久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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元宮崎県学芸員 鶴田裕一
久留米大学公開講座に於ける講演(2012年)
元宮崎県学芸員
鶴田裕一

2時間36分音声 011

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1.はじめに
 寛政5年(1793)久留米で自決した高山彦九郎(1747~1793)は、その筑紫日記の旅の中で薩摩を訪れている。その際、薩摩の国学者、白尾国柱(1762~1821)と交流を深めている。さてこの国柱であるが、島津重豪(1745~1833)の命により薩摩領内を調査し、「神代三陵考」(可愛、高屋、吾平)を著している。この資料を託された彦九郎は、旅の途中熊本に立ち寄り、本居宣長(1730~1801)の高弟としても知られる長瀬真幸(1765~1835)にそれを手渡している。この資料は筆写され、後に鹿児島に返却され、現在も県立図書館で見ることができる。私がこの由来を知ったのもこの写本による。江戸時代後期に勤王思想が高まり、神代山陵に対する情報が必要とされていたことがうかがえる。
 また、同時代の蒲生君平(1768~1813)は、「山陵志」を著し、大和や河内等の古代天皇陵について考察している。その範囲は佐渡にも及んでいる。君平の出身地である栃木県宇都宮には、明治天皇の勅命により顕彰碑が建立され、その功績を賞されている。行幸の際にも、その子孫に賞与があったという。
 こうした人々の活動により、江戸から明治へ、つまり近代天皇制への布石が敷かれたと言ってよいだろう。
 さて、わたしがこれから話そうとしている「天孫降臨」「神武東征」について、山陵についての話題を避けて通ることはできない。その存在地を考えることが、ニニギが天降った地、神武の東征の出発地へと導いてくれると思うからだ。江戸時代から研究され、明治の早い時期に鹿児島の山陵は治定された。また、宮崎県についても同様の経緯の後、参考地として認められている。両県の山陵は、近代天皇制を支える重要な要素として形づくられてきた。そしてこれらは色々な角度から宣伝され、人々の意識の中に組み込まれていった。人々はこの情報に接してどのように反応してきたのだろうか。自由な発想で対応してきたのだろうか。いろんな思惑の中で、情報が歪曲され、利用されてきたことはなかっただろうか。その答えは、これまでの歴史が示すとおりであり、私が言及するまでもないことである。
 さて、私は、常々「天孫降臨」について、どうして孫なのかと不思議に思っていた。今回それについても後ほど述べてみたい。
 それではまず、「天孫降臨」「神武東征」の伝承地とされる宮崎県、鹿児島県について、過去、現在の対応について見ていくことにしたい。
2.「天孫降臨」「神武東征」等への対応
宮崎県の場合
 本年2012年は、古事記編纂の712年から1300年目にあたるというこ とで宮崎県は4枚のポスターを作成した。「天孫降臨」「海幸山幸」「神武東征」と題された3枚と「古事記、天衣無縫の物語」と題し、由緒の地へと誘う1枚で ある。このポスターは、関係のあると考えられる各所に掲示されている。また、所々にボランティアが配置され、訪れる人々に由来を伝えている。勿論、講座を行い、同じテキストで養成された方々である。
 それから、伝承地をつないだ神話街道が設定されている。ルートは、県北西部の高千穂から県央の西都市、宮崎市、南部の日南、県西部の霧島高千穂峰を結んでいる。WEBや刊行物などで、その道筋を知ることは容易であるが、神様の通った道であるので、車で走るのはなかなかきびしい。崖崩れなどで通行止めになっていることも多い。
 それでは、神話街道に含まれている所を何ヶ所か見てみよう。
まずは、県西北部の高千穂町から。岩戸神社は、その対岸、岩戸川の絶壁の岩陰に天の窟があるとしている。つまり此処に天照大神が籠もったとするのである。しかし、窟の扉である岩戸は、手力男命が開けたとき、そのまま信濃の戸隠まで飛んでいったという話になっている。そして、その孫ニニギノミコトは、そこからほど近い、同町内三田井の地へ降臨したとなるのである。天孫降臨の地、高千穂であるが、何とその町内で話しが完結してしまうのである。つまり、天孫降臨とは、高千穂町内岩戸地区から三田井地区への移住だというわけである。
