久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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“雑餉隈(ザッショノクマ)という古代の饗応処に関する作業仮説”
 福岡市に雑餉隈(ザッショノクマ)という変わった地名があります。
“隈”は福岡県(金隈、月隈、七隈、干隈、道隈・・・)、佐賀県(日の隈、鈴隈、早稲隈、山隈、帯隈・・・)、熊本県などに数多く分布する地名で、海や湖と河川邂逅部などに付く地名です。九州ではそれほど珍しくありませんので、ここでは隈そのものについての話はしません。
クマという地名用語は、『岩波古語辞典』によれば、(1)湾曲しているものの曲  り目。(曲)(2)奥まったところ(隈)。(3)暗く陰になっているところ(山かげ、 阿)。・・・
『古代地名語源辞典』楠原佑介ほか編著
 雑餉隈については、福岡市に隣接する大野城市に雑餉隈町がありますし、西鉄大牟田線の井尻駅と春日原駅の間に雑餉隈駅があります。
ただ、「雑餉」については一般になじみのない言葉だと思いますのですので書いてみたくなりました。
 私は佐賀県でも有明海沿岸で多く仕事をしてきました。このためこの地域の言葉と日常的に接してきたのですが、ここには、方言と言うよりも鎌倉時代やそれ以前から使われていたと思われる古語が多く残っています。
その一つに“オザッショウ”があります。現地で使われているのは“お御馳走”というほどの意味ですが、ここで広辞苑を見てみましょう。
ざっ・しょう(・・シヤウ)【雑餉】
もてなしのための酒や食物。雑掌。日葡辞書「ザッショウヲヲクル」
雑掌。が出てきましたので、「雑掌」も見てみますと、
ざっ・しょう(・・シヤウ)【雑掌】
古代・中世に、国衙(こくが)・荘園・公卿・幕府などに属して、種々の雑事を扱った役人。特に訴訟に従事したものを沙汰雑掌という。雑掌人。
近世、公家の家司(けいし)の称。
1872年(明治5)宮内省に設けられ、宮中の雑役をつかさどった判任官。86年廃止。
雑餉(ざっしょう)に同じ。
 現地の雑餉隈は“ザッショ”と呼ばれています。“ザッショウ”と“ザッショ”の違いはありますが、“ザッショ”は“ザッショウ”のウ音が脱落したものと考えてまず間違いないでしょう。
 さて、大野城市の雑餉隈町は御笠川と那珂川に挟まれた低地ですので、古代(仮に七、八世紀)において、博多港(那ノ津)に入った中国や朝鮮からの賓客を饗応する役所、迎賓館があったのではないかと考えています。
 那ノ津からは小船に乗り換え雑餉隈辺りまでは楽に入れたはずですが(大船でも入れたかもしれません)、防衛上も検疫上も、また、賓客が休息を取る必要からも、一旦、この地に留まり、許可が出て初めて古代の王都か副都であった太宰府に入ったと考えるのです。
 国賓クラスは別の饗応所があったことは言うまでもないでしょうが、ここは、中級クラスのそれであったかも知れません。では、最下級の水夫(カコ)、兵士などはどううだったのでしょうか?私は今宿の女原辺りではなかったかと考えますが、無論、特別の根拠があっての話ではありません。
 もちろん、単純に大和朝廷の出先機関などとは考えていません。
 有明海沿岸で仕事中に耳にした“オザッショウ”という古語と、そのことから分かった博多湾奥の古代饗応処(拠点)に関する作業仮説です。
※ 本編は『有明臨海日記』No.25に掲載の再編集版で地図は昭文社の県別道路地図
 ここまで書くと、大和朝廷の難波(大阪)、平安京(京都)の三ヶ所に置かれたものの一つ鴻臚館(コウロカン)のことを知らないのか?と言われかねません。
 難波の鴻臚館は承和十一年(844)摂津国府になり、平安京の鴻臚館は羅城門に置かれますが、弘仁中に七条朱雀へ東鴻臚館・西鴻臚館として移されたとされるからです。
「鴻臚館」も、「筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、平安時代初期に唐の外務省に相当する役所の“鴻臚寺”にならい「鴻臚館」と名を改めたとされています。
 筑紫館については書紀の持統二年(688)に新羅国使をもてなし、鴻臚館についても、承和五年(838)に遣唐副使の小野篁が鴻臚館で唐人と詩を和すという記述があるからですが、これをそのまま真に受けることの問題はおくとしても、一般には七世紀の筑紫館も併せ、大和朝廷による九州支配と外交用の迎賓館といった理解がなされているのです。
 しかし、近畿天皇家=大和朝廷の歴史は高々千三百年程度のものでしかないという古代史の真相=深層を知る九州王朝論の立場からは、これらは容易には信じがたい話に見えます。
 この激動の七世紀、百済が亡び(660)、九州以東はもとより半島までも版図を広げていたと考えられる九州王朝は、国土回復戦争にも見える白村江の戦い(663)に敗北するのですが、これを戦ったのは近畿大和勢力などではなく九州王朝そのものだったのですが、
以後、衰退に向かいます。
