久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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始めにお断りしておくが、本稿は菊池(川流域)地名研究会のメンバーである某氏からもたらされた驚くべき想定が正しいかどうかを検証したものであり、単なるフィールドワークに基づく作業仮説にすぎない。
九州王朝論者にとってもかなり関心の高いテーマを探るものではあるが、当然にも荒唐無稽な話と一蹴されることは承知の上で提起するものであり、諸氏の批判を待つものである。
話は「戻ってきた薩夜麻はその後どうなったのか?」という問いから始まった。
もとより、なんらの資料もないという、限られた条件からどこまで推論することができるかを検証したものである。
提案者は、熊本県下で考古学的な発掘調査にも永く携わってこられた方であり、現在、神職でもあることから、この地域の神社などにも明るく、また、多少の霊能もあるとのことから、おいそれと無視できなかったのであるが、もとより、『日本書紀』にその後の薩夜麻の消息など書いてあるはずもなく、「時代は遡るが『隋書』(倭国伝)には阿蘇山ありと書かれていることから、ある時期の九州王朝は拠点を肥後に於いていた可能性も否定できない以上、敗軍の将薩夜麻が肥後に降ったかも知れない・・・」といったいい加減な答をしていた。
その後、直ぐに、久留米は高良山の高良玉垂の九人の皇子(九躰王子)を祀るとされる久留米市山川町の王子宮、坂本宮と同様の神社が、瀬高町(現みやま市)との境界の地でもある高田町(現大牟田市)岩津に九躰神社という名で鎮座しているという事を知って、直ちに見聞に出かける傍ら、某氏が「関係があるのではないか」とする熊本市の西浦荒神神社も見てみようと出かけた見聞記でもある。
九躰神社(旧高田町岩津)
この九躰神社の祭神は、前述の王子宮の九人とは多少表記は異なるが同一神であることが分る。
斯礼賀志命(シレカシノミコト) 朝日豊盛命(アサヒトヨサカノミコト)
暮日豊盛命(ユウヒトヨサカノミコト) 神渕志命(カミブチシノミコト)
タン上命(タンカミノミコト) 神坂本命(カムサカモトノミコト)
神安楽応宝秘命(カムアラキオホヒノミコト) 神安子奇命(カムアシキノミコト)
神娜男美命(カムナオミノミコト) 以上九神
(祭神は HP「九体神社(岩津)と野田卯太郎・千寿の楽しい歴史」からの切り出し)
山川町の王子宮の九躰皇子も確認することにしよう。
※以下は古田史学の会公式HP「新古代学の扉」より
〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕
高良玉垂命(初代)―斯礼賀志命(しれかし)
→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら)―朝日豊盛命(あさひとよもり)
→草壁(稲員)氏へ続く
暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
渕志命(ふちし)
渓上命(たにがみ)
那男美命(なをみ)
坂本命(さかもと)
安志奇命(あしき)
安楽應寳秘命(あらをほひめ)
※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。(以上)
動乱花火の準備に忙しい王子宮、坂本宮の境内
この二つの神社の祭神が同一のものであることに異論を持たれる方はないであろう。
ただ、この神社については、九州古代史の会が先行していたとのことで、改めて、九州王朝論者内部での連携の悪さを恥じるばかりである。
そのことは置くとして、重要な部分はこれからである。
前述のHP「九体神社(岩津)と野田卯太郎・千寿の楽しい歴史」には以下のように書かれている。
野田 卯太郎(のだ うたろう)
嘉永6(1853)年〜昭和2年は福岡県旧三池郡高田町岩津(現みやま市)出身の政治家。号は大塊。
豪農と雑貨商を兼ねた家に生まれる。
三池銀行、三池紡績の創設に関与。更に自由民権運動に参加したことから、福岡県議会議員を経て明治31(1898)年3月の第5回衆議院議員総選挙で初当選。以降10期衆議院議員を務める。
この間原内閣と高橋内閣で逓信大臣、加藤高明内閣では商工大臣を歴任。
大正13(1924)年には立憲政友会副総裁となった。
俳人や歌人としても有名であると共に、同郷の柴田徳次郎が私塾国士舘を開設した際には同じ同郷の頭山満や中野正剛、緒方竹虎らと共に賛同者として名を連ねている。
子息・野田俊作は、衆議院議員・福岡県知事を務め、古市公威の娘・静と結婚した。また参議院議長を務めた松野鶴平は娘婿にあたり、松野頼三(農林大臣)は孫・松野頼久(内閣官房副長官)は曾孫に夫々あたる。
松野家には、いわゆる松野連系図が伝えられてきた。これは呉王の夫差に繋がる系譜であり、周王朝の王族の家系(いわゆる「倭は呉の太白の後」)であり、もちろん、九州王朝論者の内部であるのだが、九州王朝とも関係が取り沙汰されている氏族である。
 