次に、県中央部西都市西都原にある男狭穂塚。これは、ニニギノミコトの墓とされ、御陵墓参考地になっている。九州最大の前方後円墳、女狭穂塚と隣接するこの古墳は円墳とも造り出し付古墳とも帆立貝型古墳とも言われる巨大古墳である。全長はいろいろな測定値があるが、一応約175mとしておく。平成16年、西都原で行われた全国植樹祭で、今上天皇は、「数多なるいにしえ人のねむりいる西都原台地に樹を植える」と詠まれている。
宮崎市のメインストリートは、橘通である。また、海岸近くの阿波岐ヶ原には、みそぎ池(御池)がある。これは、近くにある式内社である江田神社の祭神が、イザナキノミコトであることから考えられたようである。いわゆる「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」によると考えられる。こうした近くにある神社の祭神から由緒地を導こうとする手法は常套手段として使われ、いくつも候補地が出現する原因となっている。ちなみに、宮崎市内の学校名に、小戸小学校、檍小学校、檍中学校が存在する。
県西部、霧島山の高千穂峰の麓には、神武天皇が馬に乗って出立したという馬登という地名がある。これは、神武の幼名にちなんだ狭野神社が同じ高原町内あることから考えられたようである。この場所は、九州自動車道高原(たかはる)ICから小林方面に向かうとすぐの場所である。
また神武東征の出発点として県中央部日向灘沿いにある日向市美々津が考えられている。これも、日向の国で港と言えば美々津が挙げられるので、神武が船出したのは、ここであると考えられたようである。記紀に美々津を表す記述は皆無である。お船出の地なので日本海軍発祥の地と解釈され、大きな錨のモニュメントが戦前作られた。その題字は、海軍大将米内光政の筆による。
 宮崎は神話の国である。これは、大正初年から行われた西都原の発掘調査の後、言われたことばである。字面だけ見ると、なるほど宮崎は神話伝承が数多く残り、まさに神様の国、神話の国であると思ってしまう。しかし、これは褒め言葉ではない。これだけ多くの神話があるのであるから、さぞかし多くのお宝が出土するであろうと、当時の関係者は期待していたのである。話しはあっても物はない。神話の国というのはそういう意味である。
 さて、西都原周辺の山陵について研究考察した人物がいる。現在の西都市三宅 の児玉実満(1765~1836) である。西都原に「笠狭之碕」があり、自分の関係する三宅神社が正統 であると主張する「笠狭大略記」を著し、それを絵地図にまとめた「日向国神代絵図」を作成している。彼を訪ねて、はるばる京都から玉田永教や三条実萬につながる山陵会の関係者も来妻(西都市妻)し、著述を残している。
鹿児島県
 宮崎県の神話街道に対して、鹿児島県の主張ははっきりしている。ニニギノミコトが天孫降臨して過ごした笠沙の宮を、薩摩半島南部笠沙町に比定している。此処には、阿多も長屋もある。ニニギミコトの墓(可愛山上陵)を薩摩半島中部、薩摩川内市新田神社に、ヒコホホデミノミコトの墓(高屋山上陵)を薩摩と大隅の境、霧島市溝辺町に、ウガヤフキアエズノミコトの墓(吾平山上陵)を大隅半島中部鹿屋市吾平町に比定している。そして、志布志湾岸から神武は東征したとしている。つまり、鹿児島県を西から東に横断していることになる。いずれも神社の祭神や近傍の地名がその決め手になっている。その治定の経緯であるが、明治当初から手が打たれており、その動きは速い。前述したように江戸時代後期から調査は行われている。明治5年には鹿児島への行幸があり、宿舎から山陵を遙拝されたという。その後明治7年に教部省が山陵に関する申請を認め、明治10年1月に鹿児島県から教部省に提出する予算書に県令大山綱良の決裁が下りている。直近の3月に西南戦争が起きるので御陵の整備はその後になる。3つの御陵はいづれも御陵墓参考地となり、それぞれに宮内庁書陵部桃山陵墓監区の事務所がある。これらの治定は、薩摩の学者、白尾国柱、後醍院真柱、田中頼庸、樺山資雄等の論考がもとになっている。
 以下、神代三山陵等の両県の所在の一覧である。
  被葬者 宮崎県 鹿児島県
笠狭之碕 ・・・・・・・・・・ 西都市西都原
延岡市愛宕山
南さつま市笠沙町
可愛山陵 ニニギノミコト 延岡市北川町長井
西都市西都原
薩摩川内市新田神社
高屋山陵 ヒコホホデミノミコト 西都市都於郡
宮崎市村角
霧島市溝辺町
肝付町内之浦
吾平山陵 ウガヤフキアエズノミコト 日南市鵜戸
高千穂町吾平
鹿屋市吾平町
