久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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資料「航空戦艦伊勢と柳田国男」
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「地名研究と天皇がどう繋がるのか?」と考えられる方もおられるでしょうが、科学的な思考がどのようなものかを考えるには面白いテーマですので、異論、反論は覚悟の上で提案するものです。
多少刺激的なタイトルに見えますが、本リポートにおいては、特別な政治的意図を持たせているつもりは一切ありません。
もちろん、私はフランス大革命期のジャコバン党やパリ・コンミューンの革命党派にシンパシーを感じるものであり、思想的、心情的にはフランス革命への限りなき憧れを抱く共和主義者です。もちろん、時代錯誤の国王とか皇帝とか天皇といった存在を許さない共和主義を必要条件の一つと考えているのであって、ブッシュの共和党を信奉しているといった意味ではありません。 
右翼の愚か者供が齎した結果としての敗戦国である以上仕方がないのですが、なんでもアメリカを模倣する日本においても、民主党は存在しえても共和党は絶対に登場しません。
それは天皇制を前提とした共和主義者などありえないからです。
あやかりとさもしさのアマルガムとも言うべき自己規制によって、既成政党としては、共和主義の党など一切登場しないのです(所詮、共産党も護憲主義の権化でしかなく、もはや共産主義者など一人もいないはずですから)。
当然ながら、スターリン主義が纏わりついた腐臭のする丸山社会学、大塚史学の延長にある天皇制論議や、それに基づいた左右の不毛な論争には一切興味がない以上に参加するつもりはさらさらありません。
 
ここでは、あくまでも“科学的な思考方法というものがどのようなものなのかを探る”という作業の一環として一文を掲載しようと思うものです。
今読めば時代に追いついてないし考え方も多少は変わっていますが、戦争についての基礎的知識も持たない反戦主義が愚かなように、それより遙かに劣る存在でしかないるネット右翼の方々を議論する意味など全くはないでしょう。
所詮、日露戦争後の日比谷焼討ち事件の連中と同じ輩なのです。
この短文は、約十年以上前(19990429)に書いていた@「天皇は『サル』の子孫か」とA「仏教徒としての現人神『天皇』」のニ稿について多少の編集を加えて掲載するものです。  
仏教徒としての現人神『 天皇 』
天皇は神ではなく仏教徒であった。少なくとも、その後神にまで祭り上げられていくことになる明治大帝陛下(大室寅之祐/おむろとらのすけ かも知れませんが)は、仏壇の前でチーンとやっていた可能性さえあるのです。もちろん一切公表はされませんが。
 
神道国教化を進めるべく、維新政府は明治元年(1866)に「神仏分離令」を出します。
そして悪名高い「廃物毀釈」運動が起こります。
『本地垂迹説の結果、民衆の間には日本の神々は仏や菩薩よりランクが低く、仏法の
番犬であるといった神祗観は神道を国教に据えていく際、大きな障害となるので、政府は日本在来の神と仏を区別しようとしたのである』(「日本の仏教」/梅原正紀/現代書館J/148P)。
このように明治の初期は「神仏分離令」を出さねばならないほどに、既存の神道の位置が低かったのです。
ここで、山本七平氏に登場願いましょう。彼はこう述べています。
・・・前述の仏教学者たちは、日本の仏教を研究するにあたって、大変に重要な点を見落としていた。天皇家は仏教徒なりや否や、という問題である。天皇がどこかの寺の檀那で、仏壇に頭を下げてチーンとかねを叩いたとあっては「現人神」でなくなってしまうから、皇国史観は成り立たない。と同時に皇国史観否定の上に立つ戦後史観にとっても、否定の対象の変質は少々こまる、従って、ここは触れたくない。そのためこの”仏教国”において、宮中に仏壇があったのかなかったのかと問われて、すぐに返事のできる人がいたら、その人は例外者だという奇妙な結果になる。これが大体、日本における「歴史」なるものの正体で、天皇に関する記述は、左右両翼から女性週刊誌まで、実に山のようにあるのだが、民衆の神棚・仏壇併用方式と対比してみれば実に興味深い現象である。ごく平凡なその日常性については、逆にわからなくなっているわけである。
 
