久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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阿漕(アコギ)
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はじめに
伊勢神宮と大和朝廷との間には今なお多くの謎があると言われますが、三重県の津市には“阿漕の浦”と呼ばれる浜があります。
本稿はこの「あこぎ」という一つの地名にスポットを当てた民俗学的な小論に過ぎません。しかし、これが伊勢神宮の前史を探る一つのきっかけになるのではないか考えており、古代史に想いを巡らせる方にも読んで頂ければと思うものです。
さて、伊勢神宮が現在の地に落ち着くまでには、元伊勢をはじめとしてかなりの前史があることが知られていますが、もしかしたら、この神社も九州から持ち出されたのではないかという疑問が付きまといます。そういうわけで、本稿は九州の南半分に分布するアコウという印象的な海岸性樹木、阿漕、赤尾、赤木・・・といった地名に関係があり、伊勢の阿漕ケ浦もその一つではないかという問題に答えようとするものです。
「あこぎ゙」という言葉があります。普通には「あこぎなまね」「あこぎなやつ」などといった使い方がされています。とりあえず『広辞苑』を見てみましょう。
「【阿漕あこぎ】(地名『阿漕ヶ浦』の略。古今六帖3『逢ふことを阿漕の島に引く網のたびかさならば人も知りなむ』の歌による@たびかさなること。源平盛衰記(8)『重ねて聞し召す事の有りければこそ阿漕と仰せけめ』A転じて、際限なくむさぼること。また、あつかましいさま。ひどく扱うさま。狂、比丘貞『阿漕やの阿漕やの今のさへ漸と舞うた、もう許してくれさしめ』。)。『阿漕な仕打ち』B能の阿漕。伊勢国阿漕ヶ浦の漁夫が密漁して海に沈められ、地獄で苦しむさまを描く。」
 まずは、この“阿漕”というテーマを取り上げた理由を説明しておこうと思います。
a)釣りとアコウ地名の分布
沖縄から北岸を除く九州の海岸部、島嶼部には赤崎(アコザキ)、赤尾木、赤生木(アコオギ)、阿漕(アコギ)、赤尾(アコオ)、赤木(アコギ)、赤木屋(アコギヤ)、赤木名(アコギメ)といった地名が散見されます。私が始めてこの奇妙な海岸地名に遭遇したのは、二〇年以上も前のことでした。
佐賀県の東松浦半島(東松浦郡肥前町)に魚釣りに行き、大した釣果もなく新らしい釣場を探して“阿漕”地区に踏み込んだ時でした。その後も魚釣り(具体的にはサーフのキス釣りや波止からのメジナ=グレ=クロ釣りですが)のために多くの土地を訪ねるようになると、非常に印象的な常緑樹(実際には暴風雨などにより潮水を被った時や年に二度ほど定期的に葉を落としますので半常緑高木とされていますが)をたびたび見かけるようになりました。具体的には、釣人の多い北部九州を避けて魚釣りと旅とを半々に、のんびりと長崎、熊本、鹿児島に南行しているのですが、あまり知られていない漁港の片隅などにアコウ(*)がさりげなく息づいているのです。 
長崎では五島を中心に長崎式見、大村湾、壱岐、島原半島などに、熊本では八代、葦北郡内(田ノ浦町の波多島地区ほか)から天草諸島周辺に、鹿児島では本土の阿久根、いちき串木野を中心に薩摩、大隈の両半島に、そのほか大分、宮崎にも目立たない入江などにそれなりの数のアコウが分布しているのです。
このアコウという木の生育領域は、ほぼ、和歌山から九州、四国以南に限定されているために全国にはあまり知られていないかもしれません。
もちろん尺ギスです。
しかし、魚釣りや南の海になじみのない向きにも、鹿児島県の桜島にある古里温泉のアコウは知られています。林芙美子ゆかりの某観光ホテルには錦江湾に面した崖下に大きなの混浴露天風呂がありますが、その傍らに樹齢数百年とも思えるアコウが立っているのです。ここでは、実にアコウの根(気根)の中に体を埋め込みながら温泉に入ることができるのです。
話をさらに拡げますが、一〇年前、私はサーフのキス釣に夢中になっていました。30p超級のキスを求めて鹿児島県の内之浦から、天草下島の南に位置する長島、その天草下島(熊本県牛深市鬼貫崎池田)、さらに五島列島などへと大遠征の釣行を重ねていました。そしてこの大ギスが釣れる静かな入江やその付近の集落には不思議とアコウがあったのです。今年(二〇〇四年)の三月にも、強風の中、長崎県のウエスト・コースト西彼杵半島の沖に浮かぶニ島、崎戸島−大島に短時間ながら釣行しましたが、2本のアコウの木が生える静かな漁港で久々に尺クラスの越冬ギスを手にしました。
このようにアコウに興味を持ちアコウを強く意識しはじめると、九州にはかなりの数のアコウがあることに気付いてきますが、この木の一般的な分布域は沖縄が中心とされています。

四国の足摺岬のアコウも観光地のためか比較的知られていますが、本州におけるアコウの分布は和歌山県だけとされているようです。しかし、昔は(非常に大雑把な表現ですが)もっと広い範囲に分布していたのではないかと想像しています。その理由は極めて単純ですが、アコウに関係があると思える地名がその外側(周辺部)にも分布しているからです。
もちろん、背景調査を行うことなく地名だけを根拠にアコウの分布域を想像することは根拠に乏しく違法ですらありますが、兵庫県の“赤穂”や三重県津市の“阿漕”さらに多少内陸部とはいえ仙台市の“赤生木”(鹿児島県の笠沙町=薩摩半島先端の町にもこの赤生木という地名があります)などの地名はやはりアコウ樹の存在と関係があるのではないかと思うものです。
