久留米地名研究会
Kurume Toponymy Study
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古代湖「茂賀の浦」から狗奴国へ
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熊本県菊池市 中原 英
1 はじめに
 阿蘇カルデラ西麓の菊池川流域は、装飾古墳をはじめ、古代文化が花開いた地域である。弁慶ヶ穴古墳やチブサン古墳など日本の装飾古墳の17.8%が菊池川周辺にある。全国657の装飾古墳中、熊本県にはその3割の196基が存在し、そのうち6割の117基は菊池川流域にある。菊池川流域の装飾古墳は、全国の18%を占め日本一の数を誇る。装飾古墳を造った人たちのルーツが興味深い。
 大芝英雄氏は、「翰苑」張想念育(660)によれば、「邪馬台国の南、邪馬嘉国(山鹿市?)に至る」とあり、山鹿市が邪馬嘉国の可能性があるとしている。山鹿市には、弥生時代の鉄器工場である「方保田東原遺跡」があり、日本で唯一の「石包丁型鉄器」が出土している。また、その発掘物(鉄器類500点出土)や周辺の環濠集落群(花房台地の小野崎遺跡群や台台地の台遺跡群)の状況からして弥生時代の小国家が存在したことを伺わせる。
 また、菊池川周辺には、鉄剣で有名な江田船山古墳や、岩原古墳・方保田古墳・小野崎古墳・台(うてな)古墳・山崎古墳・高塚古墳など古代国家の存在を偲ばせる遺跡が多い。
 中国の文明の発祥の地は、黄河流域だけでなく揚子江流域の「河姆渡遺跡」がある。約7千年前から5千5百年前のものという。「河姆渡(カボト)」は、菊麓盆地の中の地名に関連するものが非常に多い。例えば、加茂川、加茂神社、加茂坂、加茂小屋、加茂六地蔵、加茂濠井手、蒲生池など「カモ」地名が集中している。「茂賀の浦」の水が引いた後に菊鹿盆地に住み着いた人々の中には、海神族との関連が考えられる。小野崎遺跡から出土した弥生時代の鉄の釣り針は、海幸彦・山幸彦の釣り針を連想させる。
 阿蘇カルデラ西麓の菊池川流域は、阿蘇山が噴火すると下流の菊水や志々岐付近で堰止められると、すぐ湖ができる状況にある地域である。全国に散在する「蹴破り伝説」が、この古代湖「茂賀の浦」にもある。タテイワタツノミコトが、鍋田〜志々岐間の岩壁を蹴破り「茂賀の浦」の水を流したという。
 私はこのような古代の菊池川流域のクニ(狗奴国)が、どのような自然条件のもとに成立したのか、地形の成り立ちの面から考察したいと思う。
花房台地から菊池盆地を望む
2 菊池の地名の語源
 菊池川中流部に位置する私たち菊池市市民のルーツは、どこなのか。いつ、この地に住み着き、どのようにして「クニ」を形成してきたのだろうか。
 菊池の地名は、延久2年(1070年)菊池氏初代の藤原則隆公が菊池に下ってこられた時、深川にきれいな菊の花のさく池があったので『菊之池』と名付けられたのが始まりである」という説(肥後国誌)もあるが、それ以前に「続日本書紀」に「鞠智」(ククチ)とみえ、和銅6年(713年)元明天皇の「諸国郡郷名着好字令」により「菊池」になったと考えられる。
 堤克彦氏の研究では、ククチ、クコチは、「茂賀の浦」の枯渇した自然地形を表現したのではないかという。私も、このククチが「茂賀の浦」と言われる古代の湖の水が引いて菊池盆地に広大な湿地帯かできていた頃名付けられたと考えている。
 つまり、菊池は「久々知(ククチ)」が語源である。「ククチ」とか、「クコチ」は、崩壊した崖の窪地であり、水がピチャピチャした湿地帯である。これから述べるように縄文時代から弥生時代の初期にかけて菊池盆地には「茂賀の浦」という大きな湖があった。この「茂賀の浦」の水が引いた後の湿地帯であるククチが菊池の語源である。
 魏志倭人伝に云う、邪馬台国の卑弥呼に対峙した「狗那国」の「ククチヒク」は、この菊池川流域に勢力を持った小国家の長ではなかったか。
迫間川から花房台地を望む
3 「茂賀の浦」とは
 では、一体「茂賀の浦(もがのうら)」とは何だろうか。私は、30年前に熊本大学の科学派遣生として菊池地方の地質調査をする機会を得て、花房台地一帯の地質を調べた。その時分ったことは、花房台地(標高60〜80m)の上まで水中に浸かっていた時代があり、9万年前から4万年前までサロマ湖に匹敵する湖が菊池から山鹿にかけて存在したということである。4万年前に菊池から山鹿にかけて地殻変動によって盆地面が陥没し、台地上の水は引いたが、4万年前から縄文時代の終わりまでは、菊鹿盆地(菊池から山鹿までの平野)は、湖水の中にあった。(図-@茂賀の浦と縄文遺跡)この湖を「茂賀の浦」と言い、弥生時代になると次第に水が引き始めて、その範囲はだんだん縮小していった。
 水が引き始めた所にいち早く稲作の技術と鉄器の技術を持った人々が住み始め、肥沃な土地と生産技術と相まって強力な古代国家を築いた。これらの人々は、海神族といわれ、後からやってきた八幡勢力に征服されてきた形跡が、鞠智地方で展開される。
 数年前に堤克彦氏と机を並べて仕事をする機会を得て、堤氏より「菊池に大昔大きな湖があったという君の論文に興味を持っているが、その湖の範囲を示してくれないか」と言われて、湖の範囲(海抜45mライン)を引いてみた。
   (図−@ 海抜45mラインと縄文遺跡)
@ 縄文湖の範囲を海抜45mラインで引いたわけ
ア、湖岸段丘と海抜45メートルラインについて
 菊池盆地内には、水田と集落の境に河岸段丘がある。深川から西寺にかけて2メートルほどの段差がありこれが水田地帯との境界になっている。この境界線が海抜45mラインで、菊鹿盆地内を一周するように連続して続いている。この河岸段丘のラインを結んでいって縄文湖のラインにした。
 また、橋田の水田の地下1メートルにある粘土層には、2万4千年前のAT姶良火山灰が含まれているので、この菊池盆地の堆積物は、縄文時代の堆積物であると断定した。
イ 深川の湖岸段丘堆積物について
 さらに、深川−上西寺間の道路工事(道路拡張工事)の際、次のことが分かった。普通高位段丘は砂礫層―赤ボク−黒ボクの順で堆積しているが、ここでは赤ボクが脱落している。       
ここの河岸段丘堆積物は、迫間川の円礫層が主でその上に黒ボク層が直接乗っている(赤ボクはない)。この黒ボクの中に6千3百年前の喜界アカホヤ火山灰が含まれている。
 これらのことから、深川−上西寺間の河岸段丘上の堆積物は、赤ボクの堆積時期は水中にあったが、黒ボクの堆積時には陸上にあったということができる。つまり、ここは縄文時代の「茂賀の浦」のふちにあったっている。
この地図に堤克彦氏が縄文遺跡の分布を重ねたら、びっくりしたことにこの海抜45メートルラインと縄文遺跡の分布がぴったり一致したことである。つまり、大きな湖の範囲内には縄文遺跡は、なかったのである。
   (図−@ 茂賀の浦と縄文遺跡)
 さらに、堤克彦氏は古文書より大きな湖の神話・伝承を調べてくれた。それによると、次の通りである。
 「鹿郡旧語伝記」(安永元年・1772年)によれば
景行天皇の御代、肥後の国には「北境の湖」があり、「八頭の大亀」が住んでいた。天皇は地元の「阿蘇の太神」に命じて、「岩根を蹴透して、湖水を滄海に滉し、沼を乾かし八頭の大亀を退治する」そして、「沼の跡乾て田地となる。今云田底三千丁の田地是なり」とある。
 これらの神話・伝承は、全く架空の作り話ではなく、地学的に見ても、縄文・弥生遺跡の分布(堤克彦氏が立証)からも真実が隠されていると思った。
 なぜ「茂賀の浦」としたかと問われれば、古代の伝説と現代の科学が一致したからと言わねばならない。つまり、肥後国誌や鹿郡旧語伝記・大宮社記にあったことと地質調査による菊池盆地の地下の粘土層の状況が一致したことによるものである。
 では、地学的見地から考察してみよう。
今なお残る古代茂賀浦の汀線(湖の縁にこのような道路と水路が並ぶ)
4 菊池地方の湖の痕跡
 菊鹿盆地は、全国でも有数の地盤沈下地域であり、現在年間0、3〜4mm程度の沈下を続けている。年に0、3mmでも1万年では、3mとなり10万年では、30mとなる。花房台地と菊鹿盆地の段差が平均して30mであるので、沈下速度から計算するとこの段差ができるのに10万年かかったことになる。もちろん菊地川の浸食や堆積も考慮に入れなければならないが、花房台地の最下部に見られる阿蘇‐3火砕流堆積物は、12万年前の噴火物と言われているので、台地と盆地面の高度差30mの現実と一致する。この地盤沈下は長年続くと活断層という形で現れる。花房台地(平均標高60m)と菊鹿盆地(海抜30m)の段差は、この活断層によってできたものである。
   (図-A 菊池盆地の断面図)
 9万年前は、阿蘇-4火砕流によって菊鹿盆地も花房台地と同じ高さで、菊地川や合志川は、花房台地の上を流れていた時代もあったことを物語る地層が花房台地のあちこちで見られる。特に阿蘇-4火砕流の直後は菊地川の流れ出し口が志々岐あたりで塞がれてサロマ湖に匹敵するような大きな湖が菊地から西合志や山鹿まで広がっていたと考えられる。(9万年前の阿蘇-4火砕流後の盆湖の面積は、130.9平方キロメートル)その後、4万年前に菊鹿盆地断層によって菊鹿盆地面が陥没すると共に湖水の範囲は、菊鹿盆地内だけとなった。縄文湖(1.5万年〜前4世紀)の広さは、57平方キロメートル、弥生湖(前4世紀〜後3世紀)の広さは、22.7平方キロメートルとなった。
 菊池から山鹿に至る菊鹿(きくろく)盆地は、どのような経過をたどって今のような形になったのだろうか。その手掛かりになる地層が花房台地のあちこちで見ることができる。花房台地は阿蘇火山の噴火物と湖水の堆積物からできていると言っていいくらいである。
花房台地の北側の面を東から西へ順に調べていくと次のような結果であった。
@ 出田の地層の様子
 出田の「瀬戸の谷」と呼ばれる地割れ(立割)が300メートル程続いている。幅6メートル深さ15メートル程の谷で、軽石の多い阿蘇―4火砕流の堆積物である。「縦割れ」とは、地下水によって地下の火山灰層が洗い流されて空洞ができ、急に地盤沈下が起こる現象である。
   (写真-@ 縦割れ現象)
 花房の旧道の坂で馬頭観音のあるところを見ると阿蘇―4火砕流堆積物の上に厚さ3メートルほどの砂礫層がのっている。これは、詫摩砂礫層といって阿蘇カルデラの水が4万年前の阿蘇火山の爆発により流出したときのものである。
   (写真-A 馬頭観音下の詫摩砂礫層)
A 木柑子の地層の様子
 木柑子から花房台地への上り坂が4本あるが、その一番西側の坂を登っていくと「花房層」と呼ばれる地層がはっきり見られる。この地層は、砂と粘土の互層で、水の流れが緩やかであったことを物語っている。ここは阿蘇―4の前後に2回あった湖水性堆積物が見られるところである。
B 岩瀬の地層の様子
 岩瀬公民館から花房台地に向かう坂道を登ると湧水が出ている谷がある。
ここの地層は、「花房層」であるが阿蘇―3火砕流が水の中に突入した証拠が見られる。阿蘇―3火砕流の黒曜石が放射状にひび割れしていて水冷効果が認められる。                  
 また、地層の年代を決定する方法として、Ahアカホヤ火山灰を探す方法がある。Ahアカホヤ火山灰は、鹿児島県の南の海上にある喜界ケ島の火山から飛んできた火山灰で6700年前の噴火物である。真っ黒の火山灰の中に赤茶色でくっきり目立つので案外見分けやすい。
C 前川の地層の様子
 前川水源の坂を花房台地の方に登ると右手に花房層と阿蘇―4後の砂礫層(林原層)の不整合面が見られる。つまり、阿蘇―4の堆積後に水の浸食により阿蘇―4が欠落して、その後また湖水の中で砂礫が堆積する環境が生まれている。花房台地が水中にあったり、地表に出たり変化している様子が分る。
   (写真―B 前川の不整合面)
D 梶迫の地層の様子
 梶迫公民館から上梶迫古墳に登っていくと、花房層、阿蘇―4、林原層がすべてみられる。また、ここでは花房層の底辺部にクロスラミナが見られ、ここが湖水に周辺部であったことを物語っている。
(写真‐C クロスラミナ)
また、阿蘇−4火砕流とその上に積もる砂鉄層が見られる。
(写真−D 梶迫の砂鉄を大量に含む砂層)
E 林原層の地層の様子
 林原から花房台地に向かう坂を登っていくと阿蘇−4の後の湖水性堆積物の様子がよくわかる。林原層の下部は粒径が荒いが上部になるにつれ粒径が小さくなり砂と粘土の互層に変わっていく。
(写真−E 林原層)
F 橋田の地層の様子
 橋田では、林原瓦の原料である黒い粘土が水田の地下に存在するが、その中に2.4万年前のAT姶良火山灰や6.3千年前のAhアカホヤ火山灰などが見られる。つまり、2.4万年〜6.3千年前は、少なくともこの橋田地域は、湖水の中にあったことが分る。
(図−B 花房台の標準柱状図)
5 古代湖「茂賀の浦」の変遷
 花房台地の地層の標準的な重なり具合は図−3の通りである。
この図は、下位から阿蘇‐3火砕流、花房層、阿蘇‐4火砕流、砂礫層(林原層)表土火山灰層(赤ボク・黒ボク)の順に堆積している。花房台地の地層は一箇所でこれが、全部見られるわけではないが、この標準地層のどの部分かを見ていることになる。花房台地が平らに見えるのは阿蘇‐4火砕流の後大きな湖水のなかにあったからである。その後数回にわたる地盤変動によって花房台地はいくつかのブロックに別れている。
 この図で花房台地Aso‐4後の砂礫層の「こぶし大の砂礫層」までは、湖水の中にあったが、その後の赤ボク、黒ボクの時代になると水の影響をうけていない。AT姶良火山灰やAhアカホヤ喜界火山灰の年代は、分っているので、(AT姶良火山灰は、4万2千年前。Ahアカホヤ喜界火山灰は、6千3百年前)等間隔で火山灰が堆積したと仮定すると、水の影響から離れて何年たったか計算できる。私の計算だと台地上に水が無くなって約4万年経過している。
 つまり、花房台地活断層が起きて4万年経過していることになる。その後は、先土器時代、縄文時代を経て弥生時代の始めまで、菊鹿盆地は「茂賀の浦」という大きな湖の中にあった。弥生時代の初めに鍋田の岩が崩れ、湖水が玉名に流れ出すと菊鹿盆地は、ククチといわれる広大な湿地帯となった。菊池が「米どころ」として有名なのは、菊鹿盆地がその昔、大きな湖だったため、粘土等が堆積し土が肥えているからであろう。
6 菊鹿盆地の湖水の時期
(1)湖の区分
菊鹿盆地の湖水の時期は、次の表の通りである。(表−@ 湖の変遷)