 では次に、天孫降臨以前のアマテラスオオミカミ及び天の窟等について考察してみよう。
3.天の窟及び壱岐・対馬に関する考察
阿麻氐留(あまてる)神社について
 長崎県対馬市(上対馬町、上県町、峰町、豊玉町、美津島町、厳原町が合併し、一島一市になった)の小船越に阿麻氐留神社が所在する。ここは地峡であり、一番狭いところで幅はわずか約180mである。つまり、東側の海(日本海)と西側の海(浅海湾)が指呼の間にあるのである。そこを見下ろすように神社は鎮座している。
 船越という地名からも分かるように、ここは船を運んで陸地を越えたり、人が船から下りて西海岸で別な船に乗り換えるということが行われたところであろうと考えられる。土地の説明板の記事を引用する。
 「南から深く湾入してきた三浦湾の湾底が小船越である。小船越の地名は古代~中世にかけてこの丘を舟を引いて東西に越えたことに由来している。津島記事によれば「此の里、西の方浅茅浦と崗ひとつを隔つ、その間一町参拾八間有、西の浦を西の漕手と云う」
 西の漕手(こいで)についての説明板には、
「この地は浅海湾東奥部、西漕手浦と東の小船越浦が接する地峡部で、小舟は丘を越え西あるいは東の浦に下り、大船は積み荷を降ろし、船を乗り換えた。7世紀から9世紀、遣唐使や遣新羅使は、この浦に来て下船し、西の漕手浦に用意された別の船に乗り換え彼の地に向かった。」
 さて、このような地理的条件から次のようなことが予想できる。
舟及び荷物の運搬・準備、食料及び休息・宿泊施設の提供等の経済活動
これらの仕事に対応する人員の確保・組織化
壱岐や韓国との間の船便の確保、水先案内・誘導
国内外の物資・人員の移動に伴う税関的な業務の発生等である。
 そしてこのことによって集団が発生し、権力構造が構築される。つまり阿麻氐留神社は、東西の海を見下ろし、運搬される道筋の上の丘に鎮座ましましているということになり、この地域の頂点に立つ神様と言うことになる。対馬を代表す る存在であったかどうかはわからない。有力者であったということは間違いないのではないだろうか。さらに、海上の物資、旅客の輸送への発展も考慮される。
 この阿麻氐留神社の祭神であるが、もちろんその名前から天照大神であるということが考えられる。現在の祭神は、天日神命(ヒノミタマノミコト)とされている。江戸時代には、照日権現と呼ばれていたという。場所は違うが、鹿児島県に照日神社があるが、これは大阪から移住してきた人々が、伊勢神宮を江戸時代に勧請したものであるという。また延喜式にも、阿麻氐留は認識されているが、神名はない。それより古い時代には、阿麻氐留(天照大神)が祭神であったが、その頃には既に忘れ去られてしまったというところが、うがった見方であろうか。対馬では他に「オヒデリさま」や「天道信仰」などの日の神もあり、こうした太陽信仰は、日本全国に数多く存在するものである。
 対馬の中心地は、江戸時代、府中と呼ばれていた。しかしながら、明治時代になり、府中という呼び名は天皇に対して申し訳ないという理由から、厳原と変えられたという。府中は、国内にも現在数カ所見られるというのに。天照大神の初 めは此処であると主張することは、伊勢神宮があるのに、対馬がその元祖を名乗るのはいかがなものであるのかというところだろうか。
 小船越の北約15km、同じ東海岸に佐賀(さか)貝塚がある。ここは市街地であり、調査されたときの範囲はごく限られているが、多くの打製石斧(312点)が出土している。その内の半数は未製品である。これはできあがった品物は販売されてしまい、供給元にはあまり残らないからである。製品の輸出先は壱岐ではないだろうかと佐賀貝塚の調査をされた方から話をうかがった。さらに、頁岩で作られた穂摘具(石包丁)も壱岐へ送っていたのではないかと言われた。壱岐には材料となる適当な頁岩はないが、頁岩製の穂摘具が出土しているという。但しそれが対馬の頁岩かどうかは現時点ではわからないという。この佐賀は、対馬領主である宗氏の館も一時置かれていたところで、東海岸の中心地の一つである。
 以上のことから次のように考察したい。小船越での経済活動により富を蓄積し、権力を確立した阿麻氐留は壱岐へと進出する。あるいは韓半島へも歩を進めたのかもしれない。壱岐一宮である天手長男神社の祭神アメノオシホミミは、ニニギの父、アマテラスオオミカミの子とされる。その妻は、天手長比売神社の祭神タクハタチヂヒメである。対馬から壱岐と進出した阿麻氐留、そしてその子孫ニニギが目指すのはその目前に広がる陸地である。