簡単にいえば、明治4年(1871)まで宮中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位牌があった。法事はもちろん仏式であったが、維新という”革命”の波は天皇家にも遠慮なく押しよせ、一千年つづいた仏式の行事はすべて停止されることになった。天皇家の菩提寺は京都の泉涌寺だったが、明治6年、宮中の仏像その他は一切この寺に移され、天皇家とは縁切りということになった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら、仏式で行うことを禁じられた。いわば、天皇自らが思想信仰の自由を剥奪され、明治体制一色に強制的に塗り変えられたわけである。言うまでもないが、一千年の伝統を自らの手で(という形式で、もちろん実際は天皇家の意志ではあるまい)断ち切り、自らの意志で自己変革をしたという形で革命に即応して存続したわけである。従ってこの行き方は、戦後の「人間宣言」的行き方にはじまるのではない。仏教断絶のときから「人間宣言」までわずか約70年、以後約30年であるから、一千年とは比較にならぬこの程度の”伝統”などは、いとも簡単に、”自己改廃”できるであろう。このことは単に「天皇家」の問題でなく、いわば全日本人が、そのような形で、外形的な自己変革を行うことによって、「自分は変わった、今日から民主主義者だ」と自己を暗示にかけてそう信じこむ、そしてそう信じこむことによって変革を避けるという、伝統的な行き方の象徴的な表れにすぎない。”共産化”もその形になるであろう。・・・
(「空気」の研究/山本七平/文藝春秋社104〜105P=文春文庫97〜98P)
ということになるのです。
泉涌寺 (みてらせんにゅうじ)
〒605-0977
京都府京都市東山区泉涌寺山内町27 
075-561-1551
そして、あえて「空気」に水をさすならば、天皇から毛沢東に転向したような方々には、大本営発表を批判する資格などはほぼないのであり、今なお毛沢東を信奉するにいたっては、裏返しの「大本営発表」である中国共産党発の北京放送を信じ込んでいることにしかならないのです。
十年以上前、京都五山の一つ、煌びやかな臨済禅の古刹東福寺の後、普段、人が訪れることの少ない天皇家の旧菩提寺である京都の泉涌寺を訪れたことがありました。
この寺が明治政府との縁切りを表には出さず、歴代天皇の墓所、古墳があるかを静かに誇るのを見たとき、天皇制(家)の奥に隠された秘密の一端を垣間見た思いがしたことを記憶しています。
天皇は「サル」の子孫か(ダーウィン進化論と人間天皇)
「天皇はサルの子孫」という誰も取上げようとしない、言わば“禁句”(タブー)を、自らの著書でそれとなく触れたのはイザヤ・ペンダサンこと山本七平氏でした。もちろん、山本書店主自らがこう主張したというわけではありません。
氏は大東亜戦争の敗北により一人の下士官としてフィリッピンで俘虜になり、その際、収容所で通訳を命ぜられていたのですが、この折、ハーバードかどこかの有名大学出身の米軍将校が、天皇を「現人神」と考える日本の将兵の多くは、おそらくダーウィンの進化論など全く知らないのであろうと考え、進化論の「講義」を始めたというのです。
山本氏は少々ムッとして、ダーウィンのこと、ビーグル号のこと、ガラパゴス諸島の調査がその端緒であったことなどを述べたのだそうです。
相手は驚いたらしい。「では日本人は、サルの子孫が神だと信じるのか。おまえもそう信じているのか?」』…『この思いがけない質問に今度は私が絶句した。彼は、日本人はその「国定の国史教科書」によって、天皇は現人神であり、天照大神という神の直系の子孫と信じている、と思い込んでいる。確かにそう思い込ます資料が日本側にあったことは否定できない。そしてこういう教科書が存在する限り、進化論が存在するはずがない。これが彼の前提なのである。人がサルの子孫であると教えたということで裁判ざたにまでなった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に進化論があるはずはないのである。確かにそう考えれば、進化論を教えるということは「現人神はサルの子孫」と教えることである。「人はサルの子孫」が裁判ざたになる精神構造の国から来た者にとって、「現人神はサルの子孫」が何の抵抗もなく通用している国がありうるはずがなくて当然であろう。結局彼は、日本では進化論は禁じられていたはずだと思い込み、天皇もサルの子孫だから神ではないと論証して私を啓蒙するつもりだったらしい。ところが相手が平然とそんなことは小学生でも知っているといったため、なんとも理解しかねる状態に落ち込んだわけであった。
(「空気」の研究/山本七平/文春文庫176〜177P)
かつて皇室アルバムなどでよく耳にしていた、「天皇様は元々生物学へのご造詣が深くあられ、海洋生物などを熱心に研究なされていました…」などといった話は、さらにアイロニカルです。
戦後の急ごしらえの学習によるのでなければ、単純にいえば進化論を全く知らない生物学者がいたことになるのです。
もしそうでなかったのであれば、科学的な物の考えはできるのだけれども自分は「神」であることに甘んじていたことになるのであり、天皇はただの嘘つきだったということになりかねないからです。もちろん事実は後者なのですが。
 