ただし、このような海岸部の地名を考えるときに注意しなければならないことは、海洋民(漁撈民)は非常に移動性が大きく、魚を捕り尽くすとすぐに新たな漁場を求めて移住していく傾向があることです。そうして、前に住んでいた地名を新たな土地に付けることがかなりあったようなのです。このため、単純にアコウが生えているということと、地名とが直接的には結びつかないということもあるのです。
しかし、思考の冒険はさらに広がります。この木の名称はほとんど地方名(呼称)のバリエーションを伴っていません。そしてこの地名の分布が、ほぼ、海岸部に限定されていることから見ると、南方起源の海洋民(漁撈集団)が住みついた地域と考えることも可能であり、これらの集団によって既に確立し普遍性を帯びていたアコウという樹名がそのまま地名にまで高まったのではと考えてしまうのです。
b)有明海内部にはなぜアコウがないのか
 有明海・不知火海フォーラムの中枢メンバーである私の立場からしても、多少は有明海との関係を展開すべきでしょう。狭義の有明海(宇土半島三角付近から島原半島布津町付近を結ぶ線の内側)の内部にはアコウの木はないようです。しかし広義の有明海(湯島ラインのさらに外側、天草下島五和町鬼池港から島原半島の口之津町早崎付近を結ぶ線の内側)の外側、口之津町早崎半島先端部にはアコウの群落があります。また、その線の内側に浮かぶ湯島(熊本県天草郡大矢野町湯島−1637年の島原の乱では農民一揆〔キリシタン?〕側が談合を行ったことから“談合島”の別名があります)にも、やはりアコウの群落があります(湯島小中学校付近)。湯島ラインの内側を有明海と考える向きもありますので、この意味でも文字通り有明海の外側にアコウが存在していることになるのです。さらに言えば、有明海と不知火海(八代海)を仕切る宇土半島南岸の不知火町にもアコウがありますので、奇妙にも有明海の内側にだけアコウがないことになるのです。なぜならば、九州西岸で考えれば、それよりも北の長崎県大瀬戸町の松島(松島神社境内)、同じく大島町(大島地区)、前述した佐賀県東松浦郡肥前町(高串地区)、さらに数十キロ北に位置する玄海灘に浮かぶ島、壱岐にもアコウがあるからです。 
植物としてのアコウの性質といったことについては全くの門外漢ですので、“有明海の土壌(例えばシルト層)といったものがアコウに適しているのかどうか”などといったことにはほとんど答えることができません。しかし、このアコウという木の大半が海岸部に分布していることから考えて、“アコウは海と切り離されては生きていくことができない木なのではないか”ということまでは言えるように思います。
ここで考えるのですが、有明海は他の海と比べて堆積(絶えざる陸化のスピード)が異常に大きい海です。現在のように土壌流出が大きくなかった時代、古代とまでは言わないまでも、戦前においてさえも、それなりのピッチで堆積し続けたために、アコウが育つスピードを上回るペースで陸化が進み、結果、海が後退し、アコウは根付かなかったか、大木まで育たなかったように思えるのです。ここ数百年という単位で考えれば、干拓工事の資材として(実際には加工しにくいので実用にはならないでしょうが、干拓地には一般的に森が形成されないのです)、または、“燃料に乏しい干拓地の宿命として伐採されてしまったのではないか“と思うのです。いずれにせよ、仮にアコウが根付いていたとしても、有明海で干拓が始まるようになるとアコウは消えていってしまったのだと思うのです。
かつての干拓地というものは、豊かに見えますが、実は非常に資源に乏しく、水、燃料、建築資材(竹、木材、土、その他)の一切が不足していたのです。佐賀平野の半分以上は干拓地ということも可能であり、よく言われる「佐賀んもんが通ったあとには草も生えん」という県民性も、“全てを資源にせざるを得なかった”この干拓地の欠乏性からもたらされたものかもしれません。つまり、他人の土地に落ちている棒切れさえも持ち帰って燃料にするとか、引抜かれた草さえも持ちかえって堆肥に変えるといった傾向のことです。
こう考えれば、干拓地内の農耕民と言うものは実に貪欲で、全てを肥料や燃料にする傾向があり、この結果アコウが根付く間がなかったとも言えるようです。結局、農耕民とアコウとは共存できないのでしょう。
c)有明海を中心に私が見た九州西岸のアコウ分布
九州全体のアコウの分布を全て把握することは、ほとんど不可能ですが、私が確認した範囲で分布の概略を書いておきます。
 
【佐賀県】
始めに私が住んでいる佐賀県ですが、東松浦郡肥前町(高串地区)以外には知りません。
 
【長崎県】
壱岐、五島は魚釣りで過去何度となく訪れたところですが、有川を始めとして多くのアコウが確認されます。その他、車で行ける長崎県内のアコウの生息地としては少数ですが平戸市の獅子地区などを中心に平戸の西海岸などに、大村湾の小串地区や日泊郷などに、長崎市西岸の小江の柿泊から大瀬戸にかけても、島原半島の旧口之津町の早崎魚港の巨大群生地を中心に、旧加津佐町、旧南串山町、南有馬町の海岸部に無数のアコウがあります。
 
【熊本県】
北から、宇土半島の北岸には住吉神社があります(ここも干拓の陸続きになりましたが、百年前には堂々たる有明海に浮かぶかなり大きな島だったのです)。その沖の小島(『枕草子』に登場する「たはれ島」ですが、「島はたはれ島…」)には五年前までアコウの木が生えていました。その後台風で倒れますが、鳥のおかげでそのうち復活することでしょう。