 広く知られる神話伝承では、アマテラスオオミカミは、女性とされているが、阿麻氐留が男性なのか女性なのか判然とはしない。おそらく、女性とされたのには、天の窟伝承が関わってくるのではないかと推察する。次に、天の窟の正体に ついて考察してみたい。
石屋根倉庫の存在について
 対馬の西南部に椎根という集落がある。ここに、島内で産する島山石で屋根を葺いた石屋根の倉庫が存在する。これがアマテラスオオミカミが籠もったとされる天の窟ではないかと考える。
まず文字通り石で葺かれた屋根を持ち、窟(いわや)と呼ばれるのも、なるほどと思われる。いつの頃から作られているかは不明であるという。
窓はなく、二重の引き戸になっており、害獣の侵入を防ぐために厳重に作られている。米の貯蔵庫や大切なものを納めておくというのが使途である。中に人が入ったら、外からなかなか開けることはできないそうである。外からは開けようにも、手がかりとなる取っ手もついていない。
家から離れたところに作ってあり、火事による延焼を防ぐようになっている。
対馬に数多くの古文書類が残ったのもこの倉庫によるという。また、人々がその周辺に集まることも可能である。人々が集会を催し、天照大神の興味関心をそそったという話しに対応していると考える。
この倉庫の形式は全島に分布している。神功皇后が朝鮮半島に向けて船出したと言われる鰐浦には、現在も数多くのこの形式の倉庫が存在している。但し、現在の倉庫は瓦屋根になっている。椎根以外では、石屋根は見られない。椎根で見た石屋根倉庫で一番新しいものは、昭和13年に造られたものであった。壱岐にはこの倉庫の形式は見あたらない。もし、対馬から移住した人たちが同じような倉庫を造ろうとしたとき、おそらく適当な石がなかったものであろうと思う。
 こうした、私が考える状況証拠と言えるものは存在するが、現地には伝承のたぐいは見あたらない。話しとしては、例えば、オヒデリ様は、陰暦の九月末、出雲へ旅立つ神々を見送り、自身は出雲へは行かず、留守番をするという。霜月のはじめには、神々を出迎え、山へ帰られる。このときに「本山送り」という祭りが盛大に行われる。
 以上、阿麻氐留神社と石屋根の存在から、いわゆる天の窟の伝承は対馬にあったものではないかと考える。
 さて、天の窟にアマテラスオオミカミが引き籠もったのは、その弟須佐之男命の所業ためとされている。九州に先行する出雲主神である須佐之男が何故このように貶められなければならなかったのであろうか。それは、勿論筑紫により出雲が征服されたからであり、筑紫にとって出雲が越えなければならない存在であったからに他ならない。島根県出雲市佐田町須佐には、須佐大宮がある。須佐之男命が主神である。そして、この大宮の正面には参道を挟んで天照神社が存在する。このことは、記紀の記述とは反対に天照が須佐之男の第一の配下であったことの証拠ではないかという気がする。何もそれに関する伝承はない。
最後に天孫降臨と神武東征について考えてみたい。
4. 天孫降臨と神武東征について筑紫と日向から考察する。
はじめに
 森鴎外は、その作品「長曽我部信親」 (1)の冒頭で次のように記述している。
「頃は天正十四年しはす半ばの朝まだき、筑紫の果ては夜も闌けて、霊山おろし吹きすさむ、戸次の川の岸近く(後略)」(霊山とは阿蘇山を指す。南阿蘇には「れいざん」という名称の清酒が存在する。)
ここで言う「筑紫の果て」とは、現在の大分市南部大野川流域を指している。鴎外の認識では、豊後の大分は筑紫の領域からすると果てにあたる地域であるということなのであろう。それでは、古代において「筑紫」や「日向」の所在位置は、どのように認識されていたのであろうか。筑紫の用法から、天孫降臨の地へと迫ってみたい。以下日本書紀 (2)の記述から見ていく。
筑紫の用法について
 各箇所で記述されている「筑紫」がどの地域を表すかについて、その後に続く地名を見ることによって窺い知ることができると考えられる。つまり「筑紫」+地名あるいは「筑紫」+地名+αということである。まず、書記で使われている用法を取り上げてみてみる。
「筑紫」+地名、「筑紫」+地名+α
筑紫日向小戸橘之檍原 (3)
 日本書紀通釈 (4))(以後通釈)によると、「筑紫は筑前筑後の域を云うは本よりなれど、ここは九国を都でも云へるなり」とあり、筑紫は九州全体を指し、日向は現在の宮崎県を指すとしている。つまり、筑紫プラス国名という記述である。
筑紫胸肩君等所祭神是也 (5)
筑紫水沼君等祭神是也 (6)