ただ、彼らが、何故、九躰皇子のような神社を損得抜きで建てようとするのかを考えると、それは、彼らが、九州王朝とまでは言わないものの、先祖を大和朝廷に先行する古代王権に投影しているからとしか考えようがない。
九躰皇子に話が逸れ過ぎたようだが、とりあえず、この部分だけは頭に入れておいて欲しい。
次に、懸案ではあったが果たせなかった筑後地方最南部の玉垂宮を調べに行った。
これは私自身の問題でしかなかったのだが、これまで場所さえ分らなかったもので、太宰府地名研究会の下(上か?)にスタートさせた小研究会の教授である神社考古学者百嶋由一郎氏にその重要性を聴かされていたものだった。
七支刀で著名な大神地区(西鉄南瀬高駅付近)の辺りとのことだっただが、西鉄大牟田線、国道209号線の西の河内地区にあったため、また、地図にも荒仁神社と記載されていたためこれまで分らなかった(ここは国道に隣接する吉里の天満宮からも入られるが、少し北の南瀬高の交差点から入る方が早い)ものだった。
初見ながらも、紛れもない玉垂宮が鎮座しており、樹齢千年の大楠の奥には、こんな僻陬の地に、何故これほどの大社があるのかと思うほどの立派な社殿が鎮座していた。
正面は非常に古い肥前鳥居。
前述の百嶋氏によれば、佐賀市久保泉の白髭神社と同様の古い形式のもので、まさしく高良玉垂のルーツとなるということだった。
九州王朝との関係が濃厚な七支刀の大神の宮も境内内社として厚遇されていた。
そして、想像でしかないが、現人、現仁、現神、荒人、荒仁、荒神が併祀されている事実とその名が荒神と関係があるのではないかと考えて見たいのだ。
まず、ここには河野姓が以上に多い。荒仁神社の宮司も河野のであり、その姓からも物部を考えざるを得ない(愛媛の河野、越智は有名)。
荒仁とは玉垂が自らを隠すための別称とした可能性はあるのかも知れない。
一番普及している昭文社の県別道路地図にも荒仁神社とされておりなぜか玉垂が伏されているように思えてならない。そもそも現仁神社は荒仁神社とも書かれ、荒神とも読めるのである。これは後で意味が通じるので、頭に入れておいて欲しい。
少なくとも、どうみても格上の高良玉垂が表看板から落とされているように見えることは確認しておくべきだろう。
西浦荒神社とは何か
白村江の戦いにより捕虜となった筑紫の君薩夜麻(実は九州王朝の天子)が九州に送還された後どうなったのかについて「紀」は一切語っていない。
以下は、ただの薄い仮説でしかないが、許される範囲で考えてみたい。
熊本市の北西、金峰山の東麓、JR鹿児島本線の西里駅に近い丘陵地の一角に西浦荒神と呼ばれ、民間信仰起源からか神社庁の魔手の及ばぬ神社ならぬ神社が存在している。
そもそも、荒神信仰とは中国地方に多く見られる民間信仰であり、滋賀県の三宝大荒神神社などが名高い。まずは、西浦荒神社のホーム・ページを見てみよう。
西浦荒神社は荒神様をおまつりしております神社であり、三寳荒神社ともいいます。鎮座地が熊本市の西浦という地区ですので、西浦の荒神さんと呼ばれ、昔から大変信仰の厚い神社であります。
 三寳荒神の三寳(宝)とは、御祭神が火の神様の奥津彦神、奥津姫神、土の神様の埴安姫神の三柱でありますので、三柱の尊い神様という意味でもありますが、仏教の三寳からきているとも考えられます。仏教の三つの宝、つまり仏、法、僧を守っておられます神様を、仏教の信仰でも三寳荒神様とおよび致しますが、昔の神仏習合の時代、かまどの神、火の神である荒神様信仰と、仏教や修験道の三寳荒神様信仰が一緒になり、民間に荒神様の信仰が広まったともいわれております。
もう少し荒神について考えてみよう。
荒神さん
ちょっと遠くへ旅行をするという場合、「荒神さんにまいったの?」という言葉をかけて、見送っていた。荒神さんは旅先での災害や事故から、人を守ってくれると信じられていて、また俗信ではあろうが、家を火事等から守ってくれるとも考えられていた。「荒神さん」は、三宝荒神、すなわちカマド神として知られている。表面には出ずに、陰にかくれていて夫々の人を保護してくれると信じられている。
 
今の生活様式ではもう余り見ることができなくなってしまったが、昔の古い建物には、炉やかまどが据えられていて、火の神、荒神様のお札が貼ってある柱が必ずあった。その柱のことを「荒神柱」といい、また台所や勝手の間に荒神様をまつった「荒神棚」があった。
荒神さん」がまつられた台所
 
その昔、高良山の登り口に本寿院というお寺があった。ちょうどこれからいよいよ山を登りはじめるという鳥居の前に、自動車道をはさんで孟宗竹の林があり、そこが本寿院の跡といわれている。本寿院には盲目の僧がいて、琵琶を抱えて家々をまわっていた。いわゆる琵琶法師であるが、その盲僧が、琵琶をならしお経をよみながら回ってくると、たのんでかまどの所にまつってあった荒神さんを拝んでもらっていたということである。
以上、HP「現代の語部」より切り出したもの
ここまで、見てくると、竃、筑前琵琶、法師、肥前盲僧、天台修験といったものが浮かんでくるが、これについては少し思い当たることがある。
それは、奈良、平安からほんの数十年前まで、かまどの神を火の神と称して祭り、僅かな布施を貰い糧としていた盲僧の一団があったことを思い出したからであった。
これを、九州王朝との関係で考えていたのは、古田史学の会の元事務局長であるが、彼のコラムから考えてみよう。
古賀事務局長の洛中洛外日記 第57話 2006/01/15
佐賀の「中央」碑
「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
 
佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
 
この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年)。
「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」
 
古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 
先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
 
佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。
実は、私自身も「洛中洛外日記」と同様のコラムを書いていた時期があって、現在もネット上にこれに関する小論が踊っているので「有明臨海日記」から雑文を出してみたい。
No.113  20061112  玄清法印、成就院、肥前盲僧、筑前琵琶、佐賀中央碑
玄清法印、成就院、肥前盲僧、筑前琵琶、佐賀中央碑と並びましたが、なんの事だか全く見当がつかないと思います。どれかは知っているが、これが全て関連しているということはなかなか分からないでしょうし、それがあたりまえだと思います。
これについてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、簡単に言うと、終戦後辺りまで、佐賀では荒神を祀る風習があり(部分的には今もあると思いますが)、肥前盲僧と言われる人々を中心とする檀家を持たない祈祷寺の法師(佐賀では山法師=ヤンボシサンと言いますが)などが定期的に祀り、なにがしかの布施を貰い生き延びてきたのです。この山法師集団は古くは筑前琵琶を奏でる盲僧集団をも形成し、山法師、祈祷師ともそれぞれ重なり合っていたのです。 
西浦荒神(熊本市)
およそ三〜四十年ぐらい前まで、上越地方などには瞽女(ゴゼ)と呼ばれる盲人の芸能集団が相当数残っていたと言われます。もちろん、直接的な関係はないでしょうが、九州では琵琶法師集団として存在していたのです。
 