当時において、建前上「皇国史観」を採用するか「進化論」を採用するかは、個人の選択の問題ではあったでしょうが、戦前の教育の影響を色濃く受けた人々といえども、本気で天皇が「神」であると信じていた者は恐らくいなかったことでしょう。
進化論は知らなくとも、天皇が日々生物学的人間として生きてきたからこそ万世一系の系統(こんなものは全くのでっちあげにすぎないことは古代史に多少とも接した人はお分かりでしょうが)が維持されてきたぐらいのことは、「裸の王様」の話にも似て誰でもが知っている暗黙の了解事項であったはずなのです。
 
つまり、皆が「天皇が神であること」に“していただけ”で“あやかっていただけ”に過ぎなかったのです。
だからこそ、戦前の教育を受けた者ならば誰でも知っていた「六号潜水艇の佐久間艇長」の話など手のひらを返したように忘れ、今や誰一人知らない時代になり得るのです。
この点、いまだに旧態依然たる主観的=旧「左翼」がよく口にする「皇国史観に基づく教育こそが戦争への重大な原動力であった」などは、全くの間違いとまでは言わないまでも、ほとんど本質をついていないか、かなりの誇張を含んだものに思えます(これは、事実上観念論に近いものでしょう。
もちろん観念論のどこが悪いと開き直られる時代ですから、そう言われればそれまでの話なのですが)。
 
つまり、皆が等しく天皇が「神」であることにしていただけだったのであり、決して「皇国史観教育」が戦争をもたらしたのではなかったことが実態だったのです。
だからこそ、一夜明ければ、ほぼ、全国民が「軍国主義者」から「民主主義者」にかわることができたのでした。
 
従って、山本七平流にいえば、「皇国史観」=「軍国主義教育」が当時の「空気」の醸成に一役かっていたのだとしても、重要なのは全体の「空気」が充満した現場の方だったのであり、言論界、経済界、労働現場での左翼勢力の後退、敗北の結果として経済的、社会的締め付けの結果が、教育現場にも現れていたと考えるべきなのです。 
国体明徴運動はもとより、水戸学の延長上にのさばった皇国史観の蔓延により、本来は、明治維新のために借り出し、祀り上げ、利用しただけに過ぎなかっただけの天皇が、本人はともかく、祀り上げた側も何時しか神に居座られ、破滅へと突き進んだのでした。
結局、唯一の抵抗勢力であったはずの左翼勢力=労働者階級が完全に黙り込まされてしまった結果、彼らは「後顧の憂い」をなんら感じることなく、安心して帝国主義戦争に踏み込んでいくことが可能であったということだったのです。
 
