久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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馬門(マカド) 大王の石棺はいかに運ばれたのか?
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「風土記の考古学D肥前国風土記の巻」小田富士雄編の巻頭地図
馬 門“大王の石棺“搬送の物理的基礎
熊本県の天草諸島へと伸びる宇土半島の中ほどの有明海側に馬門(マカド)という小集落(宇土市網津町)があります。2005年)、この地から切り出された石の棺を舟で畿内まで運ぶという考古学上の実験が行われました。物珍しい話でもありマスコミ(読売)も跳び付いて報道しましたので、この実験航海の映像をご覧になった方も多いと思います。
大歳神社の前に流れる感潮河川網津川
まず、これらの土地は緑川が運んだ大量の土砂が堆積した干潟が干拓されたものであり、かつては、JR三角線、国道五七号線に近接する浜戸川が旧河道だったことでしょう。その内側にしても鉄道敷を事実上の潮止堤防として干拓されたものか、逆に、堤防を利用して鉄道が敷かれたものでしょう。さらに想像の冒険を許されれば、三角線から大歳神社付近までは約二キロほどの距離しかありません。有明海周辺の陸化のペースを考えると十分過ぎるほどであり、千五百年前のこの地は海がすぐ傍まで迫り、波が洗う大きな入江であったはずです。
馬門の石切り場(宇土市網津町馬門地区)
多分、曳きおろされた棺は、大歳神社の間際まで湾入した入江に停泊した舟に積み込まれたと考えられます。これを想像させる地名が馬門地区の隣にあります。同じく網津町の上流にある割井川です。割井川は網津町の最奥部であり、その上流には馬立地区がある網引町があり、県道宇土不知火線がこの場所から本格的に山に入っていきます。割井川とはどう考えても、自然には入ってこない舟、船を上流の集落まで引き込むために人為的に掘割を造ったという地名に思うのですが、皆さんはどう思われるでしょうか。もちろん、井や井手は水路、用水路、堤防などに使われる言葉です。
大歳(オオトシ)神社
現地を見て第一に感じたと言うよりも、驚いたことは、馬門地区が決して山の中ではなく全くの低地にある集落だったことでした。通常は地図でもある程度の予想は付けられるのですが、一〇〜二〇メートル程度の等高線だけではやはり現地の雰囲気は掴めません。馬門地区の中心もどう見ても海抜五メートル以下、少なくとも河道は河床が二メートルは下がりますので、高くても三メートル程度で有明海の潮汐振幅の枠内に入ったのではないかとの印象を持ちました。前述したように大歳神社は馬門地区の公民館の隣にあります。もちろん公民館が大歳神社の側に造られたのですが、神社は地区の中心に位置していますので、もしも、大王の石棺がここで切り出されていたのだとしたら、この場所で何らかのセレモニーが行われた事は、まず間違いがないはずであり、この神社の持つ意味は非常に重要になってきます。
大歳神社(宇土市網津町馬門地区)
※神社の裏に見える楠は一本の木です
大歳神といえば須佐之男命の子(ニギハヤヒ)ですが(但し『古事記』の表記は大年神、『日本書紀』にはこの神は登場しません)、この大歳神社は九州ではあまり耳にしません。
祭神は大歳神とされ農業神のようですが、併せて石作神と豊玉姫が祭られています。
石作神は代々石棺を造っていた氏族の祀る神のようです。一方、豊玉姫(トヨタマヒメ)は言うまでもなく豊玉彦神の娘、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)の妃(后)であり、海人族=海神です(彼らの子が神武天皇の父になります)。
また、この大歳神社は兵庫県に三〇〇社以上あるとされています。恐らく、大歳神を祀る古代氏族は本拠地を兵庫としていたのでしょう。
もしも、この京都の大歳神社が馬門の大歳神社と同一起源のものであるとすると、石棺を造り搬送するという石作神と海人がセットで存在する事になりピッタリしてきます。
普通は、畿内の大歳神社が持ち込まれたとするのでしょうが、佐賀県の杵島山周辺を始め、筑後、肥後に多くの須佐之男命を祀る神社があり、佐賀県の神埼市の櫛田神社こそ櫛稲田姫を祀る神社であることから、出雲神話の舞台は実は九州だったということが分かってきました。馬門の大歳神社は当然にも馬門に置かれたはずなのです。
ただ、もう一つの可能性も見ておく必要があります。それは、馬門石の生産が肥後藩の公共事業として成立していたことです。
持ち込んだ可能性が高いのは言うまでもなく細川氏です。馬門石の生産が最盛期を迎えるのは江戸の半ばです。細川領では御用石として上水道の水管、鳥居、水門、石橋などとして大量に切り出して使っています。細川氏が室町以来の守護大名であったことを考えると京都の大歳神社を移したとするのは決しておかしな話ではないでしょう。
大歳神社の楠ノ木
馬門、馬立の周辺
木下良は、奈良時代には現在の島原市に至って有明海を渡るルートと、山田駅付近から現在の北有馬町に出て有明海を渡るルートがあって、後者のルートが『延喜式』時代に廃止されたのではないかと想定している。
「肥前国の条里と古道」 日野尚志(『風土記の考古学D』肥前国風土記の巻小田富士雄編)
 
ただし、古田史学がこれを単純に大和朝廷の官道と考えていない事はいうまでもありません。
今回は、初期調査の現地リポートに限定していますので当然ながら結論には至りません。しかし大歳神社は気になります。というのは、馬門石の切羽に向かう手前の右手の小さな丘に赤石(アカイシ)神社なる祠があるからです。赤石とは言うまでもなく阿蘇ピンク石の事でしょうから、石作神が大歳神社に併せて祀られているのならば、赤石神社が別に存在するとは考えにくく、これは馬門の大歳神社に石作神や豊玉姫命が祀られていない可能性を示唆します。一応、赤石という言葉は細川家が使っています。石切り場の付近には“赤石場見締”なる役職があり、御用石として管理していた事が伝えられています。
細川が赤石神社を置いたのか、それとも、それ以前からこの場所にあったのかは今後の調査に待たざるを得ませんが、もしも、赤石神社が細川によるものではなく古代からのものであり、大歳神社が楠を祭神としているのが確実ならば古形を留めているわけであり、京都の大歳神社も九州(馬門)が起源であるという可能性があるのかもしれません。
一応、現在手元にある資料を一覧表にすると、各神社の祭神はこのようになります。
社名 肥後國誌 肥後國神社明細帳 熊本県神社誌 由緒
成立時期 明和期 明治11.12年頃 昭和56年10月1日 神社明細帳
大歳神社 年ノ神 山神 大歳神 大年神 不詳
赤石神社 当方未調査 大山祗神 大山祗神 不詳
牧神社 当方未調査 蛭子神 事代主神 永禄四年?
