がいち早く表層水を流し出すという河川管理方式を主流とする紀州流の治水方式の延長上に、遊水地、逸流堤防、蛇行河川を取り入れ、複合的河川管理を目指した関東流治水術が捨て去られた事にも原因があると言われているのです。 |
|
B 都市整備のありかた |
本来、大都市といえども水草がそよぎ魚の泳ぐ川が理想であることに変わりはありません。
しかし、全ての川にそれを求めることはもはや不可能でしょう。
もちろん今でも、地上に見せ掛けだけの伝統的河川を復活させる事はできますし、事実、部分的には行われてはいるのですが、それはあくまでも一部でしかなく、所詮は限定された金魚鉢に過ぎないのです。
ただ、これも、ヒート・アイランドに関しては有効ですから、それ自体を批判しても、ことこの問題に関しては、意味はありません。
仮に生物の存在しないプールであったとしても、温度を下げる事には役に立つのですから、"打ち水大作戦"なる"棄て水"を行うよりは、プール自体を長期間の打ち水効果を持たせる"張り水"(張り水大作戦を!)にするべきなのです。
ただ、縦割り行政は無関心と縄張り意識の制度化ですから、それを全く許さず、掃除や事故の責任回避の要請から、雨水で浅く水を張る事さえやろうとはしていないのです。
直接的な管理者は、「藻が付く」とか、「ボウフラが湧いて蚊が発生すると自治会から苦情が来る…」とでも言う事でしょう。
プールや、整備されつつある洪水調節用の遊水地に仮設の嵩上げ排水口を整備し、雨水で十センチ程度の深さで水を張るだけでも、それなりの効果が望めるのです。
こんなものは"打ち水大作戦2006〜"の宣伝経費の万分の一の費用も掛けないで可能になるヒート・アイランド対策なのです。
しかし、真面目な努力もせずに、新調した浴衣を着こんで、"打ち水"なるただの"捨て水"パフォーマンスで済ませるのですから、頭がおかしいとしか言いようがありません。
さらに付け加えれば、全てのビルの屋上緑化、壁面緑化と雨水による"屋上張り水"だけでも直ぐに都市の温度を恒常的に下げる事ができるはずですから、段階的に進めれば、十年と待たずして大きな効果が出てくるはずなのですが、全く手を打とうとはしていないのです。
結局、政治屋や官僚どもは、事業や行政施策を打つ事によって自らの支配力、影響力を拡大し、そこから利益(ピンハネ)が引き出せる場合にしか動こうとはしないのです。
恐らく大手ゼネコンを始めとして、自らの息の掛かった大手企業がそれを新たなビジネス・チャンスとして働きかけるまでは、決して自ら手を下そうとはしないことでしょう。
このため、屋上緑化、壁面緑化について既に技術を確立しているベンチャー企業や独立系の小企業には全くチャンスは与えられないのです。それが、我が国の行政実態なのです。 |
|
閑話休題 “後付けの賄賂としての再就職” |
|
ここ十〜二十年ほどで、各級の公務員の服務規律が異常なほどに厳格化されました。
このことによって、昔は普通に横行していた官官接待、業者との会食行為、歳暮の付け届け、転勤、転職祝金…は消え、非常に厳密な行政が確立されたかのように見えます。
しかし、往々にして厳しい取り扱いがされる場合は、陰で遥かに後ろめたい大規模な不正が行われているからであって、こっそりと大きな悪事を働くためには、末端の職員の規律が強化され、清潔であるように見せかけているからと考えるのが正しいでしょう。
土木行政の現場では、時折、見せしめと一般向けの宣伝として、目だって素行の悪い小役人だけが摘発されることがあるのですが、通常、土木行政の現場では直接的な金銭の授受と言ったあからさまな贈収賄はめったに行なわれはしません。
そんな方法を取らないで済むように、安全で実質的な不正が行なわれているのです。
事業で形成された施工業者と監督する立場に在る技術系職員との間に形成された親密な関係=良く言えば「信頼関係」は、当然にも退職するまで引継がれ、先行して天下りした上司の斡旋によって、法外な給与で安定した関連企業に再就職できるからです。
一般の労働者が退職後に十万円前後の低賃金で死ぬまで働かざるを得ない中で、役に立つ何のスキルもない元課長クラスが、三十万円前後の給与で再雇用されているのです。
実は、これこそが跡付けの賄賂であり、これにあやかるために、さもしい連中が、本来監督すべき企業の不正に眼をつぶり続け便宜をはかり続けているのです。
このようなことを防ぐために、公務員には一般と比べて多少優遇された年金制度が維持され、立派に監督することが求められていたのですが、最早、この意味は完全に忘れ去られたと言っても過言はないでしょう。
これが、市、県レベルの話とすれば、大手ゼネコンと繋がる国クラスの高級官僚がどのようなものかは、直接は見聞きしていないため、風評と想像の域を出ませんが、大方の見当は自ずと付こうと言うものです。 |
|
C 拡大するアスファルト舗装に手を打て! |
いまや、郊外型チェーン・ストアから、大型店を中心とするパワー・センターに至るまで、店舗や施設の面積に数倍する駐車場が広がっています。
これ自体はモータライゼイションがもたらした都市化による砂漠化に過ぎないのですが、それにしても打つ手は十分にあるのです。
最低でも、新規出店に際して駐車場の全部から一部(駐車スペースだけでも意味があるはずです)をレンガと土で整備させるとか、全体に透水性舗装を義務付けるとか(通常は重車両が入らないのですから強度は問題にならないのです)、これは、同時に都市型洪水に役立つはずですから直ちにやるべきであり、建築確認申請時に舗装の規制をすべきなのです(これは個人住宅、マンションについても同様です)。
それとも出店規制ができる立場にある旧通商産業省には温暖化もヒート・アイランドも一切関係がなく官庁が異なるために放置されているのでしょうか(建築確認申請は国土交通省所管なのですが?)。
同様に、今からでも一般企業の駐車場からラーメン屋の駐車場、マンション、行政官庁、公民館に至るまで、既存の駐車場の駐車部分だけでも切り出し、レンガや自然石と草(こんなものは土さえ残せば直ぐに生える)で駐車場を整備するだけでも、それなりの効果はあり、来店者、来場者も徐々に増えてくるはずなのです。
もはや、道路面積と駐車場面積比率はロス・アンジェルスなみに拡大しつつあるのですが、アスファルト舗装は砂漠以下の保水力しかない事にそろそろ気付き、本気で対策を考えるべきでしょう。
ただ、これも恐らく不可能かもしれません。結局は、民間主導で、“駐車場に木製ブロックや透水性舗装を施して木陰も増やしたら、涼しいからと来店客が増えたので、多少経費を掛けても環境を整備した方が得だ!”と、ならない限り実現的には不可能でしょう。
実際には、草むしりの経費、労力、時間を削減するために、逆に舗装化が進んでしまう傾向にあるのです。 |
 |
宮崎県名貫川渓谷 |
|
D 個人でできるヒート・アイランド対策 |
この問題を書く事にどれほどの意味があるのか多少の疑問もあるのですが、一人の個人的努力によっては、すぐさま全体のヒート・アイランド化が抑えられるべくもなく、この手の努力はある意味でボランティア的な趣味の領域、悪く言えばファッションや個人的「免罪符」の領域になるのかも知れません。
これには、不必要なコンクリート舗装部分を必要最小限度に落とす。
住居の側溝に隙間を造り浸透性にする。
同じく三面張りではなく底面に小石を詰め込んだものにする。
庭の隅に小さなバンカー程度の浸透型の窪みを造る。
屋根に降った雨水を貯留する掛け流しの水槽を造り、土日だけでも庭に掛け流す。
気取ったヨーロッパ風ガーデニングなど直ぐに止めて成長の早い木を植える。・・・・・・といった事があるのですが、草毟りや落ち葉掻きから溝浚いまでも嫌がる風潮が蔓延する限り、悪化するばかりとしか考えられません。 |
|
E 公園、街路の整備のあり方について |
鎮守の森とは異なり、公園は実質的な余剰地ですから、ある意味で放置し本来の植生に戻しできるならば復林させること。
どうしても公園にしたいのであれば、土建屋と天下りの連中だけが金儲けできるようなヨーロッパ型の乾燥した公園ではなく、在来の森や林に近いものにすべきと考えるのですが、公園行政においてさえ、行政が管理しやすいように表面から土を奪い尽くし、コンクリートで固めてしまいかねない勢いなのですから嘆かわしい限りです。
そもそも、日本には公園はありませんでした。
日本最初の公園がどこであったかまでは関心が無いのですが、後楽園(岡山県)、兼六園(福井県)、偕楽園(茨城県)といったものは、あくまでも池田家、水戸家、前田家といった藩主の私的な庭に過ぎず、寺社の庭園から天皇家や公家のそれに至るまでパブリック・ガーデンではないのです。
この奇妙なものが日本社会に持ち込まれたのも、明治の欧化政策によるものでしかなく(公園という言葉さえも明治以前には存在しないはずであり、ただの明治期の急造された造語=テクニカル・タームでしかないでしょう)、民衆は絶えず田畑や山林を這いずり回らなければならなかったのであって、むしろ、自然と接することを疎ましくさえ思っていたのです。
このため日本に持ち込まれた公園はヨーロッパ起源のものでしかなく、噴水を配した幾何学的な設計で芝生や樹木まで規則的に刈り込むなど、およそ、日本の伝統的な庭園とは全く異なったものなのです。
従ってこの延長にある公園が、もはや日本の風土に合ったものではないことは明らかであり、いまだに現在の公園のあり方には違和感を抱き続けています。
結果として、扁平なヨーロッパ庭園のイメージで、土の部分がどんどん減らされ、保水力を失った庭園が造られ続けているのです。
最近では落ち葉さえも嫌われ、ネットで木全体を覆い、枯れ葉も集めてゴミ袋に入れて持ち出されてしまうのですから、水循環はおろか、栄養、ひいては物質循環までもが失われていくのです。
このような愚かな事を続ければ、水は元より、最終的にはミネラルまでも失い公園の木はいずれ育たなくなることでしょう。
少なくとも「落ち葉だけでも公園の土に戻せ!」と言いたいのですが、行政は何も気にしていないようです。
「落ち葉ぐらいで何を大げさな…」と言われるかもしれませんが、なぜ、このような事を問題にするかと言うと、大都会でも限られた土が残る公園に於いても、落ち葉が土に戻り、腐葉土が豊かになり、昆虫から野鳥や犬猫までもやってくるようなところほど栄養が豊かになり(糞尿や屍骸も含め)草木が繁茂し保水力を維持するからです。
そもそも、落ち葉まで産廃用の袋に入れて出すようになったのは、産廃業者の利権構造に行政から各級議員(いわゆる町会議員=チョッカイ議員)や、末端の自治会長までが巻き込まれているからなのです。
環境!環境!と声高に叫ぶ環境おばさんも、いたく犬の糞拾いに熱心で、それを批判すると馬鹿げたバッシングを受けるのですが、こんな連中は環境など全く分かっていないのです。
間違っても"犬の散歩で糞公害だ"などと訳もわからずに大騒ぎしてはならないのです。
袋と小型のスコップを手に散歩する愛犬家ほど哀れなものはないものです。 |
|
F 環上の雲 |
「都市の廃熱自体はヒート・アイランド化の原因ではない」などとまでは言うつもりはありません。
ただ、太陽から受け取る熱に対して人間が消費する熱の絶対量はそれほど大きい訳ではなく(日本のエネルギー消費量は国土のすべての平地が太陽光から受け取るエネルギーの4%程度/『地球環境・読本』)、大都市が多少は割増になっているとしても過大に評価する事には慎重でなければなりません。
しかし、そうは言っても人間の感情というものはそれほど客観的なものではない以上、一応は考えておく必要があるでしょう。
エアコンの室外機の取り付け方向で隣と争いになるのが人間なのですから、この要素は無視できないのですが、論理的に言えば、本来、この怒りは国土交通省にこそ向けられるべきなのです。
「環七、環八などの低速で走る高速道路上には環状の雲が掛かっていることがある」という話を聞いたことがあります。
文字通り、環状(環上)の雲なのですが、普通は"高速道路で渋滞を続ける大型トラックなどから排出された熱によって上昇気流が発生し、それに併せて地上の水分などが持ち上げられ、上空で冷やされて雲になっているのだ"と説明されるのでしょう。
しかし、良く考えれば、もはや国土交通省が引き起こした乾燥化によって、地表には水分がなくなり、排気ガスの中に含まれている水蒸気が上昇して雲になっているのであって、国土交通省の馬鹿官僚どもによって地下に流し込まれた雨水は、既に都会の上に掛かる雲には寄与していないのではないかと思うほどです。
"都会の人間が秩父の天然水を飲み、汗を掻き、その水分とサウジアラビアの地下から運ばれてきた石油に含まれる水素成分が燃えて水になり、雲になっているのではないか(まさに物質循環の決定的破壊ですね)?"などと妄想を重ねているのですが、これは確たる根拠のある話でありませんのでそのつもりで読んでください。
ちなみに、炭や石炭を燃やしても、主要には二酸化炭素しか出ませんが、石油や天然ガスなどは炭化水素であり、燃やせば二酸化炭素ばかりではなく水が発生するのです。 |
|
閑話休題 “備長炭” |
|
分かりやすい炭火焼の話をしておきましょう。
備長炭がもてはやされる時代ですが、備後屋長兵衛が焼いた炭であろうが、インドネシアから輸入された木炭だろうが、成分は炭素だけですから、燃やしても二酸化炭素が出るだけで、水蒸気は一切出ないのです。
このため食材は蒸し焼き状態にならず、表面がカラッと仕上がり美味しいのです。
燃やすと、同時に水分が発生するガスなどで焼いたウナギや鮎が美味い訳はないのですが、それはあくまで財布との時間との相談ということになるのです。
フル・タイムのパートという言語的にも意味不明の労働を強いられる忙しいだけの人達に、手間、暇を掛けた調理法を要求しても、それは土台無理と言うもので、結局、本当に美味い食べ物は知識を持った金持連中だけに許される贅沢なのです。 |
|
再び「環上の雲」続き |
もしも、環状(環上)の雲から本当に雨が降るのであれば、悲しい話ではありますが、都市の人間は、渋滞し低速で走る高速道路に感謝しなければならないのかもしれません。
このように、大都市の水循環は既に空から降った雨が蒸発して雲になり、再び、雨となって地表に戻され、その循環過程の中で熱を上空に放出するという普通の水循環、熱循環が崩れかけているのではないかという事も考えておく必要があると思うのです。
既に、大都会で大雨が降ったとしても、その水は国土交通省によって雨樋化された直線河川によって一気に海に送り出され、大雨が上がれば地表は直ぐに乾燥化するような世界に変えられてしまっているのです。
このため雨水は大都市の上空に雲を生み出す水の供給源とは言えなくなっているのではないのかも知れません。
その一つが、奥多摩などを起源とする水を地下の上水道管などで受け取り、消費した残り水の大半を下水として地下の下水道管に流し込み、雨が降っても巨大地下放水路や下水道管に送り込んでいるのですから、既に大半の食材からミネラル・ウォーターに至るまで、大都市では自ら何も生み出せないのであり、遠く離れた土地の水が大都市の人間の汗や息として雲になっているのではないかと考えることは、あながち誤りとも言えないのです。
してみると、環七、環八に掛かる環状の雲、つまり環上の雲とは大都市の縮小した水循環の最後を象徴しているように思えてくるのです。
このような愚かな国土にした連中は国民に土下座し謝るべきなのですが、いまだに悔い改めそうにはありません。 |
|
消えた夕立 |
|
こんなことは三、四十年前までは全く無かったことですが、夕立が極端に減っていることと、ヒート・アイランド現象は確実に対応しているように思えます。
夕立が降らないと地表は冷やされず、夜も全く気温が下がらず熱帯夜が続いていることも、大半はこれが原因でしょう。
では、なぜ夕立が減っているのでしょうか?