しばらく話を変えてみましょう。
明治維新後、日本では徹底した「軍国主義教育」が行われていたかの如く理解されている向きがあります。
 
しかし、維新政府は公教育を広げ、近代資本主義の基礎を確立するだけで手一杯だったのであり、ただちに「皇国史観」などが浸透したのではありませんでした。
ちなみに、国家神道の教義ともいうべき「教育勅語」の発布は明治二三年(一八九〇)です。また、「軍人直喩」は少し前の明治一五年(一八八二)に出されますが、帝国主義的侵略を意図したといったものではなく、西南戦争で天皇の近衛師団であったはずの薩摩の藩兵がさっさと鹿児島に引き上げてしまったことへの反省といったものから創られたものなのでした。ここには「天皇への忠誠」も“ヘチマ”もないのであり、彼らにとって、天皇はただ神輿に担いだだけの飾りに過ぎない(自ら担ぎ出した)ことを誰よりも知っていたがゆえに“とっとと”薩摩に帰ってしまったのです。
 
日清、日露の戦役から大正デモクラシーを経て、五一五事件やニニ六事件を契機に、やっと昭和に入って本格的に軍事色が強まっていったのでした。
そして、実は、これまたアイロニカルなのですが、二〇三高地の乃木希典はただのボロ負けの将軍であったとしても(実際、海軍が主張していた二〇三高地への攻撃を乃木が拒んだために膨大な犠牲が出たのでした)、「軍国主義教育」が全く間に合わなかった時代(日清、日露)の軍隊の方が薄氷の勝利とは言いながら、よほど強かったのです(東郷平八郎聯合艦隊司令長官、第二戦隊司令官上村彦之丞、秋山真之参謀らによる黄海海戦、日本海海戦を見よ)。
そしてようやく「軍国主義教育」が本格化して、それなりにものを言いはじめるのは、やはり昭和に入ってからなのですが、その結果というか完成として、75%というとんでもない死傷率を喫したノモンハンの大敗北を迎えるのです。
 
あまりにも情けないために、昭和を書きたくなかったと言われた作家の司馬遼太郎氏(氏は、満州/四平の陸軍戦車連隊に所属していました)も、真実はギリギリの勝利でしかなかった日露戦争への勝利を契機に、明治よりこのかた抑制的であった軍の姿勢が変化していったと語っています(「昭和」という国家/NHKブックス50〜51P)。
現在、「軍国主義」もしくは「軍国主義教育」が復活しているかは別として(私は全くそうだとは思っていないのですが)、教育現場において管理体制の強化が行き着くとこまでいって、逆に機能不全に陥っていることだけは事実のようです。
 
もちろん、「日の丸」,「君が代」による教育現場(教師)への締め付けが存在することは事実ですが、これは、「軍国主義教育」の一環とか言ったものではなく、教師への管理支配の強化の手段というのが実態なのです。そして、最近は、組合の有名無実化が極限まで進んでいることと、争議を経験した職制方の管理職といった部分が全て退職していることもあり、戦い方も潰し方も知らない者同志で、何か良くはわからないまま対立が形成されているようなのです。
 
そして、それは、右傾化などでは決してなく、官僚による管理支配の強化でしかないのです。
現在なお確実に進行している公教育の壊滅状況はこの結果であるでしょう。
「右傾化が進み、軍国主義的教育が復活している」との旧態依然たる宣伝が主に旧左翼勢力から続けられていますが、そのわりには、家庭における祭日の国旗の掲揚はほぼ消滅(壊滅)しており、“天皇なんぞをなんとも思わない“世代(もちろん親の世代も含めて)が確実に増大していることだけは事実のようです。
 