湖の名称

時  代

湖の面積

   @

花房層の形成湖

阿蘇3火砕流後の盆湖

琵琶湖内径に相当

12万年前

150平方km

   A

阿蘇4火砕流盆湖

阿蘇4火砕流後の盆湖

130.9平方km

9万年前

琵琶湖内径相当

   B

縄文湖「茂賀の浦」

縄文時代

57平方km

1.5万年前〜前4世紀

サロマ湖相当

   C

弥生湖「茂賀の浦」

弥生時代前半

22.7平方km

前4世紀〜紀元後3世紀

摩周湖相当

:琵琶湖内径に相当とは、茂賀の浦の形がすっぽり琵琶湖に入ること
(2)4回の阿蘇火砕流のあとの湖水の変遷
 菊池盆地の北側の山には、観音岳の貝化石や不動岩の礫岩等、瀬戸内海の延長が雲仙まで続いていた証拠が残っている。その後、阿蘇山の4回の噴火によって内海は、埋められるが、その都度菊池川の水は出口を失い、菊池盆地には湖ができた。12万年前の阿蘇‐3火砕流の後の湖から弥生時代の湖「茂賀の浦」まで4回の湖の時代があった。
大きく分けて4回に渡る湖水の変遷がある。
@ 12万年前の湖水
 阿蘇−3の後の湖で梶迫や稗方に湖のふちを物語るクロスラミナが認められる。標高60メートルラインで区切られる。
A 9万年前
  阿蘇−4の後の湖で、阿蘇の大火砕流によって菊池川が覆いつくされ、志々岐の水の出口を塞がれてできた広大な湖である。
B 縄文時代(図−@ 縄文湖)
 標高45mラインで囲まれる湖で、この範囲内には縄文遺跡はない。
C 弥生時代の湖水(図−C 弥生湖)
 志々岐の台地の一角が崩れて水のはけ口ができて、湖水がだんだん小さくなっていく頃の「茂賀の浦」である。この頃稲作技術をもった人々が菊池盆地に流入したと考えられる。
   (図−C 「茂賀の浦」と弥生遺跡)
 弥生時代になると「茂賀の浦」の水が引き始め、縄文時代には湖水の中だったところに弥生の住居ができ始めたことが次の図でよく分かる。
   (図―D縄文湖の水が引いた後の弥生遺跡)
 この図−Dの3番の地点は、私が生まれ育ったところであるが、私が中学生の頃、ここの外園遺跡から叔父が貸銭を発見し、東大の考古学研究質が調査に入ったことがある。その結果、ここが弥生住居の跡であることが確認された。
7 「古閑」地名と弥生時代にできた新しい村
 縄文湖の海抜は45mであるが、弥生時代には、湖水が引き始める。菊鹿盆地には、海抜35mラインに「古閑」地名が並んでいる。北古閑、南古閑、新古閑、広瀬古閑(長田)、植古閑などの地域は、みんな海抜35mである。これらの地域は、弥生時代初期の甕棺墓の密集地域である。弥生時代の初めごろ、茂賀の浦の水が引き始めたところにいち早く人々が住み始めたことを物語っている。明治時代までこれらの古閑地域は村境になっていた。
 その後、湖水はさらに後退し、海抜32mに湖岸があった。七城町では、海抜30mラインの地域には、「○○島」のつく地名が連なっている。このことは、後述する。
8 「茂賀の浦」の名前の由来
@ 横穴古墳と古代湖「茂賀の浦」
 菊池市の菊池盆地周辺の阿蘇溶結凝灰岩の岩壁には、どこにも横穴古墳が存在する。その中でよく知られているのは、瀬戸口横穴古墳群、亘横穴古墳群、木柑子横穴古墳群、出田横穴古墳群等である。山鹿市には、古代湖「茂賀の浦」に面して、岩原横穴古墳群を始め、長岩、志々岐、岩野、蒲生池などに横穴古墳群が多数見られる。 また、全国の装飾横穴古墳の6割が熊本県にあり、その8割が「茂賀の浦」周辺及び菊池川周辺にある。
   ( 写真−F 横穴古墳)
A 横穴古墳と殯(もがり)の風習
 殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬式儀礼で、死者を本葬するまでの3週間〜3ヶ月間横穴に遺体を仮安置し、死者の最終的な「死」を見届け、骨を洗って納骨する儀式である。(写真‐F 岩原の横穴古墳群)
 「茂賀の浦」湖岸に横穴古墳が多いのは、最終的に棺を安置する時、洗骨するために水が必要だからであろう。また、「殯」の風習を持つのは、海洋民族であるので、湖の周辺に安置し、古里の揚子江に帰ったような気もちにして死者の霊を慰めたものと考えられる。
B 「茂賀の浦」の名前の由来
 肥後国誌には、県北にあった古代湖を「往古茂賀ノ浦ト称スルナリ」とある。私は、元々は「カモの浦」であったのが、古墳時代中・後期に殯(もがり)をするようになってから「茂賀(モガ)の浦」となったのではないかと考えている。それは、古代湖「茂賀の浦」周辺には、「鹿本、加茂川、蒲生池、加茂坂、加茂小屋、加茂別雷神社、加茂六地蔵」など「かも」の地名が非常に多いからである。植木町舟島(余内)の雨山神社(海神)から南を眺めると合志川と豊田川・夏目川・小野川・上生川(わぶがわ)塩浸川の合流点が広がる。豊田川沿いは、「加茂」地名が非常に多い。合志川一帯は、「宝田」地名が見え、この地域の豊かさを物語っている。
 小野川の上流には、「小野の小町」が水あびをしたと伝えられる「小野の泉水」がある。また、小野川が茂賀の浦に流れ込む岬には「小野崎遺跡」があり縄文から弥生・古代の連続した遺跡が報告されている。
   (写真-G 小野崎の弥生土器)
9 九州の地盤の動きと菊池盆地
 菊池市から山鹿市にいたる菊鹿盆地は、どのような成り立ちなのだろうか。その手がかりになるものが、次のような調査からうかがい知ることができる。
 過去90年間の九州地方の地殻変動の図を見てみると、中部九州の西部は著しく沈降し、特に有明海北部―熊本県中部の変動(−4mm/年)が激しい。
 過去90年間の九州地方の地殻変動の調査結果を見ると中部九州の西部は著しく地盤沈降し、九州が南北に引き裂かれている状況が分かる。
   ( 図−E 九州の地盤の動き)
つまり菊池から山鹿にかけては、九州でも有数の地盤沈下地域であるということである。これは、九州北部と九州南部では、地殻の動きが逆になっているため中部九州は引っ張られて陥没する地域になっているからである。
 