この盲僧、山法師は、合わせて家の片隅などにある俗に"中央さん"と呼ばれる家の守り神(中央と書かれた石碑が佐賀平野には広く分布している)も祀っていたと言われています。
 
この中心が、現在、福岡市南区高宮にある天台宗の成就院であり、八世紀末、最澄が延暦寺を開山する際、比叡山の毒蛇退散の祈祷を行ったのが橘氏を出自とする盲目の琵琶法師玄清法印だったのです。
 
現段階では詳しい内容についてはプライバシーの問題もあり、申し上げられませんが、つい最近、この末裔であるとする天台宗の祈祷寺の僧侶とお知り合いになりました。
 
系図を信用するとすれば、その出自は八世紀の橘氏にまで遡るわけであり、リポートU「杵島」において武雄市橘町(明治の旧橘村)に橘奈良麿、島田麿の末裔が隠れ住んだこともとも報告しましたが、それなりの信憑性があるものと思います。
 
また、青森には日本中央碑と言う非常に大きな石塔があるのですが、背後に大和朝廷に先行する古代氏族の存在さえも感じられるのです。
 
この盲僧集団は九州王朝との関係も考えられており、今後調べる必要があるようです。
吉祥院
武内町真手野にある。もと修験道で、今は天台宗である。平治年間(一一五九)に柚ノ木原に創建、一世を智光坊という。寛文十年(一六七〇)八月、旧院が焼失したので、同十二年(一六七二)真手野に移転、新築する。本尊は不動明王、寺宝は木造の弁財天女坐像と、三宝大荒神坐像がある。現住職は三十四代である。
 もと、梅野の福和山に宝性院という修験道の寺があり、盲僧がいたと伝えられるが、これも、筑前国三笠郡成就院の玄清流の末孫の建立といわれている。吉祥院と同系統で、琵琶法師の寺ではなかったかと思われる。 
武雄市史   
西浦荒神の起源
西浦荒神自らが語る起源については、後に添付しているので参考にして頂きたいが、ここに、「盲僧琵琶」というサイトがある。
これには、西浦荒神について書かれたと思われる部分があるので、長くなるがまずは、読んで頂きたい。
ひとことで言えば、仏教音楽の一つで演奏者は盲目の僧侶(または僧体をなすもの、私度僧ですね)で、琵琶だけでなく法会では打楽器なども用いることもある、宗教音楽家であるのと同時に平家琵琶の平曲演奏家と同様に職業的芸能者でもあり、ともに琵琶法師と総称される。
明治以降廃仏毀釈などのため様々な制約をうけて苦しい立場にたつこともあった。
盲僧およびその琵琶の日本への伝来の歴史などは不明である。伝来や歴史が比較的はっきりしている雅楽琵琶と現在の盲僧の使用する琵琶から類推すると形状や奏法が異なるため、そのルーツが異なると考えられているようである。しかし非常に古くから九州各地に盲僧が存在していたようで、江戸時代には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前(なぜか肥後はない/古川)の諸国に盲僧が広く分布いていたという記録があるそうで、九州以外にも中国地方とくに長門、周防に多く、ほかに石見を経て若狭に及び、山陽地方では広島にまで及んだという。
こうした九州、中国系の盲僧とは別に大和には古くから興福寺の一乗院門跡を本所とする盲僧の組織がありその勢力は紀州にまで及んでいたという。
盲僧琵琶は『筑前盲僧琵琶』と『薩摩盲僧琵琶』とに大別される。豊前の国東盲僧琵琶は調弦が筑前盲僧と異同があり別種ともいわれるが、宗教上の分類では筑前盲僧と同じく『玄清法流』と称するため筑前盲僧と括られているようである。
ひとことで言えば、仏教音楽の一つで演奏者は盲目の僧侶(または僧体をなすもの、私度僧ですね)で、琵琶だけでなく法会では打楽器なども用いることもある、宗教音楽家であるのと同時に平家琵琶の平曲演奏家と同様に職業的芸能者でもありともに琵琶法師と総称される。明治以降廃仏毀釈などのため様々な制約をうけて苦しい立場にたつこともあった。
ところが、「常楽院沿革史」などによると比叡山根本中堂の建立に際して、伝教大師が山中の蛇などを退治するために土荒地神を祭る地鎮の典を挙げるべく九州から呼び寄せた盲僧は、満市坊、満虎坊、満王坊、今様坊、袈裟様坊、大行寺坊、大栗坊、今城坊、の八人ということであるが、一方「盲僧由来」では、九州から呼び寄せられた盲僧は、筑前の麻須@、筑後の化佐@伊麻@、肥後の麻須@、薩摩の他化@、日向の与根@、豊前の征@であって、しかも元明天皇のときに宮中の魔障をはらうためであったという。「常楽院沿革史」では、前出の八人の盲僧は806年天台の四度行法を修め、阿闍梨位と院号を授けられ、今様、袈裟様、大行寺、大栗の四人は九州に帰ったが、他の四人は都にとどまった。そのうち満市坊は満正阿闍梨となり、808年逢坂山に正法山妙音寺常楽院を開いた。九州に下った今様坊は肥後に、袈裟様坊は日向に、大行寺坊は大隈に、大栗坊は薩摩に、それぞれ盲僧寺を開いたとされている。満正阿闍梨は常楽院を32年間住持し、晩年には「妙音十二楽」を制定し、840年頃没したという、その四代目の住持が「蝉丸」であるともいう。
 