組合の壊滅状況と軍国主義は関係が無いのです。 
学校での国旗の掲揚を声高に推進する文部官僚から、県レベルの教育庁職員、末端の教育事務所の指導主事といった方々も、自宅で国旗を掲揚することはもはやなくなったようです(こんなものが軍国主義であるはずがない)。
彼らが「日の丸」、「君が代」に熱心なのは、「今生陛下への尊崇の念」からなどではさらさらなく、そうすることが、単に「出世」の近道であることを“飼い犬”のごとく知っているからに外ならないのです。
彼らの言動の基礎にあるものは「愛国主義」や「皇国史観」といった上等なものではなく、ただのさもしい思想だけなのであり、むしろ純粋の国粋主義者や歴史を知らない倒錯した天皇主義者である真性右翼から攻撃を受けるべき性格のものなのです。
そして、あたかもそれに対立しているかのように見える組合幹部とかいったものも、幾らかには、「軍国主義復活への危惧」という錯覚した善意が残っているとはいえ、大半の腐敗した部分は組合員の減少と交渉力の目減りへの危機感を、狼少年のごとく古びた「軍国主義復活」という宣伝で煽る以外の方法を持ち合わせていないということが実態なのです。
「日本の教育をだめにしたのは日教組だ!」「日教組撲滅!」と喚き散らす右翼は民族主義を掲げ反米を叫ぶこともできず、自らが日教組によってだめにされたとする日教組教育によって生み出された結果(右翼=おちこぼれ=暴力団)に甘んじているのです。
再改訂(19990429-20050827-20130207)
この短文は、約十年以上前(19990429)に書いていた@「天皇は『サル』の子孫か」とA「仏教徒としての現人神『天皇』」のニ稿に多少の編集を加えて掲載したものです。
 
