久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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塘(トモ) “菊池川中流の小平野”
熊本県の玉名温泉と山鹿温泉の中ほどに置かれた菊水インターから県道16号線で東の山鹿に向かうと、左手に大きな河川堤防が現れ、右手に小平野が見えてきます。一帯は既に山鹿市の領域なのですが(大字坂田)、ここに「塘」と書かれ「トモ」と呼ばれる奇妙な地名があります。
昭文社県別マップル道路地図熊本県
「塘」は“ツツミ”“トウ”とは読みますが、“トモ”とはあまり読まないはずです。
また、現地は玉名市と菊池市との境界地帯でもあることから、比較的険しい地形が続き、菊池川が最大級の蛇行を見せ屈曲が連続する場所です。両岸は垂直に切り込まれた二~三十メートル級の小丘が連続しています。万年単位の時間で考えれば、絶えざる阿蘇火砕流によって形成された溶岩台地が川によって削り込まれたものなのでしょう。
このような条件から、垂直の崖の崩壊や屈曲部の土砂の堆積などによって自然のダムが形成され、たん水やその決壊といった洪水の影響を受け続けたと考えられます。
その後、人工の堤防が造られる近世になりますが、自然に形成された堤防の内側には水平堆積によって成立した平地が出現し、進出した人々によって造られた農地にも新たに決壊や洪水による逸流(オーバー・フロー)が襲って来たことが想像されます。塘(トモ)とはそのような氾濫原野起源の土地であり、自然堤防の時代にはなかなか定着できなかった土地だったと思われるのです。
【氾濫原】はんらん・げん
河川が運搬した砕葛物が堆積して河川沿いにできた平野で、洪水時に水をかぶる。
(『広辞苑』)
この熊本県北部有数の大河にも、現在は河川改修事業によって壁のような大堤防が建設され、ほ場整備事業も併せて行なわれたものか、堤防の内側には美田が広がっています。
この地には過去何度となく入植が試みられ、度重なる洪水に耐えて定着した人々によって集落ができたのでしょう。
氾濫により形成された自然堤防の内側には菊池川の氾濫によって土砂の堆積が進んだはずです。内部に流れ込んだ泥土から石や瓦礫を拾い揚げ、徐々に川傍の低地は標高を上げ堤防も嵩上げがされていったものと思われます。
繰り返しますが、このような平地が生まれるには、水による運搬、攪拌、そして長期にわたるたん(湛)水が必要であり、その水の中で繰返された水平堆積によって、この地も形成されたものとする外ありません。
この地に「塘」という地名が在るとすれば、これが堤防に起因するものであることに異論を持たれる方はまずないでしょう。それを物語るかのように、“蹴破り伝説”を持つ当地の阿蘇神社前の古い農協倉庫には、現在も、なお、洪水時に備えて舟が吊るされているのです(この一帯の多くの農家の納屋には今も舟が吊るされているそうですが)。
問題はその「塘」の成立時期と地名の成立時期であり、それが自然のものであったのか人工のそれであったのかということになります。
 
前述のごとく、「塘」に堤防という意味があり、音で「トウ」「ドウ」、訓で、「つつみ」と呼ばれることまでは分かりやすいのですが、これが「とも」と呼ばれていることが重要なのです。
私が知る範囲でも八代の数人から「そう言えば熊本ではなぜか堤防の事を“とも”というね…」「干拓地の旧堤防を、例えば“東んとも”“西んども”などと呼んでいる…」「八代の南の高田には“とも”と呼ばれるところがあった…」といった話を聞きます。まさか、土盛り(ドモリ)からきたものではないでしょうが、多分、肥後領全域で普通に見られる地方語(古語)なのでしょう。
ちなみに佐賀では、同種の旧堤防を「でい」(この起源は不明で、単に堤防の堤=漢音テイ、呉音ダイをデイと呼んだからかも知れません)と呼び、“とも”や“ども”などと呼ぶことはありません。
例外的に、福岡県では中間市大字岩瀬に塘の内(呼称は未確認)が、鹿児島県では南さつま市に塘(とも)が、熊本県では、八代市に大牟田塘(オオムタトモ)、宇城市と氷川町に沖塘(オキドモ)、熊本市の白川、緑川の河口付近に城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町があります。詳しく調べると、熊本は「塘」だらけであることが分かってきます。
さて、この「とも」「ども」ですが、多少思い当たる事があります。拙著『有明海異変』に挿入したコラムには中国のダムや堤防について『ダムのはなし』竹林征三を引用しています。この本の引用しなかった部分にこの「塘」に関係する話が出てくるのです。
…ダムやダム擬に関しては、最も多様な用語が使われ、分けられている国は中国ではないだろうか。
