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熊本県菊池市 中原 英 |
1 はじめに |
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阿蘇カルデラ西麓の菊池川流域は、装飾古墳をはじめ、古代文化が花開いた地域である。弁慶ヶ穴古墳やチブサン古墳など日本の装飾古墳の17.8%が菊池川周辺にある。全国657の装飾古墳中、熊本県にはその3割の196基が存在し、そのうち6割の117基は菊池川流域にある。菊池川流域の装飾古墳は、全国の18%を占め日本一の数を誇る。装飾古墳を造った人たちのルーツが興味深い。
大芝英雄氏は、「翰苑」張想念育(660)によれば、「邪馬台国の南、邪馬嘉国(山鹿市?)に至る」とあり、山鹿市が邪馬嘉国の可能性があるとしている。山鹿市には、弥生時代の鉄器工場である「方保田東原遺跡」があり、日本で唯一の「石包丁型鉄器」が出土している。また、その発掘物(鉄器類500点出土)や周辺の環濠集落群(花房台地の小野崎遺跡群や台台地の台遺跡群)の状況からして弥生時代の小国家が存在したことを伺わせる。
また、菊池川周辺には、鉄剣で有名な江田船山古墳や、岩原古墳・方保田古墳・小野崎古墳・台(うてな)古墳・山崎古墳・高塚古墳など古代国家の存在を偲ばせる遺跡が多い。
中国の文明の発祥の地は、黄河流域だけでなく揚子江流域の「河姆渡遺跡」がある。約7千年前から5千5百年前のものという。「河姆渡(カボト)」は、菊麓盆地の中の地名に関連するものが非常に多い。例えば、加茂川、加茂神社、加茂坂、加茂小屋、加茂六地蔵、加茂濠井手、蒲生池など「カモ」地名が集中している。「茂賀の浦」の水が引いた後に菊鹿盆地に住み着いた人々の中には、海神族との関連が考えられる。小野崎遺跡から出土した弥生時代の鉄の釣り針は、海幸彦・山幸彦の釣り針を連想させる。
阿蘇カルデラ西麓の菊池川流域は、阿蘇山が噴火すると下流の菊水や志々岐付近で堰止められると、すぐ湖ができる状況にある地域である。全国に散在する「蹴破り伝説」が、この古代湖「茂賀の浦」にもある。タテイワタツノミコトが、鍋田~志々岐間の岩壁を蹴破り「茂賀の浦」の水を流したという。
私はこのような古代の菊池川流域のクニ(狗奴国)が、どのような自然条件のもとに成立したのか、地形の成り立ちの面から考察したいと思う。 |
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花房台地から菊池盆地を望む |
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2 菊池の地名の語源 |
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菊池川中流部に位置する私たち菊池市市民のルーツは、どこなのか。いつ、この地に住み着き、どのようにして「クニ」を形成してきたのだろうか。
菊池の地名は、延久2年(1070年)菊池氏初代の藤原則隆公が菊池に下ってこられた時、深川にきれいな菊の花のさく池があったので『菊之池』と名付けられたのが始まりである」という説(肥後国誌)もあるが、それ以前に「続日本書紀」に「鞠智」(ククチ)とみえ、和銅6年(713年)元明天皇の「諸国郡郷名着好字令」により「菊池」になったと考えられる。
堤克彦氏の研究では、ククチ、クコチは、「茂賀の浦」の枯渇した自然地形を表現したのではないかという。私も、このククチが「茂賀の浦」と言われる古代の湖の水が引いて菊池盆地に広大な湿地帯かできていた頃名付けられたと考えている。
つまり、菊池は「久々知(ククチ)」が語源である。「ククチ」とか、「クコチ」は、崩壊した崖の窪地であり、水がピチャピチャした湿地帯である。これから述べるように縄文時代から弥生時代の初期にかけて菊池盆地には「茂賀の浦」という大きな湖があった。この「茂賀の浦」の水が引いた後の湿地帯であるククチが菊池の語源である。
魏志倭人伝に云う、邪馬台国の卑弥呼に対峙した「狗那国」の「ククチヒク」は、この菊池川流域に勢力を持った小国家の長ではなかったか。 |
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迫間川から花房台地を望む |
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3 「茂賀の浦」とは |
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では、一体「茂賀の浦(もがのうら)」とは何だろうか。私は、30年前に熊本大学の科学派遣生として菊池地方の地質調査をする機会を得て、花房台地一帯の地質を調べた。その時分ったことは、花房台地(標高60~80m)の上まで水中に浸かっていた時代があり、9万年前から4万年前までサロマ湖に匹敵する湖が菊池から山鹿にかけて存在したということである。4万年前に菊池から山鹿にかけて地殻変動によって盆地面が陥没し、台地上の水は引いたが、4万年前から縄文時代の終わりまでは、菊鹿盆地(菊池から山鹿までの平野)は、湖水の中にあった。(図-①茂賀の浦と縄文遺跡)この湖を「茂賀の浦」と言い、弥生時代になると次第に水が引き始めて、その範囲はだんだん縮小していった。
水が引き始めた所にいち早く稲作の技術と鉄器の技術を持った人々が住み始め、肥沃な土地と生産技術と相まって強力な古代国家を築いた。これらの人々は、海神族といわれ、後からやってきた八幡勢力に征服されてきた形跡が、鞠智地方で展開される。 |
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数年前に堤克彦氏と机を並べて仕事をする機会を得て、堤氏より「菊池に大昔大きな湖があったという君の論文に興味を持っているが、その湖の範囲を示してくれないか」と言われて、湖の範囲(海抜45mライン)を引いてみた。
(図-① 海抜45mラインと縄文遺跡) |
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① 縄文湖の範囲を海抜45mラインで引いたわけ |