 これらの筑紫に続く地名、胸肩、水沼は、現在も残る地名、宗像、三潴に相当すると思われる。筑紫国内である。
筑紫日向可愛可愛此埃之山陵 (7)
筑紫日向高千穂?觸之峯 (8)
 前述のように筑紫は九州全体を指し、日向は現在の宮崎県にあたるというのが従来の説である。瓊瓊杵尊が降臨した高千穂、葬られた可愛山陵は日向の国、宮崎県にあるというのは、この記述からきている。
筑紫国菟狭 (9)
筑紫国崗水門 (10)
 菟狭は、宇佐であるという註がある。つまり現在の大分県宇佐市付近を指しているということになっている。宇佐神宮境内には、神武天皇一柱騰宮址の石碑が建っている。しかしながら、宇佐は豊前であり、筑紫国内ではない。鴎外の言う筑紫の果ても筑紫国内であるというのなら、この記述も首肯できるのだが。菟夫羅媛(つぶらひめ)という人名も別な箇所に記されている(11)。辞書によると、菟は、「トもしくはツ、ヅ」という読みがある (12))。それならば、「菟狭」は「トサ」 もしくは「ツサ」「ヅサ」と読むことになり、宇佐とは全く別なところとなる。つまり、筑紫国内にあるこの地名を探せばよいということになる。また、宇佐ほどの有力な神社であることも視野に入れておかなければならないであろう。例え ば、宗像大社などを考えたい。なお、通釈では、宇佐という註が削除されている。曰く「(宇佐とあるは)きわめて後人の加筆なり」(()書きを付加)
 崗水門は、遠賀川河口近く芦屋町にこの名前を冠した神社、岡湊神社が存在しており、岡垣という地名もあり、筑紫国内であると考えられている。
筑紫伊覩縣主祖五十迹 (13)
 伊覩は伊都に通じ、魏志倭人伝 (14)に出てくる伊都国という古い地名もあり、現在も福岡県前原市で使われている。筑紫国内である。
筑紫橿日宮 (15)
 ここに出てくる橿日宮は、香椎宮と考えられており現在の福岡市内に鎮座している。仲哀天皇、神宮皇后が御祭神となっている。
生於筑紫之蚊田 (16)
 福岡県糟屋郡宇美町は、神宮皇后がこの地で応神天皇を産んだので、「産み」から「宇美」という地名がついたとされている。ここが蚊田の里であるという。福岡市の東に隣接している。
於筑紫各羅嶋 (17)
 各羅嶋には「かわらのしま」とルビが振られている。これに従うと、筑豊地方にある香春岳や現在の田川郡香春町などを当てはめることができるであろう。この記述は、百済の武寧王の生誕にまつわるところである。佐賀県唐津市内の旧鎮西町にある加唐島をこれにあてる説もあるようである。
至筑紫嶋生斯麻王 (18)
 これも武寧王の誕生に関する記述である。ここでは各羅は抜けている。既に記載されているので省略したとするならば、香春の嶋となる。また、嶋という地名を探すと、現在の志摩町が想起される。あるいは九州全体を一つの島と考えたということも有り得るが、嶋で生まれたから斯麻王と名付けたということからすると、九州全体は考えにくい。
交戦於筑紫御井郡 (19)
 これは、筑紫国造磐井と戦った記事である。御井郡は、現在三井郡と書かれ、磐井と深いつながりのあったと考えられる地にその名が残っている。
筑紫国膽狭山部 (20)
置筑紫穂波屯倉鎌屯倉 (21)
 膽狭山は、「いさやま」とルビ が振られている。通釈(22))によると 豊前国京都郡諫山に比定している。これは、現在の福岡県みやこ町勝 山町になる。諫山村が勝山町と合 併し、さらに郡名をとってみやこ町となったものである。筑豊から山を一つ越えたところにある。
 穂波はかつての穂波郡で筑豊西部。 鎌はかつての嘉麻郡で筑豊東部 (24)にあたる。筑紫の国の遠賀川流域に屯倉を置いたという記事である。
竹斯嶋 (25)
 ここに現れている竹斯嶋とは「ちくし」と読むことはできても「つくし」と読むことは、むずかしいと言わざるを得ない。いわゆる筑紫を別な漢字で記したということであろう。これから筑紫は「つくし」ではなく「ちくし」と読むということが考えられる。
発自筑紫大津之浦 (26)
 これは、筑紫を発して百済の南畔の嶋に向かう件である。大津之浦がどこか特定することはできないが、朝鮮半島に対する北部九州であることは疑いようがない。 娜大津(27))という記述があるが、これは那珂川の河口にあたる博多港と考えられる。ここでいう大津之浦とは現在の博多湾岸を指すと考えられる。
筑紫大郡 (28)
 この大郡とは、通釈(29))によると小郡か大野であると説く。小郡は現在も小郡市 があり、大野については古代の城大野城が大宰府の北に聳えている。筑紫国内の地名と考えて良いであろう。