○ ハ (ハは 土口/ハ)漢字の表記が困難です。「ハ」は土偏の右に口その下にハ=上土偏に覇):古川注
-川の水をせき止めるつつみのことで、現在Damの用語にあたる概念である。
○  堰
晏は太陽が上から下に落ちて暮れる様を意味し、?は晏の略字に匚を加えて、上から抑え固めてつくり、水流を押え止める堰である。歴史的に有名な都江堰などがある。
(『ダムのはなし』竹林征三)
以下、堤、塢、塘、擣、扞、坡、更、蓄水池、水庫、潭といった文字の意味を書かれていますが、この中に「塘」も登場します。
 
○ 塘
水を止めるために築いた土手であり、土手を築いて水を溜めた池も意味する。日本語の溜池に近いものであろう。塘工とはそのための護岸工事を意味する。
 
では、この読み方です。竹林征三氏もこの「塘」が実際にどのように呼ばれていたか(読まれていたか)?までは書いておられません。さらに先に進みましょう。
閑話休題 「ダムのはなし」
九六年に出版された『ダムのはなし』という本があります。建設省土木研究所環境部長(当時)をされていた竹林征三氏によるものですが、ダムの構造や歴史などが非常にわかりやすく書かれていて筆者のような素人には大変参考になります。また、この本には、古代アッシリアのダムや大モンゴル帝国が建設を試みて不成功に終ったダムのこと、江戸初期に活躍した「ダム造りの名人」西嶋八兵衛などのおもしろい話も収められています。
西嶋八兵衛の名は比較的有名で、一般にも「多くの治水利水事業をなしとげた」などと評価されています。しかし、この場合の治水とは付随する河川改修の意味で理解するべきなのか、溜池を造成した結果として治水(洪水調節)効果が付随して得られたものと理解すべきなのか、筆者にはいまだに判別がつきません。 
筆者は、利水のための溜池造成や取水堰の建設というものは古来あったであろうと思いますが、堰堤や溜池を造ることで洪水調節を図ろうとしたことはなかったのではない か、すなわち「積極的に治水を目的としてため池を造ろうとしたことはなかったのではないか(少なくとも江戸期までは)」という考えを持っていました。つまり、古来より人は基本的には氾濫の恐れのある広義の川の領域には住み着かなかったのであり、飛び畑や島田のような形で中洲を耕作地として利用することはあっても、木曽川などの輪中集落は別として氾濫原そのものに住み着くまでには至らなかった(そこまでが川の領域であった)と理解していました。
ですから、「溜池を造ることによって洪水を調節しようとする意識があった」のかどうなのか、八兵衛に聞けたら聞いてみたいものだと思うのです。
それはさておき、この本にはダムの語源について面白い話が載せられていますので、ほんのさわりだけをご紹介させて頂きます。
「古代インドアーリアンで、“置く”という概念と“基礎”という概念の言葉として、*dhoとか*dhe*dhe‘があり、ダムのことを*dheとか*dhoと称したことにはじまるという。その後、基礎に置く構造物の概念が明確化され、*dhobmosと称するようになった。花形役者Damの生誕地は古代インドアーリアンの地ということである。現在の中近東からインドにかけての地方である。なお、英語の動詞doの語源も、この*dhe*dhoにさかのぼるという。(中略)古代インドアーリアンで生まれたダムの概念*dheや*dhoは古代ギリシャに行き、そこで基礎の概念に、さらに下部の概念も加わり、ダムの概念がさらに固まってきて、ギリシャ語Δα~Mα‘Ω(ダマーオ)となった。(中略)一方原始独語に*dhobmosから転じてdammazの用語が使われるようになった。この言葉が一四世紀になり、中世オランダ語と中世低地ドイツ語でようやくdamという形で使われるようになった。この当時はいまだ水を止めるための柵、壁とそれによって止められた水の体そのものも合わせた概念のようである。(中略)オランダには“神が人をつくり、人が国土をつくった”という諺があるように、国土の約四分の一は海面下のいわゆるデルタ地帯で、延々と続くダムによって海水をせき止めている。
 オランダの首都はアムステルダム、第二の都市はロッテルダムであり、その名にダムが名付けられている。一三世紀、アムステル川の河口にあった漁村にギスブレスト二世が築城し、堤防を築いて都市を建設した。都市名を“アムステル川の堤防”という意で『アムステルダム』と命名した。一方、小さなロッテ川がマース川に合流する地点に発達した港町は、“ロッテ川の堤防”という意で『ロッテルダム』と名付けられていた。この港町は外洋航路よりマース川、ライン川の内陸水運に荷を積み替える港として、今やヨーロッパ最大の港の一つにまでなった。ダムが都市の守護神そのものなのである。ダム名が名付けられた町が、今や世界的な大都市にまで発達していった」
「塘」は「とも」「ども」と呼ばれていた?