瀬戸内海―雲仙地溝帯が菊池盆地を貫いているために、北九州と南九州は常に開きつつあり、今後九州は、2つの島になるといわれている。
(図-F 50万年後九州真二つ)
 菊池―山鹿の東西方向の活断層は、この瀬戸内海―雲仙地溝帯の現れである。「茂賀の浦」の水が抜けたのは、吉田川断層によるものであるが、これも菊池盆地における東西方向のひび割れの一つである。また、花房台地や鹿央町の台地には、一定方向の地溝が見られる。
   (図−G 菊鹿盆地の活断層)
 これらの地溝は、東西方向の活断層に対して45度の角度で接している。これらも、九州北部と九州南部では、地殻の動きが逆になっているためである。地殻の動きによって地盤は、踏み割られたガラス板のように小さな台地状のブロックとなって残っている。
 次に、菊池盆地周辺の神社の分布から菊池の「クニ」の成り立ちについて考えてみたい。
10 菊池盆地周辺の神社の分布状況
(1) 海神(綿津見)と菊池
 綿津見神社は、玉名の海岸沿いに帯状に分布しているが、菊池盆地でも5箇所ある。山鹿市南島の南島菅原神社境内に「綿津見龍神社」、鹿本町梶屋に「上梶屋神社」・「下梶屋神社」、菊池市七城町台に「寺町神社」、植木町舟島に「雨山宮」の5社がそれである。海神は海の守護神であるので海岸沿いにあるのが普通であるが、菊池のように海から遠く離れた内陸部にあるのは稀である。「上梶屋神社」・「下梶屋神社」・「寺町神社」・「雨山宮」は、弥生湖「茂賀の浦」の湖中及び湖岸にあり、綿津見の神と関係している。
 上梶屋には、海神神社の横の畑から「たたら」の痕跡を示す「カナクソ」が出土している。綿津見の神と「たたら」の関係を示している。また、下梶屋神社には、県指定文化財の龍の見事な彫刻が掲示保存されている。また、この鍛冶屋神社の真向いの寺町神社は、水中に輝く霊石を祭神にしている。この地域の神社は、三社共に海神の神を祭神にしており、海洋民族とのかかわりが考えられる。
(2) 海神神社と八幡宮
 「鹿郡旧語伝記」の「大宮社記」によれば、『また当府の北境の湖を、阿蘇の大神に、帝(崇神天皇)勅して曰く「湖を乾かすべし」とあり。大神命を蒙り、湖の岸に至って、「海神、吾を知れるや」と、時に龍燈浪上に曜く、大神、岩根を蹴透して、湖水を滄海に滉す。この跡、沼となり、蹴透し給う所は、今の志々岐・小原・鍋田・保多田、この間の石壁をいう』とある。
千田の大亀伝説が残っている八島神社は、千田聖母八幡宮の真向かいにある。阿蘇大神が「海神、吾を知れるや」と叫んだとき龍燈浪上に曜き、「カンゴンジンゾンリコンダケン」と変な鳴き声が聞こえた。というのは、この海神は、梶屋や寺町の「綿津見の神」の声(祝詞のりと)ではなかったろうか。
 縄文湖「茂賀の浦」の周囲の湖岸段丘上には、大きな八幡神社が軒を並べてある。「茂賀の浦」の水が引く頃の神々の抗争が感じられるようである。
また、豊田川周辺には、加茂神社や加茂地名がたくさんあることも注目の的である。
神功皇后と応神天皇を祀るとする千田聖母八幡宮(鹿央町)
(3)八幡神社と「茂賀の浦」
 菊池盆地周辺の神社一覧及びその配置図を作ってみて感じることは、八幡神社が縄文湖「茂賀の浦」の湖岸に集中して並んでいることである。しかも、人の住み家の多いその地方の重要な中心地的場所を占めている。八幡神社は、縄文湖「茂賀の浦」の範囲内にも存在するが、それらは創立年代が浅く平安時代以降に千田聖母八幡宮から勘定したものである。縄文湖「茂賀の浦」周辺にある八幡神社で一番古いのは、千田聖母八幡宮であり、446年の創立で、神功皇后他ニ神を祭神としている。その他、古い順に伊倉八幡宮(709年)山北八幡宮(709年)野原八幡宮(796年)中川八幡宮(807年)鍋田八幡宮(932年)八幡神社(935年)石村八幡神社(935年)岩原八幡宮(938〜947年)下井出神社(939年)その他の八幡神社は、平安時代中期以降(1000年以降)の勧請である。特に山鹿市の「茂賀の浦」周辺には古代湖を取り囲むように八幡神社が配置されている。しかも、海神神社と対峙するように配置されていることが興味深い。また、鉄の生産に関わる地名と海神神社のある地域が一致していることも興味深い。
(4)「茂賀の浦」周辺の神々の特徴
@ 玉名地区は神社の種類が非常に多い。他地区に比べて多いのは、海神神社、熊野神社、天子宮、皇大神宮が多いのが特徴である。海神神社は、古い海岸線に帯をなして存在する。天子宮は、伊倉地域に多い。
A 山鹿・鹿本地域の神社の特徴として八幡神社が中心的地域に必ず存在する。八幡神社が、地域の中心を占めている。また、天神等の「地の神」を祀るところが多い。仁徳天皇を祀る「若宮神社」が15社もあるのは特徴的である。
B 菊池地域の神社の特徴として「阿蘇神社」が多く、阿蘇地方との関連が深いことを物語っている。また、菅原神社が菊池地方の57パーセントを占めていることも特徴的である。
C 菊池市木庭には、「大山祇の神」をまつる「下木庭神社」がある。大変古い神社であり、縄文湖の最東端にあたる。ここには、村上水軍が来たという伝説がある。
D 茂賀の浦の北端に相良観音がありアイラ観音という。この地は、日本でただ一つ自生している「アイラトビカズラ」がある。原産地は、中国南部の揚子江流域である。この相良観音の裏山に「御陵」(みさざきさん)という古墳がある。地元の人は、「ウガヤフキアエズノ尊」の御陵という。
下梶屋八幡宮
同社社殿天井の龍の彫刻
11 阿蘇氏と菊池氏
(阿蘇カルデラ湖の変遷)
阿蘇氏と菊池氏の繁栄の時期について考えると、菊池盆地のほうが、阿蘇谷よりも稲作には適した条件がある。しかるに、菊池氏より阿蘇氏の方が早い時期から勢力をもったのはなぜか。それは、菊池盆地の方が、いつまでも湖水が残ったからではないか。阿蘇谷の湖水が抜けるのが早かったから、稲作の伝来と共に稲作に適した立地条件がそろっていたからではなかろうか。
@ 阿蘇谷と南郷谷では、湖水の時期が異なる。南郷谷の湖水は、約4万年前に消滅した。(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」より)
A 阿蘇谷湖は、4万年前の高野尾羽根溶岩、赤瀬溶岩、沢津野溶岩によって赤瀬トンネルと種畜牧場阿蘇支場付近で堰き止められた。
(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.87より)
その付近の標高より換算して阿蘇谷湖の湖水面標高を500mと想定した。
B 渡辺一徳氏も「標高500mの線で阿蘇谷の湖は、比定できる」と述べている。
 (渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.87より)
C 阿蘇谷湖は、4万年前から6000年前の期間である。
(同「阿蘇火山の生い立ち」p.86)
アカホヤ火山灰(6300年前)が、阿蘇谷の狩尾で発見されているが、その産状から当時、狩尾は陸化していたことが報告されている。
「平成12年春に阿蘇町狩尾付近の河川工事現場で、地下約5mに喜界アカホヤ火山灰が確認された。喜界アカホヤ火山灰の上には、数層の黒ボク土を挟む厚い火山灰層が見られるが、明らかに湖に堆積したことを示す証拠は存在しない。また、内牧のボーリングから得られた資料の植物花粉を検討したところ、少なくとも6000年前までに湖が消滅していたと推定している。」(渡辺一徳氏の一宮町史「阿蘇火山の生い立ち」p.122より)
D 以上のことから、標高500mの等高線で引いた阿蘇谷湖の範囲は、別紙の通りである。
E 湖水の最高水位は、標高520m程度であったが、縄文時代には標高500m程度になった。これは、下野〜数鹿滝付近の浸食による水位の低下による。
F 縄文晩期には、なお水位が低下し、標高480m程度となった。これはカルデラ内の下田代に縄文晩期の遺跡があることから分かる。縄文晩期の遺跡は、阿蘇外輪山の上からカルデラ内の斜面に進出する傾向にある。(隈 昭志の一宮町史「長目塚と阿蘇国造」p.57より)
G 弥生時代になるとカルデラ内の湖水は、ほとんど引いた状態であったが水溜りがあちこちにある芝原の状態であったろうと考えられる。稲作の伝来と時をあわせたように阿蘇谷は絶好の自然の水田状態であったのである。菊池盆地は、縄文晩期から弥生時代初期まで湖水が残っていたので、阿蘇谷より稲作が遅れたのではないかと考えられる。