このような小規模なものは別にしても、天草島原の乱で著名な談合島=湯島の小学校にはかなり大きな群生地があります。私は未確認ですので機会があれば見に行きたいと思っています。
宇土半島南岸には不知火海の再生のために環境保護団体によって多くのアコウが人為的に植えられましたが、海岸保全事業の邪魔になるため熊本県は「生態系にそぐわない別種の植物を持ち込むのは環境に良くない」として排除に動いています。多くの外来の新品種、国外産品を農水省に言われるまま無批判に推奨していることは棚上げにしてですが。ただ、結果としてかなりのアコウが増殖しています。
植林とは無関係ですが、八代市の大鼠蔵島に巨大なアコウが数本、それ以外にも干拓地を中心に市街地にも鳥によってかなりのアコウが増殖しています。さらに南に下ると、葦北郡の田浦町、芦北町、津奈木町の海岸部に無数の小木がいたるところに認められます。 
かつては多くの大木があったはずですが、現在それが認められるのは田浦町の隠れ里波多島地区に限られています。
天草にも大木のアコウがあります。一番大きいのは天草上島旧姫戸町の永目のアコウです。これは全国で二番、三番と言われるものですが、私の見たものとしては、これ以上のものが口之津の早崎漁港や鹿児島県の阿久根市の脇本浜や旧串木野市の海岸部にもあるように思うのですが、無論、計測した判断ではありません。その外にも、旧竜ヶ岳周辺、旧松島町、旧大矢野町周辺にも散見されます。上島では旧有明町の無人島黒島に巨木があるとの噂を聞いていますが未だ確認の機会を得ません。下島も旧牛深市の魚貫湾の北岸池田などに相当数認められます。
 
【鹿児島県】
長島、黒ノ瀬戸あたりからアコウが姿を表し始めます。瀬戸に面した漁港の片隅などにアコウの小木を見つけることができますが、さらに南に向かうと脇本浜にアコウの大木が群れをなしています。現在こそ道路工事や護岸工事で破壊されていますが、ここにはびっくりするようなアコウの巨木があったのです。それを示すかのように多くの切り株が今も残っています。ここから折口浜、阿久根の市街地にも散見されますが、次の群生地は串木野の海士泊周辺になるでしょう。ここにも崖一つを覆い尽くすようなアコウがあります。桜島から垂水にかけても多くのアコウがありますが、象徴的なのは百本のアコウの街路樹です。大隅半島にもまだまだ多くのアコウがありますがこれくらいにしておきましょう。
このように多くのアコウがありますが、これも車で確認できる範囲の話です。船でしか行けないような島や岬にも多くのアコウがあることに疑う余地はありません。
d)“阿漕”について作業ノートから
“阿漕”という言葉(地名)には、古歌、能(謡曲)の「阿漕」、古浄瑠璃の「あこぎの平冶」、人形浄瑠璃の「勢洲阿漕浦」、御伽草子「阿漕の草子」、西行などの和歌、さらに加えれば、それらを題材にした落語の「西行」といったものまで実に多くの話や伝承そして逸話が残っています。
 また、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」といった古歌も残っています。このため、室町以降成立してくる能や浄瑠璃に先行して、「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようです。この歌から思うことですが、ここには、漁業権もしくは入浜権を巡る争いが背後にあったと思うのですがいかがでしょうか。
それはともかくとして、和歌で有名な西行ですが(「新古今集」には最多の九四首を残しています)、元は佐藤兵衛尉憲清という名で、禁裏警護役の北面の武士とされていますが、平安末期から鎌倉期の人であり、出家への動機については諸説とりざたされています。
 前夜、同族で年嵩の佐藤佐衛門尉憲康と和歌の会から伴に帰り、翌日迎えに行くと急死していたことから出家への道を求めたというのが有力とされているようです。
もう一つは、恋していた絶世の美女堀川の局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」と言われ「あこぎよ」の意味が分からずに恥じて出家したといった話です。
さて、ここから先は落語の「西行」に出てくる「阿漕」の話です。「……憲清、阿漕という言葉の意味がどうしても分からない。歌道をもって少しは人に知られた自分が、歌の言葉が分からないとは残念至極と、一念発起して武門を捨て歌の修行に出ようとその場で髪を下ろして西行と改名。諸国修行の道すがら、伊勢の国で木陰に腰を下ろしていると、向こうから来た馬子が『ハイハイドーッ。散々前宿で食らいやアがって。本当にワレがような阿漕な奴はねいぞ』。これを聞いた西行、はっと思って馬子にその意味を尋ねると『ナニ、この馬でがす。前の宿場で豆を食らっておきながら、まだニ宿も行かねいのにまた食いたがるだ』『あ、二度目の時が阿漕かしらん』……『伊勢の海あこぎが浦にひく網も度重なれば人もこそ知れ』から、秘事も度重なればバレるという意味。西行はこれを知らなかったから、あらぬ勘違いをした訳である。オチは『豆』が女性自身の隠語なので馬方の言葉から、二度目はしつこいわ、と言われたと解釈した。『阿漕』には後に、馬方が言う意味つまり『欲深』『しつこい』という意味がついた。……」(「千字寄席」噺がわかる落語笑事典 立川志の輔【監】古木優・高田裕史【編】)一応、落語の話はここまでです。