住吉神社 当方未調査 当方未調査 住吉大神外四神 当方未調査
赤石(ピンク石)石棺の分布
少し交通整理をしておきましょう。
第一に、馬門産のピンク石だけが畿内に運ばれ大王の棺とされ、九州から運び出されたかのような理解が広がっていますが必ずしもそうではありません。
馬門石は阿蘇熔結凝灰岩の一つですが、菊池川水系(熊本県玉名市を抜け有明海に注ぐ)と氷川水系(熊本県氷川町を抜け不知火海に注ぐ)でも阿蘇熔結凝灰岩から石棺が造られ、その一部は瀬戸内海沿岸から畿内にも運ばれているのです。ただ、これらはピンク石ではありません。氷川水系起源の石棺にしても大半は不知火海沿岸や佐賀県などに運ばれているようです。
また、馬門石にもピンク石以外の灰色、黒色があり、同じく馬門石と呼ばれており、ピンク石以外の馬門石、網津町の隣の網引町のものも同時に馬門石と呼ばれているようです。
一応、お断りしておきますが、石棺が菊池川水系産出、氷川水系産出、馬門産出とされている根拠は、これらの産地周辺に分布する舟形石棺の形状などの系統的な調査によって推定されているものであり、阿蘇熔結凝灰岩と石棺の火山学的な成分分析によって判定されているものではないようです。
古墳・通称名 古墳の形 墳丘長・径 石室 築造時期 所在地
兜塚 前方後円墳 45 竪穴式 五世紀後半 奈良県桜井市浅古
長持山 前方後円墳 40 竪穴式 五世紀後半 大阪府藤井寺市
野神 前方後円墳 22? 竪穴式 五世紀末 奈良市南京終
金屋石棺蓋 出所不明 五世紀末 奈良県桜井市金屋
備前築山 前方後円墳 82 竪穴式 五世紀末 岡山県長船町
峰ケ塚(破片) 前方後円墳 88 竪穴式 六世紀初頭 大阪市羽曳野市
円山 円墳 30 横穴式 六世紀初頭 滋賀県野洲市
甲山 円墳 30 横穴式 六世紀前半 滋賀県野洲市
東乗鞍 前方後円墳 72 横穴式 六世紀前半 奈良県天理市乙木
別所鑵子塚 前方後円墳 57 直葬 六世紀前半 奈良県天理市別所
慶運寺石棺身 出所不明 六世紀前半 奈良県桜井市箸中
今城塚(破片) 前方後円墳 190 横穴式 六世紀前半 大阪府高槻市
第ニに、我が古田史学の会で議論されていることですが、継体の陵墓とされている大阪府高槻市の今城塚古墳はともかくも、大半はそれほど大きな古墳というものではないとも聞きますので、現段階では、あたかも大王(天皇)の支配が、遥か遠い昔から全国に及び九州から石棺が準備されたかのように説明されることには問題があるというべきでしょう。
第三に、大王の石棺が遠く九州から運ばれたことが事実だとしても、それは、畿内から調達されたものか、逆に、九州から畿内に贈られたものか?という問題は残るのです。これには、いつの段階かで調達と贈与が逆転する力関係の変化があったという可能性も横たわっているのです。
一応は、この馬門石石棺の分布を簡単に考えておきたいと思います。九州での出土例がないとされていますが、熊本県で一例、馬門石の可能性がある鴨篭(カモゴ)古墳(不知火町:但しこれはピンク石ではありません)。
ここでは、ピンク石に限定して、古田史学会報NO.70(2005年10月7日)掲載の=“「大王のひつぎ」に一言”を書かれた生駒市 伊東義彰氏が作成された一覧表を掲載しておきます。
確かに馬門産出のピンク石に限定して石棺が造られた傾向がありますが、私は不知火海沿岸の氷川流域産出石棺に関心があるため、宇土半島産出かどうかといった観点で考えたいと思います。
 この手の集計は調査の進展や研究者によって変化するものであり、さらに正確を期すために、宇土市教育委員会(杉井 健、高木恭二、藤本貴仁、古城史雄、中原幹彦、板楠和子)を中心にまとめられた『新宇土市史』通史編第一巻抜刷“原始古代編 第四章 古墳時代―倭王の時代―”掲載の第4−4 九州外阿蘇石製石棺一覧表を掲載します。ただし、これは宇土半島産出石棺外の阿蘇石石棺であり、必ずしもピンク石、馬門石に限定したものでは有りません。 
この中で特に有名なのが継体天皇陵とされている大阪の今城塚古墳の石棺です。古代史においても継体の存在は非常に大きく、このため、近年特に注目されたものですが、実際に出土したのは石棺の蓋の欠片程度です。また、石棺はいくつもあり、ピンク石の石棺が本当に継体のものかは良く分からないのであって、基本的には今後の調査に待たなければならないはずです。さらに、非常に奇妙なのは九州におけるピンク石石棺の出土例がない事です。わざわざ畿内まで搬送されたとすると、それ自体非常に大きな価値あるものだったわけであり、私のように九州王朝説を確信するものとしても、判断に迷っているのが本当のところです。ただ、古田史学の会の内部からは、早くも、“大和朝廷が九州では使用を禁止した”といった趣旨の話が出ています。
拡大した九州王朝の豪族が発注した
かつて、倉敷考古学博物館館長の真壁氏などが、“大和朝廷の王族が九州を征服したことを誇り、その証のために敵地で生産された石棺をわざわざ取り寄せてそのなかに眠った“といった意味のことを語っていますが、そんなことは絶対にないはずです。
普通に考えても、葬送儀礼、葬送様式とは非常に変化しにくい物であり、仮に自分自身死んだことを考えて見れば、容易に理解できるはずですが、ガラスの棺桶が流行したとしても飛びつく人は、まず、ないことでしょう。従って、流行するはずもないのです。
人は自ら父祖と同じ方法で安らかな眠りを得たいと考えるもので、だからこそ、遠距離で搬送しなければならないとしても、父祖が使用した石棺で眠りたいと考えたのです。
九州の葬送様式が畿内で数多く認められることこそ、九州の豪族が畿内に大量に入っていることの証拠であり、九州王朝が拡大し畿内にも進出していることを証明するものなのです。
大王の石棺搬送の実験考古学は、さも科学的な実験でもあるかのごとく吹聴されていますが、町興しよろしく大新聞による虚構の想定にただ乗りした人々は、大和朝廷の大王に珍重された石棺の産地として宇土市を誇り、宣伝したいとでも考えたのでしょうか?