12 菊池のいろいろな地名
(1) 米と鉄と蚕の伝来と菊池の地名
@ 古代米について
弥生時代の初めに、菊鹿盆地にあった古代湖「茂賀の浦」の水が引くと菊池から山鹿にかけては、肥沃な湿地であり、自然の水田となったであろう。あたかも稲作が日本に伝わった時期である。赤米(古代米)が日本の稲作のはじめに作られた種類であるといわれている。
菊池市松島地区では、今でも古代米の栽培が盛んである。美しい古代米の歴史を紐解いてみると身分制度の始まりに結びつく。
A 七城の弥生土器についた古代米の籾跡
 七城地域の「弥生水田」(台台地の城ノ上遺跡)から籾痕(ジャポニカ種)のついた弥生土器が出土している。(七城町史)この弥生前期に水田稲作の技術とともに日本に伝播した籾は、揚子江下流域を原産地とするジャポニカ種だとされている。ジャポニカ種は、インディカ種に比べて丸みを帯びた籾である。この七城の弥生土器についていた籾のたて横比は、7対4でたて長÷最大幅は、1.75(ジャポニカ種は2.0以下)でジャポニカ種である。
B 古代米と貴賎制度
 さて、弥生時代に発達した古代米の水稲耕作は、日本人の米食の始まりであるとともに、貴賎制度の始まりである。余分の稲籾は貯蓄され、貧富の差(社会的身分)が現れた。
 弥生時代に「倭人」の流入とともに水田耕作と金属器の技術が導入され、湿田が水田化されていくとともに食料の蓄えによって貧富の差が生まれ、富める者は権力を持つようになり、支配者と被支配者が生まれた。支配を受けるものが差別を受けるようになった。そうして、大陸から儒教が伝わるとともに「貴賎観念」が導入された。
701年大宝律令のもとに班田収授法がしかれ、口分田をもらったものは「良民」とされ、口分田の制限を受けた人は「賤民」とされた。口分田の制度により、6歳以上の男子(良民)には、2反の水田が与えられ、賎民には、その三分の一が与えられた。
 「倭人」による揚子江流域の稲作の伝来とともに、中国の儒教の教え(貴賎観念)が持ち込まれたことが、日本における身分観念の基礎である。
 江戸時代の身分制度は、この賎民がそのまま引き継がれたものではないが、日本人の意識の中に貴賎観念が芽生えることとなった。
(2) カッパと菊池
平成18年10月に菊池市で全国カッパ研究大会が行われた。
熊本県では、八代(球磨川水系)と菊池(菊池川水系)がカッパの本拠地であるとのこと。
カッパは、水の神であるばかりでなく、鉄(刀)の神であり、木(照葉樹林)の神である。カッパと鉄と照葉樹林とは、三点セットである。カッパは、武器の神である。
たたら製鉄に関して「砂鉄7里に炭3里」という言葉がある。たたら鉄の生産には、砂鉄と木炭はセットである。河原川周辺に鶴(雨冠に金に鳥のツル)が多いのは、金属製鉄の地であることをうかがわせる。
(熊本地名研究会の小崎龍也氏の説)
 古事記のオオヤマツミノ命の項に「ククチヒコは、木の神」とある。「ククチヒコ」は、「ククチ」つまり窪地、低地、傾斜地に住む「ヒコ」つまり男性である。(地名辞典)縄文時代は、人々は高地や高台・台地に住んでいたが、低地や盆地にも人が住むようになった頃、いち早く盆地に住み着き、稲作を始めた人々を「ククチヒコ」と呼んだのではなかろうか。
(3)蚕の伝来を示す地名
 菊池市七城町に「五海」という地名がある。ここはもとは「蚕飼」が本来の漢字であったと言う。蚕を伝えた集団が住み着いたのであろう。戦後しばらくまでは、この地域は蚕の飼育が非常に盛んであった。周囲には、天神川(人口の川)が流れ羽根木、蛇塚、高島など渡来系集団の地名が密集していて興味深い。
(4)○○島のつく地名
@ 七城町周辺の○○島のつく地名
 内陸部にある「○○島」など、島のつく地名は、「茂賀の浦」の湖水が引き始めたころ、島だったところである。高島、松島、内島、戸田島、水島、平島、舟島、田島など島のつく地名は、昔は湖の中の島か湿地帯の中の微高地であったことを示している。
A 南島という地名
山鹿大橋の南に「南島」という微高地がある。熊本地名研究会員の前田軍治氏によれば、「山鹿の南西一帯は、洪水の常襲地帯で水害を受けることが多く、軒下に川舟を吊す家が多かったと聞く。近年堤防が整備され、今日では水害は少なくなった。南島は雨期でも冠水しないでポッカリ浮かび、島に見えることから付けられた地名であろう。
弥生時代の「茂賀の浦」は、標高30mラインの範囲内を想定しているが、「南島」付近は、標高20mなのに弥生時代の甕棺や青磁・白磁などの輸入陶磁器が出土している。
13 菊池は狗奴国か
 弥生時代になると「茂賀の浦」の水が引いた後に新しい村ができてきた。これらのムラは水田稲作をするための出村であった。そして、盆地面より一段高い台地上の見晴らしの良いところには、ムラを統率するクニができ始めた。花房台地の小野崎遺跡、三万田遺跡、台(うてな)台地の城ノ上遺跡、岡田遺跡、三次遺跡、山崎遺跡、辺田上遺跡、方保田東原遺跡などは、弥生時代に急速に勢力をつけたクニである。
 台台地の突端の「城の上遺跡」は、発掘当時「吉野ヶ里遺跡」に匹敵する大きなクニであったろうといわれている。ここから貸泉も出土している。その後花房台地では、小野崎遺跡が発掘され弥生土器等がコンテナ2000箱ほど出土した。5枚の青銅鏡や2本の鉄の釣り針などが出土しており興味深い。魏志倭人伝に「…その南に狗奴国あり、男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり、女王に属さず…」とあるが、菊池は鞠智城などから、旧地名を「ククチ」と呼ばれていた。「ククチヒク」は、菊池川流域の古代国家を統率する長官ではなかったろうか。狗奴国は、菊池、山鹿、菊水、玉名などの菊池川流域にまたがる連合国であったろう。
14  おわりに
  菊池は、縄文時代から弥生時代には「茂賀の浦」という大きな湖の中にあった。山鹿の鍋田の岩が崩れ、湖水が引くと菊池盆地は、ククチ(クコチ)といわれる広大な湿地帯であった。
 菊池が「米どころ」として有名なのは、菊池盆地がその昔、大きな湖だったため、土が肥えているからであろう。弥生時代に「倭人」の流入と共に水田耕作と金属器の技術が導入され、湿地が水田化されていくと、菊池は強力な国を形成していった。それが邪馬台国や狗那国ではなかったか。
  郷土の地史を調べていたら、いつの間にか人間の歴史を調べることになっていた。人間の歴史を調べていくと、地球の歴史も調べたくなると思う。その意味で、どれだけか役に立てば幸いである。
  地球の歴史は壮大で、時間的に空間的に、大らかな気持ちになれるところが幸せだと思う。
熊本県菊池市 中原 英
縄文から弥生に掛けて菊池山鹿盆地に巨大な湖があった
古川 清久 (武雄市)
千田聖母八幡宮
皆さんは「肥後の北部丘陵一帯に巨大な淡水湖があった!」などと言えば本気になさるでしょうか?
もちろん、恐竜が暴れていた中生代とかいった話ならば、日本列島の形状も全く異なっていたはずですし、どんなことでも考えなければないでしょうが、そのような何百万年、何千万年前といった地球物理学的な時代の話ではなく、私達から数えて百〜二百代ほど前のご先祖様の時代、凡そ二五百〜三千五百年前辺りの縄文から弥生への移行期といった時代の話なのです。
このように言う場合、従来は“弥生時代は紀元前三、四世紀頃から始った”“稲作は弥生時代からであり、縄文時代は狩猟採集でしかない”などと教えられたことに思いをめぐらしてしまいます。
二〇〇三年、国立歴史民俗博物館研究チームは弥生時代の始期が五〇〇年繰り上がることを発表しました。既に関係者の中では以前から囁かれていたことだったのですが、土器編年法がもはや全くの整合性を持っていないことを満天下に晒したものでした。いわゆる照葉樹林論者の中では相当以前から稲作はもっと前から始まっていると主張され続けていたのであって、仕方がなく“縄文稲作”などといった倒錯した説を提出せざるを得なかったのでした。
どちらにしても、これまで学校で教え続けてこられた縄文や弥生とかいった概念が、実は全くのデタラメであったということを明らかにしたものでした。
ともあれ、紀元前千年前後から日本列島には縄文から弥生へという劇的な変化が始ったとの認識に立って考えたいと思います。
まず、肥後熊本はお米がたくさん取れる豊かな土地…といった印象を持たれる方は多いでしょう。