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ア、湖岸段丘と海抜45メートルラインについて |
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菊池盆地内には、水田と集落の境に河岸段丘がある。深川から西寺にかけて2メートルほどの段差がありこれが水田地帯との境界になっている。この境界線が海抜45mラインで、菊鹿盆地内を一周するように連続して続いている。この河岸段丘のラインを結んでいって縄文湖のラインにした。
また、橋田の水田の地下1メートルにある粘土層には、2万4千年前のAT姶良火山灰が含まれているので、この菊池盆地の堆積物は、縄文時代の堆積物であると断定した。 |
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イ 深川の湖岸段丘堆積物について |
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さらに、深川-上西寺間の道路工事(道路拡張工事)の際、次のことが分かった。普通高位段丘は砂礫層―赤ボク-黒ボクの順で堆積しているが、ここでは赤ボクが脱落している。
ここの河岸段丘堆積物は、迫間川の円礫層が主でその上に黒ボク層が直接乗っている(赤ボクはない)。この黒ボクの中に6千3百年前の喜界アカホヤ火山灰が含まれている。
これらのことから、深川-上西寺間の河岸段丘上の堆積物は、赤ボクの堆積時期は水中にあったが、黒ボクの堆積時には陸上にあったということができる。つまり、ここは縄文時代の「茂賀の浦」のふちにあったっている。
この地図に堤克彦氏が縄文遺跡の分布を重ねたら、びっくりしたことにこの海抜45メートルラインと縄文遺跡の分布がぴったり一致したことである。つまり、大きな湖の範囲内には縄文遺跡は、なかったのである。 |
(図-① 茂賀の浦と縄文遺跡) |
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さらに、堤克彦氏は古文書より大きな湖の神話・伝承を調べてくれた。それによると、次の通りである。
「鹿郡旧語伝記」(安永元年・1772年)によれば
景行天皇の御代、肥後の国には「北境の湖」があり、「八頭の大亀」が住んでいた。天皇は地元の「阿蘇の太神」に命じて、「岩根を蹴透して、湖水を滄海に滉し、沼を乾かし八頭の大亀を退治する」そして、「沼の跡乾て田地となる。今云田底三千丁の田地是なり」とある。
これらの神話・伝承は、全く架空の作り話ではなく、地学的に見ても、縄文・弥生遺跡の分布(堤克彦氏が立証)からも真実が隠されていると思った。
なぜ「茂賀の浦」としたかと問われれば、古代の伝説と現代の科学が一致したからと言わねばならない。つまり、肥後国誌や鹿郡旧語伝記・大宮社記にあったことと地質調査による菊池盆地の地下の粘土層の状況が一致したことによるものである。
では、地学的見地から考察してみよう。 |
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今なお残る古代茂賀浦の汀線(湖の縁にこのような道路と水路が並ぶ) |
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4 菊池地方の湖の痕跡 |
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菊鹿盆地は、全国でも有数の地盤沈下地域であり、現在年間0、3~4mm程度の沈下を続けている。年に0、3mmでも1万年では、3mとなり10万年では、30mとなる。花房台地と菊鹿盆地の段差が平均して30mであるので、沈下速度から計算するとこの段差ができるのに10万年かかったことになる。もちろん菊地川の浸食や堆積も考慮に入れなければならないが、花房台地の最下部に見られる阿蘇‐3火砕流堆積物は、12万年前の噴火物と言われているので、台地と盆地面の高度差30mの現実と一致する。この地盤沈下は長年続くと活断層という形で現れる。花房台地(平均標高60m)と菊鹿盆地(海抜30m)の段差は、この活断層によってできたものである。 |
(図-② 菊池盆地の断面図) |
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9万年前は、阿蘇-4火砕流によって菊鹿盆地も花房台地と同じ高さで、菊地川や合志川は、花房台地の上を流れていた時代もあったことを物語る地層が花房台地のあちこちで見られる。特に阿蘇-4火砕流の直後は菊地川の流れ出し口が志々岐あたりで塞がれてサロマ湖に匹敵するような大きな湖が菊地から西合志や山鹿まで広がっていたと考えられる。(9万年前の阿蘇-4火砕流後の盆湖の面積は、130.9平方キロメートル)その後、4万年前に菊鹿盆地断層によって菊鹿盆地面が陥没すると共に湖水の範囲は、菊鹿盆地内だけとなった。縄文湖(1.5万年~前4世紀)の広さは、57平方キロメートル、弥生湖(前4世紀~後3世紀)の広さは、22.7平方キロメートルとなった。
菊池から山鹿に至る菊鹿(きくろく)盆地は、どのような経過をたどって今のような形になったのだろうか。その手掛かりになる地層が花房台地のあちこちで見ることができる。花房台地は阿蘇火山の噴火物と湖水の堆積物からできていると言っていいくらいである。
花房台地の北側の面を東から西へ順に調べていくと次のような結果であった。 |
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① 出田の地層の様子 |
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出田の「瀬戸の谷」と呼ばれる地割れ(立割)が300メートル程続いている。幅6メートル深さ15メートル程の谷で、軽石の多い阿蘇―4火砕流の堆積物である。「縦割れ」とは、地下水によって地下の火山灰層が洗い流されて空洞ができ、急に地盤沈下が起こる現象である。 |
(写真-① 縦割れ現象) |
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花房の旧道の坂で馬頭観音のあるところを見ると阿蘇―4火砕流堆積物の上に厚さ3メートルほどの砂礫層がのっている。これは、詫摩砂礫層といって阿蘇カルデラの水が4万年前の阿蘇火山の爆発により流出したときのものである。 |