ここで、胸糞の悪くなる愚かで低劣な右翼の話を忘れるためにも、今や語られることもなくなった戦前の美談と民俗学を繋ぐ話を一つご紹介しましょう。
航空戦艦「伊勢」と柳田国男
なんとも凄まじいタイトルですが、それなりの接点はあるのです。
レイテ沖海戦と言えば、南方への拠点フィリッピンの支配権を巡り日米が激突した事実上最後の艦隊決戦でした。
猛将小澤 治三郎(オザワ ジサブロウ)率いる囮艦隊(第三艦隊)がハルゼーの米機動部隊を北に吊り上げ、その隙を縫って栗田 健男揮下の第二艦隊(第一遊撃隊)がレイテ湾に殴り込みをかけ、無防備の米輸送船団を撃破する(捷一号作戦)という乱暴なものでしたが、後に「謎の反転」として物議を醸す事になる栗田艦隊の三度の避退によって、企図された作戦目的を全く達成することなく、空母4隻、「武蔵」以下の戦艦3隻、重巡6隻、軽巡4、駆逐艦11隻を失うという決定的な敗北を喫して逃げ帰った無様な作戦でした。 
戦史、戦記関係の識者の間でも、事実上、太平洋戦争の帰趨(敗北)はここで決したと言われています。
さて、小澤と共にこの危険な陽動作戦を受け持った一艦に航空戦艦「伊勢」(航空戦艦に関する説明は後述します)がありました。
その艦長は中瀬 泝(ノボル)でしたが、彼には非常に有名な逸話があります。
この作戦の真最中、撃沈された僚艦の乗員を回収するために長時間(十五分間)停船させ海上に漂う九十人を救出しているのです。
当然ながら作戦行動中であるため重大な軍規違反のはずなのですが、彼の人柄が良く分かる話ではあります。
画像はネット上の「ウィキペディア」から切り出したもの(改装前の伊勢)
例え軍規違反であったとしても、救われた人間の側にとっては神にも等しい存在だったはずであり、救出された乗員の父親だったのか、復員後の中瀬艦長に駅頭で一人の老人が取り縋って泣いた…と言う話も残っています。
実は、この中瀬 泝の父親こそ、柳田 国男が民俗学に乗り出す起点となった『後狩詞記』(ノチノカリコトバノキ)を書く際に柳田を案内したと言われる当時(明治四一年)の椎葉村村長中瀬 淳(スナオ)氏だったのです。
これだけでも詳しく一文を書きたい素晴らしい話ですが、ともあれ、名将山口 多聞と並び称せられる小澤 治三郎も宮崎県の出身であった事を考えれば、同郷の信頼関係によるものであったと思えるのですが、それは思考の暴走になるでしょう。
思考の連鎖
ネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」リポートV、十二月号掲載の 188.「2006年 栂尾神楽遠征紀行」において、宮崎県椎葉村の栂尾神楽のことを書きましたが、それを遡ること十年、民俗学者宮本常一が調査に入ったという土地を見たいという思いだけで初めて栂尾を訪ね、神楽の魅力に引き込まれていた時、観客の中で「椎葉村の出身者に戦艦の艦長がいた…」と話されているのを聴くとはなく聞き込みました。
その時は気にも留めずにいたのですが、最近になってレイテ沖海戦に関するある戦記物を読んでいると、「捷一号作戦」において、空襲の恐れのある緊迫した海戦の最中に自らの撃沈の危険をも恐れず、多くの乗員を回収したという有名な話に登場する「伊勢」の艦長が宮崎県の出身者であったことに気付き、この中瀬艦長こそ、耳にしていた椎葉村出身の戦艦の艦長であった事を改めて知ったのです。
一方、リポートV、十一月号掲載の 179.2006 熊本地名シンポジウム in 人吉 紀行 でふれた熊本地名研究会の「2006 熊本地名シンポジウム in 人吉」において、「椎葉地方の狩風俗」が江口 司氏によって発表されます。
この江口報告には民俗学に興味を持つ者にとって非常に興味のある話が紹介されていました。
柳田の椎葉での調査活動(行動)について研究され、「日本民俗学の源流−柳田 国男と椎葉村」を残された故牛島 盛光氏が“田山 花袋の研究者から、柳田と田山への書簡の中に柳田の椎葉での行程が書かれている”という事を知り、一九九一年、黒木 勝実(元椎葉村助役)氏に調査を依頼したところ、同氏は館林市の田山 花袋記念館において田山と柳田との書簡の中に自分の父親でもある黒木 盛衛(中瀬 淳の後を引継いだ次の椎葉村村長)氏の家に泊まったという事実を発見した事が明らかにされました。
実は、黒木氏とは人吉の地名シンポジウムに引き続き、再び栂尾神楽でもお逢いしていました。その黒木氏に引き合わせて頂いたのが、八代河童共和国大統領の田辺 達也氏だったのですが、良くゝ考えれば、初めて栂尾神楽を見るためにこの地を訪れた時にもこの黒木氏と話をしていた事を最近思い出しました。
さて、私にとってさらに驚く事が分かります。