古歌として、「伊勢の海の阿漕か浦に引網の度かさならはあらはれにけり」「伊勢の海阿漕が浦に曳く網もたび重なればあらはれにけり」といったものも残っています。このため、室町以降成立する能や浄瑠璃に先行して、「伊勢の阿漕浦」にちなんだ和歌が他にもあったようです。
謡(うたい)の阿漕(十八ノ四)は、病気の母親に食べさせようとした息子が禁を犯して阿漕ヶ浦(三重県津市の伊勢神宮神饌の漁場)から魚を捕っていたことが発覚し簀巻きにされて海に沈められるという話がベースになっています。
三重県津市阿漕ケ浜から伊勢神宮への御贄(オニエ)を奉納したとされているのですが、漁と奉納とはそれなりの緊張関係があったと思われ、実際に処分された漁師がいたことは事実のようです。こういう背景があって室町期に謡曲の「阿漕」(当然ながら謡曲は古いため、ここでは殺生を業とせざるを得ない漁師の話であって平治の名はなく孝子伝説とは無関係です)が成立し、江戸期になって古浄瑠璃の「あこぎの平冶」が、浄瑠璃 義太夫(**)人形浄瑠璃、の「勢州阿漕浦」が成立し、芝居にまでなります。
このため、江戸の中期から明治にかけて浄瑠璃が大流行し全国に流布されるようになると、単に「アコギ」と呼ばれていた地名が、「阿漕」という表記になっていったのではないかとも思われるのです。
阿漕の教本
多少脱線しますが、釣師の私としてはフィクションとしても密漁したとされた魚が何であったのかが気になります。芝居の中などで平冶が密漁したとされている魚は、くちばしが長く本体も細長い“ヤガラ”とされていますが、日本近海の“ヤガラ”の仲間には“アカヤガラ”、“アオヤガラ”外2種があります。私は阿漕が浦が砂地であることから考えて、“アオヤガラ”ではなかったかと考えています。その外にも多くの興味深い話がありますが、この程度にしておきましょう。
結局、転じてこのような酷い仕打ち(簀巻きにして海に沈める)のことを“阿漕なこと”とまで言うようになったと言われているのですが、では、なぜ、この海は“阿漕が浦”と呼ばれるようになったのかがわからないのです。
e)“阿漕”という地名と“アコウ”
ここで、“アコギ”とも呼ばれる亜熱帯系の常緑高木“アコウ”(赤秀)の存在が気になってくるのです。まず、三重県津市の阿漕を考えてみましょう。もちろん、現在、ここにアコウの木があるわけではありません。というよりもアコウの生育限界であり北限とされている佐賀県の肥前町高串にはアコウがありますが、その高串から岬ひとつ隔てた“阿漕”地区ではなく、高串港の一隅にある増田神社の付近なのです。
従って、アコウという木と“阿漕”類似地名とを直接結び付るものはありません。というよりも“阿漕”という地名が残る佐賀県の高串港にアコウが生えていたということが唯一の関連性を示すものかもしれません。しかし、アコウという樹木の分布傾向と“阿漕”関連地名の分布傾向にそれなりの関連性があることからして、アコウと“阿漕”との関係はかなりの可能性があるように思います。
三重県津市の阿漕の話に戻しますが、一般的なアコウの分布から考えて、黒潮の枝流が流れ込む伊勢の海の海岸はこの木の生育領域(であった?)とも十分考えられそうです。 
 近いところでは、隣県の和歌山県日高郡美浜町三尾にアコウの大木があるようです(龍王神社)。また、三重県内の地名としては、津市の“阿漕”以外にも飯南郡飯高町赤桶(アコウ)、桑名市赤尾(アコオ)、があります。
 今日まで、アコウの木と“阿漕”関連地名とを関係づけて論じたものを私は知りません。また、アコウの木の分布領域の中心とされる沖縄や奄美大島に九州などに比較して“阿漕”関連地名が異常に多いということもないようです。もちろん、これはアコウが多いため地名形成の動機としては弱かったとも考えられます。
 とりあえず、ここではアコウが松、栂(ツガ、トガ)、榎(エノキ)、栃(トチ)などと同様に、それらが特徴的に見える地域において、松崎、栂尾、榎津、栃川といった地名と同様に、自らの存在を地名として留めている可能性があるのではないかというところまでは言えるようです。 
ただし、この木の分布が日本列島の辺境に限定されていたために、“阿漕”という奇妙な表記の地名とアコウの木との関連性が忘れ去られているのではないかと思われるのです。
一般的に漁撈集団は、文字で記録を残さないと言われています。極めて逆説的ですが、それこそが、アコウや“阿漕”が南方系の漁撈集団がもたらした“樹名”であり“地名”である証拠とも言えるような気がします。                    
その後も、アコウについて調べていたところ、北限とかいったものを超えて、山口県(いずれも瀬戸内海ですが、柳井市の掛津島、周防大島の東和町水無瀬島)や愛知県にもアコウがあることを知りました。しかし、愛知県のアコウは“鹿児島から苗を取り寄せて移植した”ようです。なにやら、民俗学者柳田国男の“ツバキ”の話を思い出しますが、こういったことがあるために、そもそも自然な生育限界とかいったものはなかなか判らないものなのです。
天草上島、旧姫戸町永目のアコウ
天草上島、旧龍ケ岳町池ノ浦のアコウ
天草維和島蔵々のアコウ
〇 「アコウ」 クワ科の亜熱帯高木で暖かい海の海浜に生育します。愛媛県西宇和郡三崎町三崎と佐賀県の東松浦半島に位置する東松浦郡肥前町高串の“阿漕”地区が北限とされています。それほど多くはないのですが、九州の南半分の島嶼部を中心にかなりの数のアコウが海岸部に自生しています。