言うまでもなく地表の保水力が失われ、私は、表層水と呼んでいるのですが、地上に滞留する水の絶対量が減っているからに外なりません。
まず、ジャワ島などの熱帯性スコールとは灼熱の太陽によって蒸発した地表の水分が軽くなって上昇し、再び、上空で冷やされ雨となって地表に返されているものなのです。
しかも、減ったとは言え、地上にはジャングルや水田が広がり、常時、水が溜められているために、次の蒸散によって気化熱が奪われ、地上の温度を低下させ、再び次のスコールにバトン・タッチされていくのです。
今や熱帯と化した都市においても、物理法則は同様に働くはずですが、もはや都市の地上には水がなくなっているのです。
それでなくとも下水道によって恒常的な水循環が破壊されているのですから、言わずもがなでしょう。
大都市のヒート・アイランド現象はエアコンの廃熱や車の排気ガスなどが原因と考えている人も多いのかもしれませんが、本当に重要な事は都市のコンクリート化や下水道の整備などによって地表から水が消え、従来の水循環、熱循環が破壊され地表の熱が高空に放出されにくくなっているためなのです。
夕立とは言わば上空と地上との間で行われる水のキャッチ・ボウルであり、夕立の消失はボウルそのものの減少の結果でしかなく、大都市のヒート・アイランド現象とは都市の乾燥化によってもたらされた夕立の消失と、その結果としての新たな乾燥化であったのです。
結局、都市の乾燥化とは夕立の消失が原因であり同時に結果でもあるのです。
まさしく、夕立の消失は天恵としての最良の排熱(余計な熱の放出)の放出システムの破壊であり、それをもたらしたものこそ、河川の雨樋化と雨水の地中化(地下への浸透なら良いのですが、下水道への流し込み)を推進している国土交通省なのです。 |
|
農村のヒート・アイランド |
|
では、農村や地方都市はどうなのでしょうか、実はここでも目だって夕立が減少しているのです。 |
|
@ 田畑のヒート・アイランド化 |
まず、大都市に住む方々があまりご存じない話から始めましょう。
四、五十年前までの農村には、まだ、牛や馬による"荒起し"や"代掻き"が残っていました。
しかし、その後のテーラーからトラクターそして大型トラクターの導入によって耕耘の形態は大きく様変わりしたのですが、実は、この機械の導入によって、田、畑は非常に大きく変わってしまったのです。
機械による耕耘は、深くても一〇〜一五センチメートル、一般的には労力と燃料代を軽減するために一〇センチ程度しか耕せません。
牛馬耕の場合は二〇〜三〇センチの深耕も可能であり、事実そのような湿田も非常に多かったのですが、機械による起耕が大半になると、機械を使い易くするために、全国で展開されたほ場整備事業に併せて乾田化が進められたのです。
農家の大半が兼業化するようになってくると、省力化のために用排路は溝浚えや草刈をしなくても済むような三面張りのコンクリートで固めた側溝に変えられ、雨水はたちどころに河川から海に押し出されて行きますし、乾田化を喜ぶ農家もそれを歓迎したのです。
ほ場そのものも、「田畑の切替ができるように」という振れこみで、コルゲート・パイプを中心とする暗渠排水がほとんどの田畑に施工されたのです。
このため、大半の農地はゴルフ場と変わらないような、非常に乾燥しやすいものに変えられてしまったのです。
もちろん、稲が植えられているのですから夏季は水が張られていますが、既に、減反は三割から四割に達し、耕作放棄の増大もあって、事実上は半減し、日本全体で考えれば、静岡県以西の農地では全く米を作っていないのと同じ状態が出現しているのです。
耕作放棄も進む中、転作田は畑として大豆など植えられますから、乾燥化は一層進んでいるのです。
また、七夕コシヒカリなどっといった、夏季には刈り取る稲まで栽培されていますから、夕立が必要な季節には水が落とされているのです。
その上に、農地の転用などによって耕地面積そのものも減少しているのですから、乾燥化は止まるところを知りません。
恐らく、全国の水張り面積(純然たる水田の面積)そのものは、減反が開始されて以降、全国的ほ場整備事業の完了もあって、それ以前と比較すればほぼ半減していると考えてまず間違いないでしょう。
このため、農村部や地方の都市部においても河川の直線化、雨樋化は同様に行われているのですから、大都市部と同様の乾燥化が進んでいるのです。
従って、地表が熱せられて蒸発する水蒸気の絶対量が減少し、飽和に至るテンポ、ピッチが落ち、夕立の減少から消失へと突き進んでいるのです。
農村から地方都市においても、夕立による水循環、従って熱交換も破壊されていると考えて間違いないのです。 |
|
A 山のヒート・アイランド化 |
変化は、山でも起こっています。
針葉樹林の増加による保水力の減退、砂防工事などによって進む水路の三面張り、不必要な林道工事などによる山林自体の乾燥化(林道の道路側溝は平地まで続く雨樋に等しいのです)により、山林表面の水の絶対量が減少し、山においても水のキャッチ・ボウル(水の循環)が減少していると想像するのですが、私自身が山林に住んでいるわけでもなく、また、都市、農村、山林、海洋での降水量の系統的調査資料などあるはずもなく、推測の域を出るものではありません。
ただ、針葉樹林化による山林の乾燥化、砂漠化という問題は都市部に住む方々には非常に分かりにくいと思いますので、過去何度も書いてきたことですが、多少の説明を加えたいと思います。
自然林(こんなものは事実上存在しませんが)であれ二次林であれ、本来の植生に根ざした広葉樹の山というものは、長年月の間の台風や豪雨、暴風、山火事、地震など、想像できるありとあらゆる災禍を経験したことによって、その山体の傾斜さえも幾度もの大きな崩壊を経てそれなりに安定したものになっています。
広葉樹はオーバー・ハングの急峻な岩場の割れ目にさえも根を張り、垂直の壁にへばり付いても幹を支えます。それに背丈も低く、樹体自体もしなやかであるために、風雨にも強く、広く根を張ることによって水も土も保ってくれるのです。 |
 |
昼なお暗い手入れのされていない針葉樹林。下草は生えず、ほとんど腐らない杉の葉に覆われているが、根を張る草ではないので土壌を守る力がない。 |
|
これに対して全く逆なのが針葉樹林です。
本来、針葉樹はシベリアのタイガのような、それほど風も吹かない安定した高緯度高圧帯の平地から緩傾斜地帯で育つものなのです。
そもそも、このような樹種を日本のような急傾斜地に植えることが始めから誤りといえば誤りなのです。
一般的に、造林地は広葉樹の森を皆伐してスギ、ヒノキを植えるのですが(短期皆伐方式)、その傾斜は広葉樹の森であったことにより長年月の間に安定したものになっているものであり、戦後に急造されたような、にわか仕立ての針葉樹林を造るのに適した斜度ではないはずなのです。
根を張らず、豊かな腐葉土も形成しない針葉樹が傾斜地に存在しているだけでも、雨の大半を一気に海に流し込んでいることが想像できますが、実はもっと空恐ろしいことが起こっているのです。
それは、現実に存在している針葉樹林の大半が間伐も枝打ちも行われないために、林の中は昼でも暗く、陽がささない地面(林床)には、草も生えていない剥き出しの表土が広がりその大半が流出しているのです。
この現象は少子化と国民の所得の低下による住宅着工件数の半減と、住宅のプレハブ化によって、輸入された米マツによるパネル工法が蔓延し、現実に、杉、桧を使う在来工法による和風建築が激減する二十〜二五年ほど前から起こっていたのですから、都市の住宅が、ほぼ、鉄とコンクリートとガラスとプラスティックで造られるマンションに移行していることと併せて考えれば、全国の杉、桧はその一部を除いて、三〜四十年前ほど前から材価は劇的に低下し、ほぼ、売れなくなっていたと考えてまず間違いないでしょう。
このことから、七〜八〇年代から間伐も枝打ちも行われないまま、放置されていたと考えられるのです。
この結果、山の土壌は大雨のたびに流れ出し、事実上は石ころ砂漠の上に林が乗っているだけになっているのです。
砂漠に保水力が無いのはあたりまえであり、山の乾燥化が驚くべき状態にあることは自明でしょう。
このように書くと造林の正当性を強弁する林野庁や林業関係者から反論が聞こえてきそうですが、この問題に対する直接的な説明という訳ではありませんし全く目立たないものでしたが、国も認めざるを得ない新聞記事がありましたので紹介しておこうと思います。 |
|
「保水力の調査自然林が優位」川辺川「緑のダム」構想がそれです。「国交省の川辺川ダム計画(熊本県)の代替案『緑のダム』構想を検証するために、同省とダム反対派が共同で実施した林の保水力の調査で、川辺川上流の人工林の斜面を流れる水量が、自然林の約六倍であることが分かった。研究者は『自然林の保水力の優位性を裏付ける』と主張。同省は『雨量全体から見れば差は無視できる』としている。」 |
(二〇〇四年一〇月二日付け朝日新聞) |
|
|
|
今もそうなのですが、行政当局の林野庁は"針葉樹林と広葉樹林の間には著しい保水力の差や地下への浸透能の差は認められない"としているのです。
元々は広葉樹の森によって創られ、育まれた土壌を利用して成立した針葉樹林をもって、土壌保持力にも大差ないと強弁してきたのです。
戦中、戦後を通じて禿山化による洪水の急増(激増)によってダム建設が始まり(多分戦前、戦中までは発電用などの利水ダムはあっても、洪水調節用のダムというものはほとんどないと思います)、その後も造林と称して広葉樹を伐採し続けた結果、山のダム機能は失われることになり、洪水が頻発することになりました。
このため、山からの土壌流出は歯止めが掛からなくなり、上流にダムがない水系の河床底では土砂が堆積することによって、逆に、洪水の危険性が増すことになっているのです(国土交通省の見解ではダムによって全国的なレベルでは河床底は削掘によって、むしろ、河床底は下がっているとされているようです)。それはそのとおりでしょう。それだけダムが多いということなのです。
こうして、農水省が自ら破壊した森によって発生する洪水を一時的に止めるために(直ぐに埋まってしまうのですから地場の土建業者に仕事を与え続けているだけなのです)、治山と称して砂防ダムが乱発され、旧建設省もこれを奇禍としてダム建設を常態化させるに至ったのでした。
記事には「緑のダム」構想とありますので、恐らく広島大学の中根周歩教授などが関与されているものと思うのですが、林野庁としては認めたくはないが認めざるを得ない身内から証人が出てきたような思いでしょう。
私の目からは、現在の林野行政というものは、もはや国家のためでも、国土のためでも、山林所有者のためでもなく、林野行政担当者、森林組合職員、結果的に補助金を受ける林業者や砂防ダム、林道その他の建設業者のために存在しているように見えるのです。
少なくとも、"自分たちは森を育て国土を守る良い仕事をしているのだ"などといった、思い上がりとも錯覚とも言えぬ愚かで誤った思い込みだけはそろそろ払拭してもらいたいものです。
これがもし"林学なのだ"と言うのであれば大笑いとしか言いようがありません。
彼らを全て首にしたいところですが、彼らには敗戦後まで残されていた豊かな広葉樹の山を復元する義務が残っているのです(もちろん、針葉樹林に火を掛けて放置した方が、よほど早く確実なので、首にしても一向に構わないのですが…)。
このままにしてもらっては五、六年前の九月に宮崎で発生したような大規模な森林崩壊(土砂崩れというにはあまりにも規模が大き過ぎる、百万本の杉、桧が倒れた宮崎市田野の管理された国県有の造林地)が、今後も頻繁に起こり続けることになるでしょう。
もはや、疑うべくもないはずですが、全国の大半の針葉樹林は大規模に土壌を喪失し、決定的に保水力を失い、山においてもヒート・アイランド化は進んでいると考えるべきなのです。
仮に森林行政、林野行政に携わる人間が「山仕事は暑くて辛い」などと言っても、「それはおまえ達のせいだ」と言わざるを得ないのです。
もはや"ヒート・アイランド現象"は都市部だけの問題ではないのです。 |
|
責任を取らない縦割り行政 |
|
ヒート・アイランド現象は環境省所管とでもされているのでしょうか。
そもそも、人為的に自然を改変した事によって引き起こされた自然のしっぺ返しであるヒート・アイランド現象が、事実上のお飾りで何らの実質的権限を持たない環境省の所管とされているというのも非常に奇妙な感じがします。
それはともかくとして、その意味の底流には、どうもこの現象を"自分達の責任ではない、どうにもならない天災とか異常気象(これは二十五年とか三十年に一度しかないような現象という基準があるのですが)といった側面で捉えているのではないか"という印象があるのですが、これは私の感性によるものでしかなく一般的に説明できないものです。
ただ、そうでもなければ、これほど深刻なテーマに対して、「打ち水大作戦」などというあれほど軽い感覚の気楽なお祭り騒ぎができるはずがないと思うからです。
もとより、国土交通省は治水などが仕事であり、厚生労働省は安定して良質の水を供給することが仕事でしょう。
また、林野事業は農水省の仕事とされています。環境省は実際に何をやっているのか具体的なイメージさえ湧いてきません。
恐らく、国土交通省は自分達がやってきたことがヒート・アイランドの最大の原因になっている事を全く自覚していないでしょうし、森や農地を守ってきたと信じ込んでいる農水省が、ヒート・アイランドの一部を担いでいるなどと言われると、「何を馬鹿な!」と言う事でしょう。
とりあえず、大都市においては戦前にもかなり水道は行き渡っていたわけですから、ヒート・アイランドには大きく関与していないことは間違いないと考えられ免責するとしても、雨水を溢れさせずに一気に流し去る事が害悪になるとは全く無自覚だったはずであり、仮に一部で理解している優秀な官僚がいたとしても、それが顕在化しない限り、決して責任とか対策とかいった事には動かなかったはずです。
結局、それは彼らの所管ではないからです。
恐らく現在までの都市河川や下水道の整備はヒート・アイランド現象が、まだ少し暑い夏とか小さな気象異変といった程度で済まされていた時代からの延長上に行われていただけの事でしかなく、目に見えないように徐々に引き起こされる大規模な環境破壊は、罪とされもしなければ、自らの失策でもないと考えていることでしょう。
本来、国家はこのような事に対処するために高給を支払い、非生産的であっても、優秀な人材としての官僚を雇い、学識のある科学者や研究者を維持しているはずなのですが、国家権力に協力するだけの御用学者や国家機関の個別的な省益だけに奉仕する学問を商売と考えるようなつまらない人間だけを重用するようになると、もはや誰一人本当の事を告げず、発言せず、このような取り返しのつかない愚かな破壊をもたらす事になるのです。
結局、最後に苦しむのは彼らを含む国民なのです。
大都市であれ、農地であれ、山であれ、地表や地中に豊富な水がありさえすれば、熱せられた水は気化する時に周辺から潜熱として熱を奪い地上を冷却します。
さらに地表で熱せられた空気は軽くなり水蒸気と共に高空に上がり、そこで冷やされて熱を放出し、水蒸気は雨として地表に戻り周囲を冷します。
同様に空気も冷やされて冷たい下降気流となって地表に戻ってくるのです。
低気圧(上昇気流)の去った後に高気圧(下降気流)が来ると涼しくなる事は皆が経験的に知っている事ですが、これも同様の現象なのです。
ただ、日本は海に囲まれた細長い国土と複雑な地形を持ち、風の影響も受けやすいために影響が比較的緩和されているのです。
東京においても大きく湾入した東京湾のおかげで灼熱の地表にはならず、破壊が最終段階まで進んでいないのかもしれません。
当然にも、沖縄の那覇が三〇℃程度なのに東京近辺が四〇℃なのは、周りが海であるからなので、これだけでもCO2温暖化論がデマでしかないことが明らかなのです。
それとも、沖縄はCO2の濃度が低いとでも言うのでしょうか?