再び話を中瀬艦長に戻しますが、この中瀬 斥が、いったい椎葉のどこの出身であったかについて前述の黒木氏にお尋ねしたところ、直ちに、上椎葉ダムによって半分が水没させられた椎葉村小崎の竹の枝尾の出身であったと教えて頂いたのです。
そして、その父親こそ、人吉の熊本地名研究会で発表された、柳田 国男が泊まった椎葉村村長の中瀬 淳(中瀬艦長の父親)であったのです。
武雄、八代、椎葉という人脈と、熊本地名研究会、柳田民俗学、栂尾神楽、レイテ沖海戦の中瀬艦長という奇妙な思考の連鎖がトライアングルを形成した瞬間だったのです。
航空戦艦
さて、前稿をネット上に公開したところ、“航空戦艦とは何か”という質問が舞い込みました。“こう言って来たのが若い人ならば仕方がない”と一応は無視したはずでしたが、私より一つ上のかなりのインテリから言われただけに、今回、一文をもって補足することにしたのがこの小稿です。
私としては普通に知られているという認識だったのですが、どうもそうではなかったようです。
想像するに、航空戦艦(正式にこのような艦種があったわけではなく、あくまでも戦艦であることは言うまでもありません)が一から建造されたものではなく、改装型の艦である事、また、「伊勢」「日向」ともに、その後も目立った戦功がなかった事がほとんど知られていない理由かと考えます。
もちろん、かなり古い話になりますが、大映の映画「海底軍艦」に登場する架空の空飛ぶ戦艦などであるはずはなく、いわば航空母艦と戦艦の合の子で、前半分が戦艦、後ろ半分が航空母艦という異型ながら、それなりに強力な攻撃力を持った堂々たる戦艦だったのです。
結果、終戦まで「伊勢」、「日向」の二艦が実戦配備されましたが、激戦とは言えニ艦ともレイテ沖海戦(捷一号作戦)の囮部隊になった程度で敗戦まで生き延び、最後は米艦載機の攻撃を受けて沈没し呉港内に着底したまま占領軍を迎えたのでした。
「伊勢」、「日向」は多少改装への経過が異なりますが、基本的には「扶桑」型の「山城」に次ぐ三番艦、四番艦であり、三六サンチ砲を搭載する三万六千重量トンの堂々たる戦艦だったのです。
それが、急遽、航空戦艦に改装された理由は航空母艦が不足したからに外なりません。この辺りについては正確を期すために、手元にある『日本海軍艦艇ハンドブック』多賀一史(PHP文庫)を引用することにします。
・・・昭和十七年、ミッドウエー海戦で主力航空母艦四隻を失った海軍は、緊急対策として使用頻度の低い戦艦及び一部の巡洋艦の空母改造を計画した。特に日向が砲塔爆発事故で五番砲塔が使用できない状態だったために、まず伊勢型の航空戦艦化が実行された。
十八年八月に、改造工事は完成したが、当初予定していた搭載機瑞雲の生産が間に合わず、広い格納庫を利用して輸送任務などに就いていた。・・・
 確か航空戦艦はイギリス海軍だかフランス海軍だかに先例が一つあったと思いますが、実は、この時、既に戦艦の時代は終わっていたのです。
対艦巨砲主義に基づくアウト・レンジ戦法は、第一次世界大戦直後から暫くの間は確かに正しい戦法だったのですが、究極のアウト・レンジ戦法としての航空戦力による対艦攻撃が既に登場していたのです。 
つまり、敵の弾が全く到達しない距離を絶えず維持しながら、長距離砲で一方的に敵艦を叩く大艦巨砲攻撃それ自体は非常に理に適っていたのですが、時代は既にさらにその長距離砲が全く届かない場所から航空機によって破壊力のある攻撃を行うことが可能になっていたのです。
このことに早くから気付いていた人間(大西 瀧治郎・・・ほか)もいたことはいたのですが、結局入れられることなく、八八艦隊建設以来の幻想と利権に凝り固まった軍の腐敗官僚どもによって軌道は修正することなく対米戦争完敗にひた走り、最後は航空戦力の重要性を早くから訴えていた大西に特攻を指揮させるに至るのですから、日本の軍部というのは組織的にも何の役にもたたないくだらないものだったのでしかなく、恐らく現在の国土交通省や農水省の官僚どもと同様のものだったのでしょう。
仮に「大和」や「武蔵」を造る資源を航空母艦と大量の航空兵力に振り向けていれば、戦況は全く違ったものになったかも知れないのですが、私は帝国海軍を支援する者でも、日本という国家を熱愛する者でもないため、事実以外には全く興味はありません。
考えるに、実質的に第一次世界大戦をパスした日本軍は、陸軍を中心に新兵器、新戦術による劣勢を精神主義で補うという傾向に堕落し、比較的柔軟であった海軍においても既に官僚主義に腐食され、新しい時代に柔軟に適応できる組織ではなくなっていたのです。
話は、ここまでとしますが、最後に私が少年時代にこの航空戦艦に対して持っていた印象を申し述べて終わりにしたいと思います。
 