〇〇「義太夫」 室町後期に発生した古浄瑠璃に三味線が加わり江戸期に発展した浄瑠璃には江戸、上方あわせて数十の流派が形成されますが、元禄期の竹本義太夫と近松門左衛門らによって大流行した人形浄瑠璃の義太夫節を特に「義太夫」と呼ぶようになり、さらに関西の浄瑠璃を特に義太夫と呼ぶようになったようです。常磐津、清元、新内節もそうですが、私は義太夫と言えば、上方落語の「どうらん幸助」の影響からか、最近、特に好んで聴くようになりました。「柳の馬場押小路、虎石町の西側に主は帯屋長……(長衛門)」(「特選 米朝落語全集大二十二集」の台詞で有名な浄瑠璃の「お半 長衛門」(オハンチョウ)を思い出してしまいます。
さらなる展開
多少ともアコウと阿漕地名との間の関係について理解して頂けたかと思います。
しかし、話はここから新たな展開を見せるのです。古田史学の会代表である水野孝夫氏は、この小論から「阿漕的仮説」(会報69号)という驚くべき仮説を引き出されたのです。詳しくは同会の会報か私が主催するホーム・ページ「アンビエンテ」のリポート106.107号外を読まれるとして(こちらは写真、地図、図表も見ることができます)、『万葉集』に登場する淡海は琵琶湖ではないという議論は、古田武彦氏をはじめとして、万葉集の研究者の間でもかなりの広がりを見せていました。
この議論の中で、古田史学の会の“神様の神様”と言われる西村秀巳氏は『倭姫命世紀』という鎌倉期の文書から“淡海=球磨川河口説”を提案されたのです。そして、ここに注目した水野氏が、伊勢神宮もこの球磨川河口域から移されたのではないかとされたのです。
一方、『古事記』の探求を進められた九州古代史の会の庄司圭次氏は、『「倭国」とは何か』所収の“「淡海」は「古遠賀湖」か”で“淡海=古遠賀湖説”を展開されており、会としても同地が淡海であると考えられているようです。さらに、これがいわゆる新北津論争にも多少の影響を与えているのかも知れません。
ともあれ、まずは、水野代表による「阿漕的仮説」とその解題とも言うべき拙稿「姫戸」を読んで頂きたいと思います。
阿漕的仮説 ―さまよえる倭姫―
八代〜大築島〜天草姫戸  古田史学の会会報 NO.69 掲載論文
古田史学の会代表 水野 孝夫(奈良市)
この報告は、文献に現われる「阿漕」「淡海」「倭姫」をキーワードとして、「伊勢神宮も九州から移築された」と考えたいという仮説である。
天草維和島蔵々のアコウ
『むかし琵琶湖で鯨が捕れた』、河合隼雄・中西進・山田慶児・共著@ という本がある。学術書というわけではなく、この表題は、出版社が人目を引くために付けたのだろうが、こんな無茶なことを、これだけの学識経験者に言ってもらっては、困っちゃうのである。しかも、鯨についてなにか論証してあるわけではなくて、「(鯨は)日本の名前だと勇魚(いさな)でしょ?勇ましい魚。「勇魚捕り」なんていう枕言葉にもなって、琵琶湖を修飾するのに使われている。これは「鯨だって捕れるほど立派な琵琶湖」という表現です」。という、座談会での放言だけから採られている。
根拠の歌、万葉集02/153 原文。
鯨魚取 淡海乃海乎 奥放而 榜来船 邊附而 榜来船 奥津加伊 痛勿波祢曽 邊津加伊 痛莫波祢曽 若草乃 嬬之 念鳥立
この歌は別に琵琶湖の立派さを歌っているわけではない。
 
木村賢司氏は「夕波千鳥」という会報論文Aで、「琵琶湖に千鳥はいるかも知れないが、鯨は絶対にいない」とし、博多湾を淡海の候補とされた。
古田武彦氏はこれを受けて、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、現在の鳥取県にあたる『和名抄』の邑美を候補とされたB。
梨田鏡氏は「鯨のいない海」Cで考察を加え、やはり「淡海」は淡水の琵琶湖ではなく海であり、その候補地を「會見の海」(鳥取県美保湾)とされた。
 
このころに西村秀己氏は「淡海」という語句を探して『倭姫命世記』という文献(続群書類従巻三所収)に出会われたのである。『倭姫命世記』は、倭姫が天照大神(ご神体の銅鏡)の居所を求めて近畿地区をさまよい、遂に伊勢の度会宮(伊勢神宮)に落ち着かれる経過の話である。ここには「海塩相和而淡在、故淡海浦号」(塩味が淡いから淡海浦という)の語があり、西村氏も「淡海は淡水の琵琶湖ではありえない」と考えられたのであるが、地名の音あてはされていない。
 
倭姫について簡単に見ておこう。倭姫という人物は垂仁紀では皇后・日葉酢媛命から生まれた第四子である。崇神紀三年「都を磯城に遷す、これを瑞垣宮という」。同六年「是より先に天照大神・倭大国魂、二柱の神を天皇の大殿のうちに並び祭る。然して其の神の勢いを畏れて共に住みたまふに安からず。故に天照大神を以て豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭る。(中略)亦、日本大国魂神を以てはヌナキ入姫命に託して祭らしむ」。天照大神は宮中から出され、豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に祭られたのだが、垂仁二十五年「天照大神を豊鋤入姫命から離し、倭姫命に託す」ことになり、倭姫命は大神の鎮座地を求めて兔田、近江国、美濃をめぐり伊勢国に着き、神の教えによりここに宮を建てて落ち着く。『古事記』にはこの放浪譚はなく、倭姫命はいきなり伊勢神宮の斎宮として紹介される。古田史学の立場で考えるならば倭姫は「チクシの姫」のはずである。
 