「塘」の意味はお分かりかと思いますが、肥後の「とも」、「ども」の濃厚さはただ事ではありません。一部には(『漢字源』)これを訓読み扱いにするものもあるようですが、基本的には古語よりも(もちろん古語なのですが)方言の扱いでしょう。しかし、単に方言とか(古語)では済ませないものを感じるのです。
なぜならば、最低でも、熊本市銭塘(ぜにども)町の銭塘とは元代の臨安府が置かれた杭州のことであり、宗、元、明期の中国と交易を今に伝える痕跡地名だからです。
マルコ・ポーロが杭州に来ていた事はどなたもご存知ですが、ヨーロッパと繋がっていたことがこの一事をもってしても理解できるはずです。
してみると、まず、銭はともかく、「塘」はドモという中国本土の音を写したとしか思えないのです。
少なくとも当時の肥後が大陸文化に直接洗われる土地であったとまでは言えるようです。
【臨安】りんあん
南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で「行在」と称。
(『広辞苑』)
揚子江下流の銭塘江を“せんとうこう”と呼び(読み)ますが、これはいわゆる日本流の漢音でしかなく、現地のしかも当時はどのように発音され、日本人がどのように理解したかは全く別の問題なのです。
発音はいかに?
辞典に「漢音でトウ(タゥ)、呉音でドウ(ダゥ)」と書かれていたとしても、これは中国で学んだ遣唐使などが持ち込んだ中国音を八世紀頃の日本人の口で置き換えたものであって、当時の中国の原音そのものでないことは言うまでもありません。
当然ながら、中国の各地方で各々読み方が全く異なる事も頭に置いていなければなりません。まず、現在の現地音を考えてみましょう。上海近郊の水郷の町に西塘(シータン)があります。
これをアルファベットで表記すれば XiTang となるでしょう。
さらに、いくつか例を上げると、東チベットに理塘(リタン)、巴塘(バタン)があり、香港に觀塘(クントン)ショッピング・センターがあります。海に目を転じれば、海南島に月塘(ユエタン)村…があります。
ただ、専門外の分野であるため、友人の歯科医師の松中祐二氏(北九州市在住:九州古代史の会)に尋ねたところ、「塘」は、呉音 ドゥ(Dau)、漢音 トゥ(Tau)、韓音 ダン(Dang)、越音ドン(Dang)、門/虫(門構えの中に虫)南音 トング(⊃ng)、広東音 トン(Tong)となるとのことで、さらに古代まで踏み入れば、上古音で、ダン(Dang)中古音でも、ダン(Dang)、元中元音で タン(Tang)とのことでした。
まあ、ばらつきはありますが、タン、トン、ダン、ドンといったものの中のどれかというところで良いのではないでしょうか。特に、中国語は濁音と清音の差はほとんど意味のない言語であり、それは中国人が「ケームセンタートコあるか?」などと尋ねてくることからも経験的に明らかでしょう。
昭文社県別マップル道路地図熊本県
肥後は日本の玄関口だった
さて、南北朝期、菊池水軍は有明海(松尾)、名和水軍は不知火海(徳淵)を拠点にして明などとの交易を行なっていたのですし、その通行の歴史は「呉は大伯の後」と呼ばれる呉越同舟の呉の時代以来とさえ考えられるのです。
特に面白いのはこの地名「塘」の分布領域が事実上肥後一国に限定されていることです。
もしも南北朝騒乱期にこの地名が持ち込まれたとすると、宮方を支えた菊池氏、阿蘇氏、五條氏の中枢であった菊池武時、武光といった発展期ではなく、完全に肥後一国に押し込まれた衰退期に成立した地名とも考えられるのですが、単純に十四世紀末の外来語と言えるかは、なお、疑問が残ります。
しかも、八代から玉名、山鹿となれば、歴史的な関係から考えて、まず、呉音に注目しますが、もしかしたら、「トモ」、「ドモ」はさらにもっと古い時代の音を残しているようにも思えてなりません。
その一つは、上記の一帯には横穴墓が大規模に分布していることがあります。