常楽院第十九代住持の宝山検校は、1192年島津忠久が薩摩ほかの守護職となったときに島津家の祈祷僧となって忠久に随従、1196年薩摩日置郡伊作郷中島に常楽院を建立した。その後、島津日新斎は常楽院三十一代の淵脇寿長院了公を陣中に召して聞役としまたその功により三十二代の家村大光院を召して薩・隅・日三州総家督とし、その支配下の各家督は一人一人盲僧屋敷を賜り、各地の盲僧寺の住職となった。1619年三十三代長倉浄徳院のときに、島津家の命によって常楽院は鹿児島城下山之口馬場に移された。その後1696年にはさらに下荒田町に移された。1870年四十四代伊集院俊徳のときに廃仏毀釈のため祓戸神社と改称したが、76年信仰の自由の令が出て再び常楽院として復興された。しかし77年の西南戦争で本堂は焼失、79年に長田町に移転した。四十五代を継いだのが「常楽院沿革史」を記した江田俊了であるが、その住持した長田町の常楽院も第二次世界大戦の戦災で焼失、四十六代樗木教真のときには吹上町の中島常楽院を本山としたが、現在は江田の弟子の日南市飫肥の真景山長久寺覚正院(袈裟様坊が開く)の柳田耕雲がその四十七代住職を兼ね、中島常楽院は日南長久寺常楽院の管理下にある。なお、日向盲僧が事実上の本寺としている長久寺浄満寺は、やはり「常楽院沿革史」によれば、1685年に領主有馬左衛門尉永純が吉野坊真鏡のために建立したもので、真鏡は延岡領内盲僧取締を命ぜられ、1690年に没した。やはり明治の廃仏毀釈を経て、1907年天台宗地神盲僧規則改正によって常楽院の管轄を受けるに至った。
 
以上のように薩摩盲僧は薩摩藩の庇護を受けていたために、その近世における沿革はある程度明らかになっているが、それ以外の九州の盲僧の沿革はほとんど不明である。
すべての盲僧に共通するのは明治に至って、神仏分離を中心とした政府の宗教政策から、盲僧の宗教行為も制約を余儀なくされた。すなわち、神職に転職させられるか、あるいは神事に関与することさえ禁じられた。さらに1871年の盲官廃止令は、当道座の解体のみならず盲僧の存在も禁止するものであって、その後天台宗に属することによって復活した玄清・常楽院両部の盲僧以外は、ほとんど盲僧としての集団的存在は見られなくなってしまった。
盲僧が檀家を回って行う法要を廻檀法要というが、これは習俗的信仰行事とも結びつく。その中で代表的なものが「土用行」で、いわゆる「竈払い」「荒神祓い」である。そのほか、「地鎮祭」「火上げ」「水神上げ」「亡霊落し」などがある。これらの廻檀法要には荒神経系のお経、地鎮経系のお経和讃、釈文などが用いられるが、その経の種類や内容は様々で、しかも正規の経典でないものが多くまた音読とは限らず、訓読のものもある。なお常楽院部では、土荒神法すなわち荒神祓いを行わなくなっている。こうした廻檀法要の際に余興として行われた盲僧の語り物芸能を「くずれ」といい、主として北九州の盲僧が行った。本来は釈文に代わる琵琶説経であったものが、しだいに琵琶軍談的なものが多くなっていった。そうした軍談は戦没者の鎮魂のために発生したものであり、平家の軍談もその一つであったと思われ、古くは盲僧側でも「平家くずれ」として、平曲に近いものを語っていたと思われる。一方、当道側の盲人も古くは「地神経」などを踊したことが記録されている。なお現行の薩摩琵琶で「崩れ」といっているのは、合戦の場面などでの勇壮な旋律をいうが、これは盲僧の「くずれ」が軍談中心であったことに起因しよう。
 
さらに和讃体の韻律的な詩型の語り物が発生して、これを「端唄」といったが、これも和讃に代わるものであり、現行の薩摩琵琶の初期の琵琶歌はこの「端唄」から発展したものと考えられる。現行の筑前琵琶も、もともと筑前盲僧からものでその基本となったのは薩摩同様に「端唄」や「くずれ」である。なお現在では「端唄」に対して本来の「くずれ」を「段物」ともいっている。
筑前盲僧や肥後琵琶の演奏者たちは、最も余興的なものとして「酒餅合戦」「鯛の婿入り」など滑稽な内容をもつものを語る。これらは多分に即興性をもち、これを「チャリ物」という。現在では盲僧外にも「滑稽琵琶」などと称して広まり、曲弾き的要素も加えられたりしているが、本来は盲僧の「くずれ」の一種であったものである。
西浦荒神の一族は薩夜麻の後裔か?
さて、ここから話が一変する。
熊本市に幸山という姓が存在するが、ネット上にある「姓名分布&ランキング」というサイトで検索すると、熊本県内でも7件しかないもので、あえて言えば、数少ない珍しい部類に入るであろう。当然にも全国的にも稀であり、最も集中するのが青森県の93件となっており、中でも大鰐町に大半があることから、なにやら、偽書デマ・キャンペーンにより不当に貶められた「東日流外三郡誌」を思わずにはいられないが、現在、熊本市では5件が確認されている。
もちろんただそれだけのことで、これがかなりの著名な人物の姓でなければ、とりたてて気にも留めなかったのかもしれなかった。
ところが、この幸山という姓の持ち主に、市長、それも、熊本県都の市長があるとなると話も多少は変わってこざるを得ない。
しかも、この数少ない姓の一族が同時に西浦荒神の社家でもあるのだ。
断っておくが、『紀』においても、何も触れられないその後の薩夜麻について、もしかしたら関係があるのではないかとした理由は、このサチヤマと読める「幸山」という変わった姓が存在しているという一点に過ぎない。何らの手掛かりも残されていない中での仮説である以上、許容範囲の中での禁じ手と理解して頂くより他にない。
この、熊本市長を出した一族は、現在は民主党系とされているが、県北の菊池市、山鹿市を地盤にする松野一族に繋がると聞く、そう、周王朝の末とされる呉の太伯に遡る系譜をもつ松野連の一族であり、松野連系図には倭の五王さえ登場するのである。
菊池の紋章 二枚鷹羽(阿蘇宮司家は交差鷹羽)
ここで、西浦荒神の社家にこの荒神の起源を聴くと、一応、京都が起源とは答えられるのだが、三宝荒神社の垂幕には二枚鷹羽があり、菊池一族との関係が濃厚である。
そもそも、幸山一族は一六〇〇年前後、加藤の臣下であったと聴くが、その加藤が改易された後、細川の家臣にはならぬものの、付近にある細川屋敷の守りとして、荒神を祀る事を許されたと聴く。
してみると、一般的には細川以後、菊池の二枚鷹羽を使う現実的利得はないことから、あえて、使う意味は、やはり幸山一族が肥後の地侍として熊本市の西の入口に盤拠し生き延びてきたものとしか思われない。
宮司の話によると、もともとは西浦荒神の社家は幸山一族ではなかったが、明治期に家系が絶えたため、有力な幸山家が跡を引き継いだそうである。
その後、先々代の女性の宮司に霊能があったとのことから、簡単言えばかなり流行し経営的にも成功したためか社殿も非常に立派なものになっている。そのためか、兄弟二つの宮司家が日替わりで神社を仕切っているという話も聴いている。なにやら、隋の煬帝にとがめられたとかの九州王朝の兄弟統治を思わせるが、ここの先々代の女性宮司からもお話を聴くことができた。気掛かりだった前述の「盲僧琵琶」に、「江戸時代には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前(なぜか肥後はない/古川)の諸国に盲僧が広く分布いていたという記録があるそうで、九州以外にも中国地方とくに長門、周防に多く、ほかに石見を経て若狭に及び、山陽地方では広島にまで及んだという。」に、肥後が出てこないことを確認すべく聴いてみると、西浦荒神にも盲僧との関係はあったとのことから、とりあえず一抹の不安は消えた。
 