しかし、この“肥後は米どころ”というイメージには多少の誤解があるように思えます。肥後がありあまる程の農業国家、農業大国になったのは、戦国乱世が収束し、その国力の全てが清正公に象徴される干拓(横島干拓や八代以北の不知火海の干拓)や潅がい施設の整備による農地開発(城造りの加藤清正は、一面、「農業土木」の創始者とも言われます)に振り向けられるようになった、わずか四百年ほど前からの話でしかなかったのです。
平均海面が五メーター近く上昇したとされる縄文海進を想定しても良いのかも知れませんが、さらに遡ること五百〜千年前の肥後を考えて見ましょう。
まず、もしも、海岸堤防や河川堤防が存在しないとすれば、現在でも熊本市のかなりの部分に水が入るように、洪水時の河川氾濫はもとより、高潮や台風による海水の進入する地域が広範囲に拡がることはご理解いただけることでしょう。
ましてや河川堤防、海岸堤防など全く存在しなかった時代、熊本市中心部一帯には巨大な湿地帯(感潮地帯)が広がっていたのであり、周辺の丘陵地にしてもその大半は阿蘇外輪山延長の溶岩台地に過ぎず稲作不適地だったはずなのです。
例えば、熊本市の東隣りの町、旧菊池郡大津町といえば熊本インターから阿蘇に向かうバイパスの通る所ですが、観光シーズンには大渋滞を引き起こす場所として誰でもご存知のところです。
この一帯も火山噴積物、火山灰が堆積した丘陵地であり、雨が降っても直ちに地下に浸透するために、とてもまとまった水田など開くことができず、稲の取れるところではなかったのです。今でも水の大半は湧水で有名な水前寺公園、江津湖、八景宮といったところで湧き出しているのです。そのため加藤はこのような場所に何本もの用水路を築いています。
ただ、全てがそうであった訳ではなく、白川に近い川沿いの細長い崖下の一帯では方々から湧き水が染み出し、小規模ながらこれらを頼りとした(実は天候に左右されず最も信頼に足る水源なのですが)稲作が古来行なわれ、成立した集落を繋ぐ形で古街道が置かれてもいたのでした。
しかし肥後は米どころだった
しかし、加藤領以前の中世においても、やはり、肥後は米どころだったのです。それどころか、実は九州最大の穀倉地帯でさえあったのです。
ここで南北朝騒乱期を考えて見ることにしましょう。九州に住む人ならば、菊池武光、菊池武時を始めとして、一時期大宰府をも占領し北部九州一帯を支配下に置いた菊池氏のことは良くご存知でしょう。この菊池氏の力を支えたものこそ、山鹿から菊池に広がる巨大な平野の生産力だったのです。
まず、戦中派の方ならば、「菊池米」と呼ばれた極上の献上米があったことは良くご存知でしょうし、この穀倉を押さえることができたからこそ、南朝方(宮方)として戦った期間を含め、数百年に亘って九州中央部に磐居しえたのでした。
では、山鹿から菊池へと広がる丘陵地は何ゆえ米が取れるという意味での穀倉地たりえたのでしょうか?これこそが今回のテーマなのです。
山間の平地はどのようにしてできたのか?
昔から不思議に思っていたことがあります。山間僻地を旅していると、急に開けた平地、平野に出くわす事が良くあります。もちろん、平らな土地は通常水田地帯になっていますが、このような平地がどのようにしてできたかが良く分かりませんでした。
一定の傾斜を持った山裾が水田に変わっていくことを考えると、はじめに木が切り倒され、焼畑が行われるでしょう。何度も何度も焼畑が繰り返され、いずれ常畑(定畑)に変わり雑穀栽培などが行われます。そして、さらに有利な作物、つまり、稲が伝わると、雑穀の一部として陸稲として稲を作ったかもしれませんが、いずれ、水を引き入れ灌漑が施されると階段状の棚田が形成される事になるのです。ただ、それによっても全体の傾斜に変化はなく、一度、水田ができると地形の変化は進まず固定します。つまり、このことによっては、依然、平地や平野は形成されないのです。
考えられることは、水による土砂の堆積以外にはありません。
仮に大規模な渓谷で大洪水が起こり、大きな石が川筋を塞いだとしましょう。一度塞がれると、さらに多くの石が詰まるようになり自然のダムが形成されるようになることもあるでしょう。当然、水が溜まり、土砂が堆積することになります。重い石や砂は下に、粒子が小さな泥は上に溜まりますから、湖の底には平らな泥底が造られることになるのです。
その後、地殻変動、地震などによって流路が造られると平地が地上に現れることになるのです。このようなことが大規模に起こったものが山間の平野であると考えられるのです。
そして、実際、山間の小平地の大半は大きな洪水、氾濫の結果生み出されたものと考えられるのです。
阿蘇は巨大なカルデラであり、古くは水が溜まっていたはずです。その水が抜けたものが阿蘇の平野と考えれば、このことが良く分かると思います。このように考えると、災害とは人間の生活基盤を奪うと同時に生活基盤を創っている事が良く分かります。
俗にエジプトはナイルの賜物と言われますが、それは、同時にナイル川の氾濫による水平堆積の賜物でもあったのです。
なぜこのような台地にこれほどの平野が存在するのか?
今でも月に一度は菊池、山鹿、玉名方面に足を伸ばしていますが、三号線で南に向かい、鹿北町辺りに来ると、山鹿から菊池、植木方面へと広がる巨大な盆地の中に凡そ標高五十メートルのところに圧倒的な広さの平野、従って水田が存在することに以前から疑問をもっていました。
特に、三号線上にも寺島、南島という地名が直ぐに拾え、山鹿市周辺にも中島、底原、浦田、熊入(山鹿市)、といった地名が拾えるのです。この傾向は菊鹿盆地全体にも見られ、鹿本町の小島(小嶋)、菊鹿町の島田、七城町の水島、高島、内島、蟹穴、蘇崎、小野崎、山崎、瀬戸口、鹿央町の水原、春間、植木町の平島、舟島、田底、泗水町の田島、南田島、菊池市の迫間、西迫間、野間口、亘、といった海か湖、湖沼の縁を想像させる地名が拾えるのです。
このことだけからでも、かなり古い時代、この地に巨大な川か湖が存在したことが想像できるのですが、特に際立つのが平島と田底です。まず、温泉ファンならば植木温泉の旧名が平島温泉(戦後しばらくまでは通用していたはず)であったことは自明ですが、特に驚いたのがその裏口ともいうべき場所にある田底という地名です。現地をしょっちゅう通っているのですが、農協の田底支所といったものが堂々と建物を構えています。谷底という言葉は今でも通用しますが、この地名に始めて遭遇した二十年程前、“「田底」とは一体何だ…”と考えたことが今でも頭に浮かんできます。どのように考えても“住んでいる場所は少し山手のところだが、今、耕している自分たちの田んぼは、昔、うみの底だった…”といった地名に思えるのです。
これらの地名は通常の道路マップで十分に拾える程度のものですが、1/25000〜1/10000程度の地図、古字図や字図などを詳細に調べればさらにもっと興味深い地名が浮かんでくることでしょう。
まだ、基礎調査の段階ですからその作業は今後の課題として、私自身の作業としては別のアプローチを考えて見ます。
中原、堤想定 "古代茂賀の浦の発見"
ここで遭遇したのが中原、堤研究でした。二〇〇五年に菊池市で開催された菊池市文化講演会・第18回熊本地名シンポジウムにおいて、この驚愕の研究が発表されたのですが、その概略を説明しておきます。
菊池市の中原英氏は七城町の林原露頭断面などの地質学的な調査を行なわれ、花房層と林原層と名付けられた堆積層の中に下層部から黒砂・軽石礫混じり・砂・粘土・川砂利などの順になったものを発見されたのです。このような現象は湖沼などの中で起るいわゆる水平堆積を示すものなのですが、中原氏はこのような現象は把握できる範囲で過去三度起ったと想定されています。花房層の研究から一回目は12万年前と9万年前の間、第二回目が現在の菊鹿盆地の南側に広がる花房台地を湖底としたもので、
9万年前から5万年前までの間のAso.4層の上部、そして第三回目が問題の茂賀の浦で、中原研究では5万年前の地殻変動によって花房台地面と菊鹿盆地面の間に40メートルの段差が生じ、そこに茂賀の浦が生じたとされているのです。問題はその時期ですが、花房台地の堆積から推定し、少なくとも二、三万年前から六〇〇〇年前までは存在した(これはそれ以降の新しい時代まで残っていたことを否定するものではないという意味と理解しますが)と考えられているのです。この六〇〇〇年前という数字は非常に重要で、一般的には縄文時代の真っ只中とされているものに重なってくるからです。