ここには地元の誇りすら一切感じられないのですが、単に宇土の名を宣伝できればそれで良かったのでしょう。
第4−28図 九州外阿蘇石製石棺の分布
第4−4表 九州外阿蘇石製石棺一覧表
現在のところ、菊池川水系、馬門地区、氷川水系の石棺制作に時期的な差があり、それが畿内と九州の力関係の変化と関係しているのではないかとの仮説を立てていますが、確たる根拠を持っているわけではありません。
始めは、菊池川水系⇒氷川水系⇒馬門地区を考えましたが、考古学上の研究成果によると、氷川水系⇒菊池川水系⇒馬門地区ではないかと考えられているようです。これについても今後の課題とします。
舟で運ばれた石棺
“大王の石棺”実験航海では、加工された棺を筏に乗せ、それを曳航して島原半島南岸を西に進み長崎の西岸を北上して畿内に向かいましたが、平戸の瀬戸を抜け、その東の釜田港から、関門海峡の門司港などを経由して瀬戸内海に入り、宮津、鞆ノ浦、牛窓港、芦屋港といった瀬戸内航路の名だたる港に錨を降ろしながら約一ケ月かけて最後の大阪南港に着いたのでした(計二四港)。私は、蓋と合わせて十トンに近い石棺を舟上に載せるのは復舷性を考えると危ないと考え、筏を使うか舷側にでも吊るして石棺自体の浮力を利用するのではないかとも考えたのですが、水の抵抗やこの石の脆さを考えると、やはり、舟底に置いて運ぶのが順当なのかもしれません。
馬門地区の干拓地先には住吉神社があります。当時この場所は間違いなく馬門沖に浮かぶ島であり、その高さからも有明海最南部の非常に目立った島だったはずです。神社の縁起や『熊本県神社誌』を見ると、当然ながら住吉三神の表筒男命(ウワツツツオノミコト)、中筒男命(ナカツツツオノミコト)、底筒男命(ソコツツツオノミコト)に気長足姫命、大海津見神、健磐龍神、保食神、菊池則隆命(気長足姫命は息長足媛=神功皇后=仲哀天皇の皇后の事か?米田良三氏は息長足姫を倭武の妻とする)が祀られています。私は馬門から海路畿内まで石棺が運ばれたと聞き、必ず附近に海洋民の痕跡があるのではないかと探しましたが、直ちに住吉地名と同神社を見出し、“やはり”と思ったものです。宮司にこのことをお尋ねすると、“創建は菊池氏によるもの“との、お答えを頂きました。菊池氏は鎌倉末期から南北朝騒乱期にかけて九州中央部で活躍し、南朝方として一時期、九州北半を制圧したほどの豪族ですが、熊本市西部の松尾地区などを拠点に明国との貿易を行っていたとも言われおり、有明海南部に神社を置くことは当然かとも思いました。恐らく、網津町に隣接する住吉町附近には先行して住吉の神を祀る民(海洋民)が定着していたのではないかと思います。そもそも、大阪の住吉大社にしても、その起源は対馬、壱岐のはずですし、当地の住吉もそれを起源とするものでしょう。古代においても、馬門を出発した石棺を運ぶ舟は、住吉の神に航海の安全を祈願して畿内を目指したのではないかと考えます。
ただし、航路については、この時にもリポートU53.「船越」(延喜式に登場する「船越」の駅=ウマヤ 経由の一部陸路利用)で書いた有明海〜諫早=船越〜大村湾というルートも有り得るのではないかと思っています。海が安定する夏場でも、南、西風が卓越する長崎南、西岸は通りたくないと考えたからです。
長持山2号石棺
(写真提供:古田史学の会 生駒市 伊東義彰)
また、当時の島原から長崎、長崎から佐世保にかけての長崎南、西海岸には人口の集積がなく寄港地としての兵站が望めません。さらに、搬送は王権の示威を兼ねていたと考えられます。数艘の随行船を従え、国家的事業として取り組まれたはずであり、当時の人口集積地である諫早から大村湾に抜け、彼杵付近を中継し平戸の瀬戸を目指したと考えるのです。長崎県は現在でも長崎市と佐世保市に人口が集積しています。その理由は江戸以来の外国貿易の独占と明治以来の三菱長崎造船所と佐世保の海軍工廠の存在によるものでしかないのです。
石走る淡海
さて、ここでさらに踏み込んだ話をしたいと思います。
万葉集には“淡海”(オウミ)が出てきます。淡いという言葉は広辞苑を開くまでもなく薄いという意味ですが、薄い海とは何でしょうか、普通は海でありながら大河などの影響を受け、塩辛くない水域のことと考えるでしょう。一般的には琵琶湖のこととされています。
【近江・淡海】おうみ(アフミ)
 (アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。(広辞苑)
ところが、“琵琶湖に鯨が泳いでいた“と言えば、大笑いされるでしょう。しかし、万葉集に関しては、大まじめに琵琶湖には鯨がいるとされているのです。
とりあえず、淡海に関する歌を二つ見てみましょう。
@『万葉集』巻三、二百六十六番 柿本朝臣人麻呂の歌
あふみのうみ,ゆふなみちどり,ながなけば,こころもしのに,いにしへおもほゆ
淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
(原文)淡海乃海 夕波千鳥 汝鳴者情毛思<努>尓 古所念(岩波古典大系に準拠)
A『万葉集』巻ニ、百五十三番 天智の妻の歌、太后(おおきさき)の御歌?
いさなとり,あふみのうみを,おきさけて,こぎきたるコウ,へつきて,こぎくるふね,おきつかい
いたくなはねそ,へつかい,いたくなはねそ,わかくさの,つまの,おもふとりたつ
 鯨魚取り 近江の海を 沖放けて 漕ぎ来る船[舟エ]辺付きて 漕ぎ来る船
 沖つ櫂 いたくな撥ねそ 辺つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の嬬(夫)の 思ふ鳥立つ
 
(原文)鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来[舟エ]邊附而 榜来船
奥津加伊 痛勿波袮曾 邊津加伊 痛莫波袮曾 若草乃嬬之 念鳥立
 これも天智天皇の妻の歌、太后(おほきさき)の御歌となっているが、内容がおかしい。定説の読み下しは、「鯨魚取り 近江の海を・・・」と成っている。鯨が取れる近江の海となっている。いくらなんでも琵琶湖では鯨は捕れない。
意味、解読など詳しくは古田史学の会のHP「新・古代学の扉」の「淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにしへ思ほゆ」古田武彦講演会 二〇〇一年 一月二〇日(日)(午後一時から五時)を見てください。
とりあえず、ここでは淡海が鯨などいるはずもない琵琶湖に比定されている事を見て頂いただけです。
さて、この淡海については、HP「環境問題を考える」のサブ・サイト「有明海・諫早湾干拓リポートU」一月号“「阿漕的仮説」古田史学の会代表 水野孝夫”、“「阿漕的仮説」の掲載について”において、淡海は球磨川河口の海のことではないかという仮説が提出されています。これは万葉集の淡海を球磨川(日量一〇〇〇万トンに対して六〇万トンという伏流水によって塩が薄まり塩辛くない海が拡がっていたと言われ、同地には万葉集に歌われた水島もあります)が注ぐ不知火海ではなかったかという仮説を「倭姫命世紀」という古文書によって論証するものでしたが、ここに“石棺”と“淡海”をキー・ワードに考えさせられる万葉歌があるのです。