於筑紫小郡 (30)
軍丁筑紫国上陽咩郡大伴部博麻 (31)
 筑紫小郡については、前項にもあるように現在も地名が小郡市として残っている。上陽咩郡は「かみつやめのこおり」と読まれ、八女という地名は残っているし、大伴部博麻は、久留米城内や出身地とされる上陽町にはその功績を称える石碑が建立されている。
筑紫の位置を推定できる記事について
次に筑紫の位置を推定できるような記述を見てみよう。
将軍来目皇子到于筑紫乃進屯嶋郡而聚船舶運軍粮 (32)
 この場面は、新羅を撃つために来目皇子を将軍として、筑紫の嶋郡に軍勢が集結したところである。ところが、にわかに皇子は薨去される。その墓が糸島郡志摩町に伝承されている。ここで言う筑紫は、筑紫国と考えられる。
送王子忠元於筑紫 (33)
 新羅の王子忠元を筑紫にて送ったという記事である。これも北部九州を指し、九州全体を指すものではないと考えられる。
居筑紫南海中 (34)
 これは多禰嶋に遣いを送ったという記事である。ここでいう筑紫は九州全体を指しているとも考えられる。また、三国志に「倭人在帯方東南大海之中」(35)という倭人伝冒頭の記述がある。これも、朝鮮半島に置かれた帯方郡を半島全体の呼び名として使用していると考えられる。つまり、筑紫は九州全体を指しているのではなく、その一部ではあるが、代表する地名として捉えられ、その南にあると記述していると考えることもできる。ちなみに、多禰嶋は種子島であると考えられる。確かに方角からいって筑紫の南方になる。
 以上筑紫について見てきたが、筑紫プラス国名という記述は、筑紫日向以外にない。その他は、いずれも筑紫国内、もしくはその周辺部ではないかと思われる箇所が少数存在する。
日向の用法について
 日向の記述は、天孫降臨や景行天皇の九州巡狩、応神・仁徳紀の髪長姫の件に頻出する。興味深いのは、神代紀は筑紫の日向あるいは日向単独で記載されているが、その後は筑紫が冠されている箇所がないことである。神代紀の用例を以下見てみる。
 なお、筑紫の項で記述したところと重なるところがあるが、比較するためであるので、再度記載する。
筑紫日向小戸橘之檍原 (36)
日向襲之高千穂峯 (37)
筑紫日向可愛山陵 (38)
當到筑紫日向高千穂槵觸之峯 (39)
到筑紫日向高千穂槵觸之峯 (40)
降到於日向槵日高千穂之峯 (41)
到於日向襲之槵日二上峯 (42)
呼曰日向襲之高千穂添上峯 (43)
葬日向高屋山上陵 (44)
葬日向吾平山上陵 (45)
 以上が神代(巻一、二)における日向の記事である。筑紫つまり九国の内の日向という表現があり、日向単独の記載がある。この違いは何であろうか。考えられるのは、筑紫が省略されているということである。つまり、本来は神代巻ではすべて筑紫日向となるという考え方である。なぜ省略したのかはわからない。しかし、ここで問題となるのは、筑紫とは九州九国全体を指すのか、筑紫国を指すのかという点である。
まとめ
 筑紫の日向とは、現在で言うならば「九州の宮崎県」ということであると従来考えられてきた。確かに九州の鹿児島県とも言えるであろうし、九州の熊本県ということも言える。他の県にしてもそれは可である。しかしながら、日本書紀には不思議なことに、これまで見てきたように、筑紫の日向とのみあり、筑紫の豊も筑紫の肥もない。逆に「筑紫肥豊三国屯倉」 (46))という記述は並列になっており、これなどは確実に筑紫国となる。それから、筑紫火君 (47))という記述もあるが、これは註に「火、原作大」とあり、元来「筑紫大君」と記述されていたものらしい。しかし、「筑紫大君」とはいかにもおかしいとでも思ったのであろうか、書き直したのが真相というところであろう。
 さて、この日向だけ特別に筑紫を冠しているということは、どう考えればよいのであろうか。考えられることは、日向が国名ではなくて、筑紫国内の地名であるということである。こう考えると、日向という国名だけ特別に筑紫に続く不自然さはなくなる。
 つまり、筑紫の日向とは、筑紫国内の日向を指すと考えたい。そして、筑紫国内の同じ地点を指すものと考えられる。もし、複数あるならば、区別するために郡名をつけることなどが必要になるからである。さらに言えば、当時の人たちにとって筑紫の日向といえば、すぐに理解できる場所であっただろうということである。日向という地名とともに特筆すべき遺跡地や出土品のある場所がその候補地となる。 その候補地は、福岡市西部、飯盛山の東に広がる扇状地に所在する吉武高木遺跡である。剣・玉・鏡という三種の神器の最古のセットが出土している。また、床面積120㎡という大型建物跡も見つかっている。そしてここは日向とも呼ばれ、日向川が室見川に合流し、ニギノミコトの墓とされる可愛山陵とおぼしき地でもある。それは、川が合流する地、川合(可愛)となる。日向峠もある。