(写真-② 馬頭観音下の詫摩砂礫層) |
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② 木柑子の地層の様子 |
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木柑子から花房台地への上り坂が4本あるが、その一番西側の坂を登っていくと「花房層」と呼ばれる地層がはっきり見られる。この地層は、砂と粘土の互層で、水の流れが緩やかであったことを物語っている。ここは阿蘇―4の前後に2回あった湖水性堆積物が見られるところである。 |
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③ 岩瀬の地層の様子 |
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岩瀬公民館から花房台地に向かう坂道を登ると湧水が出ている谷がある。
ここの地層は、「花房層」であるが阿蘇―3火砕流が水の中に突入した証拠が見られる。阿蘇―3火砕流の黒曜石が放射状にひび割れしていて水冷効果が認められる。
また、地層の年代を決定する方法として、Ahアカホヤ火山灰を探す方法がある。Ahアカホヤ火山灰は、鹿児島県の南の海上にある喜界ケ島の火山から飛んできた火山灰で6700年前の噴火物である。真っ黒の火山灰の中に赤茶色でくっきり目立つので案外見分けやすい。 |
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④ 前川の地層の様子 |
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前川水源の坂を花房台地の方に登ると右手に花房層と阿蘇―4後の砂礫層(林原層)の不整合面が見られる。つまり、阿蘇―4の堆積後に水の浸食により阿蘇―4が欠落して、その後また湖水の中で砂礫が堆積する環境が生まれている。花房台地が水中にあったり、地表に出たり変化している様子が分る。 |
(写真―③ 前川の不整合面) |
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⑤ 梶迫の地層の様子 |
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梶迫公民館から上梶迫古墳に登っていくと、花房層、阿蘇―4、林原層がすべてみられる。また、ここでは花房層の底辺部にクロスラミナが見られ、ここが湖水に周辺部であったことを物語っている。 |
(写真‐④ クロスラミナ) |
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また、阿蘇-4火砕流とその上に積もる砂鉄層が見られる。 |
(写真-⑤ 梶迫の砂鉄を大量に含む砂層) |
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⑥ 林原層の地層の様子 |
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林原から花房台地に向かう坂を登っていくと阿蘇-4の後の湖水性堆積物の様子がよくわかる。林原層の下部は粒径が荒いが上部になるにつれ粒径が小さくなり砂と粘土の互層に変わっていく。 |
(写真-⑥ 林原層) |
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⑦ 橋田の地層の様子 |
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橋田では、林原瓦の原料である黒い粘土が水田の地下に存在するが、その中に2.4万年前のAT姶良火山灰や6.3千年前のAhアカホヤ火山灰などが見られる。つまり、2.4万年~6.3千年前は、少なくともこの橋田地域は、湖水の中にあったことが分る。 |
(図-③ 花房台の標準柱状図) |
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5 古代湖「茂賀の浦」の変遷 |
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花房台地の地層の標準的な重なり具合は図-3の通りである。
この図は、下位から阿蘇‐3火砕流、花房層、阿蘇‐4火砕流、砂礫層(林原層)表土火山灰層(赤ボク・黒ボク)の順に堆積している。花房台地の地層は一箇所でこれが、全部見られるわけではないが、この標準地層のどの部分かを見ていることになる。花房台地が平らに見えるのは阿蘇‐4火砕流の後大きな湖水のなかにあったからである。その後数回にわたる地盤変動によって花房台地はいくつかのブロックに別れている。
この図で花房台地Aso‐4後の砂礫層の「こぶし大の砂礫層」までは、湖水の中にあったが、その後の赤ボク、黒ボクの時代になると水の影響をうけていない。AT姶良火山灰やAhアカホヤ喜界火山灰の年代は、分っているので、(AT姶良火山灰は、4万2千年前。Ahアカホヤ喜界火山灰は、6千3百年前)等間隔で火山灰が堆積したと仮定すると、水の影響から離れて何年たったか計算できる。私の計算だと台地上に水が無くなって約4万年経過している。
つまり、花房台地活断層が起きて4万年経過していることになる。その後は、先土器時代、縄文時代を経て弥生時代の始めまで、菊鹿盆地は「茂賀の浦」という大きな湖の中にあった。弥生時代の初めに鍋田の岩が崩れ、湖水が玉名に流れ出すと菊鹿盆地は、ククチといわれる広大な湿地帯となった。菊池が「米どころ」として有名なのは、菊鹿盆地がその昔、大きな湖だったため、粘土等が堆積し土が肥えているからであろう。 |
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6 菊鹿盆地の湖水の時期 |
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(1)湖の区分 |
菊鹿盆地の湖水の時期は、次の表の通りである。(表-① 湖の変遷) |
湖の名称