まさか、このような物理学の基礎的な知識もない、土木しか知らない土建屋議員程度の頭しかない人間しかいないとも思えないのですが、国土交通省の人間にもヒート・アイランド現象に関する槌田教授や近藤邦明氏の著書などを読んで欲しいと思うものです。 |
|
タコマ橋の教訓 |
|
「土木しか知らない」などと罵倒した国土交通省の技術官僚の誰れもが知っているはずの"タコマ橋の教訓"という有名な話があります。
これは、一九四〇年、合衆国ワシントン州に造られ完成したばかりのタコマ橋という吊り橋が、僅か一九m/sの風によって発生した自励振動(渦励振)によって揺さぶられ、撓み、捩れ、瞬く間に崩壊して川に落下したという当時としては予見しがたい橋梁設計上、構造上の失敗とされているものですが(計算上六〇m/sの風までは耐えられるとされていたのです)、その後これを教訓として、長大橋では風に対する動的な安定性を考慮した設計を行うようになり、この種の橋梁崩壊は、以後、発生しなくなったとされています。
これはその橋が大きく揺れ崩落していく過程が鮮明な映像で記録されていることもあり、橋梁設計では非常に有名な話です。
失敗は、それが失敗と認識される事によって教訓に変わり、改良や改善に繋がる事になるのですが、国土交通省はもとより、環境省までもがヒート・アイランドを自らの責任と認識していない限り、今後とも大都市の熱禍は続き、国民は苦渋を飲まされつづける事になるでしょう。
かつて、森林に恵まれたスペインは大量の木材を切り出し、海賊紛いの大艦隊(アルマダ)を造り世界の海を制覇しましたが、跡には砂漠だけが残り、首都マドリードは気温五〇度にもなる灼熱の乾燥都市に変わりはて、国力を落とした末に没落しました。
石灰石に恵まれ豊かな森林を持った日本も、大量のセメントやコンクリートで固め続ける山賊ならぬ"ならずもの集団"としての土建勢力を生み出し、早晩滅び去る事になるでしょう。そして、同じように灼熱の乾燥都市を残す事になるのです。 |
|
最後に |
|
"温暖化を憂うべきか"どうかは置くとしても、ここ数十年余り、日常で体感する温度が徐々に上昇している事は観測結果によっても、また、生活実感によっても認識できることであり、それ自体を否定する人はないのではないかと思います。
一方、大都市ばかりではなく日本の国土の大半でヒート・アイランド現象は劇的に拡大してきたと考えられます。
このため、同時に進行している温度上昇という二つの現象を考える時に、一般的にはこの温度上昇がどちらによって引き起こされているのか、また、その主たる原因がどちらにあるのかといった事については、計量的に分離する事は非常に困難なことなのです。
大都市、地方都市に住み熱帯夜に苦しんでいる大半の住民にとっては、自分がはたしてヒート・アイランドによって苦しんでいるのか、CO2による地球温暖化によって苦しんでいるのか?ということが事実上は理解できずに混乱状態にあるように見えます。
二酸化炭素地球温暖化説(温暖化は事実としても二酸化炭素の増加によってそれが引き起こされているというのは誤りという以上にデマと考えています)に基づく予測では、平均気温が2〜4℃上昇するとしているのですが、平均気温の上昇としても、現在、大都市部で起こっている温度上昇は、この程度のものではないという実感をどなたもお持ちだと思います。
従って、現在、大都市に住む人間が苦しんでいる要素の相当の部分が国土交通省に大きな責任がある都市の乾燥化によるヒート・アイランドにあり、ほとんど地球温暖化によるものではないと考えるべきなのです。
行政は、ここ三、四十年で大規模に手を加えてきた都市の水循環の変更により多発し始め、今や取り返しがつかないまでに常態化させてしまった人為的なヒート・アイランド現象を棚に上げ、あたかも化石燃料の大量消費やエアコンの大量使用による都市の廃熱などの延長上にCO2地球温暖化も存在しているかのように描こうとしているようです。
繰返しになりますが、ヒート・アイランド現象は水循環の切断による熱循環の変調が局所的に発生して起きているものであり、地球温暖化とは全く関係がないのです。
また、"CO2地球温暖化脅威説"は原子力産業が自らの存続のために持ち込んだ悪質なデマなのです。何度も言うことですが、二酸化炭素は温暖化によって海水中から大気中に放出されているのであって、二酸化炭素の濃度が上がっているから温暖化しているのではないのです。
「環境問題を考える」“環境問題の科学的根拠を論じる”というホーム・ページの管理者である近藤 邦明氏の新著「温暖化は憂うべきことだろうか」CO2地球温暖化脅威説の虚構 近藤 邦明(不知火書房)においてもヒート・アイランドに関する部分がありますので、その一部を紹介しておきましょう。 |
|
3-3 水循環の破壊がもたらす砂漠化 |
|
水循環の破壊は、栄養循環の直接的な破壊とも密接に関係しています。 |
|
農業による砂漠化 |
森林を伐採して乾燥農法(乾燥地で灌漑を行わない農法)による大規模農地を作れば、地表が乾燥し水の蒸発量が減少します。大規模な焼畑による農地の確保も同じです。乾燥地の灌漑された農地では広範囲で塩害が発生しています。また、化学肥料の多投によって土壌の団粒構造が破壊されて保水能力が低下すれば、少しの雨で養分が洗い流されることになります。
これらの農地はやがて耕作不適地となって放棄され砂漠となります。一旦砂漠化すると、太陽放射に対する地表の反射率が大きくなり、水の蒸発量が減ることとの相乗効果で砂漠上空は安定した高圧帯となり、ますます雨が降らなくなります。 |
|
都市による砂漠化 |
都市化の進行に伴って、都市部の地表は不透水性になっています。降雨は地表には浸透せず、大規模下水道を通って短時間で海へ捨て去られます。人口密度の高い都市を養うために遠隔地に用水ダムが建設され、収奪的に都市に給水が行われることになります。
ダムに大量の水を溜め込めば水質が悪化し、ダム下流の河川流量も減少します。こうしてダム建設地周辺の水循環は破壊され、同時に生態系も破壊されます。巨大なダムは空気中に大量の水蒸気を供給することになります。水蒸気を含んで軽くなった空気は上昇気流となり、さらに周辺から水蒸気を含んだ空気を吸い寄せることになります。もし周辺が半乾燥地帯であれば、砂漠化の進行を助長することにもつながります。
ダム〜連続堤による治水システムは、大量の雨水を速やかに海へ流し去ることを目的としたものです。河川断面積を大きくし、蛇行した河道を直線的に変更して動水勾配を大きくすると共に、河道をコンクリートで被覆することで表面粗度を小さくします。こうした構造物は堤内地との水循環と物質循環を遮断するもので、その結果として生態系の栄養循環は貧弱なものになります。 |
|
 |
|
 |
「温暖化は憂うべきことだろうか」 |
|
「有明海異変」 |
近藤 邦明(不知火書房) |
|
古川 清久 米本 慎一(不知火書房) |
|
|
不知火書房 |
〒810-0024 福岡市中央区桜坂3-12-78 092-781-6962 |
|
|
『CO2温暖化説は間違っている』 槌田 敦著 のご推薦 |
「温暖化は憂うべきことだろうか」CO2地球温暖化脅威説の虚構 近藤 邦明(不知火書房)は好調のようですが、先行して出版されている槌田 敦教授の新著にも一部ですが、ヒート・アイランド現象に関する記述がありますのでご紹介しておきます。 |
|
・・・地球に存在する大気の循環では、水は地表の熱を得て蒸発して大気を湿潤にする。この湿潤大気は地表からの伝熱も引き受ける。このようにして湿潤大気となって上昇し、地表から得た熱30を大気上空に運び上げ、そこでこの熱を宇宙に放出して冷却され、乾燥大気として下降するという物質循環になっている。・・・水蒸気は、このように温暖化ガスであってもCO2とは違い、地表と大気に対流を引き起こし、大気を冷却する働きをすることは重要である。この「水冷」と「空冷」機能が、地球を第2種定常開放系(63頁参照)にし、生命の存在を許しているのである。・・・ |
|
・・・都市の暑くなる原因を都市の発熱量の大きさだけに求める人は多いが、放射冷却、空冷、水冷という機能がしっかりしていれば、簡単に除熱されるから問題ではない。ところが、これらの冷却機能を失った都市は、蒸し暑い灼熱地獄になるのである。・・・ |
|
|
|
詳しくは同著を読んでください。
『CO2温暖化説は間違っている』 槌田 敦著 (ほたる出版) |
発売元 星雲社 東京都文京区大塚3丁目21−10 03-3947-1021 / 1,200円 |
|
内容は実に明快です。一般の読者を対象に分かりやすく書かれていますので、私のような素人にもクリアーなイメージがストレートに入ってきます。槌田教授、近藤邦明氏の著書については正確なコメントをする能力がありませんので、詳しくは近藤邦明氏のサイトを読んで下さい。 |
|
熱 禍 (打ち水するより、コンクリートを引っ剥がせ!) |
有明海・諫早湾干拓リポート編集長 古川清久(元自治体職員) |
|
熱 河(ネッカ) |
|
私が勝手に創り出しただけのものですが、ヒート・アイランドの意味を持たせた造語で「熱禍」(ネッカ)と読みます。
"ネッカ"と言えば、ついつい満洲事変から支那事変の泥沼に引き摺り込まれるきっかけとなった満洲(国)の一省、熱河省を巡って行われた「熱河作戦」(*)を思い出してしまいますが、これについて書き始めては、最初から脱線になってしまいます。
ただ、敗戦から七十年を経て、ひとりよがりの国土交通省の官僚によってもたらされたヒート・アイランドという名の新たな敗戦(国民が蒙る災禍を敗戦と言うならば)を思う時、「熱禍」から「熱河」を思い浮かべる事に全く必然性がない訳でもないのです。
まず、ヒート・アイランド現象は人間の手ではどうしようもない天災とか異常気象、さらには天変地異とかいったものでは全くなく、ここ数十年で到達した国土交通省を先頭とする国家機関(農水省など)の暴走(かつての武藤章や牟田口蓮也といった連中が引き起こした陸軍の暴走)によってもたらされた人災、国による国土、生活環境の決定的破壊でしかないのであり、この無能極まりない国家機関という国民と国土への敵対者=国賊によって引き起こされた第二の敗戦に等しいものなのです。
"禍"は"わざわい"であり、鬼のなす業(ワザ)のハヒ=ありさま のことですが、人間というよりも国土交通省のもたらした災難のことを意味するものと思っていただいて構いません。
それはともかくとして、前段の「"打ち水大作戦"の大間抜け」がヒート・アイランド問題の総論とでも言うべきものであった事に対して、今回は、国土の再建に向けた各論になるものであり、さらに下世話な話をしたいと思います。 |
|
熱河作戦 : |
満洲国は満洲事変により中国東北三省、内蒙古(熱河省)に成立した植民地国家(私は本来、満洲は満洲族の国土であって漢族のものなどではないと考えており、"日本が中国を侵略した"といったありきたりの議論に単純にくみすることはしません。満洲が中国の領土であるという議論は歴史を鵜呑みにする人間の言う事でしかなく、傀儡政権といった政治的な意図を持った蔑称は使いませんが)でした。その熱河省の主席であった汪兆銘派の湯玉麟(トウギョクリン)は張学良と通じ、熱河省奪還のための抗日軍を組織して侵入を繰り返します。このため、一九三三年、関東軍は熱河作戦を発動し山海関を占領するに至ります。満洲事変の元凶であった石原莞爾は満洲を確保する事を第一義的課題として長城線を越えて中国本土に入るような戦線の拡大には一貫して反対しますが(山海関を越えるな!)、満洲国内である熱河すら安定せず、その後の北支事変へと発展していくのです。
この作戦は、緒戦では関東軍の機動作戦が図にあたって、約十日間で熱河省を掃蕩(そうとう)したが、三月初旬、喜峰口をはじめ、長城線重要関門を攻撃する段になって中国中央軍の頑強な抵抗にあい、予想外の苦戦を味わわなければならなかった。そのために、戦闘は長城線を越えて、やがて後のらん(三水偏に糸+言+糸、下に木)東作戦につらなるのである。 |
 |
「関東軍」在満陸軍の独走 島田俊彦(講談社学術文庫) |
|
※ 今回、満州の表記を"満洲"としました。前述の島田俊彦による 「関東軍」在満陸軍の独走 においても、表記は"満州"とされていますので、必ずしも拘る必要はないのですが、ツングース系の民族である"マンチュリア"の表記は、水に生きる民との認識から"満洲"とされたのであり、本来、その方が正しいと考えるからです。
中国共産党政権はこの民族が打ち立てた国家である清国の存在をよしとせず(漢族が清国によって支配されていた)、水に生きた独立した民族の記憶を消したいと考えているかのようです。 |
|
高温多湿の消失 |
|
十年ほど前から感じていたことですが、東京は意外に涼しいと思っていました。
これはそのまま理解されると実質的には誤解になると思うのですが、"大都会の夏は暑くてたまらない"といった先入観を持ち覚悟して田舎から出て来た割には、日陰は涼しく東京湾からの風道になっているビルの谷間などでは爽快感さえ感じられたのです。
私は佐賀の片田舎の地方都市に住んでいる人間ですから、夏になると周りにある多くの水田には水が張ってあります。
このため、水が多い分だけ周囲の気温は低いとしても、湿度が非常に高く蒸し暑い日が続きます。
一方、コンクリートで固められた大都会は湿度が極端に低く、日陰に入れば結構凌げるのです。
最近は少なくなりましたが、"カリフォルニアは、気温は高いもののカラッとしていて爽快だ!"などといった気取った話をかつては良く聞いたものでした。
この手の話が少なくなった訳は、私たちの周りでも実際にそのような状態になってきたからなのかもしれません。