 では、少なくとも縄文時代の中頃までには存在した巨大湖“茂賀の浦”はいかにして消失し、現在の巨大平野に変わったのでしょうか?
 一方、菊池市教育委員会の堤克彦氏(文学博士)は『鹿郡旧語伝記』所収の「大宮社古記」の「茂賀の浦」(北境ノ湖・北境ノ沼)の八龍大亀伝承、崇神・景行天皇の蹴透伝説などから茂賀の浦の伝承を回収されるほか、菊鹿盆地一帯の縄文遺跡、弥生遺跡の空白地帯を発見されたことから、その分布図を中原研究の茂賀の浦と照らし合せ、その完全な一致から茂賀の浦とその変化を発見されると同時に、縄文期から弥生期にかけて縮小したことまでも証明されたのです。
 証明の切り口は単純です。言うまでもないことですが、通常、湖、沼、川には遺跡は存在しません。それは水中遺構は別として、通常人は湖には住み着けないことから、頻繁に河道が変遷する場合とか大規模な地震などによって急激な水位の低下などがない限り、住居址、生活遺構、墓跡といったものが存在しないのです。もしも、長期にわたって湖が存在したとすれば、その外周部に遺跡が残ることになり、逆に、遺跡が存在しない部分こそ湖であったことになるのです。同様に湖が縮小してきた場合には、外側に縄文、弥生遺跡が、内側に弥生だけが残ることになるのです。さらに、面白いことに、弥生時代にも、なお、縮小した弥生の茂賀の浦が存在したようで、その中には弥生の遺跡は痕跡を留めていないのです。
と、すると、弥生期から古墳時代にかけて何らかの変化が起り(変化を起こし)、水が抜け(水を抜き)、田底三千町と呼ばれた巨大な水田が生まれ、後の条里制へと繋がったと見るのですが、これについては二〇〇五年作成の堤克彦作成による「茂賀の浦の範囲と縄文・弥生遺跡」ほかを見られるとして、非常に根拠の薄いものながら、中原、堤想定に加え古川によるささやかな地名による論証を試みたいと思います。
見渡す限り平地が続く菊池盆地
○○の○○型地名の分布について
何のことだか全くお分かりにならないでしょうが、これは高良岬の麓からNO.11「鳥子」で採用した手法です。宇土、熊本、植木近辺には、間に”の“が入る地名が他の地域に比べて異常に多いのです。大字単位で見ても、まず、白川を渡る大津町には引水(ひきのみず)が、八兵衛の出身地である宇土市には、弧江(こものえ)、硴江(かきのえ)、西田尻(にしたのしり)、宮庄(みやのしょう)が、宇土市の南には旧町名でさえあった宮原(みやのはら)が、同じく北の富合町には田尻(たのしり)、南田尻(みなみたのしり)、廻江(まいのえ)、城南町の丹生宮(にゅうのみや)、隅庄(くまのしょう:文中の熊庄と関係があるかも知れません)、舞原(まいのはら)が、熊本市の水前寺の南に田井島(たいのしま)、金峰山の南に池上町(いけのうえまち)、北熊本の八景水谷(はけのみや)、が、菊池郡合志町に上庄(かみのしょう)、福本(ふくのもと)が、鹿本郡鹿央町の梅木谷(うめのきだに)、中浦(ちゅうのうら)、玉名市の東玉東町の木葉(このは)、上木葉(かみこのは)…もう、これぐらいにしておきましょう。
一応、表記を伴わない○○の○○型地名はこの一帯に限られているようです。その中心部の熊本市にこの手の地名が少ない理由は、後世による地名表記の改変(和銅)によるものと思われますが、そもそもは、この一帯がかつては海の底であり、後発の土地に新しい地名(と言っても数千年単位の話になります)が付されたからではないでしょうか。
当然ながら、表記を伴う○○の○○型地名は益城町の「辻の城」ほか…がありますので、小字単位でカウントすれば、相当の例が拾え、かなり興味深い結果が出ることでしょう。
そして、○○の○○と呼び習わす、言語上の生理とでも言うべき傾向が、書き留められ、現在、なお、地名として残っていると考えられるのです。
ここで、この「好字二字以前」と考えられる古い地名が、菊鹿盆地でどのような分布を示しているかをサンプリングしてみると、山鹿市の釘ノ元、当ノ原、堀ノ内、八の峰、菊鹿町の郷の原、鹿央町の梅木谷(ウメノキダニ)、中浦(チュウノウラ)、植木町の駄の原、山ノ上、西ノ原が、泗水町の富納(トビノウ)、西合志町の野々島、合志町の福本(フクノモト)、上庄(カミノショウ)、七城町の尾野崎、菊池市の市野瀬、中野瀬…ほかがあるのですが、これら全てが中原・堤想定の縄文湖の外側に分布しているのです。鹿本町の合ノ瀬などはこれ自体が本来川の合流部を表す地名であることから、これは湖の外でなければ成立しない言葉であり、湖の存在を直接示す好例と言えるかもしれません。
これをもって直ちに○○の○○型地名が始期遡り(弥生時代の始期が無様にも五百〜七百〜千年遡り)以前の学会通説の縄文語や縄文地名などとは言わないものの、相当に古いタイプの地名と考えられるこのタイプの地名が縄文の茂賀の浦の内側には存在しないということは言えるようで、そこに何らかファクターが働いていることだけは間違いがないはずだと思えるのです。自然に考えれば茂賀の浦の存在を示しているように思えるのです。
そもそも、茂賀の浦(北境ノ湖・北境ノ沼)という地名それ自体が○○の○○型地名なのです。当然ながらこの地名だけは陸化した後にも伝承の中に残ったのです。
古川想定 横穴墓の論証
玉名、山鹿、菊池回廊という概念が成立すれば、さらにイメージが膨らむのですが、ここに非常に多くの横穴墓が存在することは知られています。この横穴墓群は相当に古いもので縄文時代のものではないかと言われていたように記憶しているのですが、現在、畿内の横穴墓はもとより、全国的にも古墳時代の中期から後期といった評価が学会通説になっているようです。
副葬品一般の評価、特に船形、家型石棺などが納められているものもあることから(玉名で言えば石貫横古墳?)古墳時代のものとされたのでしょう。
ただ、中身が全て捨てられ、全く異なったものが追葬されるという要素を拭い去れないのであって、この横穴墓群が古墳時代のものなどとはとても思えないのです。ここには、古墳は全て渡来系のものであり、横穴墓も薄葬令のもたらした一般民衆のものとか、石棺が入れられている以上、横穴墓の全てが古墳時代のものといった評価がされているようなのです。
九州の横穴墓、特に熊本県の横穴墓を全国的な横穴墓と同列に扱うことにもかなりの疑問があるのですが、私には揚子江流域からこの墓制を持った人々が紀元前数百年以前までに渡ってきたようにしか思えないのです。
この問題に直面した時、初めに思いついたことがありました。それは“横穴墓群は恐らく縄文の茂賀の浦の外側に分布しているであろう“ということでした。これについて中原先生にお話したところ、「確かに横穴墓も外側にありますね」と直ぐに回答がありました。
なかなか時間がとれずに、一月遅れでプロット作業に入ろうかとしたところ、中原先生が先行され、図面が送られてきました(別紙)。
作業が軽減され大変ありがたかったのですが、予想したこととは言え、それが全て縄文の茂賀の浦の外側にあることが分かってきたのです。
当然ながら、この事実は私を驚愕の結論を導くことにならざるをえなくなりました。
まず、堤氏がプロットされた菊鹿盆地の弥生遺跡、縄文遺跡と呼ばれるものは、「弥生時代の始期、五百〜千年遡り問題」以前のいわゆる怪しげな土器編年法による時代区分が反映されているものと考えられます。当然ながら縄文から弥生への移行期は紀元前三〜四世紀という話になるのでしょうから、最低でもこの時期以前までは縄文の茂賀の浦が広がっていたはずで、ここまでは縄文の遺跡が周辺に成立し、同様に縄文湖の外側に横穴墓が造られたと考えることは一応可能ではないかと思うのです。そして、縄文時代のある日(これを特定するのは非常に難しいのですが、一応、紀元前三、四百年〜千年の間としておきましょう)に地殻変動による大規模な決壊が起こり、縄文湖から弥生湖への縮小が起ったのではないかと思うのです。このため、縄文湖の内側には縄文の遺跡はなく、弥生時代の始まりによって弥生湖の外側、縄文湖の内側に弥生人が進出したことを反映していると言えるのではないでしょうか?
その後、通説に従えば三〜七世紀とされる古墳時代のいつの日かに大地震による崩壊か人為的な土木工事によって湖の縁が切られたことによって、弥生の茂賀の浦の湖底への進出が始まり、後の条里制へと移行して行ったと考えられるのです。
 