『倭姫命世記』は伊勢神宮および籠神社に伝わる神道書で、天地開闢から伊勢神宮の神寶の由来、これが伊勢神宮に収まった経過を追っているので、全文一万字程度の短いものであるが、大部分は倭姫命の放浪譚である。
その内容は『日本書紀』よりは格段に詳しいので、笠縫邑を出発してから、どこそこに何年間おられ、次はどこ・・・と伊勢到着までを追跡できる。この行程表や地図を掲載した本が多く出版されており、これを追跡する古代史ファンもあり、ここが伝承地とする神社等もある。当然ながら「書紀の知識をもとに」読まれていて、近江国を通るのだから琵琶湖畔にも伝承地が多い。しかし理解困難な宮名もある。伊勢の斎宮歴史博物館の学芸員の方のホーム・ページによると「この『倭姫命世記』を信じる人が多くて困るが、この本は鎌倉時代以降の神道書であって、歴史書としては扱えない」と言われている。
 
続群書類従では、全文漢字なので読みにくいが、籠神社の宮司だった海部穀定(あまべよしさだ)氏の著書D、岩波・日本思想大系19、Eには読み下し文がある。これによると、倭姫命は天照大神の宮地を、伊勢の度会の五十鈴河上に定め終わったあと、更に船に乗り「御膳御贄処」(ご神饌を奉納する地)を求めて船旅をされる。この航海への出発地点に、先の「淡海浦」がある。「其レヨリ西ノ海中ニ、七個ノ嶋アリ、其レヨリ南、塩淡ク甘カリキ」とある。つまり「淡海浦の西には嶋が七個あり、南も海で、塩の甘い所がある」のだ。西村氏はこう考えられた「現在の伊勢神宮のある三重県の五十鈴川河口はほぼ北東を向いており、西も南も海でないし、西に七つの島などない。このような地形の候補地としては熊本県八代の球磨川河口がふさわしい」。但し氏はこの仮説を未発表である。
 
会報六八に「船越」を書かれた古川清久氏のホーム・ページには「阿漕」という論文もある。これが興味深い。氏は釣行のときに出会う、南西諸島・九州西南岸・四国南岸・和歌山県に育つ「アコウまたはアコギ(赤生木)」という亜熱帯性植物に興味をもたれ、「アコウまたはアコギという地名はこの植物が生えるところではないか」と提唱されたのである。   この樹木は樹齢数百年のものも珍しくなく、海岸近くにしか生えない。「あこぎ」とはどういう意味だろうか、小さい辞書には「限りなくむさぼる様子、貪欲、例:あこぎなやりかた」というように記載されている。「阿漕」という謡曲がある。この謡曲は、伊勢神宮に神饌を奉納する地であり、三重県津市に現存する地「阿漕が浦」で“繰り返しむさぼって”密漁し、捕えられて処刑され、地獄に堕ちた漁師の幽霊が、仏教による回向を求める話である。ちょっと余談をはさむと、謡曲のなかに「憲清と聞こえしその歌人の忍び妻、阿漕阿漕と言ひけんも責め一人に度重なるぞ悲しき」とある。古川氏によると、俗名を佐藤憲清といい北面の武士だった西行法師が、恋していた絶世の美女・堀川局に「またの逢瀬は」と問うたところ、「阿漕であろう」といわれ、「あこぎ」の意味がわからず、それを恥じて出家したという話があって、落語ネタになっているそうだ。「阿漕」の最初の意味は「たびかさなること」であって、堀川局は「繰り返し会っていると、他人に知られてしまいますよ」と言ったのである。広辞苑はこの意味を第一に挙げている。
 
とにかく、古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。「本来の阿漕が浦はアコギが生えていたのではないか、球磨川河口付近ならば、アコギ樹が生えているだろう」。古川氏に御意見を聞くと、「嶋七個」は天草上下島のような大きな島ではないとして、球磨川河口沖約5kmにある大築島などの小島を挙げ、詳細な地図を送ってくださった。
この大築島など六島は現在廃棄物処理用地として埋め立て計画が進んでおり(あと暫くで島の数がわからなくなるところだった)、古川氏は調査のため現地を踏んでおられ、現地には八代史談会に友人も居られる。わたしは最高の案内人を得たのである。ただ大築島地区には島は六個で、うちひとつは岩礁みたいなもので島といえるかどうかの問題がある。もちろん河口と天草上島との間には別の島もあり、現在は陸地でも過去には島であったと思われる土地もあるので、「嶋七個」を確定するには至っていないが、七個以上は確実にある。
 
さて地図を見ると、球磨川河口から大築島地区を越えた天草上島に「姫戸町」があって、ここには「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」があり、姫戸町・永目地区には巨大な「アコウ樹」がある。この「姫」は倭姫ではないか?。倭姫は「朝の御饌、夕の御饌とおっしゃった」と言うから、毎日朝夕に神饌を運べるくらいの近さのところだろう。(津市・阿漕浦から五十鈴河口まで直線距離約30km、近鉄電車で津−五十鈴川、32km/急行40分。八代から姫戸まで直線距離は約15km、天草観光汽船の高速艇はややまわり道だが22ノットで30分。三重県の方が2倍くらい遠いか)とにかくここが神饌供給地としての「阿漕が浦」にふさわしく思われる。もっとも現地に地名「阿漕浦」はない。塩味の甘い「淡海浦」であるが、球磨川は伏流水が有名であって(本流日量千万トン、伏流水六十万トンと言う)、海の中に海底から川水が噴出している場所があるのだ。万葉集にも出てくる水島付近で泳ぐと、塩味をほとんど感じない場所があるという。ここは河口のうちでも南側であって、『倭姫命世記』の記述とよく合致している。古川氏は「姫の浦」「姫浦神社」「姫石神社」の現地へも行かれているのだが、現地伝承聴取は困難らしい。