この墓制は揚子江の中~上流の少数民族の一帯(彼らは漢族に追われて山に上がったのです)に色濃く分布するもので、どのように考えてもこの古い墓制を持った人々が揚子江河口の会稽辺りから出発し舟山列島で舟を東に向けたはずなのです。
一般的に横穴式石棺墓は古墳時代も後期の墓制などと言われますが、それは、使用されなくなった横穴墓に後に石棺が埋納されたことなどからであって、本来の墓制ではないのです。そう考えれば、中間市大字岩瀬に塘の内の例を上げましたが、この一帯にも横穴墓があったようです。
この菊池川一帯に分布したはずの数千余の横穴墓は、古墳時代後期のものなどではなく、もっと古いものであるはずなのです(昔の考古学会では縄文時代のものとしていた)。そのことを物語るかのように、直接、川や湖に面した垂直の崖の中ほどを抉って造られた横穴墓群のさらに上の丘陵平坦部天端部にあたかも征服者のように一般的な古墳が置かれていることでも分かるのではないでしょうか?
そのほかにもいくつかの傍証がありますが、ここではそこまで踏み入らず、再度、話を先に進めます。
結論から言えば、とも、どもは中近東に派生したダムの原音とでもいうべき音を写したものではないかと思うのです。
当然ながら、中国の「塘」がドモ、ドン、ダンなどと呼ばれていた可能性もあり、逆にその音が西に伝播した可能性も否定できません。
前述した竹林征三氏の『ダムのはなし』には、大モンゴル帝国が建設した二つのダムの話が書かれています。一つはテヘラン南西のガブマハ川に造られ結局水が溜まらず失敗したサベーダムやテヘランの南西一七〇キロのケーバル川に高度な技術で建設されたケバールダムの話が出てきます。
これが、実際にダムと呼ばれていたかどうかも不明ですが、シルクロードを経由して、このダムもしくはドモという音が揚子江下流辺りまで伝わったとすることは十分に可能であり、それが届いたのが八代の徳淵や熊本の高橋辺りだったのではないかと思えるのです。
荒唐無稽と考えられても構いませんが、熊本県の緑川の支流浜戸川に加藤清正によって造られたとされる轡塘(クツワドモ)と呼ぶ河川構造物(決堤、破提を緩和する装置)があります。これと同じ構造を持ったものが、中国とイタリアにも見られるという話を河川工学の専門家から聴いた事があります。実用的な技術は呼称や音よりも早く確実に伝播するものなのです。
このように考えると、当時のウォーター・フロントであったはずの熊本市城山町大塘(おおども)、熊本市銭塘(ぜにども)町の「ドモ」という音が理解できるのです。
ここまで踏み至ると、ヨーロッパの西の果てのロッテルダム、アムステルダムから、中国、そして、日本、少なくとも熊本まで、このダムという言葉の帯が拡がっているという世界性に戦慄を覚えるのです。
蹴破り伝説をもつ阿蘇神社前の古い農協倉庫(洪水時の舟が今も吊るされている)
山鹿市 坂田 塘
資 料
塘(トモ)地名
北海道川上郡標茶町 塘路 (とうろ)。 北海道川上郡標茶町 塘路湖 (とうろこ)。北海道川上郡標茶町 塘路橋 (とうろばし)。 熊本県熊本市 城山大塘町 (じょうざんおおどもまち)。 熊本県熊本市 銭塘町 (ぜんどもまち)。 熊本県八代市 大牟田塘 (おおむたども) 。熊本県山鹿市 塘 (とも)。 熊本県宇城市 沖塘 (おきども)。 熊本県八代郡氷川町 沖塘 (おきども)。
例外)鹿児島県 南さつま市 塘 (とも)。
塘(とも)とは堤防のことで、荷揚げ場所跡かわら小屋からみた 塘 轡 塘 は、加藤清正による洪水制御法のひとつで、近世において熊本県下の河川に比較的多く用いられた。川の一部区間に大きい遊水地を有し、洪水時に遊水地内に貯水しピーク流量を逓減させる遊水装置としての機能を持つと考えられている。
大辞林 ×、weblio とも ヤフー大辞泉 ×、ウィクショナリー 音読み 呉音 : ドウ(ダゥ)漢音 : トウ(タゥ) 訓読み つつみ、とも 大漢和辞典 とも 字源 広東省ピンインtong 中国語ピンイン tang
塘沽停戦協定