しかし、このことは、事実上高温多湿と言われてきた日本型気候の消失とも言え、森を壊し、林を消し、木を無くした大都会東京の最期の姿を示しているとも言えるのです。
皆さんは高温でも乾燥した国土を愛しますか?それが文明だと考えますか?欧米化は経済、社会、文化の面ばかりではなく、自然環境の面でも急速に進行しているのです。 |
|
コンクリートのレイン・コート |
|
都会がコンクリートのレイン・コートに覆われていることは、既に、「"打ち水大作戦"の大間抜け」である程度書きましたが、最大のレイン・コートに覆われた空間は、地下都市とも言うべき地下街でしょう。
しかし、この問題を持ち出すと混乱しますので、ここでは、将来乾燥が進むと黄河流域黄土高原の穴居住宅のように地下で生活しなければならないかもしれないとだけ言っておきます。
都会がコンクリートに覆われている事のメリットを考えた場合、剥き出しの土は雨によって流れ出します。
都会の運動場が、一時期コンクリート化された背景には土壌の流出と、その土の補充や草刈のコストや手間が問題になったからでもあったのですが、それは、剥き出しているからであって、日本のような高温多湿の土地では必ず草木が覆い茂り、根を張るのですから、それを保ってさえいれば、それほど流れ出すことはないのです。
問題は駐車場とか歩道でしょうが、車椅子までも考えて一定の舗装はするとしても、全てを雨のあまり降らないヨーロッパ庭園風に変える必要などないのであって、ここにも明治以来の欧化政策の残滓が見え隠れしています。
仮に舗装するとしてもやりようはいくらでもある訳で、雑石、廃煉瓦、廃瓦と土を併せて施工し草が生え、水が地下に浸透するように施工してコンクリート舗装を必要最小限に限定すれば良いだけなのです。
やり方にもよりますが、仮にコンクリートで施工したとしても大した強度はないのであり、二、三十年もすれば劣化して廃棄物に成り下がり処分しなければならないのです。
それよりも、落ち葉掻きや草刈りするとしても、枯れては生え、毎年、毎年、新たな葉を蓄え、日差しや雨を和らげる木の覆いは永遠にもつのです。
これは、歩道、公園、駐車場、壁面、川端など全てに言える事で、コンクリートの覆いなどは必ずしも必要はないのです。
最近では木製(間伐材)のブロックもありますので、歩行者に辛い歩道、道路を改良することは決して難しくないのです。
そもそも、アスファルトは熱容量が大きく、昼間蓄積された大量の熱を保っており、夜間にそれが放出されることから周囲の気温は一向に下がりません。
ホームレスはこの事を知っているので、道路で寝るとしても冬場はコンクリートよりはアスファルトを選ぶのです。
道路構造令、河川構造令、建築基準法、その他の補助金の規則など、一切は人間が決めたものに過ぎないのであり、どのようにもなるのです。 |
|
道路で働く人々に人権を |
|
真夏の道路作業ほど辛い仕事はないでしょう。
この炎天下で行われるアスファルト舗装の作業に至っては五〇度にも上がるそうですから、その辛さは想像を絶します。
いつも思うことですが、ひところ二十代の税務署長などの"馬鹿殿教育"の見直しが叫ばれたことがありましたが、国土交通省の新米キャリア官僚に現場の実態を教えるためにも、道路舗装の交通整理でもさせてみてはいかがでしょう。
まず、数分でノック・アウトとは言わないまでも、まず、一時間とはもたないのではないでしょうか。
かく言う私も、昔は、夏の炎天下の釣りもやってはいたのですが、十五年ほど前から夏場の数ヶ月は釣りから完全撤退しています。
面白いならばいざ知らず、くそ面白くもない炎天下の交通整理などできるはずもありません。
実際、この辛く危険な仕事を良くやれるものだと感心も驚きもしますが、まず、労働基準法には完全に抵触するでしょう。
気象台によって伝えられる最高気温といったものは、百葉箱の中で直射日光が当たらない高台のある程度緑のある場所である事が普通ですから、直射日光が当たり、排気ガスと、コンクリートなどからの照り返しに曝される破壊された環境の路面とは全く異なるものなのです。
歩道までも不必要にアスファルト化された真黒な路面で作業する土木作業員、交通整理要員にとって、雨や強風はそれこそ天の恵みに思えるでしょう。
まず、現実の地表温度、体感温度というものは五〇度を越えているはずであり、人権の面からも炎天下の日昼での作業は禁止し、原子力産業なみの危険業務として短時間、短期の交代制、作業中でも頻繁な交代制を敷くべきでしょう。
最近は交通渋滞を避けるためと称して長延長、長時間の夜間作業が行われていますが、実際には作業員が対応できなくなっている事が反映されているのではないかと思うばかりです。 |
|
閑話休題 “永遠に続く道路工事による通行制限” |
|
リストラの蔓延と、失業者の激増、それに引き続いて発生している「大量の自殺者」、「家庭崩壊」、そして新たな問題としての若年労働者の未就労(フリーター、ニート、プワー・ホワイト)の拡大。
とりあえず生きていけている人々は自らの幸せに安堵していますが、その彼らも実は極めて脆弱な基礎の上で生存していることに既に気づいていて身の細る思いをしているようです。
これほど民衆が苦しんでいるにも拘わらず、首都には摩天楼が立ち並び、地方といえども多かれ少なかれその手の無意味な建造物が甍を競い合っています。
戦乱の中での話ですし状況は全く異なるのですが、応仁の乱期、京都の民衆も犠牲になっていました。食うものに事欠きバタバタと餓死していました。しかし、この前後、足利将軍は唯の別荘としての金閣寺、銀閣寺を造営し能や和歌に熱中していたのです。その間、巷で何人が死のうが、全く気にさえしていなかったようです。
そもそも、この頃までは、「領有」という考えはあっても、「施政」といった考えは全くなかったのであって、当時の守護、地頭といったものに「経済をどうするか」とか、「民衆の生活をどうすればよいか」といった観念は全くありはしませんでした。
一人将軍義政だか義満だかを非難することはできないのかもしれません。
「お上が悪い」とか、「御政道がなっていない」といった考えは、おそらく江戸期の幕府誕生以降のことであって、この頃までの政治権力には、およそ「治世」といった感覚はなかったようなのです。
とすると、彼らは何をやっていたのでしょうか。
それは単に富を収奪し、消費していただけだったのです。
結局、当時の権力の本質はそれだけだったのであり、簡略化して言えば、他人の生み出した富を強奪していただけだったのです。
では、現代の権力はどうなのでしょうか。
例えば公共工事といったものがあります。確かに、必要不可欠なインフラとしての道路の補修や水道管路の補修=メインタナンスといったものは、それが「適正」に行われる範囲においては民衆のためのものとも言いうるでしょう。
しかし、必ずしも「適正」に行われているわけではないということは、誰もが既にご存知のとおりです。もはや公共工事の九割方が談合によるものであることは、「誰もが知っていて、知らないことにしているだけ」の公然の秘密でしかありません。
従って、全く必要のない余った予算も決して国庫に返還されることは無く、地元浮揚の美名のもとに完全消化を前提に地場の土建屋どもに流し込むだけの不必要な事業が行われ続けてしまいます。
というのは、それを受け入れ浪費する構造が既に強固にできあがっているからです。
その構造と無関係には中央も、地方も権力が存在できなくなっており、当然にその構造の不断の増殖に使われてしまっているのです。
道路舗装という、ドライバーならば誰でもが疑問に思う公共工事が存在します。
本来、舗装工事というものは、車が安全に通れるように、通り易いようにするために行われるはずのものです。
しかし、現状はどうなっているかというと、必要性とか合理性とかいったものとは無関係に舗装計画が立たてられており、予算は前年と同程度であり、当然の如く決まりきった業者が受注し続けていくことになっているのです。
これは、事実上、土建屋の固定給といったものに相当します。
さらに言えば、前年と同程度の予算であれば、工事による渋滞は前年と同程度であり、そもそも安全にスムーズに通行できるように維持管理工事が行われるべきであるのに、目的と手段が入れ替わってしまっているのです。
笑い話があります。「なにゆえ舗装工事が繰り返されるのかというと、それは舗装工事をするからだ」というのです。
つまり、全国で道路工事用の大型ダンプトラックや重機運搬車両が通るからこそ舗装が痛み、何度もやり替えなければならないのであって、無駄な道路工事をしなければ、舗装工事もこれほどのピッチでやり替える必要もないのです。まあ、これは冗談の類ですが。 |
|
まだリゾート開発の方がましだ |
ドライバーにとって腹立たしい限りの通行止めというおまけまで付いた道路舗装という永久に続く公共事業がありますが、恐らく過剰にせしめた予算を完全に飲み込む構造が成立しており、舗装の改修など必要性がない道路が工事に回され続けているのです。
まだ、この手の事業は新たな環境破壊を伴わないだけがましなのです。
公共事業をこの手の維持管理事業に限定し、本当に必要なものだけを必要経費だけでやって行け、恐らくこの手の事業に対する経費は半減から三割程度までには削減できるはずですが、問題は永久に延び続ける、新幹線、高速道路、一般国道の改修、ダム、港湾工事、砂防、林道建設・・・の方でしょう。
リゾート開発の方は経済原則が貫徹していますから、儲からないとなると、ディベロッパーは直ちに撤退し、その時点で事業は止まるのですが、公共工事の方は、儲かろうが儲かるまいが、役に立とうが立つまいがお構いなしなのです。
結局、リゾート開発の方がましだと言えるのです。
既に、土木に関する公共事業費を削減し、本当に必要な部門への投資が必要になっているはずなのですが、いまだに土木工事は永久に続く勢いにあります。
このような不必要な土木工事を止め、本当に必要な事業に予算と人的資源を再配置することが要求されているのですが、最も必要なのはそのシフト変更の振り向け先でしょう。
まず、ダムに堆積を続ける土砂の改修による採石、採砂の削減、減反田を利用した自然型遊水地の建設、コンクリート護岸をビオトープ・タイプに変える、針葉樹林を処分して広葉樹林に変える・・・といった事がありますが、まず、事務方官僚や技術のない技術系職員の再配置の問題があります。
彼らは元々生産的な労働に就いている訳ではなく、税金に寄生しているだけであって、そもそも役に立っているわけではなく、仮に仕事をしなかったとしても国民が不利益を被ることはありません。
むしろ、仕事を失って困るのはこれまで公共工事にありついてきた建設労働者の方でしょう。私は、シフトの変更が完了するまでの期間(五〜十年)は、民間の災害救助隊といった組織
に再編成し、新たな職業訓練を行いながら三割(兼務)〜六割(専属)程度の所得保障を行えば良いのではないかと思います。
過剰労働力の産業再配置は急務であり、くだらない土木工事を繰り返している余裕は一切ないはずなのです。 |
|
土日になると降ってくる雨 |
|
ひところ、"土日になると雨が降る"といったことが言われていました。
私も日曜釣師の端くれでしたから、雨や風には敏感でいつも気をまわします。
被害者意識も手伝ってか、確かにそういった実感を持っていました。
ただし、今ではそれさえも狂ってきたといった気がしています。
この、"土日になると雨が降る"という、にわかには信じられないような話は、気象予報士などの間で囁かれていたもののようですが、もちろん大都市ばかりではなく、地方の都市部にもあてはまるものと考えています。
当然ながら本来の自然現象ではないのです。
一般的に人間の活動は週単位で行われます。
土、日、祭日に働かされる人間が増えているのは事実ですが、通常、産業活動は月曜から金曜にかけて行われ、その結果、雨さえなければ大気中の浮遊粉塵量が最も増加するのが終末になると考えられるのです。
昔は風呂も煮炊きも暖房さえも薪に頼っていたのですから、大気中には煙が漂い、それを凝結核として風の無い日は朝霧が良く出たものです。
もちろん今はそのような優雅な風景は過去のものです。
最近は工場のばい煙(この言葉も死語になりつつありますが)も減っていますから、現代の凝結核とは、さしずめディーゼル車などの排ガス粉塵になるでしょう。
その大気中に漂う粉塵量が最も大きくなるのが週末だとすると、週末になると雨が降りやすくなるのは良く理解できるのです。
一旦、雨が降れば、雨とともに大気中から粉塵が地表に洗い落とされるのですから、再び浮遊粉塵が蓄積されるまでは雨が降り難くなるという訳です。
これが科学的な分析であるかどうかの判断は読者にお任せするとして、この現象さえもどうやら消えつつあるのではないかと思うこの頃です。
もはや都市ではいくら凝結核が供給されても、そもそも雨になる水が下水道管で持ち去られ、地表には存在しません。
なけなしの都市型豪雨さえも国土交通省の愚かな政策のもと、全てが下水道管で持ち去られ雨樋と化した都市型河川で海に棄てられています。私には国土交通省は気が狂っているとしか思えません。
何度も言って失礼ではありますが、土木をやろうとする人間は理工系とは言っても物理や化学が分からなかった連中なのではないかと思わざるを得ません。彼らは結局、ヒート・アイランドの発生する仕組みなど理解できていない土建屋上がりの地方議員と同程度の頭なのではないかと・・・。だから"打ち水大作戦"などといって無意味なパフォーマンスに下水再生水を配ったりしているのではないかと・・・。 |
|
都市型集中豪雨 |
|
都市型集中豪雨が目立ち始めたのは、二十年ほど前からだったでしょうか?