これについては、前述したHP「新・古代学の扉」の古賀事務局長の洛中洛外日記2005/12/10「石走る淡海」から全文を引用させて頂きます。もちろん、ただの作業仮説なのですが、正直、始めは私もさすがに首を傾げました。しかし、徐々に侮れないことがわかってきたのです。まずは、お読み頂きましょう。
古賀事務局長の洛中洛外日記第52話(2005/12/10)岩走る淡海
『万葉集』などの歌枕には意味不明のものが少なくありません。「石走る淡海」もその一つです。淡海などの歌枕とされる「いわはしる」と言われても、琵琶湖を岩が走るのを見たことも聞いたこともありません。ところが、最近ちょっと面白いアイデアがひらめきましたので、ご披露したいと思います。
淡海は本来は琵琶湖ではないという問題については、既にこのコーナーでも紹介しましたが(第17話)、現在の所、熊本県の球磨川河口とする西村・水野説が有力です。この説に従えば、もう一つ注目すべきことがあります。それは球磨川河口の北部に位置する宇土半島から阿蘇ピンク石が産出するという事実です。このことも、以前触れたことがありますね(第25話)。本年この阿蘇ピンク岩の巨岩を復元された古代船で近畿まで運ぶプロジェクトがありましたが、これこそ「淡海」を「石走る」にぴったりではないでしょうか。
古代において、遠く近畿まで阿蘇ピンク石を船で運ぶ姿を見た歌人達が「石走る淡海」と詠んだ、そのように思うのです。それは、勇壮かつかなり異様な印象深い光景に違いありません。もしかすると柿本人麻呂も、球磨川河口の海を阿蘇ピンク石を積んだ船が滑るように走る情景を見たのかも知れません(『万葉集』29番歌に「石走る淡海」が見える)。
いかがでしょうか、このアイデア。かなりいけそうな気がするのですか(ママ)。もし当たっていれば、「石走る」という枕詞も九州産ということになり、最初に九州王朝下で作歌されたことになります。
多少、補足しますが、古賀事務局長は「阿蘇ピンク岩の巨岩を復元された古代船で近畿まで運ぶプロジェクトがありましたが」とされていますが、正確に表現すれば、馬門現地で加工された石棺が運ばれています。ただし、その事はここでは重要な意味を持ちません。
この文書は、古田史学をある程度理解している読者を対象とした軽いコラムとして書かれていますので、かなり簡略化された話にされていますが、その背後には多くの研究の蓄積があることは言うまでもありません。
また、古田武彦氏の九州王朝説に立脚する古田史学の会では、柿本人麻呂も九州王朝の宮廷歌人と推定されており(九州王朝滅亡後には畿内の歌人としても活躍)、当然ながら淡海も琵琶湖ではないのではないかと考えられています。
では、古賀仮説は成立するのでしょうか。宇土半島の南の不知火海を淡海とすることについては、既に水野代表が論証されていますが、最初に考えたことは、普通に考えると馬門地区は宇土半島の北側に位置し、どのように考えても北側の有明海にしか送り出さないはずであり成立しにくいと思ったものです。しかし、調べていくとどうやらこの仮説は成立しそうなのです。
馬門以外の菊池川水系、氷川水系でも
石棺が作られ一部が畿内に運ばれている
確かにピンク石石棺は馬門起源のようですが、ピンク石ではないものの、馬門石と同じ阿蘇熔結凝灰岩は阿蘇周辺の広い範囲に分布しています。そして古代においてはなおさらの事、切り出し搬送に適した場所が選ばれ生産されていたはずです。
一応、現地を確認してきましたが、一つは熊本県玉名市を通り有明海に注ぐ菊池川水系と、一つは熊本県八代郡の旧竜北町と宮原町の境を成し不知火海に注ぐ氷川水系です。ついでながら、この水系の上流の東陽町には有名な種山石工の集落があり、石匠館なる施設まであります。ただし、誤解がないように申し上げておきますが、種山石工集団は加藤清正が近江の穴太石工を黒鍬組として呼び寄せたものであり、それ自体としては、関係はありません。しかし、何もないところに技術移転がなされたとも考えにくいものです。
ここで生産されたと考えられているニ水系のうち菊池川水系については、瀬戸内海沿岸に運ばれ、岡山県山陽町の小山古墳、香川県観音寺市の青塚古墳、同じく丸山古墳、愛媛県の蓮華寺古墳の四例が確認されていますが、さらに大阪府藤井寺市の長持山1号古墳外七例、不知火海沿岸の氷川水系で生産されたとされている石棺で畿内に運ばれたものがあるようなのです。具体的には兵庫県御津町の御津町朝臣石棺、和歌山県和歌山市の大谷古墳石棺、京都府綴喜郡八幡町の八幡茶臼山古墳石棺の三例です。
この氷川下流域産石棺は不知火海沿岸や佐賀県などにも運ばれているようですので、九州内での搬送も含めて、古賀仮説「石走る淡海」は十分に成立すると思われます。
そして、このことは、万葉集に登場する淡海が本当は不知火海(球磨川河口)ではなかったのか、また、万葉集のかなりの部分が九州を舞台に書かれているのではないのかという可能性、さらには、朝廷による改ざんも含め、作者やその書かれた背景にまで多くの疑問があるという驚愕の推測を予感させるのです。今後とも古田史学(九州王朝説)の立場から現地踏査、資料、出典等の調査を行い再度報告したいと思います。
航路上に置かれた大歳神社
大歳神社が気になりそのその後も分布を調べていました。兵庫県に最も多く分布している事は述べましたが、その分布は瀬戸内海沿岸にも広がっているようです。九州はそれなりに意識して探さなければ見つける事はできません。しかし、これまで、文献や地図を調べることにより、かなりの数を見つける事ができました。まず、長崎県諌早市の大歳神社があることについては書いています。
ただし、航路については、この時にもリポートU53.「船越」(延喜式に登場する「船越」の駅=ウマヤ 経由の一部陸路利用)で書いた有明海〜諫早=船越〜大村湾というルートもありうるのではないかと思っています。海が安定する夏場でも、南、西風が卓越する長崎南、西岸は通りたくないと考えたからです。(再掲)
もしも、石棺の生産と搬送に大歳神社が関係しているとすれば、畿内への航路上にあるのではないかと考え海岸部を調べていると、長崎県松浦市の沖、伊万里湾に浮かぶ鷹島の西南端、船唐津(長崎県北松浦郡鷹島町)にありました。二十五年ほど前に師匠と毎週のように釣に行っていた島です。
ここから東は佐賀県の玄海灘沿岸になりますが、この神社は見当たりません。しかし、福岡市の西、糸島半島の東北端の唐泊港には大歳神社があります。さらに、宗像大社を過ぎ、鐘崎漁港の少し南の海岸(宗像市)に、大歳神の祠があるようです。
・・・この鐘崎貝塚の少し南の大歳(おおとし)神社という小さな祠の付近には、弥生時代前期の墓がありまして、鏡山猛氏によって報告されています。
『古代の海人の謎』 宗像シンポジウム 田村円澄 荒木博之編
さらに東進し、岬を二つほど廻ると、波津漁港に大年神社があります。下関には大歳神社がありますので(下関駅の直ぐそば)、馬門〜(諫早)〜鷹島〜糸島〜宗像〜(関門海峡)〜下関への航路上にあることが分かります。
詳しく調べれば、まだ、出てくるのではないかと思われます。また、それによって、当時の寄港地、それを支えた勢力、氏族、海人集団といったものが特定できるかもしれません。
石棺は諫早湾、大村湾経由で搬送されたか?