1933年(昭和8)日本軍の熱河(ねっか)作戦後に結ばれた日中停戦協定。同年5月31日岡村寧次(やすじ)関東軍参謀副長と熊斌(ゆうたん)北平軍事分会総参議によって調印された。
石塘(玉名)、一夜塘(子飼)、新塘(しんども)長洲町、沖塘の樋門(おきどものひもん)氷川町一夜塘(黒髪)、新地塘(宇城市)、塘下(城南)、塩屋塘(長洲)、古塘神社(氷川)、江津塘(えづども)城山大塘町 (じょうざん おおどもまち) 銭塘町 (ぜんどもまち) 八代市 大牟田塘 (おお むたども)山鹿市 塘 (とも)鹿児島県南九州市川辺町下山田 塘之池公園 (トモノイケコウエン)、鹿児島県南さつま市加世田川畑塘花
山上三名字は海賊だった 地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章より 
金峰山回廊を歩く    「肥後の山」
菊池水軍 近津 海外貿易の一大拠点
金峰山の海沿いの道を訪ねてみた。熊本市松尾町の近津。有明海に突き出た小高い森に灯台が立っている。干拓で陸続きになる前は、「盗人島」と呼ばれる離島だったという。「往日この島に海賊住しゆえに盗人島と呼べり。近世その名をにくみて離島とよぶ(肥後国志)。ここから金峰山のすそ野はV字形港に入り込む。山つきに鹿島神社がある。巨木の間から、梅雨明けを告げるセミ時雨がこぼれる。同神社の祭りは、新羅の襲撃に由来するという。さかのぼって平安時代。日本と制海権を争っていた新羅は、対馬や肥前松浦郡などを度々襲撃した。寛平五年(八九三)、「新羅の賊、肥後飽田郡において人宅を焼亡す」(日本記略)。郷土史家の田辺哲夫さんは、襲撃された肥後飽田こそが「この近津だ」と推測する。同神社では十月十四日、勇壮な火祭りが行われる。境内の石碑に祭りの由来が書かれている。「住民ハ松明ヲ取り良ク応戦撃退スルヲ得タガ夥シイ財宝ヲ奪ハレタ」。松明で応戦した様子が火祭りで再現される。有明海の奥深くまで侵入するほど、近津の勇名は新羅にとどろいていた。金峰山の入り組んだすそ野は、この時から海外航路の港だったのだ。そして金峰山こそが「有明海に突出した巨大な灯台」(田辺さん)の役目を果たす。南北朝から室町時代にかけ、倭冦の基地になる。「倭寇は、博多を窓口とする幕府の『表貿易』に対抗する『裏貿易』です。その一つの勢力が、金峰連山の野武士集団『山上三名字』と呼ばれる田尻、内田、牛島の三氏だった」と田辺さん。後に、菊池一族が金峰山に勢力を伸ばし三名字と手を組む。「菊池氏の勢力を支えていたのも海外貿易だった。有明海の出口をにらむ金峰山は、その重要な前進基地。ここから玉名の菊池川河口を経て、菊池の本拠地へ海外からの物資が運べますからね」。菊池氏と三名字は、貿易による経済利益と、金峰山の修験道という二つを共有し、南北朝の動乱でも共同戦線を張る。飽託郡河内町の中心部。船津港が見下ろせる厳島神社の一隅に、唐人墓がひっそりとたたずむ。加藤清正は朱印船貿易にカを入れる。配下の貿易商人としてカを発揮するのが唐人だった。県内では玉名、熊本などに唐人の居留地ができる。「三官屋敷」と呼ばれるのもその一つ。河内の唐人墓があるのも三官屋敷跡だ。その一方で、清正は倭寇を取り締まる。割をくったのが三名字。肥後国衆一揆平定に功を上げ、豊臣秀吉の九州入りの際には浅野長政を三の岳に出迎えた。ところが、清正が国主となると一転、三名字は浪人となる。「倭寇だった三名字が邪魔だったのでしょう」と田辺さん。波静かな有明海。そこには海上交通路の利権をめぐって、さまざまな波紋が描かれてきた。
山の上三名字の牛島氏とみかん
地域学シリ-ズ6 新熊飽学 第5章 金峰山回廊を歩く、より
