|
|
立ち上げる “「立ち上げる」の蔓延に見る日本の言語文化の崩壊”
「立ち上げる」に違和感を抱かぬ愚か者! |
|
「立ち上げる」などというとんでもない言葉が流行し始めたのは十五年ほど前のことだったでしょうか。
今や権威ある辞書にも搭載され、NHKさえも平然と使い始める有様です。
いわばこの愚かな言葉が日本の言語社会を不法占拠から完全占領するに至っています。
これほど短期間に拡大した言語現象も珍しいのですが、ここには積極的に使おうという“あやかり”=良く言えば“時流に乗る先見性”=“軽薄さ”“早い者勝ち”精神といったある種のさもしさが底流にあるように見受けられます。
既に軽薄さが多数派になっているため麻痺が広がりきっていますが、言葉は絶えず劣化し磨耗から新語の登場へと進むことも否定できないことから、一般が時流に乗って使うのは致し方ないかもしれません。
しかしながら、卑しくも地名研究、古代史、民俗学…といったことに関わる人間には、地名や言語それ自体も研究の対象であり、絶えず慎重さを失わず、導入するとしても自制的であるべきことは言わずもがなでしょう。
まず、このような言語現象にアンテナを掲げ敏感であり続けることこそが必要で、日本語も分からない愚かな人間が地名研究を行うなど、笑止千万と笑い飛ばされるは必定とすべきでしょう。
従って、多くの会員を抱えほぼ軌道に乗った我が地名研究会も、決して、立ち上げるのではなく創設するとでもするのが至当と言うべきでしょう。
ただし注意すべきは、この「創設」という言葉も、恐らく、明治の欧化政策の中で生み出された新造語(増産されたテクニカル・タームの一つの新語)であることを意識しておくことです。
少なくとも江戸期の人々が、普請はあったとしても、「創設」などという言葉は使っていないはずなのです。
このように、所詮、言葉とは川の流れの中に浮かぶ木の葉や泡沫のようなものなのです。 |
|
“「立ち上げる」という言葉の蔓延に見る文化の貧困、貧困の文化” |
|
では、なぜ「立ち上げ」がおかしいかを説明しましょう。
一般に複合動詞とは「思い出す」「執筆する」といった二語によって成立する動詞群を言いますが、「立ち上げる」も二つの動詞が組み合わされたものであり、複合動詞の一つになるでしょう。
難しい議論は省略しますが、この「立ち上げる」への違和感は自動詞と他動詞の混用に起因しています。
もちろん、「立ち上がる」(相撲)「建(立)て上げる」(家)は良いのですが、「立ち上げる」は許せないのです。分かりやすいように並べて見ましょう。 |
|
第一類型 |
立ち上がる(立つ+上がる) |
= |
自動詞+自動詞 |
○ |
第二類型 |
立て上げる(立てる+上げる) |
= |
他動詞+他動詞 |
○ |
例外類型 |
立ち上げる(立つ+上げる) |
= |
自動詞+他動詞 |
× |
|
|
日本人はこれまでの歴史的生活の中で、自動詞と他動詞の混用を避けることを持って、長年、安定した言語空間を形成してきました。
ただし、この混用にも自動詞か他動詞か判別しにくいものなど、他に全く例がない訳ではありません。
例えば、「泣き出す」などは「泣く」という自動詞に「出す」という他動詞が組み合わされた複合動詞のように見えます。
ただ、「出す」という動詞が後ろに付く場合は、前の動詞の動作・作用が自他いずれであれ、それを更に詳しく説明する動詞が連結するものであって「泣き出す」は「泣く」という動作が今始まることを「出す」で説明しているものであり、多少意味が異なってきます。
「前の動詞の動作・作用が自他いずれであれ、それを更に詳しく説明する動詞が連結する」ものとも言え、「書き出す」「行き出す」「起き出す」などいくらでも造れるのですが、やはり、幾許かの違和感が付きまといます。
私はここら辺りから…自動詞+他動詞の混用への水路が新たに開かれたように思えるのですが、無論、責任は持ちません。
いまさら、元に戻せなどと声高に叫ぶつもりはありませんが、意識した上で見守って行くしかないでしょう。
このような、言語、言葉、方言現象、引いては地名といったものに対する観察と意識性を持ち続けることが必要ではないかと考えます。 |
|
「立ち上げる」が増殖した背景 |
|
この言葉はコンピュータの数が増大するとともに一挙に普及しました。
コンピュータはベーシックの時代から特殊な言葉を使っていました。
起動はスタート・アップでしょうが、セット・アップ、インストゥール、ログ・オフ…と煩わしい限りです。
ただ、これが使えないと、何の仕事もできないことになってしまい、無論、善悪、功罪はあるのですが、好むと好まざるとを問わず受け入れざるを得なくなってしまったのです。
コンピュータ言語も大量に増殖し、逆に積極的にあやかろうとする人々の側から多用する動きが生まれたのです。
一応、言語の意味など全く気にもとめない工学系の、良く言えば自然現象をそのままに取り上げる(ある種無機質な人々)の間から発生した業界用語とは言えますが、それがあくまでも業界内だけで流通している間は良かったのですが、急速な拡大、逸流によって社会が取捨選択する時間を逃してしまったのです。
ただし、自動詞と他動詞という区分を超えて面白いと思うのは、コンピュータはスイッチを入れさえすれば、後は勝手に自分で起動してしまうのです。
この点、テレビジョンがスイッチ一つで見られるのとは異なり(真空管の時代は30秒近く掛かっていましたが)、実際に多くのソフトを起動させ、セキュリティーの面まで処理するなど大量の作業を独り手にやってのけるのですから、現象だけから言えば自動詞+他動詞という関係がぴったりしているとも言えるのです。
まさしく、前述した「工学系の、良く言えば自然現象をそのままに取り上げる…」が生み出した新たな言語なのかもしれません。
つまり、コンピュータはある種のロボットに近いものであり、金槌で釘を叩くようなものではないからです。
勿論、故人的には「立ち上げる」などという言葉は絶対に使いませんが、皆さんは皆さんのお考えでお好きなようにお使いになれば良いでしょう。
問題は、理解して使用するという感性なのです。 |
日本の言語文化を憂いつつ |
|
武雄市 古川 清久 |