二〇〇六年八月下旬にも大阪の豊中で時間雨量一一〇ミリという都市型の集中豪雨が発生しましたが、この水がどこからやってきているのかを考えていました。
砂漠に雨が降らないのは砂漠の表面に水がない事が一因ですが、既に、都市もその表面から水を失っているのです。
豊中は大阪北部丘陵の比較的緑の多い場所であるのは事実ですが、どうもそこの水をかき集めて降ったとは考えられません。
都市は熱せられ上昇気流が発生します。
しかし、乾燥しているためになかなか雨にはなりません。ただ、あまりに熱せられ巨大な上昇気流が形成されると、周辺の農村部などからかき集められた水分を多く含んだ空気と海から送り込まれる湿った南風とが一気に押し上げられ巨大な積乱雲が形成されて都市型豪雨になるのです。
これは水を含んだ竜巻のようなものですが、この大雨も都市住民からは忌み嫌われているために、いち早く排水され海に押し流されてしまいます。
結局、都市の乾燥化を防ぎ次の雨を準備する材料にはならないのです。もはや、国土交通省を叩き潰さない限り、豊かな自然が傍らにあった時代は戻ってこないでしょう。 |
|
内水氾濫 |
|
下水道による生活廃水の地中化が都市の乾燥化と気温上昇に関係している事は既に述べましたが、なけなしの雨水さえも地下放水路に流し込み、川そのものに蓋をするといったことによって乾燥化した都市のさらなる乾燥化を推し進め、気温上昇に歯止めが掛からないものにしているのです。
現在、国土交通省によって進められている事業にヒート・アイランドを抑えるものは聴いたことがありません。
自分たちの罪科に自覚が無いことから、今後も、彼らによって都市環境の破壊は最終段階まで進むことでしょう。
この中で発生する都市型集中豪雨によって雨水が一気に河川に流れ込み、水位も一気に上昇するために雨水が逆流するのですが、これを彼らは内水氾濫と呼んでいます。
結果、地下水道の空気圧が一気に上昇し、空気銃のようにマンホールの蓋が飛び上がる現象が続発しているとも聞きますが、まさに、都会は国土交通省によって破壊され尽くした結果、このような怪奇現象が起こるお化け屋敷と化しているのです。 |
|
カナートとしての上水道を考える |
|
中央アジアなどの乾燥地帯にカナートと呼ばれる地下水道、地下灌漑施設があることは有名です。
オアシス農耕民は延々とトンネルを維持し命の水道を守っているのです。
では、なぜ彼らはトンネルを掘ってまで水道を地下に持ち込んだのでしょうか。
もちろん地上に水道を造っても直ぐに砂に埋まるばかりか、直ぐに地下に浸透し残った水もすぐに蒸発してしまうからです。
水の絶対量が不足するどうしようもない乾燥した土地ではこのような水道を造る事しかできないし、それこそが正しいのです。では、日本はどうでしょうか、周りに多くの水があるにも関わらず、水道は時として百キロ以上も離れた場所から供給されているのです。
本来、上水道が建設された背景には大規模な都市化があったのです。
いち早く水道を造った(最も早いのはモヘンジョダロでしたか)ローマも延々と水道を造ったのですが、基本的には水の絶対量が不足していたからでしかありません。
日本は伝統的に農業国家であったために水を得やすいように分散して居住してきたのでした。このため、上水はそう遠くない周りの里山から獲得し、同じく周りの水路に流してきたのです。
私は三十年ほど前に熊本県の人吉に近い山村の集落(旧球磨村一勝地)で五右衛門風呂のある農家に泊まった経験がありますが、朝起きるとタオルを渡され家の裏の水路に行くように言われました。
裏に出るときれいな用水路が流れており、そこで顔を洗い歯を磨いた事がありました。
このように、一九八〇年代においてさえ上水と下水が一体の場所が残っていたのです。
もちろん、これを普遍化せよなどと言うつもりはさらさらありませんが、比較的水に恵まれている日本においては、可能な限り水は周辺で調達し周辺に還元するべきであり、上水道、下水道を文化的と考えるのはそろそろやめるべきだと思うのです。
本来、水は使用した人間がその場で浄化して川に戻すべきであり、各々に複雑に汚された水を全部まとめて処理しようとするなど不可能な上に効率も悪いのです。
天水を利用するなど、徐々に広域下水道を廃止し、小さな単位での処理水を川に戻すべきであり、上水道と言えども使用した人間にその場で処理させ、循環させ、極力廃止する方向に向かうべきなのです。こうして、上、下水道の廃止の延長に水循環、熱循環の復元が望めるのです。 |
|
閑話休題 “百パーセント地下水で上水が賄える町にまでダムの水が使わされる” |
|
水前寺で有名な熊本市が地下水に恵まれ水道水を地下水で賄っていることは知られていますが、福岡県の筑後地方にも、現在なお水道水を百パーセント地下水に依存する町があります。
ところが、上水利用がダム建設の理由として無理やりねじ込まれ(将来は必要になる可能性があるからという口実)たことから、ダムの腐水を利用せざるを得ないことになっているのです。
欲しかったのはダム建設という公共工事でしかなく、決してダムの腐水などではなかったのですが、ダムの誘致のためには、ダム水を受け入れ、多くの負担金を払わせ、地下水で十分満足している住民に水道料金を加算することにしたのです。 |
|
高台の岩場 |
|
住居をどこに構えるかという事を考えた場合、百姓の目から見た好地は決して高台の岩場などではありません。
例外的に宮崎県の高千穂町、日之影町など崖地の上に集落をつくる場合がありますが、これは作物(概して雑穀)への日照を重視したからです。
この場合でも背後に豊かな里山があり、水の確保には問題がなかったからでした。
近年、高台(往々にして重要な里山)を破壊し、○○ケ丘、○○台といった醜悪な名の付けられたにわか造成地に集まって住む向きがありますが、一頃前までの稲作農耕民の目から見た場合、そのような土地に家を建てた者は笑われてしまった事でしょう。
百姓にとっての住宅好地とは、背後に豊かな里山が控え、住居の補修に必要な資材(竹、蔓、木材、土)や飲水、燃料(薪、落ち葉)の確保に困らない土地であり、かつ、通作距離の短い場所に求めたものだったのです。
土建屋系議員などが好む眺望だけが売りの豪邸が造られる高台といったものは、およそ住み着こうなどとは考えもしなかった所であり、取引価格としても非常に低いものだったのです。
このような感覚で都市を見た場合、六本木ヒルズなどといった高層ビル群は、こと、古老の百姓の目には「どうしてあのような場所に住もうとしますかなあ」というものになるでしょう。
当然ながら、もしも停電したら水、食料、燃料の調達から、廃水処理さえも直ちに困窮し、地上に降りる事さえできなくなってしまうのです。
停電を短時間のものと考えるのはイメージ、想像力の欠如した人間と言うべきで、文明への奢りの謗りは免れないでしょう。
そこまで都市文明が磐石なものと考えるのは誤りなのです。しかし、高層ビルはことヒート・アイランドの側面から見れば、風も通り、比較的快適との話は聞きます。
大災害、暴動、内乱、戦争、巨大津波、エネルギーの高騰、放射能災害(これは都市、農村に関係なく破綻に導きますが)など、都市化の行き着いた先が高層化であり、耐えがたいまでのヒート・アイランドがその先に控えているのだとすれば、結局は高層化によって生み出された空地を緑化し、複林化していくしか方法しかないのではないかと思うのです。
こと、ヒート・アイランドの側面から都市を見た場合、普通は人が住み着かなかった場所の崖地にまで人が住み着き里山を破壊した事、水と里山を大切にした農業を捨て去り異常な空間を形成した事、水を遠いダムから水道管によって配るものとしてしまったために川をただただ雨水を吐き出すためのものと考え、あまつさえコンクリートで覆い、地下放水路にまで変えようとしている事の延長に現在のヒート・アイランドという=大規模な境破壊も存在しているのです。 |
|
国土交通省によって破壊された大都市をどう再建するか |
|
@) 屋上緑化、壁面緑化 |
これは技術的な問題よりも、「いつまでにどの程度義務付けるか」といった問題でしかありません。
既に技術は完成しているのです。
草花程度なら直ぐにでも可能でしょう。「打ち水大作戦の大間抜け!」で書いた簡易屋上張り水と併用しても良いのです。
個人で始めるとしても、屋上に使用済み紙おむつ(植物への第一段階の栄養はこれで十分でしょう)などを敷き詰め、その上から砂や泥や小石を少しづつ敷き詰めるだけで完成するのです。
問題は、泥の流出と排水口の目詰まりでしょうが、少しずつやるとか、排水溝を取り囲むように浅いプール(沈砂池)を施工すればこの問題は解消できるでしょう。
いずれ水草などが生え、トンボが卵を産みに来るようにもなるはずです。
問題は、樹木が植えられるかです。
もちろん、吹きさらしの屋上ですから、木が成長して台風などで落下するような事態は許されるはずがありません。
その場合は、ビルの外郭の枠を義務付ければ対応できるはずで、土壌の深さを制限さえすれば、それほど大きな樹木に成長するはずはないので盆栽の大木と同じなのです。
壁面緑化はそれほど簡単ではありませんが、蔦を這わせるぐらいはすぐにでも可能でしょうし、保水性のある壁面緑化技術はある程度確立していますので(ミラクル・ソル工法でしたか、垂直の壁面でも対応が可能になるのです)、一般住宅や小規模ビル程度にはすぐにでも対応できるのです。 |
|
A) 道路を造り変えろ |
道路舗装を透水性のものに変えていく傾向が一般道路でも認められますが、これは雨天でのスリップ事故対策といった話に過ぎず、ヒート・アイランドに対してはほとんど効果がありません。なぜならば、吸い込まれた水は底で受けられ、道路側溝に落とされているからです。
ただし、これでも多少は道路側溝に落ちる排水嵩を調整することによって、いくらかの効果を得る事は可能ですが、本来は少しでも地下の地盤に浸透させる(逆に地下の地盤から水が引き出せる)事が重要なのです。ただ、応用は可能ですから最初から否定する事は止めておきましょう。要はやりかたなのです。
道路舗装については、路盤以下に雨水を浸透させると水道(ミズミチ)が生じ、陥没事故が発生するために透水性舗装を敬遠する向きもありますが、これも発生頻度の問題なのです。
ヒート・アイランド対策のためだけならば、路盤以下には手を着けずに、紙おむつ用の素材やスポンジ状の合成樹脂(吸水性ポリマー)を敷き詰めても良いですし、陥没しないようにワッフル構造やハニカム構造にしても良いのです。
これまで透水性舗装は強度が問題だとされて普及が遅れてきましたが(私は本当に強度が低いかどうかよりも既得権の問題と理解しています)、現実には舗装し直さなくても良いものまでもが、工事が行われ、配分される予算を完全消化し道路舗装企業(大体、大手地場の別会社や子会社なのですが)に吸い込まれる仕組みになっているという話が聞こえてきますので、所詮は屁理屈の類に過ぎないでしょう。
歩道の方は陥没事故の心配も車道ほど気を使う必要はありませんし、強度などさらさら問題になりません。
それに、歩道の舗装し直しなどほとんど不要だからです。それ以前に、本当に舗装が必要かどうかさえ疑問なのです。
まず、街路樹のある歩道は、地下に水が入るようにもっと地面を大きく開くべきでしょう。
また、煉瓦や瓦や石畳と土とで施工し、草の生える部分を増やしても構わないのです。ジョギングやウォーキングで歩く人間が夜間にシフトしているのも、暑さを敬遠しているからで、硬いアスファルトを歩くよりも土や草を踏んで歩きたいはずなのです。
また、歩道を路面と同じ程度の高さに施工し、車道に降った雨を歩道の中に引き込み、滞留型の小河川を造っても良いのです。これだけでも道路は人間にとって潤いのあるものに変わるはずなのです。
そもそも、なぜ歩道を車道より上げてきたのかを遡れば、明治以来の市街地の歩道整備がヨーロッパを模範とし、その猿真似から始まったものが、戦後も意味もなく続いてきただけの話でしかないのです。
ヨーロッパの街中の歩道が路面よりも高く施工された理由については諸説あるようですが、トイレットが完備していなかった時代には道路に面した建物から人糞が投棄される慣行があり(もちろん馬車が主流であった時代ですから馬の糞尿はあたりまえだったのですが)、雨が降るとぬかるんで道を歩く事がほとんどできなかったために歩道を高くせざるをえなかったと言われています。
本当かどうかはわかりませんが、ハイヒールの起源もそれが理由という話を聞いたこともあります。
日本では、道路に人糞を投棄する慣行は全く無く、確実に集められて肥料にされていたのですから、幕末に来た欧米人が日本は清潔な都市だと評したという話しさえあるのです。
現在、都市部に造られた歩道はともかくとして、車での移動が中心になっている地方都市や農村では、登下校の小中学生をのぞいて歩道を歩いている人間はほとんどいませんが、手始めとして観光地を中心に実験を始めても良いのです。
現在の歩道は既に道路が過剰供給になっている中で、なおも、道路工事を拡大したいためだけの便法として利用されてきたものでしかなく(車道拡幅、四車線化、歩道、両側歩道化と道路工事を拡大させてきた国土交通省も、そろそろ過剰供給になっている事は十分に認識しているはずなのです)、くだらない工事を繰り返すよりはヒート・アイランド対策としての転換を図るべきでしょう。
そもそも、ヒート・アイランドの元凶は国土交通省なのですから責任を取ってもらうべきです。 |
|
B) 都市の舗装を変えろ |
都市の緑地率が低下している事は言うまでもありません。しかし、手っ取り早くヒート・アイランド対策を行うとするならば道路よりも簡単でしょう。
駐車場やテラスといったもののアスファルト、コンクリート舗装を引き剥がし、廃材や間伐材などで簡易舗装にすれば良いのです。
土と草の部分を可能な限り拡大し、本当に必要な部分だけを舗装すれば良いのです。
この手のものは、行政機関、学校、公民館・・・といったものから随時行っていけば、十年を待たずしてかなり具体的な効果が見えてくるでしょう。
この程度の事なら、権限をほとんど持たない環境省に渡しても良いはずで(かつての環境大臣の小池百合子は"打ち水大作戦"ではしゃぐ程度ですから、恐らく事の重要性については全く理解していないのです)、補助金で自発的に行わせるか(民間企業の敷地の舗装について新規は法で規制し、既にあるものは補助金で行っても良いでしょう)、法律で強制するかは国家の選択の問題ですが、予算規模と対策のスピード、時間との戦いでしかありません。 |
|
C) ヒート・アイランド対策と建築確認申請 |
家、マンション、オフィスビルを建てる際に建物の設計審査が行われますが、その際に駐車場、玄関、庭などの舗装を可能な限り制限し、最低でも透水性の舗装にすることを義務付けるべきでしょう。
排水路や側溝を浸透性のものに施工し、雨水を一時的に貯留する底穴の空いた防火水槽(プール)の設置を義務付けるとか、庭の隅に素堀りの地下浸透升を造るようにする事を奨励するのです。
これは新規の着工時に行うものですが、このような考え方で地面の改築を進めていくのです。
これらの施策はもっと早く行われていてもおかしくないのですが、国土交通省に都市のヒート・アイランド化の責任が自分達にあるという認識がかけらもなかった事により対策が全く打たれていないのです。 |
 |
どこにでも見られるコンクリートで覆われた駐車場 |
|
D) 巨大地下貯水池 |
東京都は、都市型豪雨によって溢れ出した水の受け皿として、杉並区の環状七号線の地下四〇メートルのいわゆる大深度地下に延長数キロ、貯水能力数十万トンという巨大貯水池を一部完成させています(一期、二期合計:延長四.五キロ、五四万トン)。
現在(これは書いた時点での話で現時点では確認していません)、この計画は都の財政悪化によって凍結されていますが、本来は東京湾まで地下河川として伸ばすことになっているのです。
現状では完成していない地下放水路で雨水を一時的に溜めるものでしかありませんが、長期間溜めて利用できる可能性もあり、また、渇水期に本来の河川(神田川)に上流域から還流できる可能性もあるので単純な評価はできないでしょう。