興味があるのは、当然ながら、リポートUの“53.船 越”で推定した陸行による搬送路です。特に、諫早の“船越”の有明海側の入口と思える本名川北岸に大歳神社があり(諫早市長田町)、大村湾側の出口付近に歳神社(諫早市中尾町)と歳大明神(同、船越)他があることは、ある程度の高低差を考慮に入れてもその可能性を強く感じさせます。船越はそれだけで一日の行程のはずであり、古代においても両方の場所で歓迎のレセプションと出航のセレモニーが行われたと考えられるのです。
もちろん、今の段階で結論を出す事はできませんが、当時の“船越”の行程をこの神社を鍵に推定すれば、有明海側から本名川を溯上し、諫早駅付近から標高九九メートルの御館山の麓の北側から歳神社(同、中尾町)に抜ける貝津小船越(カイヅオブナコシ)ルートと南側から歳大明神(諫早市小船越町)に抜ける小船越(オブナコシ)ルートで東大川に入る五百〜七五〇メートルほどが“船越”されていたのではないかと考えます。
また、大船越ルートもありえるのかも知れません。本明川の支流埋津川から東大川に抜けるとこちらにも川沿いに歳大明神があります。
どうやら、諫早は大歳神社が数多くあるようで、久山(クヤマ)町にも歳神社(大歳、御歳、若歳の年三神を祀る)など、詳しく調べれば相当出てくるのではないでしょうか。
一応、大村湾ルートを補強するものだけを拾い上げているようですが、長崎南西岸外洋ルート側も調べると、長崎市矢上町の歳宮(大歳、御歳、若歳の年三神を祀る)、長崎市と諫早市に隣接する飯盛町の大門地区にも歳宮(稲田姫命を祀る)があります。
おわりに
宇土半島を頻繁に走り現地を見続けていると、この地が古代において有明海と不知火海という二つの地中海を南北に隔てる大きな壁であり、奥の深い入江をいくつも持った複雑な地形をしていた事に気付きます。まず、この半島は紀元前後において島であった可能性も捨てきれません(これについても時期は不明ですが、水道が存在し有明海と不知火海が付け根の部分で海峡を成していたとの研究があります。海成粘土層の分布についての調査資料でもあれば有り難いのですが)。標高三〜四百メートル近い宇土半島の脊梁山地の付け根に当たる宇土市から不知火町にかけての低地には、多くの湿地が広がっていたと考えられます。そして、北側には緑川という大河川が流れ、頻発する洪水、氾濫はこの低地に大量の土砂を運び込み宇土平野を造ってきたのです。
石棺の生産拠点であった馬門が当時は波洗う海際の集落であった事は承知されていたと思いますが、“大王の石棺“実験航海のプロジェクトでは、海岸までトラックで搬送され、網田(オウダ)町の宇土マリーナから船に積み込まれました。
石棺の重量から考えても、当時は舟か筏以外に搬送する手段はなく、海際の土地か海に注ぐ大河川の流域しか石材の切羽が開かれる事はないのであり、馬門もその一つでしかなかったという事はなんとか分かって頂けたのではないかと思うものです。
太古、宇土半島は島だったか?
この半島は縄文時代晩期から紀元前後において島であった可能性も捨てきれません“これについても時期は不明ですが、水道が存在し有明海と不知火海が付け根の部分で海峡を成していたとの研究もあると聞きます。海成粘土層の分布についての調査資料でもあれば有り難いのですが”。と、しましたが、『宇土市史』通史編第一巻を調べていると、“「松葉の瀬戸」はあったか”という興味深いコラムを見つけました。
これは非常に面白い話ですが、面白いだけではなく、「石走り淡海」という問題に関しては重要になりますので、全文を掲載することにします。以前から不知火町に隣接する旧下益城郡松橋町の松橋(マツバセ)という地名は、“松葉の溜まる瀬”という地名とまでは考えていましたが、松葉の瀬戸とまでは考えが及びませんでした。
もしも、縄文期晩期において、宇土半島が島であったとしたら、おかしな表現になりますが、有明海は不知火海であり不知火海は有明海であったことになります。実は、有明海もかつては不知火海と呼ばれていたという話も聞いたことがあります。このことも頭において読んで頂きたいと思います。
もしも、縄文期晩期において、宇土半島が島であったとしたら、おかしな表現になりますが、有明海は不知火海であり不知火海は有明海であったことになります。実は、有明海もかつては不知火海と呼ばれていたという話も聞いたことがあります。このことも頭において読んで頂きたいと思います。
コラム1 「松葉の瀬戸」はあったか
JR宇土駅から松橋駅に向かうと、右側の窓から、右側の車窓から、南北に細長い平坦地が見える。太古には海が入り込んでいて、ここは海峡になっていたとの俗説がある。この想像上の海峡は「松葉の瀬戸」とも呼ばれており、松橋町にはこの名前を付けた菓子を作っている店がある。
古くからの言い伝えがあるのだろうと思っている人も多いようだが、『肥後国史』などの江戸時代に書かれた地誌には記載されていない。この俗説が生まれたのは、そう古くないようだ。このたび、『新宇土市史』を編纂するにあたって行った地質学の調査では否定的な結果が出ている。そこで「松葉の瀬戸」という俗説が生まれたいきさつを整理しておくことにする。
宇土半島基部にある細長い平坦地の成立過程が、学問の場で問題にされるようになったのは昭和のはじめである。下間忠夫は、一九三二(昭和七)年に熊本地歴研究会から発行された『熊本県地貌誌』の中で、この平坦地を「宇土松橋狭隘」と名付け、狭義の熊本平野(白川・緑川流域の沖積地)の南端部にあたり、八代海岸平野との連絡地点と位置付けた。そして「更に本平野(熊本平野)は且て有明海の一部で、平野文學士は熊本海灣と命名され、宇土松橋狭隘地は當時海峽であったと云ふ。」と平野流香の海峡説を紹介している。
同じく一九三ニ年に発行された『熊本市史』の中で、平野は貝塚の分布から史前時代の熊本平野(熊本海湾)について述べているが、その付註に「なほ當時、宇土半島が、現在のやうに、果たして半島であったか否かは、問題であるが、その點にまで立ち入るのは、餘りに本書の範囲を逸脱する恐れがあるので、現今使用の觀念に随って『半島』という語を用ひた。」とある。
これらの記述から、当時宇土半島基部の平坦地のでき方について議論されており、平野は貝塚のころ(縄文時代)には海峡で、その後に平坦地ができたと考えていたことが分かる。
 この説は、その後一般に受け入れられたようである。一九五三(昭和二八)年から一九五三年にかけて蓑田田鶴男が執筆し、一九九二(平成四)年に刊行された『八代市史』第一巻には、縄文時代の「熊本海湾」と「古八代海」を結ぶ海峡が宇土半島基部にあったとの記述があり、これを「古宇土海峡」という名で呼んでいる。
 一九六〇年(昭和三五年)に刊行された『宇土市史』にも、この海峡説は取り入れられている。「熊本平野の一部が形成されつつあった頃、宇土は依然海湾として残り、・・・中略・・・海路は遠く八代方面に延びてゐた、との一応の推定もある。」との記載がある。
 「松葉の瀬戸」という呼び名は『松橋町史』が刊行された一九六四(昭和三九)年ごろに、松橋(まつばせ)という地名の意味についての議論とからんで付けられたようである。「まつ」は粘土地を呼ぶ古語、「ば」は端の意味、「せ」は瀬戸と考えると、粘土地の端にある瀬戸、つまり「まつばせと」となり、これがつまって「まつばせ」という地名になったとの解釈である。このためには宇土半島基部に海峡があったことの証明がいる。地名の起源についての証明としては少し苦しいように思う。
 やがて、地質学の詳細な調査が行われるようになり、海峡の存在は林行敏らによって否定された(『宇土半島―自然と文化』)宇土半島研究会 一九七五)。