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時 代
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湖の面積
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①
花房層の形成湖
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阿蘇3火砕流後の盆湖
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琵琶湖内径に相当
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12万年前
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約150平方km
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②
阿蘇4火砕流盆湖
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阿蘇4火砕流後の盆湖
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130.9平方km
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9万年前
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琵琶湖内径相当
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③
縄文湖「茂賀の浦」
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縄文時代
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57平方km
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1.5万年前~前4世紀
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サロマ湖相当
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④
弥生湖「茂賀の浦」
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弥生時代前半
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22.7平方km
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前4世紀~紀元後3世紀
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摩周湖相当
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:琵琶湖内径に相当とは、茂賀の浦の形がすっぽり琵琶湖に入ること |
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(2)4回の阿蘇火砕流のあとの湖水の変遷 |
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菊池盆地の北側の山には、観音岳の貝化石や不動岩の礫岩等、瀬戸内海の延長が雲仙まで続いていた証拠が残っている。その後、阿蘇山の4回の噴火によって内海は、埋められるが、その都度菊池川の水は出口を失い、菊池盆地には湖ができた。12万年前の阿蘇‐3火砕流の後の湖から弥生時代の湖「茂賀の浦」まで4回の湖の時代があった。
大きく分けて4回に渡る湖水の変遷がある。 |
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① 12万年前の湖水 |
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阿蘇-3の後の湖で梶迫や稗方に湖のふちを物語るクロスラミナが認められる。標高60メートルラインで区切られる。 |
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② 9万年前 |
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阿蘇-4の後の湖で、阿蘇の大火砕流によって菊池川が覆いつくされ、志々岐の水の出口を塞がれてできた広大な湖である。 |
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③ 縄文時代(図-① 縄文湖) |
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標高45mラインで囲まれる湖で、この範囲内には縄文遺跡はない。 |
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④ 弥生時代の湖水(図-④ 弥生湖) |
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志々岐の台地の一角が崩れて水のはけ口ができて、湖水がだんだん小さくなっていく頃の「茂賀の浦」である。この頃稲作技術をもった人々が菊池盆地に流入したと考えられる。 |
(図-④ 「茂賀の浦」と弥生遺跡) |
弥生時代になると「茂賀の浦」の水が引き始め、縄文時代には湖水の中だったところに弥生の住居ができ始めたことが次の図でよく分かる。 |
(図―⑤縄文湖の水が引いた後の弥生遺跡) |
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この図-⑤の3番の地点は、私が生まれ育ったところであるが、私が中学生の頃、ここの外園遺跡から叔父が貸銭を発見し、東大の考古学研究質が調査に入ったことがある。その結果、ここが弥生住居の跡であることが確認された。 |