とぼけた話しながら、ようやく弥生時代の始まりが500〜700(場合によっては1000)年ほど繰上り、紀元前1000年頃にまで修正されました。…勢い、これまで言ってきたことは何だったのか説明しろ!と言いたくもなります。結局、照葉樹林論者などが主張していたことがよほど科学性があり、それを受け入れない穴掘り考古学会に対して、仕方がなく「縄文稲作」といった倒錯した概念で対応せざるを得なかったのでした。旧石器時代問題と同様の、穴掘り考古学の瓦解に思えるのですが、好い加減にC14による見直しに入れ!と叫びたくなるのです。無意味とは言わないまでも、どうせ、通説に刷り合せてしまう土器編年などといった間の抜けた古典芸能は好い加減にして欲しいものです。
蹴破り伝承
いまさら童話でもないのですが、日本全国に「蹴破り小五郎」とか「蹴破り太郎」といった伝説が残っています。確か『日本むかし話』にもこの手の話があったと思うのですが、古代において、沼やため池の決壊によって水の抜けた跡地に流れ込み河川が付随する豊かな平地が残ることを古代人は経験的に知っていたはずです。このような古代湖の蹴破りによって、もしくは、地震や洪水などによる決壊によって山間の大平地が生み出されたのではないかと思われる場所を九州で拾えば、まずは阿蘇の阿蘇谷になるでしょうが、地形を考えても南郷谷(南阿蘇は近年の新造語ですので)は対象外になります。阿蘇と並ぶ巨大平野である人吉盆地。筑前夜明付近の狭隘部が詰まりやすい日田盆地といったものがあるでしょう。阿蘇には蹴破り伝承があります。茂賀の浦の下流、塘(トモ)という小集落の鎮守にも蹴破りの伝承を持つ阿蘇神社があります。
そこから、池を切れば(決堤)そこに平らな肥沃な土地が生まれ、農地が拓けるのではないか?と考えるには、残り数歩だったはずです。既に弥生の農業が始まっていたと考えましょう。耕地を求める欲求こそ縄文から弥生への変化をなす最大の精神的動機付けだったのです。必要性は十分に生まれていました。ここに技術さえ加われば、それこそ一国をなすだけの力を得ることになるのです。そして、どうやらその技術は存在していたと考えられるのです。
蹴破りの鯰は立野の大峡谷へ落ちたか?
都江堰(トコウエン)建設の古代技術
二〇〇八年五月、中国内陸部を巨大地震が襲います。多くの峡谷において土砂崩れというよりも、山体崩壊もいうべきものが頻発し多くの自然のダムができたことは記憶に新しいのですが、今回の中国大地震において最大の被害を受けた場所が都江堰市でした。堰とは分かりやすく言えば堤防であり、一般的にはダムと理解されても構わないでしょう。都江堰にはこの都市の名称のもととなった都江堰という堰堤があります。
観光地としても著名なこの堰堤についても一応は概略を説明する必要があると思いますが、拙著『有明海異変』で取り上げていますので、その一部をご紹介しておきます。
司馬遼太郎が見た古代のダム
ダムというものは遠からず砂に埋もれてしまうものですが、中国には二千二百年以上も前に造られて今でも機能しているダムがあるそうです。もはや故人となりましたが作家の司馬遼太郎が『街道をゆく』の中でそのダムのことを書いています(同シリーズ20「中国・蜀と雲南のみち」)。
   「町の中を過ぎるうちに、岷江に出くわした。北方の峻嶮岷山より流れてくる急流である。一橋がある。それをわたると、岷江のただなかにうかぶ大きな中洲に入った。中洲の先端を宝瓶口という。すでに、都江堰という紀元前二世紀に築造された巨大なダムの構造の一端に立つことになった。この中洲を、土地では、高堆とよんでいる。この堆も、紀元前、李冰がつくった(宝瓶口にむかって右側の玉塁山という山を断ち割って一水路をつくったために、高堆が河中に残った)のであろう。中洲の先端の宝瓶口の一帯は公園になっていて、さらにその先端に、古い道観(道教の寺院)がある。伏竜観という」
●二千年機能し続ける技術
岷江は揚子江の支流で、灌県は四川省の省都、成都市近郊の町です。司馬遼太郎はこの都江堰の築造について次のように触れています。
「恵文王から二代目の昭襄王(紀元前三〇七〜同二五一)にいたって、都江堰が出現する。『史記』「河渠書」では、<蜀の太守(地方長官)李冰が、乱流する川岸を削って離堆を切りひろげ、沫水(岷水のあやまりか?)の危険をふせぎ、別に二江(内江と外江)を成都の中に掘りぬいた。>とある」
この都江堰(注)は、完全に河の流れを塞いでしまうものではありません。半ば堰き止め半ば流しながら水を溜めて、必要なだけの量の水を取り込むというもので、このためにダムの最大の弱点である土砂の堆積という問題が初めから解決されているのです。
「都江堰は、多目的ダムである。岷江にいくつもの堰や堤をつくることによって外江と内江にわけ、外江は以前どおりはるか長江にそそぐのだが、内江は李冰のこの時期から成都平野へのあらたな流れになって美田をつくるもとになった。洪水のときは、その水が自動的に外江にさそいこまれるようになっていて、成都盆地へゆく内江には流れこまない。このためどれほどの大雨がふっても、成都盆地に洪水がおこるということはまずなくなった。内江はさらに、江安河、走馬河、柏条河、蒲陽河などに岐れて多くの野をうるおしてゆくしくみになっている。まさに李冰は一国をつくったにひとしい。かれの都江堰の灌漑面積はかつて三百万畝(二〇万ヘクタール)といわれたが、二十世紀の戦乱のために二百万畝にまで低下した。新中国の樹立後、大規模な修復工事がおこなわれて、いまでは約四倍にあたる八百万畝(五三万ヘクタール)の田畑をうるおしている」
この都江堰の仕組みは、ダムというよりは半閉鎖型の取水堰とでも呼ぶ方が適切かもしれません。当然、幾たびかの大がかりな改修工事が重ねられてきたのでしょうが、それでも二千年以上にわたって築造された当初の機能を維持し続けていることは驚嘆すべきことで、それは今日におけるダムによる治水・利水技術の根本的欠陥を指摘している生きた見本といえそうです。
概略は把握されたと考えます。茂賀の浦に関して、なぜ、中国の堰堤の話など持ち出したのかと考えられるでしょうが、考えて頂きたいのはその建設の方法なのです。
紀元前三世紀、建設を指揮した李冰に便利な建設機械などなかったことはいうまでもありませんが、内江を抜くために使った方法について、司馬氏は「岩をくだくため古代の工法は、まず大いに火で焼き、水をかけてはもろくしてゆくというやりかただったらしい。」と書いています。ここで気づくのですが、この時代こそ中原、堤想定の「弥生の茂賀の浦」の“蹴破り”の時代なのです。
諸葛亮孔明が活躍した三国志の時代の呉ではなく、「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」で著名な紀元前三世紀の呉、越の時代に、漢民族の南下と圧迫によって、この技術を持った人々が船に乗り、組織的に九州の肥前、肥後、筑前、筑後の一帯に入って来たと考えれば、既に“蹴破り”のための技術は十分に準備されていたと考えることができるのです?
近世に生まれたカルデラ湖起源の小平野"田野"
熊本、鹿児島の県境に近い人吉市に、と、言うよりも、相良、薩摩の国境(クニザカイ)に近い人吉の南に二十数戸ほどの田野という小集落があります。田野は標高七〇〇メートルに近い人吉から鹿児島県大口市に越える久七峠の熊本県側最後の集落です。
この地は、二百五十年に起こり五百人余りの犠牲を出したと伝えられる球磨川の大災害“瀬戸石崩れ”の被災者の一部がこの地に移住したと聞き及んでいます。
既に現地を踏みましたが、集落の中心地には立派な造りの観音堂があります。堂内には一枚板に書かれた棟札があるそうですが、それによると、この地の開発は藩政時代の明和七年とされていました。つまり、田野の歴史は二百数十年程度ということになりそうです。このため、瀬戸石崩れによって直接的に入植が行われた訳ではないのですが、現地には瀬戸石から移住した家であったと言われる方がおられた事を現地にお住まいの前田一洋(熊本地名研究会)先生からお聴きすることができました。このため、現段階では大災害から十数年余りで瀬戸石周辺からも複数戸の、ある程度組織的な入植が行われたのではないかと考えています。
今後とも田野を訪れ、瀬戸石のその後の話を集録できればとも思いますが、もともと文書に書き留める余裕などありようもない開拓集落に多くを期待できないことは言うまでもありません。大雨による巨大な崖崩れと大洪水による明治期の奈良県十津川村の集落潰滅とその後の北海道新十津川村への移住については宮本常一や司馬遼太郎が書き留めていますが、規模は小さいものの、瀬戸石崩れのような大災害によって、天然のダム湖も生まれるのですが、同じ災害によっても、また、人の英知よっても、湖が平野に変わる事があるのです。現地を訪ねると、まず、その天上平地に驚かされます。ついつい、高天原とはこのような土地ではなかったかと思ってしまいます。さらに、この地はかつて噴火口であったと言われています。
太古、ここにはカルデラ湖が存在した時期があったのでしょう。そして、いつしか、地殻変動によって湖の栓が抜け、湖底に堆積した平地が現れ、大木が茂る森になったのだと思います。現在、この地の開発がどのように行われたかを知る手立ては前述の棟板以外にはありませんが、土地の古老にお話をお聴きすると、「田んぼの中には何メートルもの杉の切り株がいくつも埋まっている」ということですから、森の伐採に始まったと考えるべきでしょう。
また、“基盤整備がある前は腰まで浸かるような湿田だったので、竹を渡して田植えをしていた。…”といった話を現在も聞くことができます。