ただし、河川の地下埋没は、それ自体として都市のヒート・アイランド化を大規模に促進するものであり、所詮は生まれてしまった私生児をどうするかといった程度の話なのです。
少なくとも、夏場の大都会の地下に巨大な水塊があることそれ自体は多少の冷却効果があるとは言えるのですが(もちろん無いよりはましという程度のものです)、将来、上水機能を持たせる計画があるのか、洪水対策だけを考え、一時的に貯水して徐々に放水するのかも分かりません。
ただし、洪水調節が目的ならば通常は空にしておかなければならないわけで、大雨の後に、河川に還流させれば、その時だけは一定の効果があるという程度の代物です。
この計画は時間雨量五〇ミリを想定したものでしたが、昨年(2005年)九月の六〇ミリに対しては無力であったと言われています。
建設費一〇〇〇億円を投じて当初の目的であった洪水調節さえも達成できていないのですから、まずは、大手ゼネコンにくれてやった事業と言わざるをえないでしょう。
地下貯水池はダムの抑制、再生水の循環利用と多くの可能性を持っていますが、今回はヒート・アイランド中心の話に限定していますので割愛します。 |
|
E)地下街、地下空間をどう評価するのか |
日差しの強い日に日傘を差すように、日の射し込まない地下に入ることはそれなりの効果があるのは事実ですが、これをどう考えるのかはかなり難しい問題です。
夏に鍾乳洞や風穴に入ればそれだけでもかなり涼しいことはどなたも経験されているでしょう。
鍾乳洞や風穴といった特殊なものに限らず、トンネルや防空壕(こんなものにはあまり入られた経験はないでしょうが)やダムの堤体内通路でもある程度は実感できますので、冒頭で"黄土高原の穴居住宅のように地下で生活しなければならないかもしれない"などと書いたわけです。
では、地下街や、地下空間はどのように評価するべきでしょうか。
この手の話は近藤邦明氏の領域になりますのでアドバイスを得なければなりませんでしたが、彼によると、コンクリートで固めた人工的な地下空間と鍾乳洞や風穴といったものには多少構造的な違いがあり、同視する事はできないという事でした。
ただのメールでのやり取りでしたが、正確を期すために、以下、近藤見解をそのまま掲載します。 |
|
鍾乳洞ないし風穴の場合、石灰岩の浸食地形であるか、火山性地形であるかには差がありますが、共通するのは多孔性の構造を持っていることです。一つは寒冷な時期に地表に通じる穴から寒気が侵入して多孔性の風穴や鍾乳洞内の壁面を蓄熱装置として冷却しているというものです。場合によっては部分的に氷室になっている部分もあるでしょう。夏には外気が高温=低圧になるため相対的に高圧になった風穴や鍾乳洞から冷気が噴出することになります。もう一つの理由は要するに冷却水の存在です。地下水自体が地面の断熱によって年間ともに15℃程度で安定しているのは勿論ですが、さらに風穴や鍾乳洞内の壁面にしみ出す地下水が蒸発するときに潜熱を吸収することによって更に冷却するというものです。
地下街や大規模下水道の「発達」した都会では、まず地下水位が極端に低下していると考えられますから、地表からの蒸発量が減っています(ヒート・アイランド現象ですね)ので、地表面の断熱効果はかなり低くなるばかりか、逆にコンクリートやアスファルトで被覆された蓄熱装置として機能するため、都市化以前の地下空間ほど涼しくはないでしょう。また地下水はあったとしても、都市の地下空間への「漏水」は邪魔者として速やかに排除されますから、蒸発の潜熱として冷却するという機能も期待できそうにありません。 |
|
|
|
|
というものです。いつもながら明解ですね。ここでも水循環が熱循環の鍵である事が分かります。
多少似たものとして、核シェルターや長時間潜航する原子力潜水艦内部の熱環境の問題があります。
前者は放射能の流入を一切拒絶する事を目的とするために造られる完全に閉鎖された空間であり、後者は海中の潜水艦内という完全に閉鎖された環境ですが、最大の問題は人間自体が発する体温と人間の生活に伴う廃熱の処理と言われています。
これが前者においては特に難しいのです。
地下街は必ずしも完全に閉鎖された空間ではありませんが、内部の熱の問題によって直ぐに冷却装置に頼らなければならなくなるのでしょう。
排気口を使って熱せられた空気を排出するとしても、替わりの空気を巨大な鍾乳洞のような大きな地下空間から永久に供給できるならば別ですが、そのようなことはほぼ不可能であり、地下街は、太陽の直接放射を遮る事が可能になる以外は、何の意味もないものであることが分かると思います。
つまり、素堀りの壁面を維持する黄土高原の穴居住宅以下のものであるということは明らかなのです。
仮に、鍾乳洞や風穴にレストランを作ったとしても、大繁盛してあまりにも多くのお客がやってくれば、直ぐに破綻し、大型の冷却装置が必要になることでしょう。
地下街も、地下マンション(そんなものがあればですが)も決して住民を快適にはしないのです。 |
|
F)上、下水道をどうするのか |
現状で上、下水道を全て廃止する事は不可能です。
しかし、上、下水道は既に後進国のものと理解すべきでしょう。
本来、水はそれを使う人間の周辺で調達し、極力その人間の周辺の河川に還元するべきなのです。
この周辺の範囲をどのように考えるかは、その土地条件、環境によって全く異るでしょうが、一例を挙げれば、企業単位で工場とその社宅などの居住部において雨水を一時的に地下貯水池や遊水地に集めその一部をその敷地内で浄化して使用するのです。
飲用まで利用するかどうかは選択であり、地下水に頼れる場所では地下水を、また、雨水による天水利用をできる集水面積があれば、それを浄化して使ってもよいでしょう。
上水、またトイレ、風呂などの中水に利用しても良いのです。
浄化槽で処理した再生水は下水道に流さずに河川に流すのです。こうすれば、事実上、既存の上、下水道から独立したエリアが実現できるのです。
既にその水道料金の高さから上水からは企業の撤退が静かに進行しています。
その理由はダムの過剰供給状態の中でも新たなダムが乱発され続け、その無駄な事業のコストが水道料金に確実に上乗せされているからに外なりません。
いずれ、企業などを中心に大型下水道からも撤退が始まることでしょう。
下水道が市街地から郊外へと延長が延びるに従って、管の大型化、施設の巨大化が等比級数的に拡大し、下水道は非常に割高なものになっているのです。
上、下水道ともに一極集中型のものにするのではなく、葡萄の房のように小規模な連携の集合体に変えていくべきであり、そのぶどうも可能な限り巨峰からデラウエアのような小粒の集合体に変えていくべきなのです。
下水道で多くの水を一箇所に集めて処理する事が元々無茶な話で、起原が分かりやすい小さなエリアで集めた水をその汚染状況に合致した処理をするのが効率的であり、赤、青、黄、緑、黒、白、灰と多くの絵の具で混ざったものを真水に戻すよりは、緑一色が混ざった水を真水に戻す方が簡単なのです。
下水道が後進国のものだと言ったのは、こういう意味からです。
高度処理とか言ってはいますが、実態は極めてお寒いものだという話は下水道関係者の間では常識なのです。
上水にしても、巨大な駐車場や屋根で集められた水をただ海に流し込んでいる現状ほど愚かなことはないでしょう。
既に都市河川の中流域で取水した水を飲んでいる都市住民も多いわけですから、実質的には下水を飲んでいるのと変わりがないという話も良く聞きます。
そのような中ではさらに一層雨水の利用を進めるべきなのです。少なくとも過剰供給の中でダムを建設する口実を与える必要はないのです。
個人レベルでも企業レベルでも、可能ならば上下水道から極力撤退することをおすすめします。
これらはコレラが蔓延しているような後進国でこそ有効なシステムなのです。
既に、雨水の利用、浄化槽による処理の技術水準は遥かに上がっています。上、下水道の廃止は新たな産業と豊かな自然を取り戻す一歩となるのです。
まず、新たな発想と新たな理想の構築をその延長上に上、下水道に寄生し続ける土建業者や腐敗した官僚、議員どもの追放も可能になるのです。 |
|
G)最大の問題である河川をどうするのか |
ここでは都市河川のあり方一般を考えるつもりはありません。
あくまでもヒート・アイランド現象に対する問題として、その側面についてだけを議論するものです。と、言っても極めて単純です。
河川を洪水の側面だけで考えれば、普段はほとんど水が流れず、洪水時にはいち早く海に流し込めるものが理想ということになります。
このためには、できるだけ直線化されて、瀬や渕といったものがない、平坦で障害物の無い、また、周りにも通水を阻害する可能性のあるものが一切ないものということになるでしょう。
ひところ前までの彼らの理想を簡単に説明すると雨樋だったわけです。
事実、都会の河川はそのようなものになっているのです。
このため可能な限り直線化され、堤防周辺では木が切り倒される(根が張ると決堤の原因になるとされるのです)ことになります。
実際には川が直線化されると流速が増し、このことによってかえって堤防は破壊されやすくなるのですが、それを補うものとしてコンクリートなどによって補強が進められるのです。この点から考えると土木業者の理想とも重なっているのです。 |
 |
宮崎県名貫川源流部 |
|
川をコンクリートで囲むことは道路の幅を拡大する要請から始まったものですが、同時に水の蒸散を促進するものであることは言うまでもありません。
また、地下河川、下水道はそもそも水の蒸発による熱循環に全く寄与していません。
と、言うよりも大半の水を地下に流し込むことが、ヒート・アイランドの最大の原因なのです。
対症療法的ではありますが、地下河川(地下貯水池型のものは運用によって、洪水調節後にポンプ・アップでも自然流下でも極力河川に還流させ、都市河川の維持水とすべきでしょう。
また、浅いスリット状の堰を設け、また、河川に水深の違いを設け、極力貯水、溜水、流水化を求めるべきでしょう。
もちろん、川床に変化を付け、渇水期でも水が残るようにするのです。
一方、枝葉の小河川や市街地の側溝といったものも、ほぼ、完全にコンクリート化されているために、雨水を流し出すという一方向の役割は持っていますが、雨がやめばただのカラカラの溝になり、僅かな水さえ保つこともできません。
このコンクリート側溝というくだらないものは、周囲の地面から少しずつ水分を集めて安定した水を徐々に下流に送り出すということもできなければ、乾燥した時に自らが保つ水を周囲の地面に戻すこともできません。
私が理想と考える側溝とは、コンクリートの壁面ではなく、乾燥した時には室内に水分を補い、湿潤な時は余分な水分を吸収し蓄えることができる土壁のようなものです。
つまり、周囲の地面と水分のキャッチ・ボウルが行えるような水路であり側溝ですが、必ずしも難しいものではなく、多孔質コンクリート、ネット状の側溝、極端な言い方をすれば既設の水路に一定の孔を開けても良いのです。
また、側溝の形状を、深さの違うでこぼこのあるものに変えても良いのです。
こうすれば、僅かながらも水を保つ事ができますし、側溝に浅いスリット状の堰を義務付けても良いのです。
掃除がやりにくいと言うのならば、スロープ状の堰にしても良いのです。
泥が溜まると言うのならば望むところでしょう。なぜならば、それこそが長時間水分を保つスポンジになるのですから。 |
 |
どこにでもある都市型河川 |
|
閑話休題 “使用済み紙おむつの花咲かジジイ” |
|
末端水路の先にある地面の事を考えましょう。
冒頭で"打ち水するより、コンクリートを引っ剥がせ!"としましたので勢いで書きます。
引き剥がした跡地の荒地に自然に草が生えてくるのを待っている事は理想ですが、本当に乾燥している斜面などにはなかなか豊かな緑は戻ってはこないものです。
このような破壊された環境での複林には、使用済み紙おむつを、鉛筆や割り箸を鉛筆削りで研いだ木釘などで突き刺し、土を被せてどんぐりの種でもばら撒いておけば、かなり早く草木が生えてくるものです。
コンクリートを引っ剥がした荒地では、水ばかりではなく栄養が不足しているのです。
これらは河川堤防でも有効ですから、ゲリラ的に複林運動をされる方は浅いダンボール
の箱に使用済み紙おむつを敷き詰め、上から浅く泥を被せどんぐりと言わず、好みの木や草の種などを放り込み、車のトランクに積み込んで荒地にそっと置いてくるだけですからスコップで穴を掘るような苦労をしなくても良いのです。
このように簡単に緑を取り返す運動ができるのですから、特に環境破壊の元凶として人生を送ってきた土建会社の社長や地方議員、天下り官僚の老後の"罪滅ぼし"、死ぬ前の悔悟の行脚には最適かと思います。
自然環境を死に追い込んだのだから、きちんと悪事の責任を取ってから死んでいけ! |
|
H)さらなるヒート・アイランドへ地下放水路は延びる |
地下放水路の拡大がヒート・アイランドの原因である事は論争の余地のない物理学的事実です。
もしも、ヒート・アイランドが都市にとって重大な危機であるのならば、なにをさておいても国家は全力を上げて対策を取るべきはずですが、実際には全く逆の事が起こっているのです。
地下放水路が要因の一つでしかないとしても、環境省がクレームをつけるわけでもなく一方的に拡大を続けています。一例ですが首都圏外郭放水路を見てみましょう。 |
|
ヒート・アイランド禍に苦しむ国民を尻目に、血税で誇らしげに宣伝される地下放水路
江戸川河川事務所のHPから! |
|
埼玉県の東部で進む、世界最大級の地下河川の建設計画です。
首都圏外郭放水路は国道16号の地下約50mに建設される延長6.3qの地下放水路です。施設は、各河川から洪水を取り入れる流入施設、地下で貯水したり、流下する地下水路、そして地下水路から洪水を排出する排水機場等で構成されています。 |
|
国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所のホーム・ページ"私たちの仕事"から |
"私たちの仕事"と誇らしげに書かれていますので、まず、自分達がよほど良いことをやっていると考えているのでしょう。
彼らは洪水調節のことしか頭にないのです。無自覚である事ほど恐ろしいものはありません。しかも、膨大な予算を食い潰すのですから、もはや国家機関は機能停止に陥っているとしか考えられません。
この手の事業は、首都圏にとどまらずに地方にも拡散を続けています。
最近、訪れた滋賀県でもその一端を目にしましたので紹介しておきます。
大津放水路は、大津市街地の慢性的な洪水被害を軽減するために、大津市南部を流れる8つの小河川の洪水を中流部でカットし、放水路を通して、瀬田川へ流下させる地下トンネル放水路です。現在、一期区間(瀬田川〜盛越川までの約2.4q)の工事を終えて、既に通水を開始しています。 |
|
|
|
国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所のホーム・ページ"大津放水路事業"から |
ここでは、地下放水路が全国的に拡大の様相を呈しているということを紹介しておきます。
個別的にこの事業をどう評価するかについては踏み込みません。問題は、その運用と、コストです。
ただ、これがヒート・アイランドを助長するものであることは理解しておいて貰いたいと思います。
まず、琵琶湖沿岸の大津市では大規模なヒート・アイランドは目の前の大水塊によって緩和されていますから、自宅の駐車場をアスファルトで固めた為に暑くてたまらない程度の話であって、自業自得でしかありません。 |
|
|
|
I)都市型豪雨の頻発と都市の水不足について(驚愕の近藤仮説から) |
「環境問題を考える」には近藤邦明氏が書く 5.HP管理者から という非常に水準の高いコラム(?)がありますが、その No.225号(2006/08/24)に「都会の豪雨と内陸部の乾燥化」という驚くべき仮説が掲載されています。