航空戦艦と言わずとも、伊号400潜においてさえも、確かにカタパルトによって発艦は可能なのですが、着艦はできるのか?不便ではないのかという不安を最後まで拭えませんでした。そして、実際、着艦はできなかったのです。
もちろん、別に小型の空母(補助空母)などを随伴すれば問題はなかったのかもしれません。しかし、元々、日本軍には兵員を大切に扱うという伝統がなく、実質的にも既に帰還率は下がる一方であり、真面目に考慮されなかったのです。
それ以前に、有名な“マリアナ沖航空戦の七面鳥撃ち” によって大半の航空戦力を失うなど、完全な特攻の時代に突入していたのでした。
宇垣 纏の四航艦による非合法の航空支援は行われ、それだけに「大和」揮下の特攻艦隊の乗員は涙したと言われていますが、最後は航空支援もつけずに大和を沖縄に出撃させたことは、日本では戦艦による特攻さえも行われたことになるのです。
そのような国が日本であり、その統帥権を持った最高戦争指導者は、恥さらしにも自決もできずに長寿を全うしたのですから、つくづくこの国とは自国民を全く大切にしない国であることが分かります。
当然ながら、これは現在もなお変わりありません。
今回は全く地名の話になりませんでしたが、上椎葉のような大型のダムの底に沈んだ土地にも、多くの歴史、社会、集落、人生、地名があったのであり、このようなものにも目を向けて頂きたいと思うばかりです。
この中瀬艦長の生家がどこかを知りたくて黒木氏にさらに詳しく教えて頂きましたが、この小崎の竹の枝尾という土地は、毎年神楽を見に行く栂尾ほどではないものの、よそ者にとっては秘境であることには変わりなく、五ヶ瀬からのトンネル経由はあるものの、人吉盆地からの道が最悪の道であることも手伝ってなかなか足が向きません。  
それでも、悪路がお好きな向きには国道265号線で訪ねられてはいかがでしょうか。
・・・昭和十七年、ミッドウエー海戦で主力航空母艦四隻を失った海軍は、緊急対策として使用頻度の低い戦艦及び一部の巡洋艦の空母改造を計画した。特に日向が砲塔爆発事故で五番砲塔が使用できない状態だったために、まず伊勢型の航空戦艦化が実行された。
十八年八月に、改造工事は完成したが、当初予定していた搭載機瑞雲の生産が間に合わず、広い格納庫を利用して輸送任務などに就いていた。・・・
本稿はネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」の号外「有明臨海日記」に掲載した 135.航空戦艦「伊勢」と柳田国男(20061130)、152.航空戦艦          (20070104)の原文を大きく変えることなく民俗学的論考として再編集したものです。
 
戦艦「伊勢」 (昭和19年最終型)改装後
基準排水量:35350t 全長:219.62m 最大幅:33.90m
喫水:9.03m 出力:80000hp 速力:25.3kt 航続距離:7870浬/16kt
兵装:36cm連装砲×4 12.7cm連装高角砲×16
25mm3連装機銃×31 航空機×22
乗員:1360名 同型艦:日向
画像はネット上のGF(聯合艦隊)より借用したもの
今を去ること百年前、明治41年1908年に民俗学者の柳田 国男は法制局参事官として椎葉村に入り『後狩言葉記』を世に問います。まさに日本の民俗学が誕生した瞬間でした。その後、宮本常一は柳田が入らなかった椎葉村栂尾の調査に入ります。
宮本常一が調査に入った秘境中の秘境椎葉村栂尾神楽の大神唱教
柳田国男が調査に入った最大の南朝方豪族菊池氏の亡命地米良の銀鏡(シロミ)神楽
武雄市 古川 清久
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