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7 「古閑」地名と弥生時代にできた新しい村 |
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縄文湖の海抜は45mであるが、弥生時代には、湖水が引き始める。菊鹿盆地には、海抜35mラインに「古閑」地名が並んでいる。北古閑、南古閑、新古閑、広瀬古閑(長田)、植古閑などの地域は、みんな海抜35mである。これらの地域は、弥生時代初期の甕棺墓の密集地域である。弥生時代の初めごろ、茂賀の浦の水が引き始めたところにいち早く人々が住み始めたことを物語っている。明治時代までこれらの古閑地域は村境になっていた。
その後、湖水はさらに後退し、海抜32mに湖岸があった。七城町では、海抜30mラインの地域には、「○○島」のつく地名が連なっている。このことは、後述する。 |
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8 「茂賀の浦」の名前の由来 |
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① 横穴古墳と古代湖「茂賀の浦」 |
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菊池市の菊池盆地周辺の阿蘇溶結凝灰岩の岩壁には、どこにも横穴古墳が存在する。その中でよく知られているのは、瀬戸口横穴古墳群、亘横穴古墳群、木柑子横穴古墳群、出田横穴古墳群等である。山鹿市には、古代湖「茂賀の浦」に面して、岩原横穴古墳群を始め、長岩、志々岐、岩野、蒲生池などに横穴古墳群が多数見られる。 また、全国の装飾横穴古墳の6割が熊本県にあり、その8割が「茂賀の浦」周辺及び菊池川周辺にある。 |
( 写真-⑦ 横穴古墳) |
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② 横穴古墳と殯(もがり)の風習 |
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殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬式儀礼で、死者を本葬するまでの3週間~3ヶ月間横穴に遺体を仮安置し、死者の最終的な「死」を見届け、骨を洗って納骨する儀式である。(写真‐⑦ 岩原の横穴古墳群)
「茂賀の浦」湖岸に横穴古墳が多いのは、最終的に棺を安置する時、洗骨するために水が必要だからであろう。また、「殯」の風習を持つのは、海洋民族であるので、湖の周辺に安置し、古里の揚子江に帰ったような気もちにして死者の霊を慰めたものと考えられる。 |
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③ 「茂賀の浦」の名前の由来 |
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肥後国誌には、県北にあった古代湖を「往古茂賀ノ浦ト称スルナリ」とある。私は、元々は「カモの浦」であったのが、古墳時代中・後期に殯(もがり)をするようになってから「茂賀(モガ)の浦」となったのではないかと考えている。それは、古代湖「茂賀の浦」周辺には、「鹿本、加茂川、蒲生池、加茂坂、加茂小屋、加茂別雷神社、加茂六地蔵」など「かも」の地名が非常に多いからである。植木町舟島(余内)の雨山神社(海神)から南を眺めると合志川と豊田川・夏目川・小野川・上生川(わぶがわ)塩浸川の合流点が広がる。豊田川沿いは、「加茂」地名が非常に多い。合志川一帯は、「宝田」地名が見え、この地域の豊かさを物語っている。
小野川の上流には、「小野の小町」が水あびをしたと伝えられる「小野の泉水」がある。また、小野川が茂賀の浦に流れ込む岬には「小野崎遺跡」があり縄文から弥生・古代の連続した遺跡が報告されている。 |
(写真-⑧ 小野崎の弥生土器) |
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9 九州の地盤の動きと菊池盆地 |
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菊池市から山鹿市にいたる菊鹿盆地は、どのような成り立ちなのだろうか。その手がかりになるものが、次のような調査からうかがい知ることができる。
過去90年間の九州地方の地殻変動の図を見てみると、中部九州の西部は著しく沈降し、特に有明海北部―熊本県中部の変動(-4mm/年)が激しい。
過去90年間の九州地方の地殻変動の調査結果を見ると中部九州の西部は著しく地盤沈降し、九州が南北に引き裂かれている状況が分かる。 |
( 図-⑥ 九州の地盤の動き) |
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つまり菊池から山鹿にかけては、九州でも有数の地盤沈下地域であるということである。これは、九州北部と九州南部では、地殻の動きが逆になっているため中部九州は引っ張られて陥没する地域になっているからである。
瀬戸内海―雲仙地溝帯が菊池盆地を貫いているために、北九州と南九州は常に開きつつあり、今後九州は、2つの島になるといわれている。 |
(図-⑦ 50万年後九州真二つ) |
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菊池―山鹿の東西方向の活断層は、この瀬戸内海―雲仙地溝帯の現れである。「茂賀の浦」の水が抜けたのは、吉田川断層によるものであるが、これも菊池盆地における東西方向のひび割れの一つである。また、花房台地や鹿央町の台地には、一定方向の地溝が見られる。 |
(図-⑧ 菊鹿盆地の活断層) |
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これらの地溝は、東西方向の活断層に対して45度の角度で接している。これらも、九州北部と九州南部では、地殻の動きが逆になっているためである。地殻の動きによって地盤は、踏み割られたガラス板のように小さな台地状のブロックとなって残っている。