ここで、もう一つの資料を紹介したい。二〇〇九年刊行の岩波新書に「琵琶法師」がある。これは兵藤裕己(学習院大学)によるもので、当時、珍しいDVD付きの新書として際立ったものだったが、最後の盲僧琵琶法師 山鹿良之の「俊徳丸」の演奏のドキュメントが記録されている。
座頭とも盲僧とも呼ばれたかれらは、戦後(第二次世界大戦後)、急速にかずを減らし、私が調査した時点では、琵琶の弾き語りで段物(複数の段からなる長編の語り物)を演唱できた者は、福岡県に二名、熊本県に三名、鹿児島県に一名を残すだけになっていた。・・・(中略)・・・そのうち、福岡県の二名は、父親の盲僧行をついだ晴眼の「盲僧」であり、熊本・鹿児島県の四名も、うち三名は按摩・鍼灸業などに転業しており、琵琶の弾き語りのみで生計を立てていたのは、山鹿良之(一九〇一〜九六)ひとりだった。・・・(中略)・・・熊本県北部の玉名郡大原村(現南関町小原)の農家の三男として生まれ(二人の兄は早世)、四歳のときに左目を失明、しだいに右目の視力もおとろえ、・・・(中略)・・・二十二歳のときに天草の座頭玉川教節のもとに弟子入りした。三年後に郷里に帰って玉川教演と名のり、以後、熊本県北部や福岡県西南部一帯で琵琶弾きの芸人として活動した。
   
その間、筑後(福岡県瀬高町)の盲僧から、かまど祓い(荒神祓い)やわたまし(新築祝い)などの儀礼を習い、語りの演目の多くも、おもに筑後や肥後の琵琶弾き仲間との交流から習得した。昭和四十八年に、福岡市高宮の成就院(天台宗盲僧派、玄清法流の本寺)で正式に得度し、玄清法流の「教師」に任じられた。座頭よりも盲僧(宗教儀礼を本業とする)が重んじられた筑後地方で活動した山鹿にとって、玄清法流の僧籍は長年の夢でもあった。
  
山鹿良之は、八十歳をこえてからも五十種類ちかい段物をつねに用意していた。・・・(中略)・・・少なくとも昭和初年くらいまでさかのぼっても、すでに山鹿良之ほどの膨大な伝承者いなかったのである。
不十分ではあったかもしれないが、山鹿良之の活動から、肥前盲僧の一端がお分かりになったかもしれない。
ここにおいても、「熊本県北部や福岡県西南部一帯で琵琶弾きの芸人として活動した。」とあるように、成就院系盲僧の熊本県北半での活動は存在したことが推定できたことにはなるであろう。
久米八幡宮司からの考古学的考察
前述の西浦荒神からほどないところに釜尾古墳がある。これは、極彩色で艶やかな装飾を持つ飯塚市桂川町の王塚古墳と同様に、九州で4例しかない双脚輪状紋を持つ古墳とのことである。 この点、装飾古墳に詳しい太宰府地名研究会の伊藤正子女史に教授していただいたが、歴博出身で久米八幡宮の宮司でもある吉田正一氏から、本稿への考古学的側面からのアドバイスを書面で頂いたことから全文を筆者の責任で掲載することとした。以下。
釜尾古墳にある双脚輪状紋は、植木町有泉に所在した横山古墳(現存せず九州縦貫道工事で撤去)にもある。県内ではこの2例のみ。
 
福岡県は瀬高の弘化谷古墳、桂川町王塚古墳に同紋がある(弘化谷古墳は石人山古墳の近くにあり関連が)。
 
横山古墳のある「有泉」(ありずみ)の東隣は「上生」(わぶ)であり、後述するが、サチヤマと同じく抑留されて、33年後(696年・持統10年)に帰還した壬生諸石(みぶのもろいし)の本貫と比定された地の一部とされる。
 
釜尾古墳がサチヤマと関連を追及する中で、サチヤマ同様長期抑留された人物の近辺にある横山古墳に同様の紋が用いられていることに留意されたい。サチヤマと同族であろう。
 
壬生諸石は皮石(合志)郡の人と日本書紀にあり、神話時代以後肥後の人ではじめて史書に記録された人名である。彼の帰国に際し朝廷は苦労を労い褒章を与えている。同じく帰国した物部 薬(くすり)は同様の褒章を与えている。
この人は伊予の人であり、後世の純友の乱で知られる伊予水軍に連なる人物であろうか。
ところで、肥後で最初に日本書紀に名を残す人が、白村江のA級戦犯ともいうべき人であることは興味深い。国際情勢の変化が何らかの役割を期待されて戻っている。既述の横山古墳は6C後半であろう。諸石の5〜6年前に築造し3世代60年ほど用いたと思われる。
 