 本書の自然編第二章宇土半島の地形・地質・水では、宇土半島基部にあったと推定されていた海峡の名を「宇土・松橋水道」と名付け、これが存在しなかったことが述べている。(ママ)
 この地質学の調査成果を取り入れ、縄文海進でもっとも海面が高かった時期の海岸線の推定図を作った。
 宇土半島基部に海峡はなかったと考えるのが学問的には正しいと思うが、私は松橋  駅のホームで通勤列車を待ちながら、ときどき小雨の中に、まぼろしの海峡を見ることがある。
(佐藤伸ニ)
Mapionマピオン  対馬の船越
阿麻氏*留(アマテル)神社裏の入り江
阿麻氏*留(アマテル)神社裏の入り江
小船越の港
▲ Mapionマピオン  諫早の船越
対馬の和多都美神社
阿漕的仮説 ―さまよえる倭姫― 
八代〜大築島〜天草姫戸  古田史学の会会報 NO.69 掲載論文
古田史学の会代表 水野 孝夫(奈良市)
この報告は、文献に現われる「阿漕」「淡海」「倭姫」をキーワードとして、「伊勢神宮も九州から移築された」と考えたいという仮説である。
 『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』、河合隼雄・中西進・山田慶児・共著@ という本がある。学術書というわけではなく、この表題は、出版社が人目を引くために付けたのだろうが、こんな無茶なことを、これだけの学識経験者に言ってもらっては、困っちゃうのである。しかも、鯨についてなにか論証してあるわけではなくて、「(鯨は)日本の名前だと勇魚(いさな)でしょ?勇ましい魚。「勇魚捕り」なんていう枕言葉にもなって、琵琶湖を修飾するのに使われている。これは「鯨だって捕れるほど立派な琵琶湖」という表現です」。という、座談会での放言だけから採られている。
根拠の歌、万葉集02/153 原文。
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
この歌は別に琵琶湖の立派さを歌っているわけではない。
 木村賢司氏は「夕波千鳥」という会報論文Aで、「琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない」とし、博多湾を淡海の候補とされた。
 古田武彦氏はこれを受けて、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされたB。
 梨田鏡氏は「鯨のいない海」Cで考察を加え、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、その候補地を「會見の海」(鳥取県美保湾)とされた。
 このころに西村秀己氏は「淡海」という語句を探して『倭姫命世記』という文献(続群書類従巻三所収)に出会われたのである。『倭姫命世記』は、倭姫が天照大神(ご神体の銅鏡)の居所を求めて近畿地区をさまよい、遂に伊勢の度会宮(伊勢神宮)に落ち着かれる経過の話である。ここには「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いから淡海浦という)の語があり、西村氏も「淡海は淡水の琵琶湖ではありえない」と考えられたのであるが、地名の音あてはされていない。
 倭姫について簡単に見ておこう。倭姫という人物は垂仁紀では皇后・日葉酢媛命から生まれた第四子である。崇神紀三年「都を磯城に遷す、これを瑞垣宮という」。同六年「是より先に天照大神・倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿のうちに並び祭る。然して其の神の勢いを畏れて共に住みたまふに安からず。故に天照大神を以て豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。(中略)亦、日本大国魂神を以てはヌナキ入姫命に託して祭らしむ」。天照大神は宮中から出され、豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭られたのだが、垂仁二十五年「天照大神を豊鋤入姫命から離し、倭姫命に託す」ことになり、倭姫命は大神の鎮座地を求めて兔田、近江国、美濃をめぐり伊勢国に着き、神の教えによりここに宮を建てて落ち着く。『古事記』にはこの放浪譚はなく、倭姫命はいきなり伊勢神宮の斎宮として紹介される。古田史学の立場で考えるならば倭姫は「チクシの姫」のはずである。
 『倭姫命世記』は伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、天地開闢から伊勢神宮の神寶の由来、これが伊勢神宮に収まった経過を追っているので、全文一万字程度の短いものであるが、大部分は倭姫命の放浪譚である。
 その内容は『日本書紀』よりは格段に詳しいので、笠縫邑を出発してから、どこそこに何年間おられ、次はどこ・・・と伊勢到着までを追跡できる。この行程表や地図を掲載した本が多く出版されており、これを追跡する古代史ファンもあり、ここが伝承地とする神社等もある。当然ながら「書紀の知識をもとに」読まれていて、近江国を通るのだから琵琶湖畔にも伝承地が多い。しかし理解困難な宮名もある。伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホームページによると「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」と言われている。
 続群書類従では、全文漢字なので読みにくいが、籠神社の宮司だった海部穀定(あまべよしさだ)氏の著書D、岩波・日本思想大系19、Eには読み下し文がある。これによると、倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」。但し氏はこの仮説を未発表である。
 会報六八に「船越」を書かれた古川清久氏のホームページには「阿漕」という論文もある。これが興味深い。氏は釣行のときに出会う、南西諸島・九州西南岸・四国南岸・和歌山県に育つ「アコウまたはアコギ(赤生木)」という亜熱帯性植物に興味をもたれ、「アコウまたはアコギという地名はこの植物が生えるところではないか」と提唱されたのである。この樹木は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。「あこぎ」とはどういう意味だろうか、小さい辞書には「限りなくむさぼる様子、貪欲、例:あこぎなやりかた」というように記載されている。「阿漕」という謡曲がある。この謡曲は、伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕が浦」で"繰り返しむさぼって"密漁し、捕えられて処刑され、地獄に堕ちた漁師の幽霊が、仏教による回向を求める話である。ちょっと余談をはさむと、謡曲のなかに「憲清と聞こえしその歌人の忍び妻、阿漕阿漕と言ひけんも責め一人に度重なるぞ悲しき」とある。古川氏によると、俗名を佐藤憲清といい北面の武士だった西行法師が、恋していた絶世の美女・堀川局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」といわれ、「あこぎ」の意味がわからず、それを恥じて出家したという話があって、落語ネタになっているそうだ。「阿漕」の最初の意味は「たびかさなること」であって、堀川局は「繰り返し会っていると、他人に知られてしまいますよ」と言ったのである。広辞苑はこの意味を第一に挙げている。
 とにかく、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。「本来の阿漕が浦はアコギが生えていたのではないか、球磨川河口付近ならば、アコギ樹が生えているだろう」。古川氏に御意見を聞くと、「嶋七個」は天草上下島のような大きな島ではないとして、球磨川河口沖約5kmにある大築島などの小島を挙げ、詳細な地図を送ってくださった。