ただ姫石神社の伝承や姫石と称する石についての伝承をホーム・ページに見ることができる。「むかし、お姫様が宝を積んで航海して居られたが、海が荒れてきたので良い浦がないかと探されて姫の浦へ着き、景色が良いのを気に入られて滞在された。後の世の人がその跡を見つけたが、お姫様の名はわからなくなっていた。ただ姫とその宝だという石が残っていたので祭った」という。倭姫命はどこかに祭られているだろうか?。伊勢神宮境内には倭姫命を祭る神社がある。しかしこれは御杖代として功労のあった倭姫命を祭る社がないのはおかしいとして、近世になってから祭られた社である。ということは倭姫命を祭る神社は近畿にはないということらしい。しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。『倭姫命世記』が後世の神道書で信用ならない(極言すれば偽書だ)として、「西に嶋七個」とか「塩味の淡い海」などという具体的で、しかも伊勢には適合しない地理をどうして記述できるだろう?。なにか先行資料に基づいたとしか考えられないのである。
 
さて以上の、阿漕、淡海、倭姫の仮説がすべて正しいとしてみよう。倭姫がさまよわれた地域の最後が九州内部だから、出発から落着までの範囲はすべて九州内部だったはずだ。しかるに現在の伊勢神宮は三重県にある。ならば倭姫伝説全体、阿漕浦などの地名、伊勢神宮の社殿、神饌を奉納する住民たち、これらの全体が「九州から近畿・東海に移植された」ことになるだろう。これまでに九州のある範囲にある地名グループが、奈良県にもグループとして存在する例は多数知られていた。理由は、一部の住民が移動したのだろう程度に考えられてきた。そうではなくて、古事記、日本書紀を信頼あるものにするために、遺跡、遺物、伝承、住民を含めて、史書に合うように移植されたという可能性が見えたのではなかろうか。書き上げるだけなら四ヶ月で済んだ古事記に比べて、日本書紀が企画から完成まで数十年もかかった秘密はここにあるのではないか。
@ 潮出版社、1991
A 「古田史学会報38」、2000/06、『古代に真実を求めて第五集』所収
B 2001/01/20講演、於・北市民教養ルーム。但しこの内容は著書等には未採用、インターネットなら読める。
C 『新古代学第七集』、2004/01
D 『原初の最高神と大和朝廷の元始』、桜楓社、昭和59 古田武彦氏御所蔵。
E 『中世神道論』大隈和雄編、1977
会報69号には『倭姫命世紀』原文の一部分が掲載されています。(古川注)
天草上島側から望む大築島
長崎市柿泊町白髪神社のアコウ
長崎市柿泊町白髪神社のアコウ
『倭姫命世紀』原文の一部分
姫 戸
阿漕的仮説 ―さまよえる倭姫― の掲載について
大築島周辺の地図 マピオン
はじめに
水野代表による「阿漕的仮説」―さまよえる倭姫― をお読み頂いたものと思います。か
なり分かりにくく、容易には理解し得なかったかと思いますが、話の一端でも理解された方はかなり驚かれたことと思います。
「阿漕的仮説」にも出てきますが、かつて、日量六〇万トンとまでいわれた球磨川の伏流水にしても、山の破壊(針葉樹林化)、側溝から都市の小河川さらには駐車場のコンクリート化などによって、圧力、水量ともに減退し、恐らく半減から、もしかしたら、現在は見る影もないほどまでに減少しているのではないかと危惧するものです。
それはさておき、水野代表による「阿漕的仮説」は非常に魅力的です。私は九州在住の同会会員として僅かなお手伝いをさせて頂いたわけです。上天草市の姫戸町を訪れ、姫浦神社、姫石神社、永目神社、二間戸諏訪神社などの宮司を兼ねておられる大川定良氏からもお話をお聞きしてきました。
「倭姫命世紀」
そもそも、「倭姫命世紀」は鎌倉期に成立した書物であり、水野氏も書かれているとおり、“「倭姫命世紀」を信じる人が多くて困る“といった話があることも十分承知しています。しかし、この話は倭姫命が御杖代として天照大神の鎮座地を探すというものであり、別名、元伊勢神社と言われる京都府宮津の籠神社があるように、まさしく、さまよい、最終的に伊勢の“五十鈴河上”に辿り着くというものです。このため、このルートを探るマニアもいて、“どこそここそがその場所である”といった話が飛び交ってもいるようです。
しかし、まず、“日本の神々の最高神にまで高められた天照大神の最終的鎮座地が、なぜ、伊勢でなければならないのか“さらには、それは、”なぜ、大和王権の膝元の大和などではいけなかったのか“という事など、考えれば多くの謎があります。
従って、天照大神のルーツが対馬小船越の阿麻底留神社とすると(「船越」参照)、いつかの時点では、九州に“元々伊勢神社”とでもいうべきものが存在したのではないかという仮説、また、大宰府と久留米の中間に位置する小郡市水沢(ミツサワ)の伊勢山神社、伊勢浦地名は何なのか(いずれも宝満川の支流の側に位置する)、さらには”小郡市大保の御勢大霊石神社(ミセタイレイセキジンジャ)が地元では伊勢(イセ)大霊石神社と呼ばれているのは何故か”といった興味深い問題が横たわっています(大分県の耶馬溪町や玖珠町から鹿児島県などにも伊勢神社、伊勢山神社・・・があります)。 
水野氏は「倭姫命世紀」に登場する七つの島を断定まではされていませんが、一応、不知火海の大築島周辺の島に比定されたものと思われます。それを前提にお話しいたしますが、国土地理院の地図によると、大築島周辺には大築島、小築島、黒島、箱島、その箱島の独立礁に根島を併せた六島(いずれも一.五キロ程度の範囲にかたまっている)と、二キロほど離れた場所に船瀬がありますので、七つの島という事は、一応、可能かもしれません。 