金峰連山は巨大なみかん山でもある。五月晴れのころのかれんな白い小さな花。梅雨に洗われ、親指ほどに結実したミカンは、いま真夏の日差しに輝いている。日本でのかんきつ類栽培の歴史は古い。「魏志倭人伝」にすでに「橘」が記述されている。「日本書記」には、田道間守がダイダイを輸入したという故事がある。田道間守の伝説は全国各地にある。飽託郡河内町では、肥後耶馬渓と称される渓谷の近く「上越」に原木を植えたと伝えられている。上越は、山上三名字の一つ牛島氏の根拠地。南北朝のころ、八代高田から小ミカンの苗が移植された地でもあるという。八代筒田は県内のミカン発祥の地。豊臣秀吉が絶賛、江戸幕府の将軍にも毎年献上された。ミカンの苗は天正二年(一五七四)、紀州和歌山に渡り、百年後には紀州ミカンが江戸市場を制する。一方、河内町では紀州に遅れること百年、やっと本格的な栽培が始まる。その間、栽培技術をめぐって偵察合戦もあっただろう。「紀州熊野の修験と密接な関係があった金峰山の修験者が、相互に産業スパイの役目を果たしていたかもしれません」と郷土史家の田辺哲夫さんは言う。金峰連山には水田が少ない。山腹に畑を開墾するしかない厳しい環境が、逆にミカン栽培の普及に幸いした。臨海地で昼夜の温度差も少なく、温和な気候も適していた。
●ダムとアムステルダム
「ダム」とはオランダ語で「堤防」という意味。干拓によって国土を広げてきたオランダでは、川に堤防を築いて都市を建設してきた。いかにも海洋国家オランダらしい成り立ちである。そんな理由で、川の名前とダムを組み合わせた地名が多い。
アムステルダムは、かつてはアムステル川河口の小さな漁村だったが、13世紀にギスプレヒト二世が築城を開始。低湿地に運河を縦横に張り巡らせ杭を打ち込んだ土台の上に家屋を建てて都市を建築した。 アムステル川に堤防を築いて街を守ったので、「アムステルダム」という地名が生まれた。 また、ネーデルラントの意味は、低湿地という意味である。
ダムの語源 (だむのごげん) ダム事典
日本語の「ダム」は、英語の Dam を、その発音をカタカナで日本語表記にしたものです。
中世ヨーロッパでは、ゲルマン、アングロサクソン地方の各地で、Dam という言葉の起源とも思われるさまざまな言葉が用いられていましたが、英語の Dam の直接の起源は、14世紀のオランダ語だといわれます。オランダは、国土の約四分の一が海面下の土地で、延々と続く堤防によって海水を堰き止めています。首都であるアムステルダムや第2の都市ロッテルダムの名前は、「アムステル川の堤防」、「ロッテ川の堤防」という意味です。これらの都市は、13世紀に建設されたものですが、当時オランダで、堤防という意味でダムという言葉が使われていて、やがてそれが英語になったもののようです。 なお、英語のDamという言葉は、必ずしも高さの高いものだけを指すのではなく、高さの低い、日本では通常堰と呼ばれているようなものも含んでいるようです。
銭塘江 杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった[1]。
隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。
一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。
歴史的地名としての「杭州」の行政区画に関しては杭州の項目を参照。
杭州市内の余杭区には、新石器時代末期に栄えた良渚文化(前3300年から前2200年ごろ)の遺跡がある。
春秋時代には、初め越に属し、後に呉に属した。東周の顕王35(前334)年、楚が越を滅ぼして以降は、楚に属した。秦代には会稽郡の管轄とされ、南北朝時代になると549年(太清3年)、梁により一時期設置された臨江郡の管轄となり、587年(禎明元年)には陳により銭唐郡が設置されている。
589年(開皇9年)、隋朝は銭唐郡を廃止して杭州を設置、杭州の地名の所見である。その後余杭郡と改められ、唐代になると再び杭州、余杭郡、そして758年(乾元元年)以降は杭州の名称が清末まで使用されることとなった。