 この大築島など六島は現在廃棄物処理用地として埋め立て計画が進んでおり(あと暫くで島の数がわからなくなるところだった)、古川氏は調査のため現地を踏んでおられ、現地には八代史談会に友人も居られる。わたしは最高の案内人を得たのである。ただ大築島地区には島は六個で、うちひとつは岩礁みたいなもので島といえるかどうかの問題がある。もちろん河口と天草上島との間には別の島もあり、現在は陸地でも過去には島であったと思われる土地もあるので、「嶋七個」を確定するには至っていないが、七個以上は確実にある。
 さて地図を見ると、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?。倭姫は「朝の御饌、夕の御饌とおっしゃった」と言うから、毎日朝夕に神饌を運べるくらいの近さのところだろう。(津市・阿漕浦から五十鈴河口まで直線距離約30km、近鉄電車で津−五十鈴川、32km/急行40分。八代から姫戸まで直線距離は約15km、天草観光汽船の高速艇はややまわり道だが22ノットで30分。三重県の方が2倍くらい遠いか)とにかくここが神饌供給地としての「阿漕が浦」にふさわしく思われる。もっとも現地に地名「阿漕浦」はない。塩味の甘い「淡海浦」であるが、球磨川は伏流水が有名であって(本流日量千万トン、伏流水六十万トンと言う)、海の中に海底から川水が噴出している場所があるのだ。万葉集にも出てくる水島付近で泳ぐと、塩味をほとんど感じない場所があるという。ここは河口のうちでも南側であって、『倭姫命世記』の記述とよく合致している。古川氏は「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」の現地へも行かれているのだが、現地伝承聴取は困難らしい。ただ姫石神社の伝承や姫石と称する石についての伝承をホームページに見ることができる。「むかし、お姫様が宝を積んで航海して居られたが、海が荒れてきたので良い浦がないかと探されて姫の浦へ着き、景色が良いのを気に入られて滞在された。後の世の人がその跡を見つけたが、お姫様の名はわからなくなっていた。ただ姫とその宝だという石が残っていたので祭った」という。倭姫命はどこかに祭られているだろうか?。伊勢神宮境内には倭姫命を祭る神社がある。しかしこれは御杖代として功労のあった倭姫命を祭る社がないのはおかしいとして、近世になってから祭られた社である。ということは倭姫命を祭る神社は近畿にはないということらしい。しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。『倭姫命世記』が後世の神道書で信用ならない(極言すれば偽書だ)として、「西に嶋七個」とか「塩味の淡い海」などという具体的で、しかも伊勢には適合しない地理をどうして記述できるだろう?。なにか先行資料に基づいたとしか考えられないのである。
さて以上の、阿漕、淡海、倭姫の仮説がすべて正しいとしてみよう。倭姫がさまよわれた地域の最後が九州内部だから、出発から落着までの範囲はすべて九州内部だったはずだ。しかるに現在の伊勢神宮は三重県にある。ならば倭姫伝説全体、阿漕浦などの地名、伊勢神宮の社殿、神饌を奉納する住民たち、これらの全体が「九州から近畿・東海に移植された」ことになるだろう。これまでに九州のある範囲にある地名グループが、奈良県にもグループとして存在する例は多数知られていた。理由は、一部の住民が移動したのだろう程度に考えられてきた。そうではなくて、古事記、日本書紀を信頼あるものにするために、遺跡、遺物、伝承、住民を含めて、史書に合うように移植されたという可能性が見えたのではなかろうか。書き上げるだけなら四ヶ月で済んだ古事記に比べて、日本書紀が企画から完成まで数十年もかかった秘密はここにあるのではないか。
@ 潮出版社、1991
A 「古田史学会報38」、2000/06、『古代に真実を求めて第五集』所収
B 2001/01/20講演、於・北市民教養ルーム。但しこの内容は著書等には未採用、インターネットなら読める。
C 『新古代学第七集』、2004/01
D 『原初の最高神と大和朝廷の元始』、桜楓社、昭和59 古田武彦氏御所蔵。
E 『中世神道論』大隈和雄編、1977
会報69号には『倭姫命世紀』原文の一部分が掲載されています。(古川注)
姫 戸  阿漕的仮説 ―さまよえる倭姫― の掲載について
はじめに
 水野代表による「阿漕的仮説」―さまよえる倭姫― をお読み頂いたものと思います。非常に難しく、容易には理解し得なかったかと思いますが、話の一端でも知った方はさぞかし驚かれたことでしょう。
 この間、17.「阿漕」27.「ポルトガル宣教師が見た四百年前の八代海」(八代)34.「不知火海を死に追い込む"大築島"埋立計画」(大築島)「これぞ税金ムダ使いのダム建設だ」植村振作(姫戸=現上天草市)「瀬戸石崩(2月号掲載予定)」(球磨川)と、球磨川から八代、大築島、天草上島の姫戸(旧姫戸町)と繋がる話を掲載してきましたが、今回は、これまで書いてきた話が、丁度、水野代表による「阿漕的仮説」の舞台と重なることから、無理にお願いして掲載することにしたものです。
大築島周辺の地図
「阿漕的仮説」は純然たる古代史に関わる話であり、環境問題を期待される読者の方には不満な点があるかも知れません。しかし、大築島の破壊が示すように、環境問題の背後では、このような日本人の歴史、伝統、民俗、文化遺産も同様に破壊され続けているのだという事も『同時』に認識して頂きたいのです。
 水野さんの「阿漕的仮説」にも出てきますが、かつて、日量六〇万トンとまでいわれた球磨川の伏流水にしても、山の破壊(針葉樹林化)、側溝から都市の小河川さらには駐車場のコンクリート化などによって、圧力、水量ともに減退し、恐らく半減から、もしかしたら、見る影もないほどまでに減少しているのではないかと危惧するものです。
 この古田史学の会は古田武彦氏(元昭和薬科大学教授)の説を軸に古代史を研究し広める全国の市民(在野の古代史研究家など)によって運営される民間の古代史研究団体です。 
 もちろん、私は新参者であり、本来、こういったコメントを書く立場にはありません。
 ただ、学生時代(一八歳)に古田武彦氏の「邪馬台国はなかった」(臺=台ではなく壹=壱)、その後も「失われた九州王朝」「盗まれた神話」といった初期三部作から今日まで五十冊を越える著作を不完全ながらも読んできました(古田武彦氏は六〇冊を越える著作があります)。このため、「有明海異変」を出版し、現在の有明海・諌早湾干拓リポートを書きながらも、古代史や民俗学といったものに対する気持ちを断ち切れないままに環境問題について書き続けており、時折、どうしてもこの手の話に立ち入ってしまうのです。
 古田学説を極簡単に説明すれば、八世紀初頭まで北部九州を中心に大和朝廷に先行する王朝が実在し、その首都は大宰府から久留米周辺にあったこと、歴史上名高い白村江の戦に敗れたのは九州王朝であり、聖徳太子によるものとされている「日出る国の天子より日没する…」を発したのも九州王朝の王であった(いわゆる倭の五王−多利思北弧)。と、するものです。
 当時、九州王朝は大和朝廷に先行する独立した年号を持ち、朝鮮半島南部から本州にも版図を広げていたといたものと考えていますが、詳しくは古田史学の会公認のホーム・ページ「新・古代学の扉」を見て頂きたいと思います。