次に、菊池盆地周辺の神社の分布から菊池の「クニ」の成り立ちについて考えてみたい。 |
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10 菊池盆地周辺の神社の分布状況 |
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(1) 海神(綿津見)と菊池 |
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綿津見神社は、玉名の海岸沿いに帯状に分布しているが、菊池盆地でも5箇所ある。山鹿市南島の南島菅原神社境内に「綿津見龍神社」、鹿本町梶屋に「上梶屋神社」・「下梶屋神社」、菊池市七城町台に「寺町神社」、植木町舟島に「雨山宮」の5社がそれである。海神は海の守護神であるので海岸沿いにあるのが普通であるが、菊池のように海から遠く離れた内陸部にあるのは稀である。「上梶屋神社」・「下梶屋神社」・「寺町神社」・「雨山宮」は、弥生湖「茂賀の浦」の湖中及び湖岸にあり、綿津見の神と関係している。
上梶屋には、海神神社の横の畑から「たたら」の痕跡を示す「カナクソ」が出土している。綿津見の神と「たたら」の関係を示している。また、下梶屋神社には、県指定文化財の龍の見事な彫刻が掲示保存されている。また、この鍛冶屋神社の真向いの寺町神社は、水中に輝く霊石を祭神にしている。この地域の神社は、三社共に海神の神を祭神にしており、海洋民族とのかかわりが考えられる。 |
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(2) 海神神社と八幡宮 |
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「鹿郡旧語伝記」の「大宮社記」によれば、『また当府の北境の湖を、阿蘇の大神に、帝(崇神天皇)勅して曰く「湖を乾かすべし」とあり。大神命を蒙り、湖の岸に至って、「海神、吾を知れるや」と、時に龍燈浪上に曜く、大神、岩根を蹴透して、湖水を滄海に滉す。この跡、沼となり、蹴透し給う所は、今の志々岐・小原・鍋田・保多田、この間の石壁をいう』とある。
千田の大亀伝説が残っている八島神社は、千田聖母八幡宮の真向かいにある。阿蘇大神が「海神、吾を知れるや」と叫んだとき龍燈浪上に曜き、「カンゴンジンゾンリコンダケン」と変な鳴き声が聞こえた。というのは、この海神は、梶屋や寺町の「綿津見の神」の声(祝詞のりと)ではなかったろうか。
縄文湖「茂賀の浦」の周囲の湖岸段丘上には、大きな八幡神社が軒を並べてある。「茂賀の浦」の水が引く頃の神々の抗争が感じられるようである。
また、豊田川周辺には、加茂神社や加茂地名がたくさんあることも注目の的である。 |
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神功皇后と応神天皇を祀るとする千田聖母八幡宮(鹿央町) |
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(3)八幡神社と「茂賀の浦」 |
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菊池盆地周辺の神社一覧及びその配置図を作ってみて感じることは、八幡神社が縄文湖「茂賀の浦」の湖岸に集中して並んでいることである。しかも、人の住み家の多いその地方の重要な中心地的場所を占めている。八幡神社は、縄文湖「茂賀の浦」の範囲内にも存在するが、それらは創立年代が浅く平安時代以降に千田聖母八幡宮から勘定したものである。縄文湖「茂賀の浦」周辺にある八幡神社で一番古いのは、千田聖母八幡宮であり、446年の創立で、神功皇后他ニ神を祭神としている。その他、古い順に伊倉八幡宮(709年)山北八幡宮(709年)野原八幡宮(796年)中川八幡宮(807年)鍋田八幡宮(932年)八幡神社(935年)石村八幡神社(935年)岩原八幡宮(938~947年)下井出神社(939年)その他の八幡神社は、平安時代中期以降(1000年以降)の勧請である。特に山鹿市の「茂賀の浦」周辺には古代湖を取り囲むように八幡神社が配置されている。しかも、海神神社と対峙するように配置されていることが興味深い。また、鉄の生産に関わる地名と海神神社のある地域が一致していることも興味深い。 |
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(4)「茂賀の浦」周辺の神々の特徴 |
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① |
玉名地区は神社の種類が非常に多い。他地区に比べて多いのは、海神神社、熊野神社、天子宮、皇大神宮が多いのが特徴である。海神神社は、古い海岸線に帯をなして存在する。天子宮は、伊倉地域に多い。 |
② |
山鹿・鹿本地域の神社の特徴として八幡神社が中心的地域に必ず存在する。八幡神社が、地域の中心を占めている。また、天神等の「地の神」を祀るところが多い。仁徳天皇を祀る「若宮神社」が15社もあるのは特徴的である。 |
③ |
菊池地域の神社の特徴として「阿蘇神社」が多く、阿蘇地方との関連が深いことを物語っている。また、菅原神社が菊池地方の57パーセントを占めていることも特徴的である。 |
④ |
菊池市木庭には、「大山祇の神」をまつる「下木庭神社」がある。大変古い神社であり、縄文湖の最東端にあたる。ここには、村上水軍が来たという伝説がある。 |
⑤ |
茂賀の浦の北端に相良観音がありアイラ観音という。この地は、日本でただ一つ自生している「アイラトビカズラ」がある。原産地は、中国南部の揚子江流域である。この相良観音の裏山に「御陵」(みさざきさん)という古墳がある。地元の人は、「ウガヤフキアエズノ尊」の御陵という。 |
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下梶屋八幡宮 |
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同社社殿天井の龍の彫刻 |
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11 阿蘇氏と菊池氏 |