 しかし、その後も八世紀初頭まで、この地を中心に九州王朝が存続していたと考えられているのです。
 当然にも筑紫館もこの残存王権の外交拠点だったのです。
 これについて、「太宰府は日本の首都だった」他(ミネルヴァ書房)を書かれた内倉武久氏は、最近も以下のような見解を示しておられます。
 鴻臚館は九州倭政権の外交施設で、百済、新羅、高句麗、中国など外国からの賓客を宿泊させ、またもてなしの宴会を催した迎賓館の遺構である。
 迎賓館は太宰府の南、小郡市にもあったらしい。福岡市教育委会などは「大和政権が七世紀後半に設けた迎賓館施設『筑紫の館』である」と強弁しているが、C14による年代測定では、トイレ遺構の底にあった木片が四三〇年前後の年代を指しており、水城や太宰府の楼閣群と同様、五世紀中ごろには完成していたと考えられる。
 国家の重要な施設である迎賓館は都に近接した場所に置くのが常識で、中国の史書・隋書に記す隋(581~619年)の使者裴清らも「都の郊外で歓待された」ことが記されている。近畿和政権の迎賓館なら奈良県、あるいは大阪府のどこかになくてはならない。
 難波の鴻臚館も平安京の鴻臚館も九世紀のものでしかなく、九州の鴻臚館についても、これが発掘されていた当時朝日新聞の考古学担当の記者として内倉氏が把握していた木片の絶対年代=四三〇年前後が事実であったとすれば(勿論、真相でしょうが)、最低でも六世紀から八世紀初頭まで大和朝廷に先行する独自の年号(九州年号)を持っていた九州王朝の公式の外交拠点であったことが推定できるのです。
 では、それ以前の外交拠点はどこにあったのでしょうか?
 誰でもが良く知っている志賀島で発見されたとされる一世紀(57)の「漢委奴國王」印が示すように、この北部九州の地には確実に半島、大陸との外交関係が存在したのであり、それに付随する外交拠点があったはずなのです。
 そして、その可能性が最も高いのが雑餉隈ではないかと考えているのです。
 福岡空港は現在も非常に低い土地であり、百年と遡るまでもなく広大な湿田、湿地が広がっていたと言われ、古博多湾、古博多湖の存在が指摘されています。
 ここでも問題になるのが水城です。
三世紀まで遡る水城(パノラマ撮影したもの)
 白江戦の敗北により太宰府は郭務悰ら二千人の唐の軍隊により九年間の占領を受けます。そうであるにも拘らず、水城は通説派によって日本防衛のため、外敵に備えて天智天皇が造ったと説明され続けています。
 これについても前述の内倉氏は以下のような見解を示されています。
現在、福岡県教育委員会はこの施設を日本書紀の「天智天皇三年(664年)に造った」という記述に由って七世紀後半に建設されたと言っている。ところが、底部に幾層にも敷かれた小枝(敷ソダ)を放射性炭素(Ⅽ⒕)によって年代測定したところ、西暦二四〇年、四三〇年、六六〇年と出た。また、堤の下部に敷設されている木製の樋も四三〇年という年代を示した(九州大学・坂田武彦氏の測定)。
土塁は三時期にわたって築かれたことは発掘調査でわかっている。Ⅽ⒕の測定結果から土塁はまず卑弥呼時代に築かれ、五世紀前半にはほぼ現在の形として完成。最後は九州倭政権が国家の興亡をかけた白村江の戦い(六六二年)を前に首都の防備を固めようと補修工事していたと考えられる。糸島市の雷山千如寺の縁起には「(日本書紀が卑弥呼になぞらえようとしている)神功皇后の時代に水城を築き、敵を溺れさせた」という記述があり、Ⅽ⒕測定値が伝説を裏付けた形になった。
考古学界は大和政権のPR文書である日本書紀の記事に惑わされて築造時期を誤っている。御笠川をせき止めて土塁の内側に水を貯め、敵が近づいた時に、底部の六ヵ所?に設置された水門から水を一気に流して溺れさせようとした施設とみられる。
(いずれも当研究会が内倉武久氏より直接入手したもの)
 鴻臚館と同様に通説が主張する水城の築堤時期は全く信じることができませんが、それ以上に水城が卑弥呼の時代まで遡る相当に古いものであることが見えてきます。
 してみると、水城自体も古博多湾の湾奥に位置していた可能性があり(菅原道真が左遷された時もこの辺り=水城の下流に船で上陸しています)、雑餉隈一帯とは、いわば、古代のウォーター・フロントであったと考えられるのです。
 これは雑餉隈という地名を考える中で見えてきたことですが、異国からの来訪者を直ぐに自らのハート・ランド=太宰府に受け入れることは、防衛上も検疫上ありえないことでしょう。
一旦は古代から存在した防衛施設である水城の外側に饗応施設を置き、安全が確保できた時点で懐深く受け入れることは、古代においてはより重要であったと考えられます。
 鴻臚館以前の筑紫館、そして、それに先行する古代饗応処があったはずで、雑餉隈はその痕跡地名ではないかと考えるのです。

2007年12月31日に書いた雑餉隈(ザッショノクマ)に内倉武久氏からの近稿を加え開催するもの。
参考資料
武雄市 古川 清久
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