対岸の天草上島の姫戸を宮地として神饌の調達先を球磨川河口とするならば、ちょうど中間に位置する大築島が第一候補であるのは当然でしょう。
ただ、私は、水野説に反旗を翻すというわけではありませんが、八代は古代において、干拓地などはなく、球磨川左岸では、奈良木神社がある高田(コウダ)周辺が陸化していた程度ではなかったかと考えています。このため、現在は埋立や干拓が進んで陸地になっている八代の中心街の陸地にも、かつてはかなり小島が存在していたはずなのです。
具体的には球磨川右岸の大鼠蔵(オオソゾウ、標高48m)、小鼠蔵(コソゾウ、同、35.3m)、現在、球磨川の三角州に流れる南川と前川に挟まれた麦島(ムギシマ、中世に麦島城が存在した)、八代市街地の西側の干拓地にかつて存在していたと考えられる白島(同、18.7m)、高島(同、32.8m)大島(松高小大島分校がある)、それに万葉集に歌われた水島(同、5m程度)の七島を比定する事もやろうと思えばできるのではないかと思えます。これらの小島は縮尺の大きな地図であれば現在でも地名として確認できますので、興味のある方は試みて下さい。結局、「倭姫命世紀」の解読、科学的検証といった事が重要になってくるのですが、その間にも大築島周辺の浅海は確実に埋立られ続けているのです。
姫浦神社と姫石神社
天草に釣りに来る度にこの姫戸に足を踏み入れていたために、永目神社、姫浦神社の存在には気づいていました。ただ、姫戸という地名と姫浦神社には関係があるのではないか(姫戸は姫浦の門)といった程度の感想しか持っていませんでした。このため、ここを通ると、かつては、この神社の真下まで海が入っていただろうし、まさしく姫浦の地形をしていたのではないかなどと考えていました。今回、「阿漕的仮説」が発表され、にわかに調べる必要を感じたものです。実際、姫石神社の存在に気づいたのも昨年の事(脱稿は〇五年中)でしたが、その時も、なぜ、姫浦神社の直ぐ傍(二百メートル程度海岸寄り)にこのような神社が存在するのかと奇妙に思ったものでした。もちろん、この謎はいまだに解明できないのですが、上宮、下宮といったものではなく、やはり、別の神が祭られていたのです。
八月から九月にかけて、教育委員会から姫浦神社の宮司を教えていただき、ご連絡したところ、快くお教え頂き大変有難たかったのですが、いかんせん、ほとんど記録が残っておらず、僅かに祭られている神々の名が確認できる程度でした。以下は神主(宮司)から聴き取らせて頂いたことと、五十年ほど前の神社庁への届け出によるものです。
姫浦神社 神武天皇、天照大神、神八井耳命(カミヤイミミノミコト)、阿蘇一二柱
姫石神社 若比□*命(ワカヒメノミコト) 口羊*は口の右に羊(メと読む)
永目神社 姫浦神社に同じ
二間戸(フタマド)
諏訪(スワ)神社
建(タケ)御名(ミナ)方神(カタノカミ)、八坂刀賣神、外十五柱神
 とりあえず、姫浦神社が伊勢神宮の原初的な形態を留めているとするならば、天照大神が主神とされていることから、水野仮説の一部は裏付けられた事になったわけです。
 さて、水野氏は、“古川氏は「アコギ樹の北限よりも北に」なぜ「阿漕が浦」の地名があるのかを疑われたのである。わたしはここにヒラメキを感じた。”とされていますが、私は元々三重県津市の阿漕ヶ浦という地名が、現在はアコウの木が生えていないものの、かつてはアコウが存在した場所、百歩譲っても、そこからの移住者によって持ちこまれた地名なのではないかと考えたのです。ところが、驚くことに、氏はこの阿漕ヶ浦の話を伊勢遷宮伝承と関連付け、伊勢もアコウの木の生える地域つまり筑紫島(九州)の領域からの移設(氏は移築とされていますが)されたのではないかと考えられたのです。私も相当に天邪鬼な方ですが、水野さんはさらに上手で、実に柔軟かつ、大胆な発想、思考をされる方と、驚きも感服もしたところです。多分、水野氏のお考えでは、津市の阿漕ヶ浦にはアコウの樹は生えたことはなく、逆に、伊勢神宮の方が動いて来たのだと考えられているのでしょう。こうして、私の「阿漕」(阿漕地名仮説)は水野「阿漕的仮説」の前に脆くも崩れ去ったわけです。
最後に、水野代表は「しかるに九州には倭姫命を祭る神社がある。古川氏の奥様の実家のお隣、がそうだという。」と書かれておられますので、この点にふれておきます。
味島神社 谷所 鳥坂
鳥坂の鳥附城があった山の南の山麓に倭姫命を祭神とする味島神社がある。社の由緒等詳かではないが大正五年毛利代三郎編「塩田郷土誌」によれば
仁明天皇承和年間(八三四〜八四八)新に神領を下し社殿を建立した。
(塩田町史)
とあります。
天草上島、旧姫戸町姫浦神社
倭姫命を祭る旧塩田町の味島神社
おわりに
倭姫命を祭る神社は全国的にも佐賀県嬉野市の旧塩田町にしかないことから、それだけでも伊勢神宮や淡海が本来は九州にあったのではないかと思うものです。さらに、「淡海」が不知火海であれ、古遠賀湖であれ、琵琶湖とされた『万葉集』の舞台が九州であったという可能性に興味は尽きません。
私は伊勢神宮の前史としてアコウが生茂る九州南半に鎮座ましましていた時代があったのではないかと想いを巡らしています。
武雄市 古川 清久
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