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(阿蘇カルデラ湖の変遷) |
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阿蘇氏と菊池氏の繁栄の時期について考えると、菊池盆地のほうが、阿蘇谷よりも稲作には適した条件がある。しかるに、菊池氏より阿蘇氏の方が早い時期から勢力をもったのはなぜか。それは、菊池盆地の方が、いつまでも湖水が残ったからではないか。阿蘇谷の湖水が抜けるのが早かったから、稲作の伝来と共に稲作に適した立地条件がそろっていたからではなかろうか。 |
① |
阿蘇谷と南郷谷では、湖水の時期が異なる。南郷谷の湖水は、約4万年前に消滅した。(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」より)
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② |
阿蘇谷湖は、4万年前の高野尾羽根溶岩、赤瀬溶岩、沢津野溶岩によって赤瀬トンネルと種畜牧場阿蘇支場付近で堰き止められた。 (渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.87より)
その付近の標高より換算して阿蘇谷湖の湖水面標高を500mと想定した。 |
③ |
渡辺一徳氏も「標高500mの線で阿蘇谷の湖は、比定できる」と述べている。
(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.87より) |
④ |
阿蘇谷湖は、4万年前から6000年前の期間である。
(同「阿蘇火山の生い立ち」p.86)
アカホヤ火山灰(6300年前)が、阿蘇谷の狩尾で発見されているが、その産状から当時、狩尾は陸化していたことが報告されている。
「平成12年春に阿蘇町狩尾付近の河川工事現場で、地下約5mに喜界アカホヤ火山灰が確認された。喜界アカホヤ火山灰の上には、数層の黒ボク土を挟む厚い火山灰層が見られるが、明らかに湖に堆積したことを示す証拠は存在しない。また、内牧のボーリングから得られた資料の植物花粉を検討したところ、少なくとも6000年前までに湖が消滅していたと推定している。」(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.122より) |
⑤ |
以上のことから、標高500mの等高線で引いた阿蘇谷湖の範囲は、別紙の通りである。 |
⑥ |
湖水の最高水位は、標高520m程度であったが、縄文時代には標高500m程度になった。これは、下野~数鹿滝付近の浸食による水位の低下による。
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⑦ |
縄文晩期には、なお水位が低下し、標高480m程度となった。これはカルデラ内の下田代に縄文晩期の遺跡があることから分かる。縄文晩期の遺跡は、阿蘇外輪山の上からカルデラ内の斜面に進出する傾向にある。(隈 昭志の一宮町史「長目塚と阿蘇国造」p.57より) |
⑧ |
弥生時代になるとカルデラ内の湖水は、ほとんど引いた状態であったが水溜りがあちこちにある芝原の状態であったろうと考えられる。稲作の伝来と時をあわせたように阿蘇谷は絶好の自然の水田状態であったのである。菊池盆地は、縄文晩期から弥生時代初期まで湖水が残っていたので、阿蘇谷より稲作が遅れたのではないかと考えられる。 |
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12 菊池のいろいろな地名 |
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(1) 米と鉄と蚕の伝来と菊池の地名 |
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① 古代米について |
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弥生時代の初めに、菊鹿盆地にあった古代湖「茂賀の浦」の水が引くと菊池から山鹿にかけては、肥沃な湿地であり、自然の水田となったであろう。あたかも稲作が日本に伝わった時期である。赤米(古代米)が日本の稲作のはじめに作られた種類であるといわれている。
菊池市松島地区では、今でも古代米の栽培が盛んである。美しい古代米の歴史を紐解いてみると身分制度の始まりに結びつく。 |
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② 七城の弥生土器についた古代米の籾跡 |
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七城地域の「弥生水田」(台台地の城ノ上遺跡)から籾痕(ジャポニカ種)のついた弥生土器が出土している。(七城町史)この弥生前期に水田稲作の技術とともに日本に伝播した籾は、揚子江下流域を原産地とするジャポニカ種だとされている。ジャポニカ種は、インディカ種に比べて丸みを帯びた籾である。この七城の弥生土器についていた籾のたて横比は、7対4でたて長÷最大幅は、1.75(ジャポニカ種は2.0以下)でジャポニカ種である。 |
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③ 古代米と貴賎制度 |
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さて、弥生時代に発達した古代米の水稲耕作は、日本人の米食の始まりであるとともに、貴賎制度の始まりである。余分の稲籾は貯蓄され、貧富の差(社会的身分)が現れた。
弥生時代に「倭人」の流入とともに水田耕作と金属器の技術が導入され、湿田が水田化されていくとともに食料の蓄えによって貧富の差が生まれ、富める者は権力を持つようになり、支配者と被支配者が生まれた。支配を受けるものが差別を受けるようになった。そうして、大陸から儒教が伝わるとともに「貴賎観念」が導入された。