なお、皮石(かはし)こうし郡は貞観元(859)年に東の合志郡、西の山本郡に分置される。その後明治まで合志郡は存続するが、菊池郡にその後くり込まれた。
合志町、西合志町が合併し合志市になる。旧旭志村は北合志村と旭野村が以前合併して成立したが、現在、菊池市に合併されている。一方、山本郡は町村合併によりなくなった。
 
壬生の諸石の出身地は皮石郡とされているが、上生(わぶ)あたりとする説がある。また、「生」の墨書銘を残す土器が七城町の上鶴-頭遺跡から出土している。ここは皮石郡分割後の合志郡の西端にあたり、遺跡は郡衙に関するものとされている(「生」の墨書土器は菊陽町楠ノ木遺跡でも出土しており、ここは合志郡東端にあたり、ここも郡衙関連の遺跡とされている)。
 
以上の整理をすると、壬生(みぶ)―うみぶ―生(うぶ)―上生(わぶ)※3or
壬生部(みぶべ、みぶ)―生部(みぶ)―上生(わぶ)※4の変遷が想定される。また、「和名抄」(10C)には殖生(上生)とある。なお植木は殖木と記されていることから、ウ、ゑであり殖生は〔うわぶ〕だろう。※2
 
合志郡の東西端から「生」の墨書があることから、合志郡は壬生諸石にかかわる一族の子孫が平安時代も郡に関わっていたことを思わせる。
 「上生」(わぶ)の東隣は「合生」(あいおい)地区である。ここにも“生”がある。    
合生のほかに、生坪(おつぼ)、弘生(ひろお)、合生地区の“生”は[お、おい]と発音する。
この合生地区に黒松古墳群と生坪塚山古墳があり、壬生諸石の先祖とする考えがある。   
この合生地区内の弘生(ひろお)に合生地区の氏神である弘生菅原神社(合生天満宮)がある。
ある。この神社の北隣で圃場整備に伴う文化財調査があり、円形周溝墓群が出土した。封土は削平で失った円墳である。境内地にも円墳群があることは確実であろう。神社は削平された円墳群の真ん中あるいは真上を意識して立地している。
 
この神社の南裏に梅屋敷とよばれる旧家(緒方家)があり、敷地に印鑰をまつる(石碑)。また神社の神(天神)が最初に来た所(?)とも言われている。印鑰は郡司の構成物である。壬生諸石の一族が、古墳時代(5C)から平安時代まで“合志郡”に権威としていたと思われる。
 
旧植木町(現熊本市)に「マロ塚」出土とされる鉄製のカブトが出土している。出土地は植木町内の古墳とされていて、正確な出土地は明らかではない。このカブトは表面が錆びているが、腐食がなく部材が良く残っているため国の重文とされた。よく「出土地不明」で指定を受けたものである。カブトはヒサシがあり頂上に威儀物を立てるようになっており、高位の者が着けるものであり、地方では珍しいとされている。
保存状態がよいのは出土地がおそらく堅牢な石室のある古墳であったためだろう。また、土中にあったものではない。また、素材の鉄が良質であったためか現在でも十分な強度を保っている。朝鮮半島製といわれる。
 
しかし、そこで考えられるのは、金峰山系の三ノ岳の北西裏が平安時代にたたら製鉄の産地だったことである。熊本では小岱山、金峰山、宇土半島がたたら製鉄の遺跡の集中する所で、いずれも海に突き出した共通した立地である。また炉の形が東北地方の半地下式の型式と類似がみられるとされる。
 
三ノ岳のたたらの歴史はさらに古いとみられ、弥生前期の貝塚(斉藤山貝塚/さいとやま)からすでに県内最古の鉄斧が出土している。
このカブトが壬生諸石、サチヤマの事跡と無関係とは思わない。
鉄と海の民、抑留と双脚輪状紋の共通性が両者にある。

次に「双脚輪状紋」にふれる。この大げさな名称は、紋の意味する所が分らず、形状のまま
名付けられている。スイジ貝(貝輪)説などがあったが、近年の説では、葬送儀礼に用いる旗か
凧とする(宮田弦一説がある)。これはハニワに類似の形象があったのを論拠としているが確定的ではない。ところで、その旗あるいは凧が、何を表現しているのかまでは追及されていない。
 
この紋様が円紋と共存している。この円紋を太陽その代理としての鏡の表現とするなら、この特異な文様もまた天体の一つと見たい。この文様は円を中心に周囲を鉅歯状の外圏で囲む。この表現は輝きであろう。さらに2本の外反する「脚」を付ける。この部位は図の横あるいは上に位置する。従って「脚」ではない。旗、凧説は、風でひらめく旗、凧の尾を想定していると考えると、移動、飛行する物体であって尾の有る天体と考えられ、それは彗星(流星、隕石も含む)しかない。彗星は凶兆とされているが、それは予想されない天体の運行であるからだが、人の死をいたむ表現として最大のものであろう。
 
この文様は4例しかない点は特異であるとともに、相互に交流があることを示している。弘化谷古墳は石人山古墳と近い。王塚古墳はその名の如く、豪華な装飾で知られる。どういう王であろうか。横山古墳はサチヤマと同様に筑紫政権の重要人物の本貫と隣接地にある。また釜尾古墳は最も双脚輪状紋が大きい。
 
4例しかこの文様がないこと、筑紫政権に深い関係ある家柄にあると考えられる。
この彗星紋は「巨星堕つ」る様、悲しみの極みを表現しているといえよう。王者の死にかかわる葬礼に用いる文様である。ここに中国古代の「彗星図解集」(BC4C)にある図を示す。
※5
馬王堆(前漢)出土遺物にも同図と同様の図(本来名不明「天文気象雑占」)があり、「脚」は上向きに描かれている。