 さて、水野代表による「阿漕的仮説」は非常に魅力的です。私は九州在住の会員として僅かなお手伝いをさせて頂いたわけです。先週も上天草市の姫戸町を訪れ、姫浦神社、姫石神社、永目神社、二間戸諏訪神社などの宮司を兼ねておられる大川定良氏からお話をお聞きしてきました。掲載している写真もその際に撮ったものです。
「倭姫命世紀」
 そもそも、この「倭姫命世紀」は鎌倉期に成立した書物であり、水野氏も書かれているとおり、"「倭姫命世紀」を信じる人が多くて困る"といった話があることも十分承知しています。しかし、この話は倭姫命が御杖代として天照大神の鎮座地を探すというものであり、別名、元伊勢神社と言われる京都府宮津の籠神社があるように、まさしく、さまよい、最終的に伊勢の"五十鈴河上"に辿り着くというものです。このため、このルートを探るマニアもいて、"どこそここそがその場所である"といった話が飛び交ってもいるようです。
 しかし、まず、"日本の神々の最高神にまで高められた天照大神の最終的鎮座地が、なぜ、伊勢でなければならないのか"さらには、それは、"なぜ、大和王権の膝元の大和などではいけなかったのか"という事など、考えれば多くの謎があります。
 従って、天照大神のルーツが対馬小船越の阿麻底留神社とすると(53.「船越」参照)、いつかの時点には、九州に"元々伊勢神社"とでもいうべきものが存在したのではないかという仮説、また、大宰府と久留米の中間に位置する小郡市水沢(ミツサワ)の伊勢山神社、伊勢浦地名は何なのか(いずれも宝満川の支流の側に位置する)、さらには"小郡市大保の御勢大霊石神社(ミセタイレイセキジンジャ)が地元では伊勢(イセ)大霊石神社と呼ばれているのは何故か"といった興味深い問題が横たわっています(大分県の耶馬溪町や玖珠町にも伊勢山神社があります)。 
 水野さんは「倭姫命世紀」に登場する七つの島を断定まではされていませんが、一応、不知火海の大築島周辺の島に比定されたものと思われます。それを前提にお話しいたしますが、国土地理院の地図によると、大築島周辺には大築島、小築島、黒島、箱島、その箱島の独立礁に根島を併せた六島(いずれも一.五キロ程度の範囲にかたまっている)と、二キロほど離れた場所に船瀬がありますので、七つの島という事は、一応、可能かもしれません。 
 対岸の天草上島の姫戸を宮地として神饌の調達先を球磨川河口とするならば、ちょうど中間に位置する大築島が第一候補であるのは当然でしょう。
 ただ、私は、水野説に反旗を翻すというわけではありませんが、八代は古代において、干拓地などはなく、球磨川左岸では、奈良木神社がある高田(コウダ)周辺が陸化していた程度ではなかったかと考えています。このため、現在は埋立や干拓が進んで陸化している八代の中心街の陸地にも、かつてはかなり小島が存在していたはずなのです。
 具体的には球磨川右岸の大鼠蔵(オオソゾウ、標高48m)、小鼠蔵(コソゾウ、同、35.3m)、現在、球磨川の三角州に流れる南川と前川に挟まれた麦島(ムギシマ、中世に麦島城が存在した)、八代市街地の西側の干拓地にかつて存在していたと考えられる白島(同、18.7m)、高島(同、32.8m)大島(松高小大島分校がある)、それに万葉集に歌われた水島(同、5m程度)の七島を比定する事もやろうと思えばできるのではないかと思えます。これらの小島は縮尺の大きな地図であれば現在でも地名として確認できますので、興味のある方は試みて下さい。結局、「倭姫命世紀」の解読、科学的検証といった事が重要になってくるのですが、その間にも大築島周辺の浅海は確実に埋立られ続けているのです。
姫浦神社と姫石神社
天草に釣りに来るたびに、この姫戸に足を踏み入れていたために、永目神社、姫浦神社の存在には気づいていました。ただ、姫戸という地名と姫浦神社には関係があるのではないか(姫戸は姫浦の門)といった程度の感想しか持っていませんでした。このため、ここを通ると、かつては、この神社の真下まで海が入っていただろうし、まさしく姫浦の地形をしていたのではないかなどと考えていました。今回、「阿漕的仮説」が発表され、にわかに調べる必要を感じたものです。実際、姫石神社の存在に気づいたのも昨年の事(脱稿は〇五年中)でしたが、その時も、なぜ、姫浦神社の直ぐ傍(二百メートル程度海岸寄り)にこのような神社が存在するのかと奇妙に思ったものでした。もちろん、この謎はいまだに解明できないのですが、上宮、下宮といったものではなく、やはり、別の神が祭られていたのです。
 八月から九月にかけて、教育委員会から姫浦神社の宮司を教えていただき、ご連絡したところ、快くお教え頂き大変有難たかったのですが、いかんせん、ほとんど記録が残っておらず、僅かに祭られている神々の名が確認できる程度でした。以下は神主(宮司)から聴き取らせて頂いたことと、五十年ほど前の神社庁への届け出によるものです。
姫浦神社 神武天皇、天照大神、神八井耳命(カミヤイミミノミコト)、阿蘇一二柱
姫石神社 若比□*命(ワカヒメノミコト) 口羊*は口の右に羊(メと読む)
永目神社 姫浦神社に同じ
二間戸(フタマド)
諏訪(スワ)神社
建(タケ)御名(ミナ)方神(カタノカミ)、八坂刀賣神、外十五柱神
 とりあえず、姫浦神社が伊勢神宮の原初的な形態を留めているとするならば、天照大神が主神とされていることから、水野仮説の一部は裏付けられた事になったわけです。
 さて、水野氏は、"古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。"とされていますが、私は元々三重県津市の阿漕ヶ浦という地名が、現在はアコウの木が生えていないものの、かつてはアコウが存在した場所、百歩譲っても、そこからの移住者によって持ちこまれた地名なのではないかと考えたのです。ところが、驚くことに、水野氏はこの阿漕ヶ浦の話を伊勢遷宮伝承と関連付け、伊勢もアコウの木の生える地域つまり筑紫島(九州)の領域からの移設(水野さんは移築とされていますが)されたのではないかと考えられたのです。私も相当に天邪鬼な方ですが、水野さんはさらに上手の実に柔軟かつ、大胆な発想、思考をされる方と、驚きも感服もしたところです。多分、水野さんのお考えでは、津市の阿漕ヶ浦にはアコウの樹は生えたことはなく、逆に、伊勢神宮の方が動いて来たのだと考えられているのでしょう。こうして、私の「阿漕」(阿漕地名仮説)は水野「阿漕的仮説」の前に脆くも崩れ去ったわけです。
 最後に、水野代表は「しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。」と書かれておられますので、この点にふれておきます。
味島神社 谷所 鳥坂
鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば
仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した。
(塩田町史)
とあります。
天草上島から大築島を望む
天草上島、旧姫戸町姫浦神社
倭姫命を祭る旧塩田町の味島神社
おわりに
 古田史学の会では二ヶ月刊のペースで、現在、七〇号までの会報が発行されています。
 ただし、運営上の問題からか、研究上の必要性からか、今のところインターネット上のHP「新・古代学の扉」には、ニ年程度のタイム・ラグがあり、五五号までが公開されています。
 従って、水野論文の掲載は古田史学の会にとっても、相当に早い段階でのネット上への先行配信になるわけであり、言わば異例の扱いを受けたという事になります。古田史学の会と水野代表のご好意に対して改めて感謝の意を表したいと思います。
武雄市 古川 清久
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