701年大宝律令のもとに班田収授法がしかれ、口分田をもらったものは「良民」とされ、口分田の制限を受けた人は「賤民」とされた。口分田の制度により、6歳以上の男子(良民)には、2反の水田が与えられ、賎民には、その三分の一が与えられた。
「倭人」による揚子江流域の稲作の伝来とともに、中国の儒教の教え(貴賎観念)が持ち込まれたことが、日本における身分観念の基礎である。
江戸時代の身分制度は、この賎民がそのまま引き継がれたものではないが、日本人の意識の中に貴賎観念が芽生えることとなった。 |
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(2) カッパと菊池 |
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平成18年10月に菊池市で全国カッパ研究大会が行われた。
熊本県では、八代(球磨川水系)と菊池(菊池川水系)がカッパの本拠地であるとのこと。
カッパは、水の神であるばかりでなく、鉄(刀)の神であり、木(照葉樹林)の神である。カッパと鉄と照葉樹林とは、三点セットである。カッパは、武器の神である。
たたら製鉄に関して「砂鉄7里に炭3里」という言葉がある。たたら鉄の生産には、砂鉄と木炭はセットである。河原川周辺に鶴(雨冠に金に鳥のツル)が多いのは、金属製鉄の地であることをうかがわせる。
(熊本地名研究会の小崎龍也氏の説)
古事記のオオヤマツミノ命の項に「ククチヒコは、木の神」とある。「ククチヒコ」は、「ククチ」つまり窪地、低地、傾斜地に住む「ヒコ」つまり男性である。(地名辞典)縄文時代は、人々は高地や高台・台地に住んでいたが、低地や盆地にも人が住むようになった頃、いち早く盆地に住み着き、稲作を始めた人々を「ククチヒコ」と呼んだのではなかろうか。 |
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(3)蚕の伝来を示す地名 |
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菊池市七城町に「五海」という地名がある。ここはもとは「蚕飼」が本来の漢字であったと言う。蚕を伝えた集団が住み着いたのであろう。戦後しばらくまでは、この地域は蚕の飼育が非常に盛んであった。周囲には、天神川(人口の川)が流れ羽根木、蛇塚、高島など渡来系集団の地名が密集していて興味深い。 |
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(4)○○島のつく地名 |
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① |
七城町周辺の○○島のつく地名
内陸部にある「○○島」など、島のつく地名は、「茂賀の浦」の湖水が引き始めたころ、島だったところである。高島、松島、内島、戸田島、水島、平島、舟島、田島など島のつく地名は、昔は湖の中の島か湿地帯の中の微高地であったことを示している。 |
② |
南島という地名
山鹿大橋の南に「南島」という微高地がある。熊本地名研究会員の前田軍治氏によれば、「山鹿の南西一帯は、洪水の常襲地帯で水害を受けることが多く、軒下に川舟を吊す家が多かったと聞く。近年堤防が整備され、今日では水害は少なくなった。南島は雨期でも冠水しないでポッカリ浮かび、島に見えることから付けられた地名であろう。
弥生時代の「茂賀の浦」は、標高30mラインの範囲内を想定しているが、「南島」付近は、標高20mなのに弥生時代の甕棺や青磁・白磁などの輸入陶磁器が出土している。 |
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13 菊池は狗奴国か |
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弥生時代になると「茂賀の浦」の水が引いた後に新しい村ができてきた。これらのムラは水田稲作をするための出村であった。そして、盆地面より一段高い台地上の見晴らしの良いところには、ムラを統率するクニができ始めた。花房台地の小野崎遺跡、三万田遺跡、台(うてな)台地の城ノ上遺跡、岡田遺跡、三次遺跡、山崎遺跡、辺田上靏遺跡、方保田東原遺跡などは、弥生時代に急速に勢力をつけたクニである。
台台地の突端の「城の上遺跡」は、発掘当時「吉野ヶ里遺跡」に匹敵する大きなクニであったろうといわれている。ここから貸泉も出土している。その後花房台地では、小野崎遺跡が発掘され弥生土器等がコンテナ2000箱ほど出土した。5枚の青銅鏡や2本の鉄の釣り針などが出土しており興味深い。魏志倭人伝に「…その南に狗奴国あり、男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり、女王に属さず…」とあるが、菊池は鞠智城などから、旧地名を「ククチ」と呼ばれていた。「ククチヒク」は、菊池川流域の古代国家を統率する長官ではなかったろうか。狗奴国は、菊池、山鹿、菊水、玉名などの菊池川流域にまたがる連合国であったろう。 |
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14 おわりに |
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菊池は、縄文時代から弥生時代には「茂賀の浦」という大きな湖の中にあった。山鹿の鍋田の岩が崩れ、湖水が引くと菊池盆地は、ククチ(クコチ)といわれる広大な湿地帯であった。
菊池が「米どころ」として有名なのは、菊池盆地がその昔、大きな湖だったため、土が肥えているからであろう。弥生時代に「倭人」の流入と共に水田耕作と金属器の技術が導入され、湿地が水田化されていくと、菊池は強力な国を形成していった。それが邪馬台国や狗那国ではなかったか。
郷土の地史を調べていたら、いつの間にか人間の歴史を調べることになっていた。人間の歴史を調べていくと、地球の歴史も調べたくなると思う。その意味で、どれだけか役に立てば幸いである。
地球の歴史は壮大で、時間的に空間的に、大らかな気持ちになれるところが幸せだと思う。 |
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熊本県菊池市 中原 英 |