詳しくは原文を読んでいただくとして、簡略化して書けば、既に、ヒート・アイランドが点的な孤島にとどまらず、過熱列島、焦熱ベルトとでも言うべきものに成長しており、このことが日本列島の雨の降り方に非常に大きな変化を与えているのではないかというのです。
それは都市型の集中豪雨の激発です。本来は地表にあまねく広がるスポンジのような土から静かに水が供給され、それが蒸発することによって安定的に雨が降る穏やかな気候だったものが、海に面してベルト化した都市のヒート・アイランド帯によって強く熱せられて生じる上昇気流に南からの海の湿った空気が一気に取り込まれ海岸部の都市部だけで海水起源の大規模化した集中豪雨が発生しているのではないか、しかも、沿岸の都市部だけで降ってしまうために、残りの乾燥した大気が夏場の南風によって内陸部に送り込まれ、結果として、内陸部の乾燥化、脊梁山脈を越えたフェーン現象の拡大といったものに繋がっているのではないかと・・・。
カーテンと化したヒート・アイランド起源の海岸部の上昇気流の帯が夏場における南からの湿った大気の侵入を遮断し、列島中央部の内陸部まで水分が持ち込まれなくなっている可能性を指摘しているのです。
つまり、海岸部で降る都市型集中豪雨は受け皿がないためにその大半が海に戻され、都市の生命線でもある脊梁山脈の集水域では全く雨が降らないという傾向が促進されているのではないかと・・・。もしも、この仮説が妥当であるならば、ヒート・アイランドによる都市型集中豪雨の増加と、大都市の水不足、大渇水という現象は裏腹の関係で進行していることになるのです。
この仮説が正しければ、首都の水瓶としての山間部の巨大ダムは、都市型豪雨を横目で睨みながら、カラカラということになるのです。
既に、"打ち水大作戦の大間抜け"で書いたように、国土交通省の河川の雨樋化、被覆化、地下放水路化、下水道化、さらには農水省のほ場整備、拡大造林などによって、大都市、地方都市、農村、山林を問わず、列島の全てにおいて不可逆的な乾燥化が起こり、そこから夏場の夕立の激減に象徴されるような現象が起こる中、夏以外でもドシャブリ的な降り方が増えていま。ヒート・アイランドはもはや夏だけの問題ではないのです。 |
|
見失ってはならないこと |
|
一応、対症療法的なものも含めて、ヒート・アイランドへの対策のようなものを提案しました。しかし、実のところ"心もとない"という思いを払拭できません。
それは、地方都市ではこの対策も一定が効果を持つのかもしれませんが、大都市ではほとんど手が打てないのではないかと思うからです。
それは、地表に水を取り返すとしても現状ではそれだけの余地が取れないからです。
まず、消費する水を現地周辺で調達し、また、処理するとしても、そのための空間(例えば合併処理浄化槽)や、還元するための「生きている地表ないし表土」といったものの絶対量が不足するのです。
これは、大都市の必然でしかないのであり、あまりにも過密になった都市を解体するというベクトル、つまり、人口の分散化がどうしても必要になってくるのです。
従って、現状を前提として「工業的な技術」によって小規模な水循環を回復する事は部分的に可能としても、結局は余計なエネルギーを投入することにしかならないのです。
まず、国や産業界の愚かな技術者達はその方向でしか物事を考えられない社会構造になっているからです。
この問題に関しては「工業的な技術」は結局のところ小手先でしかなく、緊急避難的な次善の手段でしかないのであって、本質的には人を分散させる方が正しいのです。
と、すると、首都機能の移転と分散の方がまだ正しいのではないかと思うのです。
それでは、都市の分散はそれ自体として可能なのでしょうか?私にはあまり期待できるとは思えません。
それは、日本の富を独占し、政策決定に力を持っている大都市圏の不動産所有者が、地価の高騰によって成立している収益構造の破壊をもたらすような首都の解体に同意するとは到底考えられないからです(首都移転構想への反対が、繰り返し都市部と不動産所有者から起こる事は良く知られていることです)。
従って、この大都市圏の巨大土地資本を占拠し、そのことによって日本に君臨し続ける独占的金融資本を叩き潰さない限りそれが可能になるとは思えないのです。
ただ、ここで、唯一の現実的な可能性を指摘しておきたいと思います。それは、少子化と無産化です。
現在でもビルの裏庭などで寝泊りするホーム・レスの上には誰も住まない高級マンションが数多く売れ残っていますが、少子化と無産化はこの傾向をさらに助長する事でしょう。
愚かな米国ハバードのエピゴーネンで竹中平蔵と小泉がもたらした中産階級の破壊、下層階級のさらなる所得低下、富裕層による富の独占は、この少子化、無産化をさらに大規模に推し進め、過剰生産の極致にある都市不動産の価値下落を劇的に推し進める物理的基礎条件を与えてくれる事になるでしょう。
もちろん、このヒート・アイランド化への道が必然であったのではないのかという思いは消えませんが、いずれにせよ、止まらぬヒート・アイランド化への道は、さらに一層、都市を人間にとって住みづらいものにすることでしょう。
そして、大都市不動産を価値の低いものに変えることでしょう。そうすることによって、始めて都市の解体が可能になるのです。 |
|
国土交通省を国土再生省に |
|
何のことはない、ただの"看板の挿げ替え"じゃないかと思われるかもしれませんが、私は非常に重要な意味を持っていると考えています。
とは言うものの、これほどまでに破壊され、なお、とどまるところを知らない都市の乾燥化への動きを止め、"都市の水循環をどう再生するのか"という問題を考えると、気の遠くなるような思いがします。 しかし、元に戻していくしかないのです。 |
 |
画像は国土交通省HP |
|
ヒート・アイランドを解消するための特効薬や魔法といったものがある訳ではありません。
なぜならば、現在進行している事態は明瞭な物理的現象であって、それを元に戻すには物理的法則に従う以外に方法はないからです。
ただ、ただ、数十年掛けて破壊した環境を数十年かけて元に戻すだけのことなのです。
しかし、既に色々な技術も生まれている訳であり、本気で始めさえすれば効果は比較的
早く現れてくることでしょう。
もちろん、江戸落語に登場するような日本を取り戻す事はできないですが、決して不可能でもないのです。
現在、不必要極まりない公共事業が続けられています。
道路建設一つを取ってみても、既に供給過剰であり、一度拡幅した道路に歩道を付け、次に二車線化し、歩道を両方付け、立体的に、道路の上にまで道路を造っているのです(一粒で何度も美味しい)。
都会ならばいざ知らず、地方都市でもこのようなことが繰り返され、それに天下り官僚といった連中が食い付いて離れないのです。
一方、俗に箱物といわれる何々センターや何々スタジアムといったものに至っては、そもそも全く不必要であるにもかかわらず、発注権を持った薄汚い政治勢力が税金を私的にピンはねする事だけを唯一の目的として造られ続けているのです。
このことを逆に考えれば、不必要なものを造り続けられるほどにこの国はまだ豊かであったということであり(もう原発事故により不可能になったかも知れませんが)、仮に自然環境再生のために政策の舵の切り変え事業を開始すれば、無意味な事業が意味のある事業に転換できるということです。
本来、このような馬鹿げた事に国家的資源を費やす事ほど愚かなことはないのであり、これらの富が国民に等しく分配されるならば、国民の幸せも増大し、科学的、文化的水準も維持されるはずなのですが、国土の荒廃がここまできた以上、仕方がないことなのです。
しかし、今後も日本に同程度の余裕があるとすれば[実はこれは非常に危ういのですが(*)]、この問題は比較的簡単なのです。
今尚くだらない不必要な公共事業が繰り返されている理由は、土建業者、議員、官僚が自己完結的な経済網をつくりあげ、これを維持し、その中で国家の富を掠め取り続けているからに外なりません。
従って、彼らはこの経済網を維持し続けるためならば、いかなる事業も喜んでやるはずなのであって、もともとビジョンなどというものを持ち合わせていない彼らは、自分達の経済網が維持できるならば新幹線も瀬戸大橋も高速道路もいらなかったはずなのです。
このため、ヒート・アイランド現象が、彼らがやってきた延長上に生じた災禍であることが明確になり、その変更が必要である事を強制されれば(もちろん、強制させる以外、自ら悔い改めはしないでしょうが)、豊かで住みやすい環境を取り返すための自然再生型"壊す公共事業"(**)を嬉々としてやり始め、彼ら自身も人生に生きがいを感じ、生きる意味を理解するはずなのです。
もちろん必要最小限の費用でこの事業は行われるのであり、土建屋の社長にだけ旨い汁を吸わせる必要はりません(この事業で働く人間の給与を一律固定にするだけでこれは可能になります)。これは増大し続ける生活保護費と自然再生型公共事業費とが入れ替わるだけなのです。
ただし、事業のベクトルを変えさせるためには、土木官僚に自らがヒート・アイランド化の最大の原因者であり、都市整備のあり方を変えなければならないという意識、理念を植え込む必要があるのです。 |
|
閑話休題 “バイパス整備は交通渋滞をもたらす” |
|
バイパスのバイパスそのまたバイパス…が造り続けられていますが、それに併せて交差点の数は増え続けて行きます。
「バイパス整備は交通渋滞をもたらす」は、正確に言えば、信号待ちの片寄によって長距離通過者の利便、近距離移動者の辛抱で安定を図るというものでしかありません。
純粋に原理的評価を行えばこのようにしかならないのです。
分かりやすくするために簡略化したモデルで説明しましょう。
十字路とその周辺の道路と言うモデルを作ってみました。 |
|
内側の交差点数は1=1*1、全体は1+8=9(交差する3本の道路の3の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 5(3) |
|
内側の交差点数4=2*2、全体は4+12=16(交差する4本の道路の4の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 7(5) |
|
内側の交差点数は9=3*3、全体は9+16=25(交差する5本の道路の5の二乗)
対角線上に移動すると通過に要する交差点数は 9(7) |
|
道路を造れば造るほど交差点の数は等比級数的(1→4→9→16→25→36…)に増え続け、信号待ちによるロスで逆に交通障害を招いてしまうのです。
簡単に言えば、将棋盤(9枡)を碁盤に変えているのが、今の交通政策と言えるでしょう。 |
|
将棋盤 :縦横10本の線( 9枡)を持つ盤で、枡の数は81、マス目の数は100
碁 盤 :縦横19本の線(18枡)を持つ盤を19路盤と言い、交点(目)の数は361、マス目の数は324 |
|
碁盤の目のような京都が渋滞しやすい理由はこれなのですが、「渋滞するから…」とバイパスを造れば造るほど、逆に信号待ち時間(平均は30秒から一分の半分×交差点数となる)により、反って、通過に余計な時間を取ってしまうのです。
このために、苦し紛れに立体交差を増やすことになるのですが、立体交差を増やせば良いのかというと、これにも経費と交差点の激増が付き纏うのです。
しかし、実は彼らもこのことは十分に分かっていて(もちろん末端の小役人は別ですが)、天下り先を確保するためにバイパス工事を歓迎しているのです。
そして、いずれ経済的にも、交通工学的にも破産することになるのです。 |
|
かつて陸軍、今、国土交通省!! |
|
日本を戦禍に引き擦り込んだ関東軍は、国民はもとより、まやかしとは言え形式的にも存在した帝国議会と内閣を無視ししきり、ついには国家を呑み込み、全土を破滅に巻き込んだのですが、この次は、世界でも最も美しかった国土を破壊しつくした国土交通省が、国民と国家に破産を齎すことになるでしょう。 "我々の脳裏に新たな世界が構築されることなく、現在の転換はありえない。"のです。 |
|
 |
|
* 実はこれは非常に危ういのですが : これについては既に十分書いていますので、そちらを参照していただければ幸いです。ここでは、その一部を掲載します。 |
86.大公共事業時代(公共事業は止められない!しかし、終わる!) |
|
・・・ コンクリートは永久のものではない
この小稿は2005年9月15日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートU」に掲載したものです。
|
公共事業が終わる!という最大の理由は、これまでに造ってきたものが、既に、十分大きくなり過ぎており、もはや手に負えなくなってきているからなのです。
例えば、新幹線や高速道路においても、早いものは五〇年に近づくものが出始めており、かなりのコンクリートの劣化(鉄筋の腐食その他)が目に付き始めているのです。
仮に、走行中の新幹線にトンネルからコンクリート塊が大きく崩落したと考えましょう。既に想定にあるはずであり監視体制は取られているとしても、現在のような過密ダイヤ、高速運転の中で事故が防げなかった場合、そのことによる犠牲者は今回のJR西日本の事故程度では収まらないことは分かりいただけるはずです。
恐らく、その建設の背後にある多くの条件(海砂、シャブ・コン、経営体質…)から言って、後から建設された山陽新幹線の方がよほど危ないと言われているようです。
東海道新幹線の時代は、川砂で建設が進められている上に、世界一の鉄道を造るという戦後日本資本主義の気概もあり、凡そ手抜き工事などというものは考えられなかったとされています。鉄路建設技術者、鉄橋やトンネルの技術者、受注企業のモラルも非常に高かったというのです(これもどこまで信じられるのか、結局は不明なのですが)。
もしも、新幹線路の劣化がすさまじく、そのメインタナンスに多くの予算を注ぎ込まなければならない状態で、目の前に美味しい○○新幹線建設事業があったとしても、最終的な選択は現存の稼働中の線路に投資を振向けざるを得ないのは明らかであるからです。
JR西日本の事故に象徴されるように、安全を無視し、経営を優先して事故が発生することはあるでしょう。ただ、一般国民は新線建設工事中の事故は許容できたとしても、事故によって自らが犠牲になるかもしれない稼働中の既存路線における利用者の事故だけは絶対に許容しないと考えられるのです。このことが、美味しい新線よりも現存路線を優先せざるを得ないという意味なのです。
残念ながら、多くの犠牲を伴ったこれらの事情によって新規が止まる可能性があるのです。現在、全く必要性のない長崎新幹線の建設が議論されていますが、してみると、まだ、国家に余力があるとも言えるのでしょうか。実際には国の借金は許容限度を越え、天下りし続ける官僚と土建業者と悪質政治家どもによって、とっくの昔に国民の貯蓄を食い潰しているのですが、"精算しない(できない)経済"の賜物でしょう。
かつて、米国はレーガン政権下において全国の高速道路に通行止めの区間が続出しました。橋梁やトンネルのメインタナンスに追われ、新規路線の建設はおろか、既存の路線が使えなくなってしまったのでした。背景にあったのは民主党から共和党への政権の移行に伴う予算配分の削減であり、その後のレーガン軍拡は平和な土建産業への投資を抑え、軍事産業への投資を増やしたのでした。もちろん、あまりにも建設が肥大化したことの結果であったことは言うまでもありません。どうやら、現在の日本の政権も同様の動きを始めているようですが。
日本のモータリゼーションの波はアメリカに半世紀近く遅れ、五〇年代後半に始まったのですが、アメリカで高速道路の劣化(特に橋梁やトンネル)が問題になるのが建設から五〇年近く経過した八〇年代です。日本の高速道路も建設から五〇年に近づくものが出始めており、そろそろ同じ問題が始まるのです。
参考のために「道路構造物の今後の管理・更新のあり方検討委員会」なる国交省の肝いり団体の報告を見てみましょう。これは、高速道路だけでなく一般の道路も含まれていますので、危機は全体に広がっていることが良くわかります。 ・・・ 以下。