※2 類似する地名(古墳名)、山鹿市のチブサン、オブサン サンは敬称(様)。産山村の産(ウブ)、帯山 オビヤマ(熊本市内)
※3 乳部(にゅうぶ、にぶ)もある
※4 ヤマトの豪族のための限定された部の民とする壬生部はヤマト政権が送り込んだ勢力という説が従来ある。しかし上述の状況から見て妥当だろうか。軍事的に制圧する側面は見えない。
 むしろ筑紫政権の補佐役ではないか。ただし平安時代も郡に勢力を持っている点はどう解すべきか。金峰山系の南半分は飽田郡、ここは建部(たけるべ)が入っている。郡司の各役を支配している。筑紫君と宇土の火君を分断するためであるとされる。大伴系の郡事部民
※※ 横穴式の古墳は、6C代に築造、横穴式石室は追葬をするため3代くらい用いる。およそ60年ぐらいか。
※5 尾が外反しているのは尾が長いことの別表現か。
津軽の幸山姓偏在地大鰐町について
地名由来は大きいアミダ仏があったためとか、山椒魚がいたと、いささかコジツケと思い付き風に思ったが・・・
 
熊本県大津町の小さい祠、地元で「オワンダさん」という所があった。ここはアミダが祀られていた。しかるに津軽でもアミダを同様に音韻が変化することがありうる。
下北半島にも玉垂神社という小さい神社。ここは江戸時代にアミダとヤクシを祀っていた。今は武内宿祢。
アミダとは九州の亡命者である。生き仏=王、あるいは頭を丸めて俗界から脱出した(これも亡命の一種)?
大鰐のワニは「大仁」とも書ける。ワン(wang)=王、大鰐=大王か
大鰐町の隣り黒石市には何と「玉垂」の地酒がある。長野県安曇市にも玉垂の地名、ありうる話だが・・・。
徳王は薩夜痲か?
北西から熊本に入る場合、植木町から旧3号線(現3号線バイパスとは異なる)で熊本城の北側に直接入るルートと、JR鹿児島本線、井芹川沿いに西里から上熊本へと入るルートがある。
この井芹川右岸の貢町の小丘に問題の西浦荒神が、また、隣接する釜尾町に久米八幡宮司が注目する釜尾古墳がある。そして、私がもう一点関心を寄せているのが、井芹川左岸の徳王町である。さらに言えば、この徳王町から西浦荒神へと井芹川を渡るところに秋鯰橋という奇妙な名の橋が架かっているのである。
もちろん、阿蘇神社の祭神 健磐龍が阿蘇のカルデラを蹴破り阿蘇谷の大平野を造った際に巨大な鯰が白川を降り辿り着いた場所に鯰という地があることは承知しているが、実は、太宰府天満宮の二ノ宮 筑後市の水田天満宮の山門で高良玉垂の改築への寄進を募る張り紙がある。ここには「高良玉垂(鯰神)」と書かれているのである(天満宮に聴くと水田地区では古来鯰神と呼ぶとのこと)。してみると、西浦荒神が鯰神におもえてくるのだが、これは考えすぎかも知れない。このように九州王朝―高良玉垂―西浦荒神を繋ぐ細い糸を見出すのだが、それよりも旧徳王村の徳王というあまりにも中国風の地名が気になっている。
実は、この地には徳王碑と呼ばれる非常に変わった石塔が立っているのである。
もう故人になるが、熊本県在住の九州王朝論者として名を馳せた平野雅曠という孤高の文献史学の研究者がおられた。『倭国史談』『九州王朝の周辺』『九州年号の証言』『火の国山門』・・・など多くの高著を残されたが、『九州王朝の周辺』にも、この徳王碑について「一字名の倭王たち」として、こう書いておられる。
 
「中国の正史、宋書に載っている倭の五王、讃・珍・斉・興・武については、古代史に関心を持たれる方なら、どなたもご存じのことと思うが、これら一字名の国王のほか、同書の「・・・・・・・珍、又倭隋など十三人を平西、征虜、冠軍、輔国将軍の号に除せんことを求む。」という文の中には、倭隋という人物も出てくる。
国名を冠した一字名であるから、恐らく王族であろうが、隋に代表される十三人中にも、或は一字名の人物が他に何人かいたかもしれない。「倭の五王」には諸説があるが、私は五王は九州倭国の王だとする説に共鳴するものであって、これら一字名を倭国王ないし王族のみが名乗ったものとすれば、私はもう一人「徳王」という王族らしい一字名の人物がいるのを思い浮かべる。もしかしたら、前期十三人の中の一人かもしれないと。
熊本県飽託郡北部町大字徳王という部落にある「徳王」の墓がそれである。・・・(中略)・・・
肥後国誌には、「王ノ墓所以ヲ知ラス、徳王村ノ地名此ニ起ルト云。」と簡単に記されているが、この近く西方には釜尾古墳(北部町)があり、南方には富ノ尾古墳(熊本市池田町)もあるので、私はここも或は五、六世紀頃の古墳だったのではあるまいかと思っている。
また、氏の随筆『鄙語隋記』にもこの徳王碑のことが触れられている。
中国の史書「宋書」には、中国式の一字名をもつ讃・珍・斉・興・武の「倭の五王」が出ている。また隋という王族らしい人名も見える。
 
大正九年、江田船山古墳調査当時、京都大学の貴田(ママ)博士が「倭王の墳の一か」と言ったことを、梅原末治氏は報告書に記している。
 
五王は大和王朝に関係ない、九州の王たちであると思う。
私には、徳王の一字名も、何かこうした時代の臭いがしてならないのであった。
とも書かれている。 (ママ)は京都大学の喜田貞吉のことと思われる。(古川)
西浦荒神は失われた九州王朝の残映
以上、始めから決め手がないことを承知した上で、倭国王 薩夜麻の後裔が西浦荒神に繋がるかという非常に薄い仮説(試論)を進めてきた。
 