5 おわりに
 天降ったニニギノミコトは、王朝の始祖である。その直系は北部九州にとどまり、傍系は各地に配されたり、新天地に移住した。神武の後裔は、傍系であるが故にその始祖を九州王朝以前に求めた。中国風に言えば、始祖であるニニギノミコトは武王であり、その父であるアメノオシホミミは文王である。となれば、その先である対馬の阿麻氐留を担ぎ出してくるよりほかない。そして、その縁起として伝わっていた天の窟の出来事を神格化した。しかし、いわばこの引きこもりは、女性的な性格を持つため、本来男性神であったものを、話しに合わせるため女性神とした。一般的に考えると、男性神ならば、スサノオノミコトを懲らしめるなり滅ぼすなりするはずである。女性神であるとしたために、先行する出雲王朝のスサノオノミコトを悪い弟としておとしめ、窟に隠れる口実とした。あるいは、照姫という女性がいたのかもしれない。実際は、阿麻氐留神社にごく近しい女性が、何か気に入らないことがあり、石屋根倉庫に閉じこもったという伝承があったのかもしれない。そのとき一族が石屋根倉庫の周りに集まり、この女性を倉庫から引き出すために知恵を絞り、飲めや歌えの宴会を催したのかもしれない。そして、これが恒例となり、収穫後にでも、石屋根倉庫の周りで宴会を行うようになったのかもしれない。窟の実際を知らない人々によって、現在知られているような神話が形作られた。これが、リアルな天の窟伝説成立の顛末と考える。何故、孫を際だつ存在にしたのかという答えは、祖母を大きな存在にし、父親の姿を見えなくするためであった。ニニギノミコトの傍系の子孫であるウガヤフキアエズノミコトの子は、先祖が天降った地、福岡市日向より東に赴いた。これが結論である。
註 1) 鴎外全集著作編第一巻詩歌戯曲(岩波書店)明治36年刊 276ページ
2) 新訂増補国史大系日本書紀前編後編、日本書紀索引六国史索引一(吉川弘文館)
3) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻一神代上16ページ
4) 日本書紀通釈第一 飯田武郷(内外書籍株式会社)昭和5年刊 240ページ
5) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻一神代上27ページ
6) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻一神代上31ページ
7) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下66ページ
8) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下71ページ
9) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻三神武天皇113ページ
10) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻三神武天皇113ページ
11) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻八仲哀天皇 235ページ
12) 大漢和辞典(諸橋轍次、大修館書店)
13) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻八仲哀天皇 235ページ
14) 百納本二十四史三国志宋紹煕刊本(台湾商務印書館)423ページ
15) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻九神宮皇后 235ページ
16) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻十応神天皇 269ページ
17) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻十雄略天皇 368ページ
18) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十六武烈天皇 6ページ
19) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十七継体天皇 26ページ
20) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十八安閑天皇 41ページ
21) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十八安閑天皇 42ページ
22) 日本書紀通釈第四 飯田武郷(東京印刷株式会社)明治36年刊 2659ページ
23) 角川日本地名大辞典40福岡県 1222ページ
24) 角川日本地名大辞典40福岡県 376ページ
25) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十九欽明天皇 84ページ
26) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十六斉明天皇 270ページ
27) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十六斉明天皇 276ページ
28) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十九天武天皇 334ページ
29) 日本書紀通釈第五 飯田武郷(東京印刷株式会社)明治36年刊 3624ページ
30) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻三十持統天皇 401ページ
31) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻三十持統天皇 407ページ
32) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十二推古天皇 140ページ
33) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十九天武天皇 337ページ
34) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻二十九天武天皇 359ページ
35) 百納本二十四史三国志宋紹煕刊本(台湾商務印書館)423ページ
36) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻一神代上 16ページ
37) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 64ページ
38) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 66ページ
39) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 71ページ
40) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 71ページ
41) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 75ページ
42) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 78ページ
43) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 81ページ
44) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 87ページ
45) 新訂増補国史大系日本書紀前編 (吉川弘文館)巻二神代下 101ページ
46) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十八安閑天皇 45ページ
47) 新訂増補国史大系日本書紀後編 (吉川弘文館)巻十九欽明天皇 88ページ
「4.天孫降臨と神武東征について筑紫と日向から考察する。」は、宮崎県立西都原考古博物館2005年3月発行の研究紀要に「筑紫の日向」という題名で掲載した文章を加筆・訂正したものである。
久留米地名研究会 鶴田裕一
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