** 自然再生型"壊す公共事業" : これについても以下を参照して下さい。 |
|
119. 公共工事か戦争か?(民需から軍需への振り子が動いた) |
この小稿は2006年11月3日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートV」に掲載したものです。 |
|
いよいよ改憲論議が本格化してきましたが、環境保護派内にも護憲派の方がおられ一喜一憂されているかも知れません。私はいわゆる護憲派であった事は一度もありません。
戦後のブルジョワ憲法を金科玉条のごとく崇拝するなどありえない事で、心は至って静かです。平和憲法などと言われてはいますが、いわゆる九条問題にしても、日本という国家は裏では着実に軍事力を積み上げてきた上に、核に至ってはライシャワー証言を待つまでもなく、昔から米国の核を持ち込んで来ました。艦船に積み込んでの寄航は上陸ではない以上持込ではないと理解していたアメリカの基準を黙認し、彼らの基準で持ち込んでいないと通告していた事を分かった上で信用していたふりをしていたに過ぎなかったのです。
つまり、表向きは解釈改憲によって表面上は憲法を守っているように装っていただけの話であって、裏では憲法など守られてきた事など全くなかったというのが醒めたる識者の常識でしょう。
従って、戦争による改憲以来、守られた事などない一度もない国において"平和憲法を守れ!"と言うことは、錯覚であるか、逆に守らせてきたと思い込みたかったか、宣伝したかっただけの事でしかなく、むしろ、守られてもいないものを、守れ!と言うことによって、国民や労働者一般の護憲への幻想を繋ぎ留め、同時に奇妙な安心感と満足感を与える麻薬のようなものでしかなかったのです。
私はそのようなくだらない政治的運動や政治思想には一切の興味を持っていません。つまり、戦後民主主義を最高のものでもあるかのように擁護し、その現状を維持する事に利益を見出した護憲勢力(戦後の既成旧左翼いわゆる革新系議員や大手の堕落した組合官僚)が、その戦後民主主義を最後的にしゃぶり尽くして、全ての労働者、中小商工業者を無権利状態に陥し入れ潰してしまったのが、戦後の終焉である現在と言うべきでしょう。
ヒットラー・ナチの台頭が最も民主主義的と言われたワイマール共和国が生み出したものであったように、このおぞましいばかりの小泉ポピュリズムの登場こそ、アメリカに強要され許容された戦後民主主義の産物でしかないのです。
従って、一度も守られた事などなかった憲法を護持する事にも改変する事にも意味などありえないのです。
まず、権力は自らのブルジョワ権力を維持する必要がある時には憲法があろうがなかろうが、何時いかなる時にも人権を踏みにじり、労働者、一般国民に銃を向け、憲法など無関係に暴力を振るうはずです。
それはともかくとして、私には奇妙な別の安心感が漂っています。それは 86.大公共事業時代(公共事業は止められない!しかし、終わる)で書いたように、一つは公共事業が生み出したものが余りにも肥大化し老朽化し始めた事の結果として、新規をやる余裕など全く無くなっているということ。一つは、政治的には事実上のクーデターとも言うべき小泉の衆議院戦の勝利によって(あくまで結果であり現象に過ぎないのですが)、田中角栄以来、国家権力を握ってきた郵政族、道路族、建設族などといった護憲的(親中国的)土建屋ケインズ主義者どもが政権中枢から排除されたこと(地方ではまだこの連中が多数派ですが)によって、平和産業としての土建業の割合が減少してくる事が予測できるからです(南北朝期〜室町期のように絶えざるゆり戻しは有り得ますが)。
もちろん、今後もくだらないというより害悪の方が大きい公共事業は続くでしょうが、軍事シフトにより軍需中心の公共事業の比重が上がることによって、その中心は徐々に高性能ミサイル生産、ロボット兵器生産、海軍力の増強といったものにシフトしていくことになるでしょう。
単純には言えませんが、アメリカでは民需の民主党と軍需の共和党とが交互に入れ替わってきました。しかし、米国民主党の凋落は顕著であり、その背後には海外との競争に負けた民需生産の落ち込みがあるのです。最早、物を造らない、造ることができないアメリカの姿を見て取れます。今や、航空機と兵器生産以外に競争力のある産業はないのです。だからこそ、大量殺戮をものともせずイラクを侵略し、ドルの裏付け、従ってアメリカ資本主義の担保とも言うべき原資=石油を確保しに行ったのです。成功しているかどうかとは関係がありませんが。
日本においては、戦前は全ての予算を軍需と戦争に流し込んでいましたが、敗戦によって民需生産以外は許されなくなります。しかし、戦後復興が終わり、民需生産で世界を席巻してあぶく銭が国庫に入り始めるや、金が無尽蔵でもあるかの如く無節操にも土木工事に巨大な無駄遣いを始めるのです(田中、竹下、金丸、橋本、野中・・・)。そして、その付け回しこそが現在の財政破綻の基礎にあるのです。こんな連中を信用して選挙で投票を続ける国民にも驚かされますが(私は一度も投票した事がありません)、凡そ自分の頭で物事を考えていないかのようです。
資本主義経済とは人間の欲望を無制限に解放しただけのものに過ぎませんが、それを前提に制度化したものが資本主義社会です。この社会は絶えざる生産と絶えざる破壊を繰り返さなければ成立しないのです。まさに戦争こそは最適であり(平時でも盾と矛の矛盾により絶えず更新が行われるのです)、土建業では不必要な道路やダムが造り続けられるのです。
私はこの軍需への振り子を動かさずに平和な民需で生産を続ける唯一の方法として"壊す公共事業"(自然再生型)を提案したのですが(「有明海異変」)、現実には建設労働者の賃金の低下によって予算は削減されたものの、事業量は元のままか、むしろ増加してしまい、今や固定したかのようです。
ただ、国家予算の取り合いの側面としては、どうやら道路族の敗北となりつつあるといったところでしょう。
軍需と民需の振り子は動き始めました。いずれ、その事が鮮明になってくるでしょう。
非武装中立論者は、外圧による深刻な危機に直面するや容易に武装中立論者に変貌する事でしょう。 |
|
|
日本資本主義が再び技術力を取り返し、今後も国際競争力を維持し続けるためには、不必要な道路やダムを造り続けるよりは、ロボット生産やミサイル生産の方が賢い人間を生み出すはずであり、その意味では土建屋のボンクラ息子がベンツを乗り回すよりは、努力する理系の清貧な学生が受け入れられる社会の方が望ましいと思うものです。
一方、軍需といえばアレルギー反応を示す人が出てくる事は承知していますが、それはある意味で資本主義社会の必然であって、軍需生産が嫌であれば、それを別の政体(社会体制)に換える以外には方法がないのです。
もしも、"軍需生産へのシフトを許すべきではない!"と、するのならば、それは資本主義を打倒する事を考えて頂かなければならなくなるでしょう。なぜならば、スクラップ・アンド・ビュルドを繰り返す事は、資本主義の特性であるからです。
海外でもそうだと思いますが、日本では戦国時代(実際にはそれよりもはるか以前の古代まで遡るかも知れません。そもそも公共工事は戦争による奴隷=俘囚の強制労働が起源なのですから)の一般雑兵は平時においては城普請をさせられていたわけで、その後、安定期の江戸時代になると、この中枢の技術者の一部は黒鍬組と呼ばれる用水路や溜池工事の土木技術者になるのです。このように、権力は戦時には戦闘をしているのであり、平時には城普請や土木工事をしていたのです。そういえば、エジプトのピラミッドもシリヤだかとの戦争の後の公共事業として賃金を払って造らせたという説がありましたね。このように、戦争と公共工事とは双子の兄弟なのであり、今後もそうであることでしょう。
従って、"戦争反対!"を叫んだ戦前の反戦運動家(地下共産党、その他の社会主義政党、大本教、一応、現在のような堕落(?)が表面化する前の牧口常三郎や戸田城聖らの創価学会までは書いておきますか、それ以外の日蓮宗系統は率先して侵略の尖兵になり、浄土教系から曹洞禅、臨済禅を問わず残りは全て翼賛化され、後で鈴木大拙のように"宗教者は本当は戦争に反対だったのだ"などととぼけた事を言ったのです)と現在の環境保護団体(国交省や農水省などに利用され既に囲い込まれてしまったNPO法人などはもちろん別ですが)は同じ社会的性格や意味を持っている事が分かってくるのです。つまり権力を巡る問題なのです。
ただし、今後、軍事シフトが一層強まってくると、"国土と国民の命とどちらが大切か"という問題もさることながら、反対運動の社会的性格や位置付けも変わってくるでしょう。もちろん、豊な国土を守るという運動それ自体は今後とも不偏的意味を持ち続けるものと思います。
しかし、最後的には、"あなたは国家と戦ってもあるべき国家を守りますか?それともこの崩れ行く愚かでくだらない国家を捨てますか?"という選択を迫られるのです。私はそのどちらとも異なる"逃散"に魅力を感じています。この不公正で希望が持てない国家を自ら捨てるのではなく居たたまれなくなって国家から追い立てられるのでしょう。 日本よ一刻時も早く滅び去れ!滅びなくして再生なし! |
|
64.第21回水郷水都全国会議, 第8回有明海・不知火海フォーラムin 久留米・柳川 資料集挿入論文「私が書く大会宣言」から |
環境保護運動の限界とこれからの課題(壊す公共事業の提案) |
筑後川水問題研究会会員(当時) 古川 清久 |
|
環境破壊のはじまり |
この小稿は2005年4月16日付でアンビエンテ内の「有明海諫早湾干拓リポートU」に掲載したものです。 |
|
これまで、全国の環境保護団体や多くの反対運動は悪化する環境に危機感を抱きながら横暴な企業や破壊的な公共事業に対する勝ち目のない闘いを続けてきました。
古くは明治の田中正造による足尾銅山の鉱毒との闘い、下筌ダム建設反対運動、四日市ぜんそく、琵琶湖の汚染、そして水俣病訴訟……など多くの闘いの前史が存在します。始めは生活様式の変化による水環境の悪化や、野放しにされた企業が排出する汚濁物質が、直接、大気や河川や海などを汚すものが多かったのですが、これがいつの頃からか変りはじめます。新幹線騒音問題、美しい谷を沈め続ける多くのダム建設、ゴルフ場、スキー場などの大規模リゾート開発、ブナの森を破壊する林道建設、中海干拓、長良川河口堰問題、反対運動がなければ美しい珊瑚礁を破壊した石垣島白保の空港建設、徳島吉野川の第十堰建設、川辺川ダム建設、ギロチンの諫早湾干拓事業……など、民間企業によるものから国など行政がらみの問題が圧倒的に多くなり、中心が公共事業による環境破壊に移ってきています。
これは、最終段階でのいわゆる産業廃棄物が依然として大きな問題であることには変りがないのですが、工業排水や煤煙といった生産段階で生み出される汚染が産業の空洞化もあり、ある程度収まった印象を与えているからでしょう。
まず、環境保護運動とは読んだ字面のとおり、良くて環境が守られる程度のある意味で保守的な運動です。しかし、それすらもほとんど達成できていないのが現実なのです。民間企業の場合はゴルフ場開発のように経済的に成り立たなくなれば収束するのですが、国家丸抱えの公共事業の場合は経済原則を無視して行われるために際限もなく続けられているのです。公共事業がいまだに止まる勢いにないのは、行政そのものが自らを全く制御できていないことに原因を求めるべきでしょう。
初期の環境保護運動は、民間企業が生産活動によって直接、空や海や川などを汚したことに対して生産の制限や操業の中止を訴えその補償を企業や行政に求めるものでした。これを第一期とすると、次に現れるのは官民の別なく大規模に国土を破戒する大規模リゾート開発、ダム建設、干拓事業を止める運動でした。もちろん、この多くが達成されていないことは明らかですが、ここまでが第二期と言えるかもしれません。 |
|
次ぎは何か |
|
ここで、諫早湾干拓事業を考えてみましょう。イサカンは現在、工事が完全に止まっています。もちろん、これは一時的で瞬間的な勝利に過ぎず、国になびく高裁レベルではたちどころに覆されるのかもしれません。しかし、これほどの大規模公共事業でさえ止まる段階に到達したのです。この瞬間的な高みに立って環境保護運動の将来を展望する時、必然的に"止めた後にどうするのか"という問題に突き当たります。
これが「止める時代は終わった」と私達が言っている意味なのです。もちろん、"まともな補償を受け取ることも、止めることもままならない中でなにをバカな"と言われるかもしれません。しかし、この問題が解決できなければ依然として未来はやって来ないのです。逆に、ここさえ突破できれば、新たな破壊を食い止め、失われた自然を取り返すことも夢ではなくなるかもしれないのです。
一方、いまなお、破壊は続いているのですが、既に産業活動によって悪化した環境や公共事業など行政によって破壊されたままにされている環境が放置されています。
それが次ぎのテーマ"壊す公共事業"を必要とする理由なのです。
イサカンのように"役に立たないどころか全く害悪しかもたらさなかった無駄な公共事業に対して、先細りになる資源をまたも投入するのか"という怒りは十分に理解できますし、それは正当な議論でしょう。では、イサカンの大堤防や土砂が堆積を続けるダムや砂防ダム、せっかく止めた干拓事業の中海干拓堤防、直線化され押し流すことしか考えていない愚かな三面張り水路や河川をそのままにしておくのでしょうか。
逆の言い方をすれば、この破壊された環境をそのままにしておいてもらっては困るのです。盗人に追銭のようですが、やはり、選択肢はこれしかないのです。ただし、これまでのような甘い汁を吸わせる必要は一切ありません。国土の復元と新たな自然の再生に必要最小限の投資で、半世紀をかけて元に戻す作業を始めなければならないのです。これが、私たちが考えている第三期の環境保護運動です。
もしも、この"壊す公共事業"に乗り出すことができれば、造ることが目的となっている公共事業の方向を変えさせることが可能になるのです。なぜならば、彼らはダムや道路が本当に必要だから造っているのではなく、工事そのものが欲しくて公共事業を続けようとしているからです。このため"壊す公共事業"が始められれば、無駄な新規を抑制することができるうえに、リストラで街頭に放り出された大量の失業者の雇用を生み出し、就業の機会を奪われ人生のスタートラインに立てなかったフリーターとかニートとか呼ばれる事実上の失業者に新たな職業訓練を行うことができるのです。
さらに、大量の雇用を創出することは新たな景気循環を造りだし、経済に活力を与えることができることにもなるのです。従来型の公共事業を続けていても投資の大半が一部の利権集団と一握りの土建業者の懐だけを潤し隠匿され続けるだけで、次ぎの投資には全く振向けられないのです。これに対して、低所得者の就業を拡大できれば、彼らには貯蓄の余裕がないために、獲得した所得は全て消費に回すことになり新たな景気循環を創り出すのです。
このような、経済の再循環という副産物の付いた環境の再生、復元への道を阻んでいるものこそ、事業の正当性にあくまで固執する官僚機構なのです。
造林地の広葉樹転換、薄汚いテトラ・ポッドの撤去、押し流すことしか考えていない愚かな三面張り水路の地下浸透型親水水路への転換、需給バランスを欠き限度を越えて建設された大量のゴルフ場の復林、アスファルトで固められた駐車場の浸透型への転換、ダムの撤去、水循環を破壊した下水道を抑制し合併処理浄化槽に転換する……など、まず、これらの破壊された環境が放置されたままでは豊かな環境を取り戻すことなど全くできないのです。既に破壊されたところでは復元のための作業を直ぐにでも開始しなければならないのです。当然ながら彼らに責任を取らせるために、計画段階から住民が参加して公共事業という形で必要最小限の経費で再生事業を始めさせようではありませんか。 |
|
武雄市 古川 清久 |