杭州は隋代に建設された大運河(江南河部分)の南端とされ、唐代には南北を連絡する運河が整備され、貨物の集散地とし発展、貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、開元(713年-741年)には58万人を数え、広州、揚州と並ぶ経済の中心となった。また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。
五代十国時代に呉越の都となり西府と称した。呉越は杭州城壁の拡大、銭塘江の堤防整備などの水利事業を行っている。
北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の都市となっていた。1089年(元祐4年)には蘇東坡が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、推理事業を行っている。南宋になると杭州はその全盛期を迎え、呉自牧により『夢粱録』に当時の杭州についての記録が残されている。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と改称、1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。
1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝により杭州路が設置された。1341年(後至正元年)杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。元代の繁栄の有様は、マルコ・ポーロが「キンザイ(=行在)」として『東方見聞録』で記している。
元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。明朝が成立すると杭州府が設置され江南の経済中心地として発展し、織物業や茶葉の生産などによって栄え、蘇州と並ぶ江南の大都市となった。西湖の周辺には多くの寺院や道観、別荘や庭園が集まり、多くの文人墨客が訪れている。また霊隱寺などは近接地域から多くの参拝者を集める文化都市としても発展していた。しかしアヘン戦争を契機に上海の経済的地位が向上すると杭州の反映には陰りを見せ始め、太平天国の乱では戦火の被害を受け多くの歴史的建造物、文化財が消失している。また清末の1895年(光緒21年)に日清戦争に敗北した清朝は下関条約により杭州を日本に対し開港、租界の設置を認めている。
中華民国が成立すると府制廃止にともない杭州府は廃止、1914年(民国3年)には浙江省銭塘道が設置された。1927年(民国16年)、道制が廃止となり杭県を城区、西湖、会堡、湖墅、皋塘、江干の6区を擁する省直轄の杭州市が設置された。
中華人民共和国が成立すると1949年に杭州市は省轄市(地級)に昇格、浙江省省会とされた。1958年、寧波専区蕭山県と建徳専区富陽県を杭州市に編入、同年には杭県を廃止しその管轄区域の一部が杭州市に編入されている。1960年、嘉興専区臨安県と金華専区桐廬県を杭州市に、1963年には金華専区建徳県、淳安県を編入している。1996年、西湖区の西興鎮、浦沿鎮、長河鎮を分割して浜江区を新設、2001年に県級市の蕭山市及び余杭市を市轄区とした。
 
地理 [編集]
杭州市は浙江省の北部にある。浙西中山丘陵の中部、浙北平原の中西部に位置し、山地丘陵がおよそ三分の二を占める。地勢は西南から東北へ向かってゆるやかに傾斜している。市域を富春江・銭塘江が貫流し、西方の杭州湾に注いでいる。市の中心部は銭塘江の下流、京杭運河の南端に位置している。
かつて城壁に囲まれていた市の中心部の西側には、西湖という湖がある。西湖は西、南、北の三方を山に囲まれ、風光明媚な名勝として内外に知られている。
※通常、ウィキペディアは使用しないのですが、コンパクトで今回、例外的に使用しました。
武雄市 古川 清久
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