九州王朝の大王との濃厚な関係が取り沙汰される高良玉垂の九人の皇子(九躰皇子)を奉祭する久留米市山川町の王子宮と全く同じ祭神を持つ大牟田市高田町岩津の九体神社を寄進したのが、呉王夫差に始まり倭の五王をも輩出したと告げる松野連系図を伝える松野一族であったこと。
西浦荒神(三宝荒神)の社家である幸山家と松野一族との間に多少の繋がりが認められること。
瀬高町(現みやま市)の高良神社が荒仁神社(現仁神社)と併祀されていること。
荒仁神社(現仁神社)が荒神神社とも読めること。
九州王朝との関係が取り沙汰される宮地嶽神社の境内にも三宝大荒神が鎮座する。
高良大社と並び九州王朝との関係が認められる宮地嶽神社にも三宝大荒神が境内内社として存在すること。
玄清法印 成就院系の肥前盲僧と九州王朝との関係が認められること。
盲僧と西浦荒神との関係が一応は存在したこと。
京都大学の喜田貞吉も「倭王の墳の一か」と指摘していたこと(これは江田船山のことか釜尾のことかは平野氏の文中からだけでは判然としないが)。釜尾古墳の付近には石人の痕跡もあった(吉田宮司)。
白村江戦いで薩夜麻と伴に捕虜となった壬生諸石の出身地も西里に近いこと。
 
他にもあるが、これらのことから非常に薄いながらも、幸山一族と薩夜麻の間の関係が見えてきたかもしれない。
 
最後に、久留米地名研究会、太宰府地名研究会・・・の神社関係の顧問になって頂いている神社考古学者百嶋由一郎(福岡市)氏からのご教授によると、三宝荒神とは九州王朝の初期を支えた製鉄神 金山彦と大山咋(速瓶玉 大直日 天葺根 奥津彦/スサノウの孫)、鴨玉依姫(奴国の神直日 奥津姫/スサノウの孫)の三神を意味すると聴いていることもあり、今日、荒神信仰が土俗、民間信仰として貶められるも、なお、生き延び得てきたことの背景には、この三神が敗残した九州王朝の中心的神霊であったからとまでは言えるような気がしている。現段階ではこれ以上踏み入ることには無理がある。
三宝大荒神の大本宮とされる白鬚神社(白鬚三寶荒神)宮崎県児湯郡川南町大字川南1987番地も三祭神を火産霊神(迦具土神)火神、奥津彦(須佐之男の孫)竈神奥津媛(須佐之男の孫)竈神 としている。
禁断の補足
瀬高の高良玉垂宮の祭神について
ここから先は禁断の領域に踏み込むことになる。
読まれる方もそれなりの覚悟が必要となるかもしれない。
神社はその時々の権力の姿勢に対し、あるいは寺を装い、あるいは神仏を混交させ、あるいは祭神を入れ替え、隠し、あるいは自ら有力神を受け入れ、あやかりつつその時代を生き延びてきたが、そのことを、とやかく言うつもりは毛頭ない。
このため、多くの神社の祭神をそのまま鵜呑みにすることはできない。
神社庁の言うことをそのまま受け入れ、『古事記』『日本書紀』に沿った解釈で満足される方はそれで良いし、それも処世術であり、権利であろう。
しかし、真実を探求すること、真の古代史を探ることとは無関係で、あくまでその意思を持ち続けんとする方だけが踏み込み、最高の果実としての歴史の真実を掴む事ができるのである。
さて、瀬高の玉垂宮である。ここにはその後も何度か訪れていた。
地元の南瀬高校区まちづくり協議会の看板によると、武内宿禰、春日大神、住吉大神としている。
確認のために神社庁に照会すると武 内宿禰(タケシ ウチノスクネ)とのこと。タケウチノスクネではなくタケシウチノスクネと明治以来の正しい読み方で回答してくれた。ただ、春日大神、住吉大神は配神とのことで、看板に書かれた二神は配神であるとしている。
神社庁としては、まずは穏当な答えをしているが、百嶋神社考古学に接したものとしては、単純にそうとは理解しない。
高良大社にしても月読尊、武内宿祢、藤大臣…と各説あり、宮地嶽神社にしても神功皇后としているが、無論、異説は存在する。
ここではそれ以上は踏み込まないが、先に取り上げた超高格式の瀬高玉垂宮の祭神については、調査したままをお知らせしておきたい。
たまたま、普段は閉じられている社殿に参拝する機会を得ることがあった。
普段は拝めない社殿には、なんと、五七の桐と三五の桐が、あたかも夫婦であるかのごとく祀られ、一つ神功皇后の像(木彫か)が置かれていたのである。
考えるに、五七の桐の木像は明治期か終戦後のある時期に撤去されていたのであろう。
ここで、右を見て欲しい。
一部には偽書ともされる『高良玉垂宮神秘書』には「玉垂命と神功皇后は夫婦なり」とされている。
ここには、『高良玉垂宮神秘書』そのままの祭神が残されているのである。
結論を急げば、玉垂宮である以上、瀬高の玉垂宮には高良垂命が祭られていたはずである。そして、それこそが、戦後、津田史学が一切架空とした欠史八(九)代の第九代開化天皇と神功皇后が祀られていたのである。
そして、これこそが九州王朝の大王(前述のく)ではないかと考えている。
もちろん、九州王朝説を採る古田史学もそのような立場はとらないが、我々は某神社考古学者からその秘密の一端を聴き及んでいる。
このような例は他にもある。
一例を挙げるが、現在、宮地嶽神社の祭神は神功皇后とされている。昭和十一年の『福岡県要覧』には宮地嶽神社の祭神は阿部相亟(アベノショウキョク)とされている。一応、ここではどちらが正しいかは保留したい。当然、神社庁は昭和十一年の時点の資料は偽書に基づくものだったとするだろう。
武雄市 古川 清久
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