いかなるカルデラ湖といえども、水が溜まるものである以上何らかの形でオーバー・フローする場所が形成されるはずです。その吐き口は水圧や吐き出しによって徐々に崩れてゆくことでしょう。一方、湖は周りの斜面から供給される土砂によっても浅くなってゆくことになります。そして、最期にはそこに住み着いた人々の努力によって、蹴破りが行われ、湿地を改良するということになるのです。
ここは標高七〇〇メートルの高地です。このため、南国といえども毎年何度か三〇センチの積雪を見ると聞きます。
この清涼な天上楽園を発見した事は大きな収穫でした。田野はまさしく人々がどのようにして平地に住み着いたかを知る一つの手がかりを与えてくれているのです。
キクチ(ククチ)とは何か? そしてモガとは?
そもそも、茂賀の浦を調べ始めたきっかけは、中原 英 先生から電話を頂き、「菊池盆地のキクチという地名の意味は何でしょうか?」というお尋ねを頂いたからでした。中原先生とは、以前、あるシンポジウムで一度お会いしたことがあり、茂賀浦研究のことは知っていましたので、ご質問の意味は直ぐに理解できました。ただ、キクチの語源については、地名研究の世界ばかりではなく、古代史研究の世界でも幾度となく試みられ、決定打がなく、ほぼ全てが退いているのが実情であり、未だに通説らしいものがないのが実情なのです。しかたがなく、「古くはククチなのでしょうが、クキチであれば狭隘地といえないこともないのですが、現地は逆に広大な平地であり対応しませんしね…」「わたしは、キクチについては追求をあきらめており、むしろモガの方が興味があるのですが…少し考えて見ます…」といった話でお茶を濁しました。
なぜ、菊池の中原先生から地名についてお尋ねがあったのかは不思議でしたが、折りしも、久留米地名研究会の設立に動いていた時期でもあり、否応なく立ち向かわざるを得なくなったのでした。
もしも、中原、堤想定が正しいとして、茂賀浦が実在したとした場合、キクチという地名にはこの巨大な湖が直接反映されているのではないか、少なくともこの湖の存在を前提にした自然地名ではないのかという考えが浮かんできたのでした。
当然ながら、地名探査において通常使用する古代語事典、地名事典といったものから、アイヌ語、朝鮮語といったものまで見ても、とても結びつきそうなものがなく、考えあぐねている時、以前、読んだことのあるネット上のサイトにキクチ、ククチがあったことを思い出しました。九州では特にそうなのですが、倭言葉、朝鮮語、アイヌ語、最近ではドラヴィダ語などを考えてもどうにもならない場合、マライ・ポリネシア系の海洋民族が持ち込んだ地名ではないかと考えることが有効であることを経験的に知っていることから、以下のサイトを再度読み直したのです。それは、
地名の意味を探り、古代史を見直し、縄文語を発見するページ
「夢間草廬へようこそ!」 ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei15.htm
 古く縄文時代の昔、日本列島には原ポリネシア語を話す民族が南方から渡来して住み着き、原ポリネシア語で地名を付けていたと思われます。
 その地名は、昔も今も殆ど変わらない発音で生きて使われています。 
 しかも、古事記、日本書紀などの古典や、日本語の語彙の中にも、多くの原ポリネシア語源の言葉を見出すことができます。
と、いうもので、非常に有力なサイトと思われます。
無論、マライ・ポリネシア系言語など「ハリマオ」(ハリマオとはマレー語で虎を意味する)程度しか知りません。自宅にも父(陸軍航空隊のポツダム中尉)が使っていた、それこそボロボロの昭和一七年三月発行の「マレイ語の話し方」学習の友社(七十五銭)があるのですが、とても学術的なものではありません。
ところが、「夢間草廬へようこそ!」を見ると、
「ククチ」、KUKUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「締め付けられた(細くなっている。湖)」
と、このように書かれているのです。さっそく中原先生にお知らせしましたが、開口一番、「菊鹿(キクロク)盆地は絶えず沈降し続ける地溝帯であり、締め付けられて細くなった湖ということは一致しますね…」でした。もちろん、「古代人に地質学的な知識などない訳ですから、細い池ということなら恐ろしいほどの一致ですね…」と返したのですが、実際、手で握り潰して縮んだ形とは、茂賀浦の形状と一致します。実際、これ以上の一致はありえないでしょうが、ここではこのような想定もありえるというところで留めておきたいと思います。もしも、他にも系統的にポリネシア語で解釈できる地名があれば、一応これで説明できると考えたいのですが、どうせ、学会など鼻にもひっかけないはずですから、仮説の仮説として提案だけにしておきたいと思います。
 残るのは茂賀ノ浦のモガですが、“藻が生えた浦”(もちろん、大した水深もなく大量の光が入る湖であることから、一面に藻が生えていたことは間違いないのですが)と考えられれば楽なのですが、ことはそれほど簡単ではないように思います。
 もしも、茂賀浦ならば茂+賀=が(格助詞)浦ならば、それで良いのですが、茂賀ノ浦ですから、そのまま考えれば、“茂+賀が+の浦、と、格助詞が重なってしまうことになるのです。もちろん、「私と彼とが一番上手だった。」という表現があるように、格助詞が重なる(この例では”と“+”が“)ことが全くない訳ではありませんが、これはやはり例外的な表現なのです。
 と、すると、やはり、茂賀こそが中心的な“語幹”なのです。では、“もが”とは何でしょうか、菊地をククチとし、ポリネシア語で納得したのですから、同様に、モガもその線で考えなければ整合性が取れないのです。
 素人だからできることですが、大和(倭)言葉で考えようが、朝鮮語、アイヌ語、マレイ語、はては、ドラビィダ語までも持ち出して考えても全く見当が付かず諦めてしまいました。
 とうとう、中原先生を連れ出し、もしかしたらヒントが得られるのではないかと人吉市の上漆田町にある茂賀野湧水と言う水源地まで行くことまでしたのですが、茂賀ノ浦と条件は似ているものの、決定打を得られるまでもなくすごすごと帰ってきたものでした。
 最後に一つだけ可能性があると考えたのが殯(もがり)でした。元々はこの線で考えていたのですが、確たる根拠はほとんどありません。茂賀ノ浦に面した垂直の崖のかなり高い場所に数えきれないほどの横穴墓がある菊鹿盆地にはぴったりのように思えたのですが、良く考えれば、殯(もがり)とは、裳上がりの省略形であり、『日本書紀』にも「殯」は「」(裳上がり)とされているのです。茂賀(もが)が「裳上がり」の音韻脱落とはちょっと無理があるように思えたのです。
 結果、茂賀ノ浦の意味は全く見当が付かないまま諦めてしまいましたが、どなたか答えを出して頂けないでしょうか。
 多くの古代史書に書かれる「倭は呉の太伯の後」という著名なフレーズであり、春秋戦国の呉越の民の中にも、さらにそれ以前からも多くのマレイ・ポリネシア系の人々がこの地に入っていたと思うからです。
最後に気になるのが菊池という漢字の表記のことです。東北地方に池ではなく地と書く菊地(キクチ)姓が非常に多くあることは知られていますが、北の菊地一族はあくまで地の菊地に拘り、九州のそれは池の菊地にあくまで拘り続けたと言われています。もしも、菊池の池が茂賀の浦の池や湖であったとしたらとても面白いのですが、もちろん、これに別の謂れがあることを知った上の話です。
茂賀の浦の意味するもの
堤研究にも明らかですが、茂賀の浦には、複数の伝承があることから、一方においてはは民衆の中に生きる伝承として、また、一部には古文書として限られた人々には知られていたのかもしれません。
しかし、一般的にはこのように巨大な湖があったなどという話はこれまで全く聞いたことがありません。
中原、堤 両研究者による想定“茂賀の浦”は、肥後が古代史の世界においても極めて
重要な場所でもあることから、相当に衝撃的な大発見と言えるでしょう。
 ただ、この研究は既に五年前に発表されているのですが(於:菊池市)、これほどの大発見にも関わらず、奇妙にも正当な評価がされていません。
 それは、恐らく中央の史書に書きとめられていないことから来るものなのでしょう。仮に古代国家の確立を大化の改新や記紀の成立とすれば、それらに先行すること五百年から千年前の話であり、言わば、国家の記憶、民族の記憶としても限界があったのかもしれません。
 しかし、費え去った記録、もはや途切れんまでも細くなった人々の記憶、失われんばかりの土地への痕跡を手繰り寄せ私達の眼前に、古代の巨大なまでの真実を明らかにしてくれた中原、堤研究という英知に対して、今更ながら、驚愕と賛辞とを贈りたいと思うばかりです。さらに、現代への想いを巡らせて考えれば、何故三号線が海岸部の玉名を経由せずに北部丘陵を通されたのかという素朴な疑問へも答えを与えているようにも思えるのです。
菊池神社
最後になりますが、最近、菊池(川流域)地名研究会の結成メンバーである菊池市久米八幡神社の吉田正一宮司により、「茂賀浦はなっかった」という講演が行なわれましたが、その際、「茂賀浦」は「もがのうら」ではなく「しかのうら」と読むべきではないかとの提案がありました。
菊池盆地に多くの海神神社があり、菊池盆地に「久米」「宗像」「志々岐」・・・といった多くの海洋民が付したと思える地名もあることから、古くからこの湖に海人族が住み着いていたことは明らかです。
このため、安曇族の拠点であった博多湾の「志賀島」を思わせる「しかのうら」との読みは魅力的です。いずれ、ネット上にお出しできるときもあるでしょう。
今は、「茂賀浦」が非常に浅い湖であったことから、光が十分に入り、一面に水草が茂る「藻ガ浦」であったということで、一応は納得しています。
武雄市 古川 清久
茂賀の浦のシュミレーション
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